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『君子は豹変す』(『易経』)という故事成語は、意識変革が求められる現代でも味わい深い言葉

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 中国の故事成語に『君子は豹変す』(『易経』革卦)という言葉がありますが、ご存知の方も多いかと思います。

『君子は豹変す』という言葉は、現代では否定的な意味で使われる傾向もあるようですが、本来は、否定的な言葉ではないようです。

 参考までに、『故事ことわざ辞典』から、解説を引用しておきます。
君子は豹変すとは、徳の高い立派な人物は、過ちに気づけば即座にそれを改め正しい道に戻るものだということ。また、状況によって態度や考えを急に変えるものだというたとえ。

 英語では、次のような言葉で表現されています。
A wise man changes his mind, a fool never.
(賢者は考えを変えるが、愚者は決して変えない)

 あなたは、君子のように豹変することが出来ますか?
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『君子は豹変す』という言葉は、今から何千年も前に編纂されたとされる、『易経』の中にある中国の故事成語ですが、変化のスピードの速い現代においては、ますます味わい深い含蓄のある言葉として感じられます。

 何故なら、私たち人類の意識がさなぎから蝶へと飛躍的に進化していく流れの中においては、私たち一人ひとりに意識変革を促す風が吹いて来ており、私たちは好むと好まざるとに関わらず、大きく変わって行かざるを得ないからです。

 あなたは、意識変革に向けての心の準備が出来ていますか?
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 私自身は、決して君子でもなければ君子を目指していた訳でもないのですが、若い学生の頃から、『君子は豹変す』という言葉が何となく好きで、変わるべき時には変わろうということを、常に心掛けて生きて来ました。

 また、長い人生の中での様々な体験によって、変わらざるを得ない時には、否応なく意識変革を迫られるという体験も度々重ねて来ました。

 あなたにも、それと似たような経験があるかも知れませんね?
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 結局のところ、私たちは、好むと好まざるとに関わらず、変わって行かざるを得ないのです。

 そして、21世紀という現代に生きる私たちは、有史以来数千年の人類史において、かつて無かった程のスピードの速い大変化の中に生きていますので、好むと好まざるとに関わらず、大きくしかもスピーディーに変わって行かざるを得ないのです。

 私が何度も書いてきたように、人類の意識の進化と科学技術・テクノロジーの進化とは、深く密接に関係しています。

 宇宙的なマクロの視点から見れば、この21世紀において人類の意識が飛躍的に進化する流れの中にあるので、それに合わせて科学技術やテクノロジーも飛躍的に進化しているのです。

 科学の進歩による新たな発明や発見、新たなテクノロジーの開発などによって、私たちの意識は、否応なく変革を迫られていくことになるでしょう。

 例えば、身近な例で言えば、私たち人間が行っている仕事の内の数十%の仕事は、10年後位の近未来には、人工知能やロボットに取って代わられるということが予測されています。

 ですから、今自分が携わっている仕事自体が、10年後には全部ロボットや人工知能に取って代わられており、人間が行う仕事ではなくなっている可能性もあるということになります。

 そうなると、自分が今の仕事を続けられるということが当たり前でもなければ、自分が今携わっている職種や業種がこれからも世の中に存在するということすらも、当たり前でも何でもなくなる訳なのです。

 このようにして、私たちの意識というものは、科学技術・テクノロジーの進化や時代の変化の流れの中で、否応なく変革を迫られていくことになります。
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 ですから、大切なことは、柔軟な思考を持つように常に心掛けながら、意識変革への心の準備を常にしておくことなのです。

 そして、変わるべき時が来たら、心を開いて変化を受け入れ、君子のように豹変するのです!

 今、私たち人類の意識をさなぎから蝶へと飛躍的に進化させる為の、意識変革の大きなうねりの波が来ていますので、このような時代の流れの中にあって、自らが変わろうとしなければ、化石のように時代に取り残されていくことになるでしょう。

 私は、常に新しい未来に向けて開かれた意識を持ちながら生きていきたいと考えています。

 だから、『現代のネアンデルタール人』には、なりたくはありません。

 あなたは、『現代のネアンデルタール人』になることを望みますか?
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 この21世紀において、私たち人類の意識はさなぎから蝶へと飛躍的に進化して、新しい地球が誕生することになりますので、全てはその流れの中にあります。

 自然環境を始め、政治、経済、金融システム、科学技術・テクノロジー、宗教、世界観、医療、教育、常識、概念、ライフスタイルなど、あらゆる物事が、根本的に入れ替わろうとしています。

 この21世紀において、私たち人類は、天動説が地動説に変わるような、コペルニクス的大転回を経験することになるでしょう。

 とても楽しみですね!

 これから、意識変革を促す時代の風がますます強く吹いて来ることになりますから、意識変革への心の準備を常に心掛けて生きることが大切だと思います。

 そして、変わるべき時には、喜んで変わることが大切だと思います。

 私も、変わるべき時には、喜んで変わり、君子のように豹変したいと考えています。

 このブログを読んでくださっている読者の方たちは、おそらく君子の方が多いのではないかと思いますので、変わるべき時には意識を変えて、君子のように豹変することも必要かも知れませんね。

 君子は豹変するのです!


今ここに生きる事が、常なるテーマであり、真のリアリストとして現実を生きることが大切

拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★今ここに生きる事が、常なるテーマ

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 今ここに生きる事が、常なるテーマです。

 過去でも未来でもなく、あるいは、過去世や未来世でもなく、あの世や霊的世界でもなく、今ここに生きるという事が、常なるテーマなのです。

 もう過ぎ去ってしまった過去を悔んでみたり、まだ来ていない未来を心配したり、現実世界とは違う世界に意識を向けてばかりいても、仕方がありません。

 私達には、今日という日一日をいかに生きるべきか、さらに言うならば、今この瞬間をいかに生きるべきか、という事しか与えられていないのです。
 今ここに生きる事しか、与えられていないのです。

 どんな人間も、遅かれ早かれ、必ず肉体の死というものを、迎えます。
 どんな人であっても、いつかは必ず、目が覚めない朝を迎えるのです。
 私達は、大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは、一呼吸すら出来ない存在なので、明日の朝必ず自分が目を覚まし、生きていると断言出来る人は、地上に一人もいないのです。

 ですから、明日の朝、自分が目を覚まし、生きていられるのかどうかは、本当のところは、よく分からないとも言えます。
 明日の事を心配してみたところで、明日という日は、今、私達には与えられていないのです。

 私達に今与えられているのは、今日という日一日だけなのです。
 今日という日一日を、いかに精一杯生きるかが大切な事であり、さらに言うならば、今この時、今この瞬間をいかに生きるべきか、今この瞬間をどのように創造して生きるのか、という事が常に問われているのです。

 真のリアリストとして、現実を生きる事が大切になります。
 真のリアリストとして、今ここに生きる事が、常に大切な事なのです。

 本源の我であり、真我である我が魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、永遠不滅の存在です。
 しかし、大宇宙意識の分霊として、自らが「想像=創造(そうぞう)」した世界を、体験する為に、肉体の衣を纏(まと)って、今ここに存在していますので、体験する事が全てです。

 本源の我である我が魂は、自らの「想像=創造(そうぞう)」を体験し、味わう為に、肉体の衣を纏(まと)って、今ここに存在しています。
 永遠不滅の存在である魂にとっては、体験こそが喜びであり、肉体が死を迎えた後に、永遠に続く旅へと持って帰れる「おみやげ」なのです。

 私達が、肉体の衣を纏(まと)って、今ここに存在しているのは、本源の我である魂が「想像=創造(そうぞう)」した世界を、体験し、味わう為なので、自分自身の現実というものを、きちんと体験し、味わう事が大切になります。

 真のリアリストとして、現実をしっかりと生きる事が大切なのです。
 今日という日一日を、精一杯生きる事、さらに言うならば、今この瞬間を、精一杯生きる事が大切になります。
 今目の前にある現実というものを、きちんと生きる事が求められています。

 過ぎ去った過去を悔んだり、まだ来ていない未来を心配して、思い煩うのではなく、今この瞬間を、どのように創造していくのかが、常に求められている事なのです。
 生きるとは創造する事であり、今ここから、いかなる創造をしていくのか、という事の連続であるとも言えます。

 もう過ぎ去った過去やまだ来ていない未来に意識を向け過ぎないだけではなく、過去世や未来世と呼ばれるもの、あの世や霊的世界と呼ばれる世界の事にも、意識を向け過ぎない事が大切になります。

 あの世や霊的世界と呼ばれている世界も、所詮は相対世界の中のある領域のものであり、別に本質の世界でも、絶対の世界でもありません。

 大宇宙の本質の世界である絶対世界に唯一実在しているのは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、根本創造主の純粋意識のみです。
 本書においては、それを大宇宙意識と呼んでいます。

 それ以外のものは、全て相対世界に属しており、周波数が違うだけなので、所詮は、幻の世界の中なのです。

 自分でも本当のところはよく分かっていない、過去世や未来世、あの世や霊的世界と呼ばれる世界の事などに意識を向け過ぎる事は、目の前の現実をしっかりと生きるという力を削いでしまいます。
 そのような事に意識を向け過ぎる事は、囚われとなり、迷いとなります。

 今ここに生きる事が、常なるテーマです。
 過去でも未来でもなく、過去世や未来世でもなく、あの世や霊的世界でもなく、真のリアリストとして、今ここに生きる事が大切なのです。
 
 今目の前にある現実というものを、しっかりと生きる事が大切であり、今ここに生きる事こそが、黄金の道なのです。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より


自分の脳の中に溜め込んできた様々な常識・認識・概念を整理すると、とてもスッキリする

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 今日、家の中にある、何年も使っていない部屋を片付けて、不要物を処分して大掃除をしたら、とてもスッキリしました。

 もう使うこともないであろう物を思い切って処分して、長年たまった塵や埃を払ったことで、とても清々しい気分になりました。

 午後のお茶を飲んで一息入れながら、このブログを書いています。

 家の中や仕事場などの不要物を思い切って処分して、大掃除をすると、とても清々しい気分になります。

 あなたにも、このような経験があるのではないでしょうか?

 そして、これは、単に部屋の片付けだけの話ではなく、自分が長年頭の中に溜め込んできた様々な概念や、様々な情報、あるいは様々な人間関係などを整理する上でも、同じようなことが言えると思います。

『「断捨離」で物だけでなく人間関係や情報・概念なども整理して片付けるとエネルギーが高まる』、こちらの記事の中でも書きましたが、「断捨離」で物だけでなく人間関係や情報・概念なども整理して片付けるとエネルギーが高まります。

 どんどん進化していきたい方は、自分にとってもはや不要となった古いものは、どんどん手放していくことが大切だと思います。

 特に自分が長年にわたって脳の中に溜め込んできた、様々な常識・認識・概念などをきちんと整理して、不要な概念はどんどん手放していくことが大切です。

『徹底した脳の洗浄(ロンダリング)が大切』、こちらの記事の中でも書きましたが、徹底した脳の洗浄(ロンダリング)が大切になります。

 私たちは、オギャーと生まれた赤ちゃんの時から、家の教育や学校教育、そして社会から様々な概念を頭に取り込んで生きて来ました。

 それらの中には、自分にとって必要なものももちろんありますが、もはや必要でなくなった古い概念は、どんどん手放していくことが大切です。

 特に今という時代は、あらゆる書物や雑誌が氾濫している上に、マスコミやインターネットなどを通して、日々膨大な情報が入って来ますので、それらの情報をきちんと取捨選択して、自分にとって不要な概念はどんどん手放していくことが大切になります。

 衣服を洗濯して、衣服に付いた汚れをこまめに洗浄(ロンダリング)していくような感じで、自分の頭の中を徹底的に洗浄(ロンダリング)して、不要な概念はどんどん払い落としていくような意識が大切だと思います。

 今という時代は、あまりにも様々な情報が氾濫し過ぎているために、気を付けていないと、私たちは知らず知らずのうちに洗脳されてしまっているかも知れないのです。

 特に、精神世界やスピリチュアル系の人たちは、自分自身でもよく分からないような様々な概念を取り込んでしまって、頭の中がフリーズしそうになっている人も多いかも知れません。

 私がよく言うように、いわゆる精神世界やスピリチュアル系と呼ばれる世界は、ほとんどが間違った概念だらけの世界なので、地に足が付かないような、ふわふわとした概念で頭の中が一杯にならないように、自分の頭の中を徹底的に洗浄(ロンダリング)していくことが大切だと思います。

 そして、世間の常識とは関係なく、何が正しくて、何が間違っているのかということを、自分できちんと見極められるような感性を養っていくことが大切になります。

 世間の常識というものに自分が安住していると、間違った概念に安住している過ちに気付けなくなるかも知れません。

 例えば、今では、地動説が当たり前であり、太陽の周りを地球が回っていることをあなたもご存知だと思います。

 しかし、ほんの数百年前までは、天動説が常識であり、地球は宇宙の中心であり、その周りを太陽が回っていると人々は考えていた時代が長く続いていました。

 科学がまだ発達していなかったために、当時の人々にとっては、太陽が地球の周りを回っているという天動説が常識だったのです。

 ポーランドの天文学者コペルニクスは地動説を唱えたことで有名ですが、彼は自己の地動説発表による影響を恐れて、主著『天体の回転について』の販売を、死期を迎えるまで許さなかったため、自著の完成を見ることなく逝ったと言われています。

 コペルニクスが亡くなり、彼の主著『天体の回転について』が出版されたのが、1543年のことになります。

 そして、16世紀後半に活躍した、イタリア出身の哲学者であり、ドミニコ会の修道士であったジョルダーノ・ブルーノは、コペルニクスの地動説を擁護しましたが、コペルニクスよりもさらに壮大な宇宙を想定した人物でした。

 ジョルダーノ・ブルーノは、「世界の中心は地球か太陽か」などという議論を超越して、宇宙には果てが無く無限であり、宇宙の中心など何処にも存在しないという立場をとった人物であり、当時としては画期的な発想を持った人物でした。

 ジョルダーノ・ブルーノは、太陽が惑星を囲む太陽系のようなシステムは宇宙の基本的な構成要素であると考えていたようで、宇宙には地球と同じような世界がたくさん存在すると考えていました。

 しかし、宇宙には地球と同じような世界がたくさん存在すると主張した彼の見方は、当時のカトリック教会からは異端とされ、ジョルダーノ・ブルーノは、最後には宗教裁判により火刑に処せられ、1600年にこの世を去ることになりました。

 17世紀前半に活躍したイタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイが、地動説を唱えて、ローマ教皇庁から有罪判決を受けたのも有名な話です。

 このように、ほんの400年程前までは、人々は、地球が宇宙の中心であり、地球の周りを太陽が回っていると信じ込んでいたのです。

 しかし、科学が発達した現代の私たちは、天動説は誤りであることを知っています。

 1992年、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪しましたが、ガリレオの死去から実に350年後のことでした。

 このように、天動説から地動説に変わるような「コペルニクス的転回」を私たち人類は経験した訳ですが、この21世紀において、ダーウィンに代表されるような進化論は誤りだという「コペルニクス的転回」を私たち人類は経験することになるでしょう。

『21世紀の今という時代は、何千年何万年先の未来へ続いていく人類の歴史の通過点にしか過ぎない』、こちらの記事の中でも書きましたが、21世紀の今という時代は、これから先何千年何万年と未来へ続いていく人類の歴史の中の、ほんの通過点にしか過ぎません。

 百数十年前の江戸の幕末期に生きた人々から見れば、21世紀のハイテクの時代に生きる私たちは、とても進化した文明人かも知れません。

 しかし、22世紀や23世紀の未来の人類から見れば、21世紀初頭に生きる私たちは、ある意味においては原始人なのです。

 進化論などという、何の確固とした科学的根拠もないような学問を、あたかも絶対的な真実であるかのように盲信していた時代の人々は、後世の人類から笑われるような時代がそう遠からず来ることになるでしょう。

 ちょうど、現代の私たちが、地球が宇宙の中心であり、地球の周りを太陽が回っているという天動説を信じ込んでいた数百年前の人々を原始人だと感じるようなものかも知れません。

 このように、人類は常に進化していく流れの中にあるのだということを意識しながら、自分の頭の中にある様々な常識・認識・概念などを、徹底的に洗浄(ロンダリング)していくことが大切だと思います。

 今という時代は、意識変革を促すための大きな風が吹いて来ていますので、自分自身の意識をどんどん変革していくことが大切になります。
 
 そして、自分の脳の中に溜め込んできた様々な常識・認識・概念を整理すると、とてもスッキリします。


人生の夢や目標というのは魂の進化というプログラム上にあるアプリケーションのようなもの

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 人生の夢や目標というのは、魂の進化というプログラム上にあるアプリケーションのようなものです。

 私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、人生の全ては、魂の進化の為にあるのだと言えます。

 そして、私たちが抱く夢や目標というのは、魂の進化というプログラム上にあるアプリケーションのようなものなのです。

 自分が抱く夢や目標というものが、人生のゴールであるかのように勘違いしている人もいるかも知れませんが、自分が抱く夢や目標というのは、人生のゴールなのではなく、魂の進化と呼ばれる人生プログラム上に存在しているアプリケーションのようなものなのです。

 パソコンやスマホには、アプリと呼ばれる様々なソフトがあり、それを活用することで、パソコンやスマホをより快適に有効に活用することが出来ます。

 理想の異性との恋愛や結婚も、仕事の成功も、経済的豊かさも、社会的成功も、地位や名誉を得ることも、豊かな人間関係を築くことも、それが人生のゴールなのではなく、魂を進化させるプログラム上に存在しているアプリケーションのようなものなのです。

 アプリと呼ばれる様々なソフトを活用することで、パソコンやスマホをより快適に有効に活用していくことが出来るように、健康、恋愛・結婚、仕事、お金、社会的成功、地位、名誉、豊かな人間関係というようなアプリを活用することによって、人生はより鮮やかで豊かなものになり、魂を進化させていくツールとして活用することが出来ます。

 そして、ここで押さえておくべき大切なポイントは、私たちの人生は魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、意識を創る旅に終わりはなく、意識変革の風を常に受け続けていくということなのです。

 私たちはただ、魂の進化と呼ばれる、意識を創る旅をしているだけなので、意識を創る旅には終わり(ゴール)はなく、意識は無限に進化していくことができます。

 ですから、ある意識に到達すると、その次にはさらに高い意識へと導く意識変革の風を受けることになります。

 自分が理想とする夢や目標を達成したとしても、その次にはさらに高い意識へと導かれることになり、意識を創る旅に終わり(ゴール)はないのです。

『心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う』、こちらの記事の中でも書きましたが、魂の進化と呼ばれる、意識を創る旅というのは、心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失うという旅であり、心の純化・意識の福化の旅であると言えます。

 自分が理想とする夢や目標を達成したとしても、それによって真の幸福が得られる訳ではなく、また心は満たされなくなり、次の夢や目標を探し始めます。

 そして、これは際限が無いことなので、どんなに巨万の富を得ようとも、どんなに権勢を極めようとも、どんなに栄華を極めようとも、それによって真の幸福が得られる訳ではないことを、最終的には天に思い知らされることになります。

 心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心を創る以外に、永遠の幸福へと至る道は用意されていないからです。

 ある特定の何かが手に入れば真の幸福が得られると思っていても、天の仕組みとして、その思いは必ず外されることになります。

 何かが手に入ろうと入るまいと、例え自分がどんな状態にあろうとも、その状態を遊んで幸福を感じていられるところに、答えがあるからなのです。

 理想の異性との恋愛や結婚も、仕事の成功も、経済的豊かさも、社会的成功も、地位や名誉を得ることも、豊かな人間関係を築くことも、それが人生のゴールなのではなく、魂を進化させるプログラム上に存在しているアプリケーションのようなものなのです。

 自分が理想とする夢や目標というのは、人生のゴールではなく、魂の進化という人生プログラム上に存在しているアプリケーションのようなものだということなのです。

 それらのアプリを活用することで、私たちの人生はより鮮やかで豊かなものになり、魂を進化させていくツールとして活用することが出来ます。

 自分が理想とする夢や目標が実現したのかしなかったのかという結果に答えがあるのではなく、自分が理想とする夢や目標に向かって生きたことで、どれだけの意識を創ることができたのか、そして、どれだけ魂を進化させることができたのかが常に問われているということなのです。



受胎した時に組み込まれた遺伝子のプログラムが、時の経過と共に発現して人生が展開する

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 今日の16日は「送り盆(お盆の明け)」とも言われ、お盆ももう終わりですが、皆さま、どのようなお盆休みを過ごされましたか?

 私の住んでいる所では、朝晩は多少涼しい風が吹いてきており、秋の到来を感じさせますが、日中はまだまだ暑く、セミがうるさいくらいに鳴いています。

 私は、夏という季節が大好きですが、夏の風物詩の一つとして、セミの鳴き声も結構好きです。

 何年間もの長い間、地中で幼虫として過ごしてきたセミは、地上に出て羽化して成虫になってから、満を持したかのように、うるさいくらいに鳴いて生命を謳歌します。

 そして、わずか1カ月にも満たないような地上での短い生命を終えて、見事に亡骸(なきがら)となって土に帰っていきます。

 セミというのは、数年から17年もの長い間、地中で幼虫として過ごすようです。

「17年ゼミ」という言葉があるように、ある種のセミは、17年サイクルで地上に姿を現し、セミとして開花して生命を全うするようです。

 セミという生物は、夏の間のわずか1カ月程、地上でセミとして開花して生命を謳歌するために、数年から十数年もの長い間、地中で幼虫としてじっと過ごすのです。

 セミという生物がこのような生態を取っているのは、全て、セミの遺伝子によるものです。

 セミという生物に組み込まれた遺伝子が発現して、セミはこのような生態を取っているのです。

 そして、セミに限らず、他の動物や植物も、あらかじめ組み込まれた遺伝子によって、その種としての生態が決められています。

 例えば、桜の花であれば、冬が終わり、春が到来すると芽吹き、そしてパッと花開いて見事に散っていきます。

 これは、桜という植物に組み込まれた遺伝子のなせる業(わざ)なのです。
             
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 そして、私たち人間も、万物の霊長と呼ばれる知的生命体ではありますが、生物という点においては、他の動植物と同じですので、私たち人間一人ひとりも、自分の中にあらかじめ組み込まれた遺伝子が発動して、人生が展開しているのです。

 例えば、人生のある時期にある才能に目覚めたり、ある才能が開花したりする人がいますが、これは、元々その人が受胎した時点でその人の遺伝子の中にあらかじめ組み込まれていた遺伝子が発動して開花したからなのです。

 また、あなたにも経験があるかと思いますが、ある時期が来ると、私たちは、異性の誰かと出会い、その人に恋をしたり、その人と結ばれたいと強く望んだりします。

 これらも全て、遺伝子にあらかじめ組み込まれていたプログラムなのです。

 受胎した時点で既に遺伝子の中にあらかじめ組み込まれていたプログラムが発動して、ある異性の人に深い恋心を抱いたり、その人と結ばれたいと強く望んだりします。

 異性との恋愛や結婚や性的結合などは分かりやすい例ですが、それらは、あらかじめ遺伝子に組み込まれていたプログラムなので、好きになった異性との恋愛や結婚、あるいは性的結合などは、遺伝子レベルの深いところで、どうしてもそれを得たいと強く望むことになるのです。

 私たちの人生は、受胎した時にあらかじめ組み込まれていた遺伝子が、時の経過と共に発現して、人生が展開しているのです。

 全ては、受胎した時点で遺伝子の中にあらかじめ組み込まれていたプログラムなのです。

 多くの人たちは、自分自身の力で何かを思ったり考えたり行動したりしていると勘違いしていますが、私たち一人ひとりの生命は遺伝子によって成り立っていますので、遺伝子の存在を無視することはできないのです。
             
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 それにしても、セミという生物に組み込まれた遺伝子というのは、本当に面白いと思います。

 何年もの間、ある種のものは17年もの長い間、地中で幼虫としてじっと過ごし、地上に出る時期が来ると、羽化して成虫となって、セミとしての生命を謳歌します。

 夏の間のひと時、セミはうるさいくらいに毎日毎日鳴いて生命を謳歌し、私たちの耳目を楽しませ、夏の風物詩としての彩りを添えた後は、あっという間にその生涯を閉じて去って行きます。

 地上でのセミの生命は、1カ月あるかないかの短い時間だと思います。

 セミの鳴き声には、生命のひたむきさ、一生懸命に生きている感じがひしひしと感じられます。

 セミに限らず、大空を飛ぶ鳥や、野に咲く花なども、皆ひたむきに生きて、自らの生命を全うしています。

 私たち人間は、万物の霊長とも呼ばれる知的生命体ですが、生命のひたむきさ、一生懸命な生き方においては、他の動植物からも見習うべき点がたくさんあるように思います。

 

意識を変えるためには、自らが持つ常識・認識・固定観念などの概念をどんどん外していくこと

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 人生を変えたければ、意識を変えることが大切になります。

 そして、意識を変える上においては、自らが持つ常識・認識・固定観念などの様々な概念をどんどん外していく必要があります。

 人は皆、オギャーと生まれてから今日に至るまで、膨大な量の情報をインプットしながら、様々な常識・認識・固定観念などの概念を自分の中に溜め込んできています。

 そして、自分の中に、ややこしい概念が溜め込まれていればいる程、自分が映す現実世界(大宇宙)というものも、その分ややこしく映し出されることになります。

 私がいつも言っている通り、自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分の外にある何か確固とした客観的な世界などではなく、全てが主観の世界だからなのです。

 自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分自身の意識が投影された自分の内面の世界であり、全ては主観の世界なのです。

 自分自身の心の中にある心象風景とでも呼ぶべきものを、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出して見ているだけなので、全ては心の内の景色であり、インナーワールドなのです。

 自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分の脳が創り出したバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、言わば、幻なのです。

『人は皆、自分自身の意識が創り出した幻想の世界に生きている』、こちらの記事の中でも書きましたが、私たち一人ひとり、全ての人間は、自分自身のフィルターという、言わば「色メガネ」を通して、外にある世界を認識しています。

 例えどんな人であっても、その人自身のフィルターという「色メガネ」を通してしか外界を認識できませんので、「色メガネ」そのものが悪い訳ではありません。

 しかし、自分自身の中に、様々な常識・認識・固定観念などのややこしい概念があればある程、自分が映す現実世界(大宇宙)もまた、それだけややこしいものになってしまいます。

 言わば、自分自身の持つフィルターという「色メガネ」の色が濃くなってしまい、外界をなるべく透明に映すことが難しくなってしまうのです。

『自らが持つ常識・認識・固定観念をどんどん外していくことが心の成長であり、意識の拡張』、こちらの記事の中でも書きましたが、自らが持つ常識・認識・固定観念などの様々な概念をどんどん外していくことが心の成長であり、意識の拡張と呼べるものなのです。

 そして、『自らが持つ強い認識・常識をどんどん手放していくことが、楽しい流れとなる』、こちらの記事の中でも書きましたが、自分自身の中にある強い認識・常識・固定観念などをどんどん手放していくことが、楽しい流れとなります。

 私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していません。

 魂の進化とは、心の純化・意識の福化ということであり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。

 人生を変えたければ、意識を変えることが大切になります。

 そして、意識を変える上においては、自らが持つ常識・認識・固定観念などの様々な概念をどんどん外していくことが、楽しい流れとなるのです。




今の自分の意識が創られる為には、今まで出会って来た全ての人、事、物が必要だった。

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 今の自分の意識が創られる為には、今まで出会って来た、全ての人、事、物が必要でした。

 今現在のあなた自身の意識が創られる為には、今まであなたが人生の中で出会って来た、全ての人や出来事、物が必要だったということなのです。

 今までの人生の一点一画が違ったとしても、人生は今とは全く違ったものになってしまいます。

 今この瞬間のあなたの意識が創られるためには、寸分の狂いも無く、今まで出会って来た全ての人、事、物、即ち、全ての体験が必要でした。

 今まで出会って来た一人ひとりの人たち、今まで読んだ1冊1冊の本、今まで聞いた1枚1枚のレコードやCD、今までに行った一つひとつの場所など、これまでに体験して来た一つひとつの出来事によって、今現在の意識が創られています。

 今の自分の意識が創られる為には、全ての体験が必要だったということになります。

 そして、今現在の自分の意識が創られる上においては、やはり、人との出会いや別れというものが、大きなウエイトを占めていると思います。

 あなたの今現在の意識が創られる為には、今まで出会った全ての人たち、そして、今までに別れた全ての人たちが必要だったと言えます。

 あなたの意識が今日のように創られる為には、今まで経験して来た一つひとつの出会いが必要でした。

 どんな人との出会いも、今日のあなたの意識を創ることには必要だったとも言えます。

 自分が愛した人や自分のことを大切にしてくれた人、自分に恩恵や利益をもたらしてくれた人ばかりではなく、自分に対して冷たい態度を取った人、自分のことを嫌った人、自分に対して何らかの不利益を与えた人まで含めて、全ての人たちとの一つひとつの出会いによって、今現在の自分の意識が創られています。

 どんな人も、あなたの意識を今日の意識へと創っていったということになります。

 そして、今現在の自分自身のことを肯定して受け入れられるならば、過去に出会った全ての人たち、過去に別れた全ての人たちのことも認め、許せるようになります。

 何故なら、今現在の自分の意識がこのように創られる為には、今までに出会った一人ひとりの人たち、全ての人たちとの出会いが必要だったのですから。



トラウマは真我である魂が決めてきた人生ストーリーの中のプログラムの一つ

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 今日は、トラウマということについて、少し書いてみたいと思います。

 結論から先に言いますと、トラウマというのは、ある意味においては、真我である魂が生まれる前に決めてきた、人生ストーリーの中に組み込まれたプログラムの一つなのです。

 あなたは、自分のトラウマということについて、強い関心がありますか?
          
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 実は、私も、かなり以前、トラウマという概念が気になって、自分のトラウマを解消したいと色々心理学的アプローチを試みていた時期があります。

 もう十数年前、二十年近く前のことでしょうか。

 そのうち、魂の記憶が蘇り、自分の意識の奥深くにある、真我である魂の意図がだんだん感じられるようになってくると、トラウマというのも、ある意味においては、真我である魂が生まれる前に決めてきた、人生ストーリーの中に組み込まれたプログラムのようなものだということが分かってきました。
          
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 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、真我である、我が魂です。

 自分の人生の全ては、真我である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 真我である魂という「純粋意識」は、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したのです。

 大宇宙の森羅万象の全ては元々存在しており、未来は100パーセント確定していますので、自分の人生というのも、生まれて来る前に既に人生のストーリーがプログラムされて決まっています。

 受胎・誕生から死に至るまでの全てが、あらかじめプログラムされて決まっているのです。

 そして、どういう両親の元に生まれ、どのような幼少期を過ごすのかということが、とても重要になります。

 どういう両親の元に生まれ、幼少期に親とどのような関係にあったのか、どのようなトラウマを受けたのかというようなことが、その後の人格形成に大きな影響を与えることになります。

 ただ、それらのことは、元々プログラムされていたものであり、その人がどういう一生を送るのかという人生ストーリーと密接不可分のものなので、生まれる前から元々決まっていたものなのです。

 そして、いつ、どのようにしてトラウマが形成されるのかということだけではなく、そのトラウマがいつ、どのようなプロセスで解消されるのかということまで、あらかじめプログラムされて決まっています。

 ある時期が来ないとあるトラウマは解消されませんし、逆に言えば、解消される時期が来ると、あるトラウマは必要なプロセスを経て解消されるのです。

 そして、もう一つ知っておくべきことは、地上に生きる全ての人にはトラウマがあり、生きている間は、トラウマが完全に解消することもないということなのです。

 トラウマと聞くと、幼少期に形成されるものと考える人も多いかも知れません。

 しかし、私たちは全て、生まれて来た時点で、既に心の傷を持っており、もしトラウマという表現を使うとするならば、誕生した時点で、既に全員がトラウマを持っているのです。
          
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「胎教」という言葉があり、妊娠中のお母さんがモーツァルトの音楽などを聞くと、胎児に良い影響を与えるということが言われたりするのをご存知だと思います。

 受胎してから誕生して来るまでの約10カ月間も、赤ちゃんはお母さんのお腹の中で、意識をもって生きていますので、妊娠中に既に全ての人は、何らかのトラウマを経験しているのです。

 ですから、地上に生きる全ての人は、オギャーと生まれて来た時点で、既に心が傷付いており、何らかのトラウマを持っているのです。

 そして、物心つくまでの幼少期に、人格形成の大きな基盤が築かれることになります。

 幼少期に受けたトラウマは、その後の人格形成に大きな影響を与えることになります。

 昔から日本の諺にも『三つ子の魂百まで』という言葉がありますが、トラウマなどという外国語を知らなかった昔から、人間の幼少期というものが、その後の人生に大きな影響を与えることを昔の人々は知っていたのだと思います。

 地上に生きる全ての人は、誕生した時点で、既に胎児の時のトラウマを持っており、誕生してからの幼少期においても、全ての人は、何らかのトラウマを経験することになります。

 ですから、世の中の成功者と言われる人であっても、トラウマが全く無いという人はいません。

 トラウマと呼ばれるものも、その人の真我である魂が生まれる前に決めてきた、人生ストーリーの中に組み込まれたプログラムの一つなのです。

 そして、死ぬまでにトラウマが全くゼロになるということもありません。

 それが、肉体を持ってこの世に存在しているということでもあるのです。

 しかし、トラウマと呼ばれるものも、あるレベルにおいては存在しているのですが、究極的には存在していないとも言えるのです。

 何故なら、時間というものそのものが幻想であり、究極的には時間は存在していないからなのです。
 
 ですから、時間というものそのものが存在していないという究極的な観点に立った時には、トラウマという概念そのものが消滅することにもなるのです。

 あるレベルにおいては、トラウマと呼ばれるものは存在しています。

 時間が過去→現在→未来へと流れているという観点に立てば、トラウマと呼ばれるものがあり、人生に大きな影響を与えているとも言えます。

 しかし、もっと高い観点から見た時には、トラウマと呼ばれるものも、真我である魂が生まれる前に決めてきた、自分の人生というストーリーの中に組み込まれたプログラムの一つなのです。

 さらに言うならば、時間というものそのものが幻想であり、時間は究極的には存在していませんので、そういう観点に立った時には、トラウマという概念そのものが消滅することにもなるのです。


何かが自分から去っていったとしたら、今の自分の高い目的に叶っていなかっただけ

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 何かが自分から去っていったとしたら、それは、今の自分の高い目的に叶っていなかったというだけなのです。

 何かが自分から去っていったとしたら、それは、マクロ的に見れば、今の自分にとって本当に必要なものではなかったというだけのことなので、執着しないことが大切になります。

 例えば、仕事、お金、恋人、友人、健康など、何かが自分から失われていき、何かが自分から去っていくことが人生には起きます。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、それらのことをつらく苦しく感じられ、不幸・不運と感じるかも知れません。

 しかし、もっとマクロ的な、大所・高所から見れば、自分から失われたもの、自分から去っていったものは、その時には、自分自身にとって本当に必要なものではなかったというだけのことなのです。

 ですから、自分から去っていったもの、自分から失われていったものに対しては、執着しないことが大切になります。

 例えば、会社でリストラされたり仕事を首になったり、会社そのものが倒産したとしたら、その仕事は、今の自分にとっての高い目的に叶っていなかったので、自分から失われていったというだけのことなのです。

 その時は、大変に感じるかも知れませんが、次なる場面が必ず用意されていますので、次の仕事、あるいは、一時的に無職の状態を体験することが、マクロ的に見て、より高い目的に叶っているということなのです。

 もし、恋人に振られたとしたら、その人は、今の自分にとって本当に必要な人ではなかったというだけのことであり、自分の高い目的に叶った最善の人ではなかったというだけのことなのです。

 いずれ、もっと自分にピッタリの別の異性が現れるかも知れませんし、一時的にパートナーがいない状態を体験することが、今の自分には必要なのかも知れません。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、去っていった恋人に対して、未練を感じたり、執着を感じたりするかも知れません。

 しかし、今の自分にとって本当に必要なものは、自分から失われることはないので、何かが自分から去っていったとしたら、それは本当に必要なものではなかったということが分かれば、執着を手放すことができるようになります。

『今の自分にとって必要なものの全ては、常に与えられている』、こちらの記事の中でも書きましたが、今の自分にとって本当に必要なものの全ては、常に与えられているのです。

 例えば、お金が自分から失われていったとしたら、そのお金は、その時の自分にとって本当に必要なお金ではなかったというだけのことなのです。

 お金はまた稼ぐことが出来ますし、もし本当に必要なお金であれば、必要な時には必ず入って来ます。

 仕事であれ、お金であれ、人であれ、もしも何かが自分から失われていき、去っていったとしたら、それらのものは、その時の自分にとっては、本当に必要なものではなかったということであり、高い目的に叶っていなかっただけのことなのです。

 ですから、執着しないことが大切になります。

 そして、宇宙は真空を嫌いますから、執着を手放して空っぽになれば、次にはまた新しい何かを寄こしてくれますので、あなたは、もっと素晴らしい何かで満たされることになるのです。


忘れるというのも一つの才能であり、毎日を明るく前向きに生きていくためには必要なこと

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 忘れるというのも一つの才能です。

 私たちは、過去に経験した、様々な痛みや苦しみ、恥ずかしいことなどを忘れて、一々思い出せないからこそ、毎日を新鮮な気分で、明るく前向きに生きて行くことができます。

 何十年も生きていれば、どんな人であっても、過去には、精神的あるいは肉体的な痛みや苦しみを経験し、人には言えないような恥ずかしいことも経験していると思います。

 それらのことが、毎朝起きる度に記憶から蘇ってきたらとしたら、とても毎日を明るく前向きに生きていく気分も出てこないと思います。

 私たちは、過去の嫌なことを忘れるからこそ、新しい気持ちで生きて行くことが出来ますので、忘れることができるというのも、ある意味においては、一つの才能なのです。

 もちろん、勉強や仕事などで必要な記憶力というのは、有るに越したことはないのですが、わざわざいつまでも憶えておく必要の無い記憶は、どんどん忘れられるに越したことはありません。

 そして、私たちは、体験したことは潜在意識が記憶しており、決して忘れることはないので、表面意識(顕在意識)では、安心して忘れていれば良いのです。

 潜在意識は全てのことを記憶していますので、必要な時には、必要な記憶を呼び戻してくれます。

 ですから、憶えていたくないこと、思い出したくないことは、安心して忘れている方が、毎日を新鮮な気分で生きて行くことができ、それが創造力にもつながっていきます。

 過去の苦しい体験に囚われ過ぎていては、新しい創造力もなかなか生まれてこないと思います。

 私自身も、過去に経験した様々な悩みや苦しみを忘れるのが得意なので、だからこそ、なんとか生きてこられたとも言えるのですが、昔のことは、なるべく忘れていた方が、スッキリした気分でいられるような感じがします。

 忘れるというのも一つの才能であり、毎日を明るく前向きに生きていくためには必要なことなのです。


意識は「無限」に進化していくので、「悟り」や「覚醒」などという概念に囚われないことが大切

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≪意識というものは「無限」に進化していくことが出来ますので、「悟り」や「覚醒」などという概念に囚われ過ぎないことが大切です。≫

 意識というものは、本当に奥深いものなので、意識は「無限」に進化していくことが出来ます。

 意識の旅には終わりはありませんので、何かの到達点やゴールというものがある訳でもありません。

 意識というものは「無限」に進化していくことができ、意識の旅に終わり(ゴール)はありませんので、巷によくあるような「悟り」や「覚醒」などという概念にも囚われないことが大切です。

 あなたは、「悟り」や「覚醒」などという概念に囚われて、「悟り」や「覚醒」を得られれば、この世の悩みや苦しみから全て解放されるのではないかという幻想を抱いて、「悟り」や「覚醒」に憧れたりしているのではないですか?
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 そのようなものは、所詮は「なんちゃって悟り」であり「なんちゃって覚醒」にしか過ぎませんので、それらの「なんちゃって」の世界に陥らないように注意することが大切です。

≪涅槃は低次の最高地点にして高次の最低地点にしか過ぎない――オーロビンド・ゴーシュ≫

 オーロビンド・ゴーシュの言葉に確か『涅槃は低次の最高地点にして高次の最低地点にしか過ぎない』というような言葉があったと記憶しています。

 オーロビンド・ゴーシュという人は、インドの反英独立運動家、宗教家、霊性指導者、ヨーガ指導者、インド哲学者、詩人、神秘思想家として20世紀前半に活躍した人物です。

 私は以前、インドへ行った時に、聖地ツアーのようなものでオーロビンド・ゴーシュのアシュラムがあった、シュリ・オーロビンド・センターを訪れたことがあります。

 そして、その数年後にインドに行った時もまた、聖地ツアーにシュリ・オーロビンド・センターが組み込まれていたので、思いがけず2度も訪れることになったので、少しだけオーロビンド・ゴーシュのことを知っているだけなのですが・・・・・。

 彼は、かなりすごい人物だったようですが、意識というものの奥深さというものを、自らの体験の中ではっきりと認識していた人なのだと思います。

 まさにオーロビンド・ゴーシュの言う通りであり、「涅槃」と呼ばれるような境地でさえも、低次元の最高地点ではあるのですが、高次元の最低地点にしか過ぎないのです。

 さらに言うならば、「涅槃」という言葉や「悟り」という言葉の本来の意味をきちんと認識することも大切になります。

≪仏陀の言葉とされる「涅槃」や「悟り」の本来の意味を認識することが大切です。≫
「涅槃」や「悟り」というのは仏教用語であり、仏陀の言葉とされていますが、その本来の意味を、きちんと科学的に認識しておくことが大切になります。

 仏教には「涅槃」という言葉があり、究極的目標である永遠の平和、最高の喜び、安楽の世界を意味する、「悟り」の最高の境地ともされています。

 しかし、仏陀が語ったとされる「涅槃」や「悟り」という言葉は、決して抽象的な概念などではありませんので、きちんと本質を科学的に理解しておく必要があります。

『仏陀が菩提樹の下で開いた「悟り」とはエロヒムの不死の惑星で伝授された奥義』、こちらの記事の中でも書きましたが、仏陀は菩提樹の下で49日間瞑想をして「悟り」を開いたのではなく、実はその間、地球の全生命の創造者であるエロヒムの不死の惑星に宇宙船(UFO)で連れて行かれて、奥義を伝授されたのです。

 人類を導くための偉大なメッセンジャーとしての使命・役割を遂行するために必要な奥義を、創造者であるエロヒムの不死の惑星で伝授されてから、地球での仏陀としての使命を開始しています。

 現代の最先端の物理学者の中には、仏教思想の奥深さに注目する人も多いようですが、それも無理のない話です。

 何故なら、仏陀が得た「悟り」というのは、今の地球の科学よりも2万5千年も進んだ、創造者であるエロヒムから伝授された奥義だからなのです。

 元々、仏陀の「悟り」を表した最も古い表現として仏典に残っているのが、「私はアムリタ(不死)を得た・・・」という言葉だそうですが、アムリタとはサンスクリット語で、「不死の飲み物」を意味します。

 仏陀は、創造者であるエロヒムの不死の惑星で、高度な科学による楽園のような世界を体験したのですが、仏陀が言う「極楽浄土」とは、創造者であるエロヒムの不死の惑星のことを指しています。

 そして仏陀は、高度な遺伝子工学のクローニングによる「不死の秘密」を教えられるとともに、地球での使命・役割を終えた後には、死後に細胞を再生されて、エロヒムの不死の惑星で「不死の生命」を与えられることを約束されたのです。

 それが、「私はアムリタ(不死)を得た・・・」という言葉であり、仏陀の「悟り」を表した最も古い表現として仏典に残っている言葉のようです。

 また、「涅槃」というのも抽象的な概念のように聞こえますが、仏陀が言う「涅槃」とは、創造者であるエロヒムの不死の惑星のことを言っているようです。

 仏陀は「涅槃」のことを、「この世で見ることができ」、「明白で」、「現世的で」、「現世の事柄である」と教えており、ヨーガ行者の中で自分だけが「涅槃」を見て、それを所有していることを強調していたようです。

 また、西方十万億土彼方にある「極楽浄土」というのも、抽象的な概念などではなく、仏陀が見たエロヒムの不死の惑星の楽園のような世界のことを表現しています。

≪大宇宙の計り知れない奥深さと、意識の奥深さを知ることが大切です。≫
 大宇宙の計り知れない奥深さと、意識というものの奥深さを知ることが大切です。

 私たち人間の情報指数を100とすると、百万、千万、億・・・といった情報指数を持つ高次元意識がこの大宇宙には存在しており、それらから常に影響を受けています。

 自分を取り巻く全体があるということであり、この大宇宙は多重多次元構造の世界なので、本当に奥が深く、計り知れない世界なのです。

 そして、私たちの意識の内面というのも、本当に奥深いものなので、私たちの意識を一番奥深くまで遡ると、最終的には、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識に辿り着くことになります。

 私たちの意識は「無限」に進化していくことが出来ますので、何かの到達地点やゴールがある訳でもなく、「悟り」や「覚醒」などという概念に囚われる必要もありません。

 今地球上に生きている70億人の人間は皆、生物学的に言えば、言葉は悪いですが、毎日が「食べて、寝て、垂れて・・・」の繰り返しです。

 そして、例えどんな人間であったとしても、貨幣経済が無くならない限りは、お金(マネー)の仕組みから逃れられる訳ではありませんので、社会生活を営む上ではどんな人であったとしてもお金(マネー)は必要です。

 そして、生物として生きている限りは、食欲や性欲などの本能的欲求が無くなる訳でもありません。

「悟り」や「覚醒」が得られれば、この世の悩みや苦しみが全て無くなるかのような幻想を抱いて、「悟り」や「覚醒」という概念に囚われる必要もないのです。

 元々、仏陀が語った「悟り」や「涅槃」の意味については、先程書きましたが、今巷に漂っているのは、「悟り」や「涅槃」、あるいは「覚醒」という抽象的な概念です。

「悟り」「涅槃」「覚醒」などという抽象的な概念が、ネオンサインのように魅惑的な光を放って世間を漂っているので、悩みや苦しみから逃れたい人たちが、わらにもすがるような思いで、それらの概念に飛び付くのかも知れません。

 それらは、所詮は「なんちゃって悟り」「なんちゃって覚醒」にしか過ぎませんので、それらの「なんちゃって」の世界に陥らないように注意することが大切です。

 意識というものは「無限」に進化していくことができ、意識の旅に終わり(ゴール)はありませんので、巷によくあるような「悟り」や「涅槃」や「覚醒」などという概念にも囚われないことが大切になります。


思い込み・勘違いというのも、真我である魂が決めてきた、魂を進化させる為のプログラムの一つ

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 今日は、思い込み・勘違いということについて、少し書いてみたいと思います。

 あなたは、思い込みや勘違いは、しない方が良いと考えますか?
 それとも、思い込みや勘違いは必要だと考えますか?
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 実は、思い込みや勘違いというのも、真我である魂が決めてきた、魂を進化させる為のプログラムの一つにもなっています。

 未来は100パーセント確定しており、真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを知り尽くしていますが、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、未来のことはほとんど分かりません。

 そして、生きるとは創造することであり、心と感じるままに、瞬間瞬間、常に何かを創造していくことの連続であるとも言えます。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、未来のことはほとんど分かりませんので、私たちは、多くの思い込みや勘違いをしながら生きることになる訳ですが、だからこそ、ある意識を創り、ある体験をすることができます。

 私たちが全く思い込みや勘違いをしなければ、何も前に進むことなく、意識を創ったり、体験を積んだりしながら、魂を進化させていくこともできません。

 例えば、異性に淡い恋心を抱いて、この人と交際することになるかも知れないと期待したものの、何も起こらずに終わってしまったとしても、淡い恋心を抱くことによって、毎日がウキウキしたり、ある意識を創ることができた筈です。

 また、異性に告白をして、仮に振られてしまったとしても、そのことによって、ある意識を創り、ある体験をすることには成功している筈です。

 さらには、この人こそ理想の伴侶、この人と結婚したいと期待して交際してみたものの、結婚には至らずに、恋は終わってしまったとしても、その人との交際によって、ある意識を創り、ある体験を積むことには成功している筈です。

 仕事などにおいても、20歳頃の若い時期に、自分はこの仕事を一生やりたい、これこそ自分の天職だと考えたことも、多くは思い込みや勘違いで終わるかも知れません。

 これだけ価値観が多様化し、科学技術・テクノロジーの進歩が目覚ましく、長寿・高齢化社会になっている中で、何か一つのことだけを一生かけてやっていくことだけが人生ではありませんので、様々な思い込みや勘違い・試行錯誤はあって当然のことだと思います。

 仕事でも趣味でも恋愛でもそうですが、私たちは、この仕事こそ、この生きがい・趣味こそ、この人(異性)こそ、と思い込みや勘違いをすることによって、前に進み、ある意識を創り、ある体験を積みながら、魂を進化させていくことができます。

 科学者の世界や、企業などの商品開発なども、ある意味においては、似たようなものかも知れません。

 発明王と言われたエジソンなども、数多くの失敗を重ねたようですが、数多くの思い込みや勘違いをし、数多くの試行錯誤を重ねることによって、遂には偉大な発明に至ることができたのだと思います。
 
 もしも科学者が、何も思い込みや勘違いをすることなく、何も失敗することもなく、何も試行錯誤することがなければ、新たな発見や発明を生み出すことなど、何もできないでしょう。

 企業などの商品開発などにおいても、何も思い込みや勘違いをすることなく、何も試行錯誤することなく、何も失敗することがなければ、何も新しい商品を生み出すことはできないと思います。

 魂の記憶が蘇り、真我である魂の意図がだんだん感じられるようになってくると、思い込みや勘違いというのも、真我である魂が決めてきた、魂を進化させる為のプログラムの一つであることが分かるようになります。

 私たちは、ある時に、あることに思い込みや勘違いをすることによって、前に進むことができ、そのことによってある意識を創り、ある体験をすることができます。

 そして、それらの体験はその時に必要な体験なので、決して無駄ではなく、次なる場面が必ず用意されているのです。

 全ては連続した流れの中にある訳ですから、私たちは、ある体験をし、ある意識を創ることによって、次なる意識が現れ、次なる場面が現れて来るのです。

 思い込みや勘違いというのも、決して悪い訳ではなく、真我である魂が決めてきた、魂を進化させる為のプログラムの一つにもなっていることを理解することが大切です。


全ては必要必然であり、自分が映す現実世界は、その瞬間に自分が体験して味わうべきもの

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≪大宇宙の森羅万象の全てが、必要必然。≫
 全ては、必要必然です。

 大宇宙の森羅万象の全てが、必要必然なのです。

 何故なら、この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という一つの「純粋意識」だけだからです。

 大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。

 物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなので、大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))により営まれています。

 大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーにより、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で動いていますので、全ては必要必然なのです。


≪自分自身が体験する全ての現実も、必要必然であり、体験すべきもの。≫
 大宇宙の森羅万象の全てが必要必然ですので、もちろん、自分自身が体験する全ての出来事・全ての現実も、必要必然だということになります。

 自分の人生の全てが、必要必然なのです。

 自分が瞬間瞬間に体験する全ての現実は、その瞬間瞬間において自分が体験すべき現実なのです。

 自分が瞬間瞬間に体験する全ての現実は、その瞬間瞬間において本当の自分自身が見たい世界であり、体験したい世界なのです。

 本当の自分自身とは?
          
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≪自分が体験する全ての現実は、真我である魂が、見たい世界であり、体験したい世界。≫
 本当の自分自身とは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である魂のことです。

 自分の人生の全ては、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、真我である魂という「純粋意識」が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 自分の人生の全ては、真我である魂という「純粋意識」が「想像=創造(そうぞう)」したものなので、全ては真我である魂が見たい世界、体験したい世界なのです。

 真我である魂は、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したのです。

 真我である魂が望んでいるのは、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」ことを体験することなのです。

 豊かなる世界とは、自分の外の何かの形の中にある訳ではなく、自分自身の心の中にしか存在していませんので、自分の心が豊かになればなるほど、自分自身の心が映し出された「鏡」の世界である現実世界もまた、さらに豊かなる世界として輝きを増してくることを体験したいのです。

 自分が体験する全ての現実は、そのために真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 でも、あなたは、自分が体験する現実を、見たくもない世界、体験したくもない世界だと感じていませんか?
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≪自分の現実をつらく苦しく感じているのは、あくまでも肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)なのです。≫
 あなたが、自分が体験する現実を、見たくもない世界、体験したくもない世界だと感じていたとしても、それはちっとも不思議なことではありません。

 何故なら、それが、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というものだからです。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分にあるものなので、真我である魂の意図がなかなか分からず、全ての出来事を幸・不幸、運・不運と捉えて大騒ぎしています。

 ですから、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)にとっては、つらく苦しいことはたくさんあります。

 例えば、病気やケガをすれば、肉体はつらく苦しい訳ですから、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)にとっては、見たくない現実であり、体験したくない現実ということになります。

 このように、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)にとっては、つらく苦しく感じられるような現実であったとしても、「想像=創造(そうぞう)」の源である魂から見れば、全ては最善の出来事なのです。

 自分が体験する全ての現実は、真我である魂が、魂の進化のために「想像=創造(そうぞう)」した最善の出来事の連続なのです。

 魂の進化とは、心の純化、意識の福化ということであり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。

 自分が体験する全ての現実は、魂の進化のために、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 ですから、自分が映す現実世界に、今何が映っていたとしても、大丈夫です。

 例え肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)から見れば、見たくない世界、体験したくない世界が映し出されていたとしても、「想像=創造(そうぞう)」の源である魂は、そのことをよく分かっています。

 真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを既に知り尽くしていますので、次なる場面が必ずあるということを、よく分かっています。

 例え今、自分が映す現実世界に、見たくない世界、体験したくない世界が映し出されていたとしても、それはそれで必要必然なことなので、きちんと体験して味わうことが大切になります。


≪目に映る全ての人、こと、ものは、ただ、自分を解放するプログラムとして存在しているだけ。≫
 私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、自分が体験する全ての現実は、魂の進化のためにあるということになります。

 自分が体験する全ての現実は、自分という「我」を解放して、宇宙へと帰って行く、「自分を解放するプログラム」上に存在しているものなのです。

 ですから、自分の目に映る全ての人、こと、ものは、ただ、「自分を解放するプログラム」として、存在しているだけです。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)が囚われている、自分という「我」を解放して、宇宙へと帰って行くプログラムとして、全ての人、こと、ものが、ただ現れているだけなのです。

 自分が体験する全ての現実は、「自分を解放するプログラム」として存在しているものなので、全ては必要必然なのです。

 例え肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、つらく苦しく感じられ、見たくない世界、体験したくない世界が現れていたとしても、次なる場面が必ず用意されていますので、今ある現実をきちんと体験して味わっていくことが大切になります。

 そして、面白がる力、遊ぶ力、楽しむ力こそが心の実力であり、心の余裕であり、創造力であるとも言えますので、様々な場面に一喜一憂したり、あまり囚われたりすることなく、全ての場面を面白いと感じながら、全てを喜びに変える創造を行っていくことが大切になります。

人間の性格は長所も短所も含めた全人格が一つの持ち味

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≪人間の性格は、長所も短所も含めた全てで一つの人格であり、全人格として一つの持ち味になっています。長所は短所でもあり、短所はまた長所であるとも言えますので、それを創造力として使うことができます。≫

 今日は、人間の性格というものについて、少し話をしてみたいと思います。

 人間の性格ということでは、よく、長所とか、短所という言葉が使われます。

 そして、長所と短所とを分けて、切り離して捉えられることが多いかと思いますが、人間の性格というのは、長所も短所も含めた全てで一つの人格であるとも言えますので、何が長所で何が短所かということを決め付けるのは、本当は難しいことなのです。

 長所と言うのも、見方を変えれば短所になります。

 それとは逆に、短所と思えるようなものも、見方を変えれば長所にもなるのです。

 長所は短所であるとも言え、それとは逆に、短所もまた長所であるとも言えます。

 あなたの長所は何ですか?

 そして、あなたの短所は何ですか?


≪見方を変えれば、長所は短所でもあり、短所もまた長所にもなります。≫

 あなたが長所と思っているものは、見方を変えれば短所にもなります。

 また、あなたが短所と思っているものも、見方を変えれば長所にもなるのです。

 例えば、あなたが話上手で、コミュニケーション能力も高く、雄弁家だとすると、それはそれで一つの長所だと言えます。

 しかし、それを自分の長所と過信して、知らず知らずのうちに、言わなくてもよい余計なことまで口にしているかも知れません。

 昔から『口は禍の元』とも言われるように、私たち人間は、自分が発する言葉が多くなればなるほど、つい、言わなくてもよい余計なことを口にする可能性が高くなります。

 そういう意味においては、話し上手で雄弁だというのは、両刃の剣のように、負の側面も持っています。

 今度は逆に、あなたが話下手で無口な人間だとしても、その分、言わなくてもよい余計な言葉をあまり口にすることがないとしたら、それはそれで一つの長所であり、美徳であるとも言えます。

 昔から『沈黙は金』という言葉があるように、沈黙には、大きな価値があるとも言えます。

 しかし、普段は無口だとしても、言わなければいけない場面では、言わなければいけませんし、言わなければいけないことは、言わなければなりません。

 話し上手で雄弁なのがよくて、話下手で無口なのがいけないということではありません。

 それとは逆に、話下手で無口なのがよくて、話し上手で雄弁なのがいけないということでもありません。

 両刃の剣のように、長所と思えるものにも負の側面があり、短所と思えるものにも、正の側面があるということなのです。

 見方を変えれば、長所もまた短所であり、短所もまた長所であるとも言えます。

 そして、人間の性格というのは、長所とか短所とか言われるようなそれらを含めた全てで一つの人格であり、一つの持ち味となっています。

 そして、長所とか短所とか言われるような全てを含めて一つの人格であり持ち味になっていますので、それを創造力として使って、仕事などに生かしていくこともできます。


 
≪自分の長所と思えるものも、短所と思えるものとセットになって、一つの長所・創造力になっていることが多い。≫

 自分が長所と思っているものは、実は、自分が短所と思っている部分とセットになって、一つの長所や持ち味、そして創造力になっていることが多いものです。

 芸術家などの場合が分かりやすい例ですが、芸術家の個性・持ち味・長所と思えるものも、人間的な短所とセットになって、一つの持ち味・長所になっていることがあります。

 極端な例で言えば、画家のゴッホなどがよい例かも知れません。

 画家のゴッホは、生前はほとんど絵が売れなかったようですし、人間としてのゴッホは、自分の耳を切るなどして、周りの人たちから見れば、変人のような人だったのではないかと思います。

 しかし、そういう、人間ゴッホの短所と思えるような部分も、芸術家ゴッホの持ち味・長所・才能というものと密接不可分のものなので、もしゴッホが、誰からも愛されるような社交的な明るい性格だったとしたら、後世に名を残すような独特の個性を発揮できなかったかも知れません。

 何が良いとか悪いとかではなく、その人の持ち味・長所・才能と思えるようなものも、その人の短所と思えるようなものとセットになって、一つの長所であり、持ち味になっているということなのです。

 短所を直せば、全てが丸く納まるという訳でもありません。

 例えば、小説家などでも、一昔前の文士と呼ばれたような時代の作家には、無頼派と呼ばれるような人たちもあり、酒好きで放蕩三昧のような人たちもいました。

 そういう作家たちは、おそらく、酒を飲んでの失敗なども、多かれ少なかれあったと思いますが、そういう短所と思えるような部分もまた、彼らの創造力の源にもなっていた筈です。

 無頼派と呼ばれたような、酒好きの文士たちに、酒を飲ませずにその時間机に向かって仕事をさせれば、それで良い小説が書けるというものでもありません。

 何が長所で何が短所ということではなく、長所も短所も含めた全体で一つの長所であり、一つの持ち味なのです。

 言わば、全人格で一つの才能となっているのです。

 ですから、もしもあなたが、無口で根暗で口下手だとしても、それが必ずしも悪いという訳ではありませんし、逆にそれを創造力として使っていくこともできます。

 もしもあなたが、人と話をすることが苦手だとしても、それは必ずしも短所・欠点という訳でもありませんし、無理に営業や接客業のような仕事で頑張ろうとする必要もありません。

 あなたには、あなたの性格にあった仕事がある筈であり、あなたの性格を創造力として使っていけばよいのです。

 もしかしたらそれは、何かの"モノづくり"の仕事かも知れませんし、農業のような自然に向き合う仕事かも知れませんし、パソコンに一人で向き合うような、オタク系の仕事かも知れません。

 自分の長所も短所も含めた性格の全てで一つの人格であり、一つの長所・持ち味・才能になっています。

 あまり自分自身の性格を、これは長所でこれは短所だとか、決め付けても意味がありません。

 見方を変えれば、長所もまた短所であり、短所もまた長所であるとも言えます。

 そして、長所とか短所とか思えるような全ての性格を含めて一つの人格であり、一つの個性・持ち味・才能になっています。

 あまり短所を直そうとすることばかりに意識を向けようとせずに、自分の性格の全てを創造力として使っていくように意識すると、創造力が高まります。


自然の中で緑(植物)や海や川が持つ癒しの波動を浴びて休息し、無限の大宇宙に想いを馳せる

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≪人間には緑(植物)の波動が必要だとされています。日常生活の中でも花や植物に触れる機会を多くするとともに、時には大自然の中で森林浴なども楽しみましょう。≫

 今は新緑の季節ですが、私は、この新緑の季節が大好きです。

『瞬間瞬間に移り変わる時間の流れと、大宇宙の森羅万象の全てが永遠に記録されている不思議さ』、こちらの記事の中でも書きましたが、桜の花がパッと花開いて見事に散っていった後には新緑の季節が訪れ、木々が芽生えて色付きながら、夏に向かって全速力で駆け抜けて行く、あの生命の躍動感、スピード感が大好きなのです。

 時間がある方は、なるべく森林浴などをして、新緑のこの季節が持つ瑞々しさを楽しまれると良いかと思います。

 そして、森林浴が大切なのは、なにもこの新緑の季節に限ったことではありません。

 私たち人間には、植物が持つ緑の波動が必要だとされていますので、なるべく植物が持つ緑の波動を浴びる機会を多く持つように心掛けるとよいでしょう。

 植物が持つ緑の波動を浴びていないと、人間は本来の状態から少しずつ遠ざかってしまうようです。

 日常生活においても、自分の身の回りに花や植物などを置いて、花や植物に触れる機会をなるべく多く持つことを心掛けることも大切です。

 また、都会生活をされている方でも、休日などには近くの公園などで植物に触れる機会を多く持つことも大切かも知れません。

 そして、時間があれば、森林浴などをして、大自然の中で癒しの波動を浴びながら静かに休息することがお勧めです。

 大自然の中では、植物が持つ緑の波動だけではなく、水が持つ癒しの波動を浴びることもできます。

 海の潮騒やさざ波の音であったり、小川のせせらぎ、あるいは、滝の音などを聞いていると、水が持つ癒しの波動を浴びることができます。

≪大自然の中で世の喧騒を忘れて、自分の内なる心の声を聞く。≫

 森林浴をしながら植物が持つ緑の波動を浴びたり、川や滝や海などの水の波動を浴びて、大自然の中で癒される時間を持つことが大切だと思います。

 その際は、スマートフォンなどもしばし電源をオフにして、静かな時間を持つと良いでしょう。

 なるべくなら、一人でいる時間を多くするのがベストです。

 特に、色々な考え事があったり、悩み事がある場合は、なるべく一人で大自然の中に浸って癒される時間が有意義な時間となります。

 ことわざにも『下手な考え休むに如かず』というのがありますが、下手に考えるよりは、何も考えずにいた方が、逆によく考えていることであるとも言えます。

 そして、大自然の中で一人静かに時間を過ごしてみると、色々な気付きを得ることもあります。

 多くの人は、自分が本当は何を望んでいるのかということに、気が付いていない場合が多くあります。

 例えば、自分が夢や目標としていたことが、自分が本当に望んでいることではなく、自分が本当に望んでいるのは、別のことである場合もあります。

 自分の周りにいる誰かや世間の価値観などを知らず知らずのうちに自分の夢や目標と勘違いしてしまって、自分が本当はそれを望んでいる訳ではないということに気が付いていないこともあります。

 自分が本当は何を望んでいるのかに気が付いていない状態で、あれこれと考えてみたところで、良い考えが浮かぶというものでもありません。

 自分が本当は何を望んでいるのかに気付くことができれば、そこからの道も明確に見えてきます。

 自分自身が本当は何を求めているのか、自分の中にある内なる心の声を聞くようにすることが大切になります。

 自分の中にある内なる心の声を感じてみると、色々な気付きを得られるかも知れません。

 例えば、自分は今精神的にも肉体的にも疲れ切っているのだという、ある種の悲鳴のようなものが感じられ、今の自分に必要なのは"頑張り"ではなく"休息"なのだと気付くことになるかも知れません。

 あるいは、自分が何とか改善しようと悩んでいたことが、"改善"ではなく"取り替え"が必要であり、"総取り換え"の時だと気付くこともあるかも知れません。

 例えば、職場での人間関係や長時間労働など過酷な労働環境に悩み、何とか改善しようと悩んでいたことが、"改善"するのではなく、"取り替え"が必要であり、その職場を辞めて環境を変えることが必要だと気付くかも知れません。

 あるいは、住む場所を変えることが必要だと気付くかも知れません。

 私も一度、十数年住み慣れて気に入っている場所から、思い切って別の場所に引っ越し、環境をがらりと変えたことがあります。

 その時は、住む場所はとても気に入っていたので、引っ越しをしたいなどと考えてもいなければ、引っ越ししなければならない理由も全くありませんでした。

 ただ、自分の内面奥深くにある心が、環境を変えることを望んでいることがはっきりと感じられたので、思い切って住む場所を変えることにしました。

 新たな未来を創造していくために、それまでの過去に一度区切りを付けて、新たな環境の中に身を置く時なのだということがはっきりと感じられたのです。

 そして、別の場所に引っ越しをしてから分かったことは、やはり次なる場面があり、新たなステージが用意されていたのだなということです。

 

≪時間においても空間においても「無限」の大宇宙の中で生かされている自分を常に想い出すことが大切。≫

 時間においても空間においても「無限」の大宇宙の中で生かされている自分自身を常に想い出すことが大切になります。

 自分が喜んだり悲しんだり、悩んだり苦しんだりしているのも、大宇宙に生かされているからこそであり、どんな時でも、自分を一呼吸一呼吸生かしている大宇宙の力を想い出すことが大切になります。

 人間の悩みは、人間関係のこと、お金のこと、仕事のことなど、人間社会のことがほとんどですが、しばし世の中の喧騒を離れて、大宇宙に生かされている自分自身と大宇宙との関係に想いを馳せてみることが大切になります。

 時間においても空間においても「無限」の大宇宙を司っている唯一の実在である大宇宙意識という「純粋意識」は、あなたの全てを知っています。

 そして、あなたの意識の一番奥深くには、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識が内在しています。

 あなたにどのような悩みや苦しみがあろうとも、あなたを一呼吸一呼吸生かしている大宇宙の「無限」の力があなたの中に内在していることを常に想い出すことが大切になります。

 時間においても空間においても「無限」の大宇宙の中で生かされている自分自身を、常に忘れないことが大切です。

 日々の日常生活においても、瞬間瞬間、大宇宙に生かされている自分を想い出すことが大切になります。

 ただ、そうは言っても、日常生活の忙しさの中にいると、ともすれば大宇宙と自分とのつながりを深く感じられなくなる時があるかも知れません。

 そのような時には、大自然の中で森林浴をして緑(植物)の波動を浴びたり、海や川や滝などで水の波動を浴びたりして、大自然の癒しの中で休息しながら、自分自身の内面奥深くにある心の声を感じてみると良いかも知れません。

 どんな時でも、時間においても空間においても「無限」の大宇宙の中で自分が生かされているということを忘れないことが大切になります。


愛とは何かと定義することは難しく、愛とは抽象的な概念ではなく、体験であり実践でしかない

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≪愛とは何かと定義することは難しいです。なぜなら、愛とは抽象的な概念などではなく、体験であり、実践でしかないからです。≫

 今日は、愛ということについて少し書いてみたいと思います。

 愛とは何でしょうか?

 あなたは、愛という概念について悩んだ経験があるのではないでしょうか?

 あなたは、愛とは何だと思いますか?
               
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 愛とは何かについて、答えることは難しいです。

 なぜなら、愛とは、抽象的な概念などではなく、結局のところ、体験であり、実践でしかないからです。

 愛というものは、抽象的な概念ではありませんので、愛について書かれた書物を何千冊、あるいは何万冊読んだところで、愛というものが分かるという訳でもありません。

 あるいは、世界中の聖者や教祖やマスターや先生と呼ばれるような人たちの話を色々聞いたからといって、それで愛というものが分かるという訳でもありません。

 愛とは何かという定義を探し求めて、一生かけて万巻の書物を読んだり、様々な偉人・賢人と呼ばれる人たちの話を聞いたとしても、愛とは何かという答えは得られないでしょう。

 なぜなら、愛とは抽象的な概念ではないので、自分の体験の中でしか知ることはできないからです。

 

 
≪愛というものを様々に表現することはできますが、愛を言葉で語り尽くすことはできません。≫

 愛とは何かということについて、人に聞いてみれば、おそらく様々な答えが返って来ることでしょう。

 そして、それらの言葉のどれもが、愛というもののある側面を表現した言葉だと思いますので、正解と言えば正解だと思います。

 ただ、愛とは何かについての、たった一つの答えというものがある訳ではありません。

 ですから、愛ということを一言で表現しようとしても愛を語り尽くせる訳ではありませんし、かといって、数百ページにもわたる書物を書けば愛を語り尽くせるというものでもありません。

 結局のところ、愛とは抽象的な概念ではなく、体験であり実践でしかないからです。


≪一口に愛と言っても、宇宙的な愛もあれば、人間同士の愛もあり、愛には様々な形があります。≫

 一口に愛と言っても、愛には宇宙的な愛もあれば、人間同士の愛もあり、愛には様々な形があります。

 そして、私たち人間が愛ということを考える上では、大きく分けると、宇宙的な愛と、人間同士の愛という二つの視点で愛というものについて考える必要があります。

 宇宙的な愛とは、敢えて一言でいうならば、この大宇宙の存在そのものが愛だということなのです。

 この物理的大宇宙が存在しているということそのものが大宇宙の愛なので、そういう意味においては、この大宇宙には愛しか存在していません。

 なぜなら、この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という一つの「純粋意識」だけだからです。

 大宇宙の森羅万象の全てが大宇宙意識によって営まれていますので、大宇宙の存在そのものが大宇宙意識の全知全能の光の中にあり、大宇宙の森羅万象の全てが大宇宙意識の愛の中にあるのです。

 宇宙的な愛というのは、大宇宙の真理・摂理とか、大宇宙を成り立たせている根本法則ということと同義語でもありますので、宇宙的な愛というのは、厳粛であり、峻厳犯すべからざるものになります。

 宇宙的な愛というのはとても厳粛なものであり、私たち人間の都合のよい視点で捉えられるようなものではありませんので、今回は少し触れる程度にとどめて、機会があればまた別の機会に書いてみたいと思います。

 少しだけ宇宙的な愛ということについて触れておきますが、宇宙的な愛というのは、この大宇宙が存在していることそのものが愛なので、宗教などでよく語られるような、神の愛とか、仏の慈悲というような、人間味を帯びた概念ではなく、もっともっと厳粛でスーパーなものになります。

 例えば、昔から太陽信仰というものがあったように、太陽の光、お天道様の日の光に神の愛とか、仏様の慈悲というものを感じる人々も多いかも知れません。

 この大宇宙の存在そのものが愛なので、もちろん、太陽の光も、宇宙的な愛の一つの側面ではあります。

 しかし、私たちの地球を照らす太陽は、数十億年後には燃え尽きてしまいますので、いずれ地球上の生物は、死滅することになります。

 宇宙的な愛とは、数十億年後に太陽が燃え尽きてしまい、いずれ地球上の生物が全て死滅することも含めて、全てが宇宙的な愛なのです。

 もちろん、私たち人類は、太陽が燃え尽きる前には、太陽系以外の他の惑星に移住できるような科学的水準に到達していますので、私たち人類は他の惑星で生き延びることになりますが、動物や植物などは、太陽が燃え尽きる前には全滅せざるを得ません。

 元々太陽も地球も月も数十億年前には誕生していませんでしたし、太陽の寿命もあと数十億年で燃え尽きてしまうものなので、地球上の動植物が永遠に存続できる訳ではありません。

 私たち人間の視点から見ると、それらはとても厳粛で厳しいものに感じられるかも知れませんが、私たちが住む地球という惑星だけではなく、太陽・月・星、さらには銀河や大銀河団が誕生したりやがて消滅していくことなども含めて、宇宙規模での大宇宙の森羅万象の全ての営みが、宇宙的な愛の中にあるのです。

 大宇宙の森羅万象の全ての営みが、大宇宙意識の全知全能の光の中にあり、宇宙的な愛の中にありますので、宇宙的な愛とは、私たち人間が愛という言葉からイメージするような概念を遥かに超えた、もっともっとスーパーで厳粛なものになります。

 もしも今あなたが、不幸・不運のどん底にあると感じていたとしても、あるいは失望のどん底にあったとしても、それもまた宇宙的な愛の中に包まれていることなので、宇宙的な愛というものも、結局のところは、抽象的な概念としてではなく、体験の中で実践的に学んでいくしか方法はありません。

 例え今この地球上で、戦争やテロや殺人など、どんなに悲劇的と思える出来事が起きていたとしても、あるいはまた、大地震や大津波や火山の噴火などの悲劇的と思えるような天変地異が起きていたとしても、それらもまた宇宙的な愛の中にあるものなので、宇宙的な愛というものも、結局のところは、抽象的な概念としてではなく、体験の中で実践的に学んでいくしか方法はないのです。

 宇宙的な愛というのは、大宇宙の真理・摂理と同義語であり、大宇宙の森羅万象を貫く力(法則)と同じものなので、とても峻厳犯すべからざる厳粛なものなので、機会があればまた別の時に改めて書いてみたいと思います。

 今日のところは、人間同士の愛というものについて、少し書いておきたいと思います。


≪愛には決まった形がある訳ではなく、結局のところ、日々の体験の中で実践していくしか道はありません。≫

 愛とは何かということを定義することは難しく、愛とは抽象的な概念ではないので、結局のところ、日々の生活の中での体験として実践的に学んでいくしか道はありません。

 人間同士の愛にも、親子愛、夫婦愛、兄弟愛、男女間の愛、友人同士の愛など、様々な愛がありますが、ここで大切なことは、愛には決まった形がある訳ではなく、何が愛なのかということも、本当のところはよく分からないということなのです。

 例えば、親が子供に対して甘い、親が子供を甘やかすというのも、一つの愛の形かも知れません。

 あるいはその逆に、親が子供に対して厳しい、親が子供を厳しくしつけて教育するというのも、一つの愛の形かも知れません。

 そして、親の愛とは子供を甘やかすことと定義することも出来なければ、親の愛とは子供に対して厳しくすることと定義することもできません。

 そして、相手(子供)がそれを愛と受けとめて喜ぶかどうかということ、あるいはそれが本当に相手(子供)のためになるのかどうかということもまた別問題になります。

 例えば、親が自分の子供に対して一流大学に入って一流企業に就職することを望み、勉強させようと愛情を注いでいるとします。

 しかし、子供の方では、一流大学に入って一流企業に就職することを望んでおらず、親の価値観を押し付けられていると感じており、それを親のエゴだと感じているかも知れません。

 人間同士の愛というのは、自分と相手があってのものなので、これが愛だというような何かのマニュアルのような形がある訳ではなく、あくまでも、ケースバイケースなので、一つひとつを日々の体験の中で学び実践していくしか方法がないものなのです。

 例えば、贈り物というのもそうです。

 自分が愛の行為として誰かに贈り物をしたとしても、それを相手がどう受けとめるのかは相手側の問題であり、それが本当に愛なのかどうかも、本当のところはよく分からないということなのです。

 例えば、贈り物を受け取った相手の立場からすれば、贈り物をいただいて、それがとても気に入ったとしても、その贈り物に対して、何か別の形でお返ししなければと考え、少し複雑な気持ちになるかも知れません。
 
 いただいた贈り物が高価なものであればあるほど、何かの形でお返ししなければいけないという気持ちを強く感じることになりますので、自分が誰かに対して贈り物をすることで、逆に相手にも余計な気遣いや散財をさせてしまうことにもなるかも知れません。

 あるいは、いただいた贈り物そのものを、相手があまり気に入らないかも知れません。

 例えば、食べ物や飲み物など、口に入れるものであれば、相手の口には合わないものかもしれません。

 あるいはまた、洋服などであれば、あまり相手の好みではないかも知れませんし、サイズもピッタリではないかも知れません。

 別に贈り物そのものを否定している訳ではなく、人に贈り物をするという真心そのものは尊いものですが、それが愛なのかどうかは、本当のところは、よく分からないということなのです。

 人に贈り物をするのが愛だということもできなければ、人に贈り物をしない方が愛なのだということもできません。

 あくまでも、ケースバイケースなのだということなのです。

 そして、大切なことは、自分が愛の心で他者に行った行為に対して、とらわれないことです。

 例え自分が真心からの愛の気持ちで行ったことであったとしても、それをどう受けとめるのかは相手の自由であり、相手側の問題なのです。

 自分が愛と思ったものが、相手にとっても愛だとは限りませんので、見返りなども期待しないことです。

 自分から他者への愛ということに関しては、このポイントを押さえておくことが大切だと思います。

 そして、人間同士の愛ということに関しては、他者から自分への行為をどう受け止めるのかという視点も必要になりますが、このことに関しては、別の機会にまた改めて書いてみたいと思います。


「断捨離」で物だけでなく人間関係や情報・概念なども整理して片付けるとエネルギーが高まる

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≪「断捨離」して自分の身の回りにある様々な物だけでなく、様々な人間関係や情報・概念・思想なども整理整頓して片づけると、エネルギーが高まります。≫

 今日は、自分のエネルギーを高めていく方法として、今話題になっている「断捨離」という言葉も交えながら、少し書いてみたいと思います。

 近年、「断捨離」や、片付けということに関する関心が高まっており、本も売れているようです。

「断捨離」は、「断・捨・離」として2010年の流行語にも選ばれ、近年では「断捨離」を実践する人は「ミニマリスト」とも呼ばれます。

 また、ベストセラーになった片付けに関する本もあるくらいで、「断捨離」や片付けということに関心が高まっているのには、それなりの理由があるのだと思います。

 自分の身の回りにある、不必要となった様々な物を思い切って処分して整理整頓すると、かなりスッキリします。

 あなたにも、そんな経験はありませんか?

 様々な物を減らすと、空間が広くなって物理的にスッキリするだけではなく、精神的にもかなりスッキリします。

 そして、「断捨離」したり、物を片付けたり整理整頓したりすることによる、精神的なスッキリ感がとても大切だと思います。

 そして、「断捨離」したり、物を片付けたり整理整頓したりすることは、単に物だけではなく、人間関係や情報、様々な概念や思想などにも使えるものであり、自分自身のエネルギーを高めていく上では、とても大切なポイントになります。


≪自分にとって不必要な物・人・情報・概念・思想などによってエネルギーが漏電してしまう≫

 あなたが、自分のエネルギーを高めたいと望むのであれば、自分の身の回りから、自分にとって必要のないものをどんどん遠ざけていく必要があります。

 なぜだか分かりますか?
             
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             ・

 それは、私たちが、自分の身の回りにあるものによって、知らず知らずのうちに、影響を受けているからなのです。

 例えば、あなたが、特に見ている訳でもないのに、テレビを付けっ放しにしていたとします。

 あなたは特に見ていないつもりかも知れませんが、そのテレビ番組が発している周波数を浴びていますので、自分は見ていないつもりでいても、無意識のうちに影響を受けているのです。

 通信機器だけではなく、物においてもそうです。

 自分にとってもう必要のない服や書物や様々なものが自分の身の回りにあるだけで、それらを何気なく目にするだけでも知らず知らずのうちに影響を受けています。

 自分にとってもう必要のない服や書物や様々なものが自分の身の回りにあるだけで、知らず知らずのうちにエネルギーが漏電しているのです。

 自分にとってもう必要のない服や書物を思い切って処分した時には、自分の古いエネルギーの一部を解放したような気分がしたり、自分の過去の一部を手放すことができたような感じを受けることもあります。

 人間関係においても同じことが言えます。

 昔からことわざに「朱に交われば赤くなる」という言葉がある通り、私たちは、人と接することによって、知らず知らずのうちに影響を受けています。

 自分が付き合う人によって知らず知らずのうちに影響を受けていますので、自分にとってプラスと感じられないような人間関係は、どんどん距離を置いていくように心がけた方が賢明だと思います。

 そして、様々な概念や思想などについても、同じことが言えます。

 自分の中にある常識・固定観念・認識などは、自分が取り込んだものです。

 自分の中にある常識・固定観念・認識などのうち、もう必要のない古い概念は、どんどん手放していくことが大切です。

 自分にとって必要のない古い概念によって、知らず知らずのうちにエネルギーが漏電してしまいます。


≪物・人・情報・概念を「断捨離」したり整理することで、欲望もコントロールし、自分のエネルギーを高く保つ≫

 自分のエネルギーを高く保つためには、自分の身の周りを、エネルギーを高めてくれるもので固めていく必要があります。

 自分のエネルギーを低くしてしまうものが自分の身の回りにあると、知らず知らずのうちにエネルギーを吸い取られてしまい、エネルギーが漏電してしまいます。

 ですから、自分のエネルギーを高く保ちたければ、漏電を防ぐ努力・心掛けが大切になります。

 そして、このことは、自分の中にある欲望をコントロールしていくためにも大切です。

 前回の『食欲・性欲・睡眠欲などは本能的欲求であり、欲を捨てようとすること自体が執着心となる』、こちらの記事の中でも書きましたが、人間の欲望そのものは天から与えられているものなので、「捨欲」というのは無駄な努力になりますが、欲望をコントロールして生きることは大切なことです。

 そして、欲望をコントロールして生きる上で、必要のないものを「断捨離」したり片付けしたり整理することは大切です。

 例えば、お菓子やキャンディー、ケーキやアイスクリームなど、甘いものや食べることが大好きな女性が、肥満に悩み、ダイエットしたいと考えているとします。

 もし仮に、あなたがその女性だったとしたら、あなたならどうしますか?
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 あなたがもしその女性で、ダイエットを望むのであれば、あなたが最初にやるべきことは、まず、お菓子やケーキなど、あなたの食欲を刺激するものを自分の身の回りから遠ざけることなのです。

 自分が大好きなお菓子やキャンディーやポテトチップスなどが目の前にある状態でダイエットしようと思いながら、机に向かって何かの勉強をしたり、パソコンで仕事をしたりということが、集中的にできるでしょうか?

 もし仮に、勉強やパソコンでの仕事など、机に向かっている間、目の前にあるお菓子やキャンディー・ポテトチップスなどを食べずに我慢できたとしても、あなたは、知らず知らずのうちに、大好きなお菓子やキャンディー・ポテトチップスなどに意識が向いてしまい、エネルギーを漏電してしまいます。

 その結果として、知らず知らずのうちに、集中力もそがれてしまうのです。

 これは、実際に食べられるお菓子やキャンディー・ポテトチップスなどだけではなく、本や雑誌、あるいはインターネット上の写真などでも同じことが言えますので、もしダイエットしたいのであれば、食欲を刺激する本や雑誌、あるいはインターネット上の写真などを遠ざけておくことが大切になります。

 男性などで、パチンコや競輪・競馬・競艇などの賭け事やギャンブルなどにハマって悩んでいる人の場合は、まず、それらの欲望を刺激するような本や雑誌・インターネットのサイトや広告などを意識的に遠ざける心掛けが必要となります。

 若い男性などで、性欲に悩んでいる場合は、まず、女性の水着姿などのエッチな写真が載っている雑誌や本、インターネットの広告やサイトなどを意識的に遠ざけることが必要になります。

 お金(マネー)儲けや投資話などが好きで悩んでいる人の場合は、それらを刺激するような雑誌や本、インターネットの広告やサイトなどを意識的に遠ざけることが必要になります。

 人間というものは弱いものなので、既に欲望が刺激されてしまっている状態で欲望をコントロールするのは難しくなります。

 既に欲望を刺激されてしまってから欲望をコントロールしようとするのではなく、なるべく欲望を刺激されないように、まず、欲望を刺激するものを自分の身の回りから遠ざける努力・心掛けが大切になります。
 
 ちょっとした心掛けですが、エネルギーの漏電を抑え、自分自身のエネルギーを高く保っていくためには、大切な心掛けだと思います。


≪自分に必要のない物・人・情報・概念が入って来ないように心掛けることが大切≫

 現代は、テレビやラジオ、新聞・雑誌・書籍などだけではなく、インターネットなどの普及により、日々膨大な量の情報が流れて来ますので、自分に必要のない情報や概念が入って来ないように、意識的に遠ざける心掛けが大切になります。

 特に、大地震や津波、あるいは火山の噴火などの天変地異を恐れている人たちは、それらの情報に意識を向けすぎて、エネルギーが漏電しないように注意する必要があります。

 大地震や津波、あるいは火山の噴火などの天変地異を既に恐れてしまっている状態で、恐れから逃れたくてインターネットやテレビなどから様々な情報を取り入れても、エネルギーが漏電するだけであり、自分自身のエネルギーを高く保ち続けることができません。

 未来は100パーセント確定していますので、そのことがハッキリと確信できるようになれば、大地震や津波、あるいは火山の噴火などの天変地異だけではなく、あらゆることに対して、良くも悪くもジタバタしてもしょうがないということが分かるようになります。

 大地震や津波、あるいは火山の噴火などの天変地異などを自分が必要以上に恐れたりしないように心掛けるだけではなく、そのようなネガティブ情報の洪水に巻き込まれたりしないように注意する必要があります。

 インターネット上では洪水のように日々情報が溢れているだけではなく、ツイッターやフェイスブックをはじめとしたSNSの普及などにより、自分でも処理しきれないような膨大な人間関係もできたりしますので、リアルとバーチャル両面においても、人間関係を「断捨離」したり片づけしたり整理していくことも大切だと思います。


食欲・性欲・睡眠欲などは本能的欲求であり、欲を捨てようとすること自体が執着心となる

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≪欲望というのは、元々天から人間に与えられているものなので、欲を捨てようとするのは無駄な努力です。食欲・性欲・睡眠欲などの本能的欲求を始め、知識欲・探求欲・金銭欲などの欲求そのものが悪い訳ではなく、自分の欲望をどのようにコントロールしていくかが大切になります。欲を捨てようとする「捨欲」ということ自体が、既に一つの「欲望」であり、執着心となっていることに気付くことが大切です。≫

 今日は、人間が持つ「欲望」というものについて、話をしてみたいと思います。

 あなたは、人間が欲望を持つのは、悪いことだと思いますか?

 また、あなた自身が、欲を持つのは悪いことだから、欲を捨てようとして苦しんだ経験があるのではないですか?
               
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 結論から先に申しますと、人間の欲望そのものが悪い訳ではありませんし、また、欲を捨てようと努力しても、欲そのものを捨てることは誰にもできません。

 なぜだか分かりますか?
               
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               ・
               ・
               ・

 欲そのものを捨てることは、誰にもできません。

 なぜなら、欲望というのは、元々天が人間に与えているものだからです。

 人間が持つ欲望そのものは、元々人間に与えられているものなので、欲望そのものが悪いという訳ではないのです。

 例えば、人間の三大欲求とも言われる、食欲・性欲・睡眠欲が無ければ、人間は肉体を維持していくことはできませんし、私たち人類という種が生命を後世につなげていくこともできません。

 性欲は悪いものと決めつけたところで、人間に性欲というものが本来本能として備わっていなければ、そもそもあなたはこの世に存在していませんし、もちろん、私もこの世に存在していません。

 あなたを生んで育てて下さったお父さんやお母さんも、もちろん、この世に存在していません。

 性欲(せいよく)の「せい」は、生命(せいめい)の「せい」に通じており、聖(せい)なるものにも通じています。

 人間の生命という、かけがえのない聖なるものに通じている、一番根源的な欲求が性欲でもあります。

 私たち人間だけではなく、動物たちも、繁殖の時期を迎えると、一生懸命に生殖活動を行って、かならず生命を後世につないでいきます。

 そうやって、種の生命は、バトンタッチされながら引き継がれていくのです。

 もし、人間に本能として性欲というものが天から与えられていなければ、人類の歴史は、最初の人間とされるアダムとイブで終わっていたことでしょう。

 ですから、性欲そのものは、元々本能として天から与えられているものなので、性欲そのものが悪い訳ではなく、自分がそれをどう扱うのかだけが問題なのです。

 食欲にしても、もし食欲というものがなければ、私たちは、肉体を維持していくことができません。

 肉体を維持していくために、食欲というのは、天から人間に本能として与えられているものなので、食欲そのものが悪い訳ではありません。

 お腹が空けば、何か食事が欲しくなるのは当然のことですし、自分の嫌いな食べ物よりは、自分の好物のおいしいものを食べたいと望むのは、自然なことだと思います。

 食欲そのものが悪い訳ではなく、食欲をどう扱うのかだけが問題なのです。

 食欲のおもむくままに食欲に負けて暴飲暴食していたら、健康を害したり、食費がかさんだりして自分が苦しむことにもなりますので、自分の食欲をどう扱うのかだけが問題になります。

 金銭欲というものも、必ずしも悪い訳ではありません。

 現代の貨幣経済の中で生きる私たちは、社会生活を営む上で、誰でもお金(マネー)は必要ですし、貨幣経済が無くならない限りは、何びとと言えども、お金(マネー)の仕組みからは逃れることはできません。

 ですから、自分が生活していけるだけの生活費を得たい、生活をしていくために十分なお金(マネー)が欲しいと思うのは、当然のことであり、金銭欲そのものが悪い訳ではありません。

 ただ、金銭欲が「行き過ぎた欲望」となって、必要以上のお金(マネー)を得るために法律を犯したり、人様に迷惑をかけたりすることのないように、金銭欲をきちんとコントロールすることが大切になります。

 金銭欲そのものが悪い訳ではなく、自分が金銭欲をどう扱うのかだけが問題なのです。

「欲」という言葉を聞くと、何か否定的な悪いイメージを持たれる方も多いかも知れません。

 しかし、「欲」には、知識欲、探求欲という欲求もあり、それも元々天から人間に与えられているものなのです。

 もし、人間に知識欲、探求欲というものが与えられていなければ、人間は文明を築くこともなく、いつまでも原始的な生活を送っていたことでしょう。

 良くも悪くも、現代の私たちが、こうして文明の恩恵を受けて、便利で豊かな生活が送れるのも、人間に元々与えられている知識欲や探求欲があってこそのものなのです。

 知識欲や探求欲を探求心と置き換えることも出来るかも知れませんし、似たような言葉で向上心という言葉もあります。

 それらは元々天から人間に与えられているものであり、もっと知りたい、もっと究めたい、もっと向上したいという欲求があるからこそ、人類の文明もここまで進歩してくることができました。

 ですから、「欲」というものそのものは何ら否定されるべきものではなく、ただ、「欲」をどう扱うのかだけが問題なのです。

 そして、「欲」というのは元々人間に与えられているものなので、「欲」を捨てようとする「捨欲」という努力は無駄な努力になります。

 なぜだか分かりますか?
              
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≪欲を捨てようとすること自体が既に一つの「欲望」であり、執着心となる≫

「欲」というのは元々人間に与えられているものなので、「欲」を捨てようとする「捨欲」という努力は無駄な努力になります。

 なぜなら、「欲」を捨てようとすること自体が既に「欲を捨てたいという欲望」なのです。

「欲」を捨てようとして「欲を捨てたいという欲望」を抱いてしまっていることに気付くことが大切になります。

「欲」を捨てようとする「捨欲」という努力自体が、既に「欲を捨てたいという欲望」なので、「欲」を捨てようとしても、「欲」はなくなりません。

「欲」を捨てようとすること自体が既に「欲を捨てたいという欲望」になっているので、「欲」を捨てようとして何年、あるいは何十年、座禅を組んだり瞑想したり修行をしてみたところで、「欲」はなくなりません。

 歴史に名を残すような禅の高僧と言われる人でも、「欲を捨てたいという欲望」を自分が抱いていることに気付けないと、禅病と呼ばれるような、一種の神経衰弱、あるいはノイローゼのような状態を経験しているようです。

「欲を捨てたいという欲望」を自分が抱いていることに気付かないまま、「欲」を取ろうとして座禅を組んだところで、それは本来無駄な努力なので、瞑想(めいそう)が「迷走(めいそう)」になってしまうのです。

 欲望というのは、元々天から人間に与えられているものなので、欲を捨てる「捨欲」ということは誰にもできません。

「欲」を捨てたいという思い自体が、既に「欲を捨てたいという欲望」になっているのです。

 ですから、欲をなくすことは、誰にもできないのです。

 では、どうすれば、良いのでしょうか?


≪欲望をきちんとコントロールして、自分の能力を最大限に発揮して生きることが大切≫

 欲を捨てることは誰にもできませんので、「捨欲」というのは、無駄な努力になります。

「欲」を捨てるのではなく、自分の「我欲」を超えた、もっと大きな「欲」を持つことが大切になります。

 例えば、平和な世の中になるように、自分にできる何かの貢献をして自分を役立たせたいというのも、一つの「大いなる欲望」と言えるかも知れません。

 人間の三大欲求と言われる、食欲・性欲・睡眠欲という本能的欲求をはじめとして、知識欲、探求欲、金銭欲などを、自分できちんとコントロールしながら、自分に与えられた能力を最大限に発揮して、世の中に役立つような自己を築き上げたいという、「大いなる欲望」を持つことが大切になります。

「世紀の哲人」と言われた中村天風さんという人は、「捨欲」などという無駄なことを考えるのではなく、「無欲の大欲」とでも言うべき、世のため人のために役立つような自己を築きあげるという、「大いなる欲望」の炎を燃やして生きなさいと説かれています。

 欲望そのものは、天から人間に与えられているものなので、欲望をなくすることは、誰にもできません。

 欲を捨てようとすること自体が、既に一つの「欲望」になっていることに気付くことが大切になります。

 欲というものが元々天から万人に与えられているということを自覚して、自分の中にある欲望をきちんと扱っていくことが大切になります。

 自分の中にある欲望をきちんと扱うことができないと、自分自身が苦しむことになります。

 さらには、「行き過ぎた欲望」によって、他の人にも迷惑をかけてしまうかも知れません。

 ですから、自分の中にある欲望をきちんとコントロールしながら生きて行くことが大切になります。

 そして、自分に与えられた生命を最高に輝かせ、自分の能力を最大限に発揮して、世の中に役立つような自己を築き上げることが大切になります。

 平和な世の中が創造されていくことへの「欲求」、そしてそのために自分を役立たせたいという「欲求」を持ち、「無欲の大欲」とでも言うべき、「大いなる欲望」を抱くことが大切になります。

 そういう人たちが一人でも多く増えていけば、世の中はもっと明るくなっていくことでしょう。

                
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 あなたは、人間が欲望を持つのは、悪いことだと思いますか?

 また、あなた自身が、欲を持つのは悪いことだから、欲を捨てようとして苦しんだ経験があるのではないですか?

 あなたが、人間が欲望を持つのは、悪いことだと考えてきたとしても、別にあなたが悪い訳ではありません。

 ただ、世の中に古くからある考え方などによって、人間が欲を持つのは悪いことであり、欲は捨てなければならないと思い込まされてきただけなのです。

 そして、あなた自身が、自分の中にある欲を捨てようとして苦しんだ経験があったとしても、別にあなたが悪い訳ではありません。

 ただ、世の中に古くからある考え方などをあなたが取り入れてしまったことで、自分自身を苦しめてきただけなのです。

「欲」を取ろうとすること自体が、既に一つの「欲望」なのだと気付くことができれば、もっとやさしい気持ちでいられますよ。


瞬間瞬間に移り変わる時間の流れと、大宇宙の森羅万象の全てが永遠に記録されている不思議さ

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瞬間瞬間に移り変わっていく時間の流れと、大宇宙の森羅万象の全てが何一つ消えることなく永遠に記録され保存されている不可思議さ

 新緑の季節ですね。

 私は、一年の中でも、この新緑の季節が、殊のほか大好きです。

 長い間大都会での生活が続いていた間は、ほとんど意識していなかったのですが、数年前に大都会での生活を離れて、自然が豊かな場所での生活をするようになってから、私は初めて、新緑の季節が持つ瑞々しい美しさ・輝きを深く感じることができるようになったような気がします。

 大都会の中にも、桜は至る所にありますので、桜の美しさは毎年、それなりに堪能していたつもりでしたが、大都会の中では、自然が豊かな地の新緑の季節が持つ瑞々しさ・輝きは、あまり感じることはできませんでした。

 私は、冬が終わって春が到来すると、少しの間だけ花開いて美しく散ってゆく桜の花の時期も大好きです。

 しかし、桜の花が散った後に、生命が躍動するかのように目くるめくように色付いて移り変わっていく新緑の頃が、さらに大好きです。

 一瞬たりとも留まることなく、夏に向かって全力で駆け抜けて行くような、新緑の頃の生命の瑞々しさ・スピード感が大好きなのです。

 時間というものは、一瞬たりとも留まることなく、瞬間瞬間に刻一刻と移り変わりながら、通り過ぎて行きます。

 あなたはこのことを、無常ではかないことだと感じますか?
 それとも、美しくありがたいことだと感じますか?


時間が一瞬たりとも留まることなく、全てのものが移り変わっていくのは、本当にありがたく美しいもの
 時間というものは、一瞬たりとも留まることなく、瞬間瞬間に刻一刻と移り変わりながら、全ての人の前を通り過ぎて行きます。

 そして、全ての人にとって、刻一刻と移り変わる時間の中で、全てのものが同じところに留まることなく移り変わり変化して行きます。

 このことは、本当にありがたく、美しいことです。

 時間が瞬間瞬間に刻一刻と移り変わりながら、全てのものが移り変わっていくのは、ある意味においては、厳粛なことであり、無常を感じる方も多いかもしれません。

 しかし、昔から言われる、諸行無常という言葉も、必ずしも否定的に捉える必要はありません。

 全てのものが、一瞬たりとも同じところに留まることなく移り変わっていくというのは、本当にありがたく、美しいことです。

 自分が幸福の絶頂で感じた喜び・うれしさも、時間の流れの中で容赦なく風化していき、やがて色あせたものになっていきます。

 そして、自分が絶望のどん底で感じた苦しみ・悲しみもまた、時間の流れの中で風化していき、ありがたいことに、やがて色あせたものになっていきます。

 時間というものが、自分が瞬間瞬間に感じた喜びや悲しみの全てを風化させながら、あらゆる全てのものを変化させて移り変わっていくというのは、本当に厳粛であり情け容赦がないことであると共に、本当にありがたく美しいことだと思います。

 あなたが瞬間瞬間に感じる喜びや悲しみの全てを、刻一刻と移り変わっていく時間の流れは、情け容赦なく風化させていきます。


自分が人生で感じた喜びや悲しみの全てが、永遠に消えることなく保存されている
 私たち一人ひとりは、この大宇宙に二つとして同じものがない、自分の唯一の体験をしています。

 自分の思考や感情、そして行動の全ては、この大宇宙に二つとして同じものがない、自分の独自の唯一の体験です。

 あなたと同じ人生を体験した人は、あなたの他には、この大宇宙に誰もいないのです。

 そして、あなたが自分の人生を生きていく中で、瞬間瞬間に感じた喜びや悲しみの全てが、刻一刻と移り変わる時間の流れの中で風化していき、色あせていきます。

 しかし、あなたが人生で瞬間瞬間に感じた喜びや悲しみの全てが、何一つ失われることなく保存されており、永遠に記録されているのです。

 何故なら、この大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューターとも言えるものなので、大宇宙の全てのデータが記録され保存されているからなのです。


この大宇宙そのものが、完全無欠の完璧なスーパーコンピューター
『この大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター』、こちらの記事の中でも書きましたが、この大宇宙そのものが完全無欠の完璧なスーパーコンピューターとも言えるものなので、大宇宙の全てのデータが記録されて保存されているのです。

 あなたの人生における一挙手一投足の行動はもちろんのこと、あなたの瞬間瞬間における思考や感情の全てが、永遠に記録されて保存されているのです。

 なぜ、あなたの人生における瞬間瞬間の思考・感情・行動の全てが、何一つ失われることなく、永遠に記録されて保存されているのでしょうか?

 それは、時間というものそのものが、究極的には存在していないからなのです。


「永遠(とわ)の中今」の中に、大宇宙の全てが元々存在している
 時空を超越した大宇宙の本質の世界である絶対世界においては、時間というものは存在しておらず、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。

 時空を超越した大宇宙の本質の世界である絶対世界においては、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の全てが元々存在しているのです。

 あなたの人生の全ては、元々この大宇宙に存在しており、記録されて保存されているものなのです。

 分かりやすくコンピューターに例えるとするならば、元々コンピューターの中に保存されていたデータを、今開いて見ているようなものかも知れません。

 大宇宙の全ては、この大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識という一つの「純粋意識」の中に元々あるものなのです。
 
 大宇宙の全ては、大宇宙意識というホストコンピューターの中に元々存在しているデータなのです。

 自分という存在は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、大宇宙意識というホストコンピューターから無数に出ている端末機の中の一つのようなものなのです。

 自分という端末機を通して、大宇宙というホストコンピューターに元々保存されているデータを、今、「追体験」しているようなものなのです。

『真のデジャヴ(既視感)とは、ここが「追想の中」であることが魂の記憶として蘇ること』、こちらの記事の中でも書きましたが、私たちは今、「追想の中」を生きており、「追想の中」を「追体験」しているのです。

 なぜ、大宇宙の全てが元々存在して保存されており、ここは「追想の中」なのでしょうか?


大宇宙意識の全知全能の光が織り成すバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界
 なぜ、この大宇宙の全てが元々存在しており、保存されているのでしょうか?

 そして、なぜ、ここは「追想の中」での「追体験」なのでしょうか?

 それは、この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世界だからなのです。

 この物理的大宇宙の全ては、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の全知全能の光が織り成すバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世界なのです。

 私たちは、インターネットの世界で誰かがユーチューブにアップした動画などを、自分のパソコン上に再生して見ることができます。

 パソコンの画面は二次元(平面)ですが、私たちは、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンの中に生きているようなものなのです。

 大宇宙という完全無欠の完璧なスーパーコンピューターの中に元々保存されているデータを、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンの中で再生して見ているようなものかも知れません。

 言わば、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンの中で、再生されたDVDの映像、あるいは、再生された3Dホログラムの映像を見ているようなものなのです。
 


 
自分の思考・感情・行動の全てが、何一つ失われることなく、永遠に記録され保存されている
 ユーチューブなどの動画をパソコンで見ていると、時間が経過していき、時間が過去→現在→未来へと流れて行くように感じるかも知れません。

 それと同じように、多くの人にとっても、時間というものが過去→現在→未来へと流れて行くように感じられるかも知れません。

 自分が瞬間瞬間に感じる喜びや悲しみの全てを、時間の流れというものが風化させていき、忘却の彼方へと運んでいくように感じられるかも知れません。

 時間というものが、瞬間瞬間刻一刻と移り変わり、全てのものを変化させていくというのは、ほんとうにありがたく、そして美しいことです。

 あなたが瞬間瞬間に感じる喜びや悲しみの全てを、時間の流れというものは容赦なく風化させていきます。

 しかし、それは、本当は消えて行くのではなく、元々存在していたものなのであり、何一つ失われることはないのです。

『この世界そのものが、幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であることが分かった時初めて、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、かけがえのなさを実感できるようになる』、こちらの記事の中でも書きましたが、この物理的大宇宙がバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世界であることが分かった時初めて、この大宇宙の「無限」の美しさ、「無限」の輝き、「無限」の面白さ、かけがえのなさ、そして生命の輝きを感じられるようになります。

そして、『幻の世と知って生きることに生命の輝きを見る』、こちらの記事の中でも書きましたが、この物理的大宇宙そのものが幻の世であることを知って生きることに生命の輝きを見ることができるようになります。

 それを体験して味わうために、今、あなたは、この時空に存在しているのです。

『今ここに存在している自分はアバターにしか過ぎない』、こちらの記事の中でも書きましたが、肉体を持った自分というのは、本当の自分自身ではなく、真我である魂という「純粋意識」が、物理的大宇宙というバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験する為に使っているアバター(分身・化身)なのです。

 バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の世界である、物理的大宇宙の「無限」の美しさ、「無限」の輝き、「無限」の面白さ、かけがえのなさ、そして生命の輝きをもっと感じながら生きたいものです。

 長い冬が終わるとパッと花開いて見事に散っていく桜も美しいものです。

 そして、桜が散った後には新緑の季節が訪れ、木々が芽吹いて色付きながら、めくるめくような速さで夏に向かって駆け抜けて行く、あの生命の躍動感・スピード感もとても美しいものがあります。

 私は、新緑の季節が大好きです。

 新緑の大自然の中で、心地よい風に吹かれている時が、とても好きなのです。

現実逃避するのではなく、現象の背後にある魂の意図と大宇宙の計画を意識して創造していく

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現実を否定しても、現実逃避しようとしても、現実からは逃れられない

 現実逃避するのではなく、現象の背後にある魂の意図と大宇宙の計画を意識しながら創造の旅をしていくことが大切です。

 あなたは、今、自分の目の前にある現実を否定したいですか?
 そして、また、今、自分の目の前にある現実から逃避したいですか?
             
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 残念ながら、あなたは、今自分の目の前にある現実を否定することもできなければ、今自分の目の前にある現実から逃避することもできません。

 今自分の目の前にある現実を否定しても、今目の前にある現実から逃避しようとしても、現実はどこまでも付いてきます。

 今自分の目の前にある現実からは、誰も逃れられないということなのです。

 これは、誰においても、そうなので、何びとと言えども、誰も今自分の目の前にある現実からは逃れることはできません。

 なぜだか分かりますか?


自分の現実の全ては、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものであり、大宇宙の計画の中にあるもの

 では、なぜ、何びとと言えども、今自分の目の前にある現実を否定することもできなければ、現実から逃れることもできないのでしょうか?

 それは、あなたの今目の前にある現実の全ては、本当のあなた自身が「想像=創造(そうぞう)」したものであり、大宇宙の根本主体・根本創造主が「想像=創造(そうぞう)」したものでもあるからなのです。

 本当の自分自身とは?

 本当の自分自身とは、本源の我であり、真我である魂のことなのです。

 では、大宇宙の根本主体・根本創造主とは?

 この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という一つの「純粋意識」だけです。

 大宇宙意識というのは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。

 物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 そして、本当の自分自身、真我である魂というのは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)である「純粋意識」なのです。

『自分の人生の創造主は自分自身であり、自分の人生の主体者・創造者は真我である魂』、こちらの記事の中でも書きましたが、自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。

 自分の現実の全ては、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、真我である魂という「純粋意識」が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 自分の現実の全ては、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなので、全ては大宇宙の計画の中にあるものなのです。

 あなたの今目の前にある現実の全ては、本当のあなた自身、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものであり、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものでもあるので、否定することも逃避することもできないのです。

 では、なぜ、真我である魂という「純粋意識」は、今自分の目の前にある現実を「想像=創造(そうぞう)」したのでしょうか?


全ては魂を進化させるための最善のプログラム

 私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、自分が人生で体験する全ての現実は、魂の進化のために起きているものなのです。

 魂の進化とは、心の純化、意識の福化ということであり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。

 自分が人生で体験する全ての現実は、魂の進化というプログラム上にあるものであり、魂を進化させるための最善の出来事として起きています。

 真我である魂という「純粋意識」は、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化のために、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」したのです。

 真我である魂という「純粋意識」が望んでいるのは、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」ことを体験して味わうことなのです。

 豊かなる世界とは、自分の外の何かの形の中にある訳ではなく、自分自身の心の中にしか存在していませんので、自分自身の心が豊かになればなるほど、自分が映す現実世界もまた、豊かなる世界として輝きを増してくるのを、体験して味わいたいのです。

 自分が人生で体験する全ての現実は、そのために真我である魂という「純粋意識」が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 今、自分の目の前にある現実の全ては、真我であるあなたの魂が「想像=創造(そうぞう)」した、魂を進化させるための最善のプログラムであり、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」した最善のプログラムでもあるので、あなたは、今、自分の目の前にある現実を否定することもできなければ、現実から逃避することもできないのです。

 では、どうやって生きていけば良いのでしょうか?


今、自分の目の前にある道が、黄金の道

 今、あなたの目の前にある道が、黄金の道です!
 今、自分の目の前にある現実をしっかりと生きることが、黄金の道なのです!

 それ以外に、黄金の道はありません。

 今、自分の目の前にある現実を否定しても、あるいは、現実から逃避しようとしても、現実はどこまでも付いてきます。

 今、あなたの目の前にある現実から逃れたかったら、今あなたの目の前にある現実をしっかりと生きることです!

 そこにしか、答えはありません。

『人は常に、自分が最も学び、成長し、進化できる最善の場所にいる』、こちらの記事の中でも書きましたが、人は常に、毎瞬毎瞬、自分自身が最も学び、成長し、進化できる最善の環境に生かされています。

 そして、『現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている』、こちらの記事の中でも書きましたが、自分の今目の前にある現実という空間全てには、常に、遊びという学びが用意されています。

 ですから、あとはただ、それを発見して、創造の旅をしていけば良いのです。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分にあるので、意識の奥深くにある真我である魂の意図がなかなか分かりません。

 そのため、自分の身に起きる様々な出来事を、幸・不幸、運・不運と決めつけて、大騒ぎしています。

 しかし、真我である魂、そして大宇宙意識は、鳥瞰図という言葉があるように、大空を飛ぶ鳥のような、大所・高所から、魂の進化にとって最善の出来事を「想像=創造(そうぞう)」しています。

 ですから、例え、今、自分の目の前にある現実がつらく苦しく感じられたとしても、現象の背後にある魂の意図を感じ、大宇宙意識の大いなる計画を感じながら生きていくことが大切になります。

 自分の心のストライクゾーンを広げていけば、今つらく苦しく感じられる現実の中にも、新たな面白さを発見できるようになっていくでしょう。

 自分の心のストライクゾーンを広げていくと、今までは、うれしい、ありがたい、面白いと感じられなかったような領域にも、新たな面白さを感じられるようになるかも知れません。

 自分の小さな心のストライクゾーンを広げて、全てを喜びと感じられるような全天候型の心に至るために、「自分を解放するプログラム」として、目に映る全ての人、事、ものが、ただ現れているだけなので、そこには必ず、今の自分にちょうど良い形で、遊びという学びが、プレゼントとして、宇宙から常に用意されています。

 ですから、あとはただ、新たな面白さを発見していくだけだと言えるかも知れません。

 昔から、諸行無常、栄枯盛衰と言われるように、全ては変化の中にあります。

 例え、あなたの今目の前にある現実が、つらく苦しく感じられるものだったとしても、それは変化していく流れの中にあるものなのです。

 今、あなたの目の前にある現実というのは、永遠に変わらないものではなく、瞬間瞬間、常に変化していく流れの中にあるものなのです。

 ですから、もし、あなたが、今、自分の目の前にある現実を否定したい、あるいは、今目の前にある現実から逃れたいと望むのであれば、今、目の前にある現実をしっかりと生き切ることです!

 それ以外に、答えはありません。

 現実を否定したり、現実逃避しようとするのではなく、今、自分の目の前にある現実にしっかりと向き合い、真のリアリストとして、全てを現実的に解決していくことが大切になります。

 真のリアリストとして、今目の前にある現実をしっかりと生きることこそが、今目の前にある現実から逃れる最短の道であり、そして、唯一の道なのです!

 今あなたの目の前にある道こそが、今あなたが歩くべき黄金の道なのです!

 あなたは、今、自分の目の前にある現実を否定したいですか?
 そして、あなたは、今、自分の目の前にある現実から逃避したいですか?

 今、自分の目の前にある現実を否定しても、現実から逃れようとしても、現実はどこまでも付いてきます。

 今、あなたの目の前にある道こそが、黄金の道です!

 あなたの肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、今目の前にある現実は、つらく苦しいとしか感じられないかも知れません。

 しかし、意識の奥深くにある本当のあなた自身、真我である魂、そして大宇宙意識は、あなたの全てをよく分かっています。

 ですから、安心して大丈夫なのです。

 あなたが今いる所は、あなたの魂を進化させるために最善の環境であり、そして、次なる場面が必ずあるのです。

 現実を否定したり、現実逃避するのではなく、現象の背後にある魂の意図と大宇宙の計画を意識しながら創造の旅をしていくことが大切になります。


未熟・未完成というものがなく、人はその瞬間瞬間において常に完成している

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 未熟・未完成というものがなく、人はその瞬間瞬間において常に完成しています。

 未熟・未完成というものがなく、人はその瞬間瞬間で常に完であることを知ることが大切です。

 自分自身においてももちろんそうですし、他の人においてももちろんそうなのです。

 自分のことや人のことを未熟・未完成と捉えて、困難となるのは、制限された創造の一つです。

 人には未熟・未完成というものがなく、人は常に、その瞬間瞬間において完であることが分からないだけなのです。

 赤ちゃんは赤ちゃんとして完であり、子供は子供として完です。

 赤ちゃんは赤ちゃんとして完なので、赤ちゃんが未熟・未完成ということはありません。

 お乳が欲しかったり、オシメを替えてもらいたくて母親に泣き叫んでいる赤ちゃんが、未熟・未完成ということはありません。

 それが赤ちゃんというものであり、そうやってすくすくと丈夫な子供に育っていくのが赤ちゃんの仕事とも言えますので、お母さんに泣いたり叫んだりしている赤ちゃんが、未熟・未完成ということはないのです。

 赤ちゃんは赤ちゃんとして完なので、その瞬間瞬間において、常に完成しています。

 同様に、子供は子供として完なので、子供が未熟・未完成ということはありません。

 小学生の子供だから未熟で未完成という訳ではなく、小学生の子供は小学生の子供として常に完なのです。

 赤ちゃんは赤ちゃんとして完であり、子供は子供として完なので、それぞれにおいて、常に完成しており、未熟・未完成というものがありません。

 同様に、仕事か何かにおいて、未経験者と呼ばれたとしても、未経験者は未経験者として完なのです。

 そして、経験者は経験者として完だということになります。

 経験者は経験者として完であり、未経験者は未経験者として完なので、それぞれにおいて完成しているということなのです。

 自分のことや人のことを未熟・未完成と捉えて、困難となるのは、制限された創造の一つです。

 自分自身のことや人のことを、未熟や未完成だと判断したり評価したりしないことが大切になります。

 他の人を、自分の年少者だから、部下だから、後輩だから、未経験者だから、若者だから、子供だから、赤ちゃんだから、ということで、未熟や未完成と判断・評価しないことが大切なのです。

 そして、自分自身も、常に完成しており、今この瞬間の自分が未熟・未完成な訳ではなく、今この瞬間の自分として完であることを知ることが大切になります。

 自分自身や相手のことを未熟・未完成と判断したり評価したりしないことが大切であり、全てはその瞬間瞬間において完なのです。

 未熟・未完成というものがなく、人はその瞬間瞬間で常に完であることを知ることが大切になります。


人間の生は一瞬であり、一瞬の中に永遠を見て、今この瞬間に生きることが大切

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 人間の生は一瞬であり、一瞬の中に永遠を見て、今この瞬間に生きることが大切になります。

 自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分自身の意識が投影された自分の内面の世界であり、全ては心の内の景色、言わば、幻なのです。

 自分自身の中にある心の心象風景とでも言うべきものを、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出して見ているだけなので、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。

 全ては心の内の景色であり、言わば、インナーワールドです。

 そして、自分が映す現実世界(大宇宙)とは、毎瞬毎瞬がカメラのシャッターを押したような世界であり、瞬間瞬間で変わっています。

 自分が映す現実世界(大宇宙)とは、その瞬間瞬間における自分の意識が映し出された「鏡」の世界なので、瞬間瞬間で変わっているのです。

 ですから、自分の意識が変われば、その瞬間に、一瞬にして自分が映す現実世界(大宇宙)も変わってしまいます。

 自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分の意識が投影された自分の内面の世界であり、自分の意識の中にしか存在していませんので、自分の意識が変われば、自分が認識する現実世界(大宇宙)というのも、その瞬間に変わってしまうのです。

 自分が映す現実世界(大宇宙)とは、その瞬間瞬間における自分自身の意識が、ものの見事に映し出された「鏡」の世界であり、毎瞬毎瞬がカメラのシャッターを押したような世界なのです。

 このことが実感出来るようになってくると、もはや、過去がどうだったかというような認識に囚われていても意味がないということが、はっきりと分かるようになります。

 過去がどうだったかというのは、あくまでも、ついさっきまで捉えていた自分の認識にしか過ぎません。

 ですから、今この瞬間に自分の意識が変われば、過去に対する自分の捉え方・認識も一瞬で変わってしまうのです。

 過去の出来事や過去の場面に対する自分の認識も、一瞬にして変わってしまいます。

 ですから、以前どうであったかとか、過去の事、過去の想いを手放して、今この瞬間に生きることが大切になります。

 この人はこういう人だとか、あの人はああいう人だとか、自分は以前こんな不幸を体験したとか、自分はこんなに不運だったとか、あの人は自分に対してこんなひどいことをした人だとか・・・・・。

 それらの全ては、ついさっきまで持っていた自分の認識であり、自分の認識の中にしか存在していません。

 それらの全ては、過去の事であり、過去の想いであり、過去の認識でしかないので、今この瞬間に自分の意識が変われば、過去に対するそれらの認識も一瞬にして変わってしまうのです。

 人間の生は一瞬であり、一瞬の中に永遠を見て、今この瞬間に生きることが大切になります。

 そして、過去の事、過去の想いを手放して、新たな意識で瞬間瞬間を生きることが大切なのです。

 朝、目が覚めて起きたら、もはや昨日までの過去の自分とは違うのです。

 自分はこういう人間だとか、自分の過去の人生はこうだったとか、それらの全ては、昨日までの自分が持っていた認識でしかありません。

 今日自分の意識が変われば、昨日の意識とは違ったものになるのです。

 家族をはじめ、職場の仕事関係の人や、友人・知人なども、日々、新たな意識で見ることが大切になります。

 この人はこういう人だとか、あの人はああいう人だとかいうのは、あくまでも、昨日までの自分が持っていたその人に対する認識でしかありません。

 自分の意識が変われば、一瞬にして、人に対する自分の捉え方・認識も変わってしまうのです。

 人間の生は一瞬であり、一瞬の中に永遠を見て、今この瞬間に生きることが大切になります。

 そして、過去の事、過去の想いを手放して、新たな意識で瞬間瞬間を生きることが大切なのです。


自分が強く望んだり努力すれば、夢が実現したり未来を変えられると考えるのは勘違いにしか過ぎない

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 多くの人たちは、自分が夢や目標を強く望み、それに向かって努力すれば、夢や目標が実現すると考えています。

 また、自分の力で未来を変えられると考えている人たちも多くいます。

 そして、巷の書店に行けば、夢は必ず実現するとか、未来は変えられるというようなことが書かれた自己啓発本などがたくさん売られています。

 しかし、自分が強く望んだり努力すれば、夢が実現したり未来を変えられると考えるのは、大宇宙の森羅万象を貫く根源的エネルギーが一つであることを理解出来ない、単なる勘違いにしか過ぎません。

 この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識という、一つの「純粋意識」だけなのです。

 大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。

 物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなので、物理的大宇宙に存在している全てのものは、「大宇宙意識の顕れ」なのです。

 物理的大宇宙の全ては「大宇宙意識の顕れ」にしか過ぎないので、大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーによって、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で動いています。

 そして、大宇宙意識が実在している絶対世界(大宇宙の本質の世界)とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界なので、絶対世界においては大宇宙の全ては元々完成しているのです。

 大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界においては、大宇宙の全てが元々存在しており、大宇宙は元々完成していますので、未来は100パーセント確定しています

 自分が夢や目標を強く持ち、それに向かって努力すれば夢は必ず実現するとか、未来を変えられると考えるのは、自分は大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは一呼吸すら出来ない存在であることを忘れた、単なる勘違いにしか過ぎません。

 そもそも、何かを思ったり、何かを夢見たり、何かを望んだり、何か目標を持ったり、それに向かって努力したり出来るのは、自分が生かされているからなのです。

『夢や希望や目標を持つこと自体が、既に自分自身の力ではない』、こちらの記事の中でも書きましたが、大宇宙に生命を与えられ、大宇宙に生かされているからこそ、何かを望んだり、何かを夢見たり、何か目標を持ったり出来る訳なので、何か夢や目標を持つということ自体が、既に自分自身の力ではないのです。

 ましてや、それが実現するかどうかなどは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識が司っているのであり、大宇宙意識の手の中にあるのです。

 自分の夢や目標が実現するかどうかなどは、自分の手の中にある訳ではありません。

 そもそも、大宇宙に生かされているからこそ、強く望んだり努力したり出来る訳で、そのこと自体が既に自分の力ではないのです。

 自分が強く望んだり一生懸命努力すれば、夢は必ず実現するとか、未来は変えられると考えるのは、自分は大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは一呼吸すら出来ない存在であることを忘れた、人間の傲慢な考え方だと言えます。

 大宇宙の森羅万象を貫く根源的エネルギーは一つであり、森羅万象の全ては、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で営まれていることが分かっていないということになります。

 私たちが普段あれこれと考えて夢を抱いたり目標を持ったりしているのは、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)であり、氷山の一角のように、意識の一番浅い部分になります。
 
 そして、水面下には、潜在意識や無意識と呼ばれる部分があり、さらにその奥には「個」としての意識を超えた人類の集合意識と呼ばれるような部分もあり、私たちの意識を一番奥深くまで遡っていくと、最終的には、大宇宙意識までたどり着くことになります。

 私たちの意識の一番奥深くには、大宇宙意識が内在していますので、自分が何かちょっとしたことを思ったり考えたりすることすら、自分自身の力で行っている訳ではなく、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))により行われているのです。

 自分が夢や目標を持ったりすること自体が大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で行われていますので、それが実現するかどうかなど、自分の手の中にある訳ではなく、全ては大宇宙意識の御心次第ということなのです。

 巷の書店に行けば、潜在意識を変えれば人生が変わるとか、夢が実現するというようなことが書かれた本がたくさんありますが、潜在意識は表面意識(顕在意識)よりは深いですが、一番奥深くにある根源的な意識は大宇宙意識なのです。

 潜在意識は私たちの人生に大きく作用していますので、潜在意識が変われば人生が変わるというのは、決して間違いではないのですが、そもそも、自分の潜在意識が変わるかどうかを司っているのは、大宇宙意識なのです。

 私たちの潜在意識のさらにもっともっと奥深く、私たちの意識の一番奥深くには大宇宙意識が内在しており、大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーによって、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で動いていますので、自分の潜在意識が変わるかどうかを司っているのは大宇宙意識であり、全ては大宇宙意識の手の中にあるのです。

 この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけなので、未来は100パーセント確定しているということなのです。

うまくいく・うまくいかないという思考形態から抜けてみる

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 多くの人は、うまくいく・うまくいかないということに囚われています。

 しかし、うまくいく・うまくいかないという思考形態から抜けてみることが大切だと思います。

「うまくいく」ということが、多くの人にとっての大きな関心事になっており、巷の書店などにも、「うまくいく」ということに関連した本がたくさん出回っています。

 しかし、「うまくいく」ということに囚われている人たちのほとんどは、「うまくいく」とはどの視点から見てのことなのか、そして、「うまくいく」とはどの時点でのことなのかを全く考えていないとも言えるかも知れません。

「うまくいく」とか「うまくいかない」という言葉をよく耳にしますが、「うまくいく」とは、どの視点から見て「うまくいく」ことなのか、そしてまた、どの時点において「うまくいく」ことなのかは、全く意識されていないと感じます。

「うまくいく」とか「うまくいかない」ということに囚われているのは、あくまでも、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)です。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分なので、近視眼的なものの見方しかできず、全てのものごとを幸・不幸、運・不運と捉えて大騒ぎしています。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、何が自分にとって高い目的に叶った最善のことなのかはよく分かりませんし、未来のこともよく分からないのです。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では「うまくいっている」と感じていることであっても、それが本当に自分の高い目的に叶った最善のことなのかは分かりませんし、もっと後になって長期的な視点で見た時に、それが本当に「うまくいっている」ことなのかどうかも分かりません。

 それとは逆に、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では「うまくいっていない」と感じていることであっても、それが本当に自分の高い目的から見て「うまくいっていない」ことなのかは分かりませんし、もっと後になって長期的な視点で見た時に、それが本当に「うまくいっていない」ことなのかどうかも分からないのです。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分であり、近視眼的なものの見方しかできないので、全ての物事を幸・不幸、運・不運と判断して大騒ぎしているだけなのです。

 ですから、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)が感じている「うまくいく」とか「うまくいかない」ということにあまり囚われる必要はありません。

 うまくいく・うまくいかないという思考形態から抜けることが大切だと思います。

 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である魂です。

 自分の人生の全ては、真我である魂が、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、魂の進化にとって最善の出来事の連続なのです。

 ただ、そのことが肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、なかなか分からないだけなのです。

 自分の人生の主体者・創造者であり真我である魂は、鳥瞰図(ちょうかんず)という言葉があるように、大空を飛ぶ鳥のような、大所・高所から全ての物事を見ています。

 そして、未来は100パーセント確定していますので、真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを知り尽くしているのです。

 真我である魂から見れば、今の自分は決して「うまくいっていない」訳ではなく、予定通りに「うまくいっている」のです。

 多くの人たちは、未来は確定しておらず、白紙の未来があるかのように勘違いしています。

 しかし、未来は100パーセント確定していますので、時間の流れというものも、敢えて言うならば、未来からやって来ているのです。

 時間は流れている訳ではないのですが、敢えて時間の流れというものを想定した場合でも、それは、多くの人たちが考える、過去→現在→未来という流れではなく、それとは逆の、未来→現在→過去という流れになります。

 これから白紙の未来が作られていく訳ではなく、未来は100パーセント確定していますので、既に100パーセント確定している未来から時間がやって来て、そこに至る為のプロセスが順番に作り出されているだけなのです。

 原因があって結果があるというより、原因は結果によって選ばれているのであり、ある結果と呼ばれるものを得る為に、その原因となるものが作りだされているのであり、順番が逆なのです。

 このことがはっきり分かるようになると、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では「うまくいかない」ことも、次なる場面のプロセスであり、本当は「うまくいっている」ことなのかも知れないと感じられるようになります。

 仕事や人間関係が「うまくいかない」ように感じられたとしても、そのことは本当は「うまくいっている」ことなのかも知れません。

 仕事や人間関係などが「うまくいかなくなる」ことで、次なる場面が出てくるのです。

 仕事や人間関係というのは、全てご縁が決まっていますので、一生のお付き合いになるご縁も、もちろん一部にはありますが、全てのご縁が、一生のお付き合いになるご縁ではありません。

 終わるご縁は終わりますし、ご縁が終わる時には終わらせることも大切です。

 仕事や職場、人間関係、特に男女の恋愛関係なども、「うまくいく」ということにあまり囚われる必要はありません。

「うまくいかない」からこそ、次なる場面が現れるのです。

 未来は100パーセント確定していますので、次なる場面が必ずあるのです。

 次なる場面に進む為に、今ある場面を終わらせる必要があるということは、よくあります。

 人生が変わる時や節目の時には、よくこのようなことが起こります。

 未来は100パーセント確定しており、次なる場面に進むために、今ある状況が「うまくいかなく」なり、会社や仕事をやめたり、人間関係を終わらせたり、男女の恋愛関係に別れが訪れたりします。

 しかし、だからこそ、次なる場面が現れるのです。

 新しい場面に進む為には、今ある場面を終わらせる必要がある時には、よくこのようなことが起こります。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、そのことが分からないので、不幸・不運と決めつけて、「うまくいかない」と大騒ぎしています。

 しかし、自分の人生の主体者・創造者であり、真我である魂から見れば、最善のことが起きており、高い視点から見れば「うまくいっている」のです。

 真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを知り尽くしていますので、真我である魂から見れば、ちゃんと「うまくいっている」のです。

「うまくいく」とか「うまくいかない」というのは、あくまでも、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)から見た視点でしかありません。

 未来は100パーセント確定していますので、次なる場面が必ずあるのです。

 次なる場面に進む為には、今ある場面が「うまくいかなく」なり、今ある場面に終止符を打つことになることは、よくあることです。

 このことが分かるようになると、うまくいく・うまくいかないという思考形態から抜けることが出来るようになります。

自らが持つ常識・認識・固定観念をどんどん外していくことが心の成長であり、意識の拡張

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 人は皆、自らの中に様々な常識・認識・固定観念などを持っていますし、自分が信じたい何かを持っています。

 しかし、それらはあくまでも、自分の認識でしかないので、心を成長させ、意識を拡張させていく上では、自らの中にある強い思い込み・常識・認識などを、どんどん手放していくことが必要になります。

 そして、それは、時には、勇気がいることかも知れません。

 しかし、私たち人間一人ひとりの中には、様々な概念が取り込まれていますので、不必要な概念はどんどん手放していくことが大切になります。

 私たちがオギャーと生まれた時には、特に何かの概念を持っていた訳ではありませんが、生まれた後で、様々な概念を知らず知らずのうちに取り入れてきました。

 最初は家庭において親などから様々な概念を教えられ、それから学校に行くようになると、学校教育でも様々な概念を入れられてきました。

 そして、年を重ねるに従って、毎年毎年、テレビやインターネット、書物などを通して、日々膨大な量の情報を取り入れ、自らの中に様々な概念を溜め込んできました。

 それらの中には、必要な概念・認識ももちろんありますが、不要な概念も相当あると考えたほうがよいと思います。

 世の中に氾濫している情報の中には、単に間違った情報が数多く氾濫しているというだけではなく、マインドコントロールや洗脳のために意図的に流されている間違った情報もありますので、注意が必要になります。

 また、特に精神世界やスピリチュアルな世界に関心が高い人は、自分でもよく分かっていない様々な概念を相当溜め込んでいると覚悟したほうがよいと考えます。

 宇宙や生命のことを本質的に捉えられるようになると、いわゆる精神世界やスピリチュアル系の世界で語られていることのほとんどが、間違った概念にしか過ぎないことがはっきりと分かるようになります。

 人は皆、自分が信じたい何かを持っているものですが、意識の拡張を望むのであれば、特に精神世界やスピリチュアル系の世界にハマっている人は、無知蒙昧な神秘主義に陥ることなく、物事を本質的に捉え、不必要な概念をどんどん外していくことが大切だと思います。

 そして、心を無地透明にして、ピュアな心になり、生きているうれしさをやさしく感じられるようになるためにも、自分の中にある強き思い込み・常識・認識をどんどん手放していくことが楽しい流れとなります。

 自分の中に様々な強き思い込み・常識・認識があればあるほど、心がいわば透明なガラスではなく曇りガラスのような状態になり、光が差し込みにくくなるからです。

 人は皆、自らの中に様々な強き思い込み・常識・認識を持っています。

「〜とはこういうもの」「こうあるべき」「こうあらねばならない」・・・。

 家族とはこういうもの、夫とはこういうもの、妻とはこういうもの、親とはこういうもの、子とはこういうもの、兄弟とはこういうもの・・・。

 会社はこうあるべき、経営者はこうあるべき、上司はこうあるべき、部下はこうあるべき、同僚はこうあるべき・・・。

 恋人はこうあるべき、友達はこうあるべき、親戚はこうあるべき、世間はこうあるべき・・・。

 それらの全ては、自分の認識でしかありません。

 自分自身の中に強き思い込み・常識・認識があればあるほど、心がいわば透明なガラスではなく曇りガラスのような状態になって、光が差し込みにくくなるので、自分の思い込みが強い度合いだけ、人を裁き、その分自分自身が苦しむことになります。

 自分の中にあるややこしい思い込みや認識を外せば外した分だけ、心が無地透明でピュアになり、周りの人のありがたさもより感じられるようになり、その人の存在が感謝と感じられるようにもなります。

 結局のところ、全ては自分の認識でしかないので、自分自身の中にある様々な思い込み・常識・認識・固定観念などをどんどん手放していくことが、心の成長であり、意識の拡張でもあると言えるのです。


今年歩いた道のりは、寸分の狂いも無く元々歩くことが決まっていた道であり全ては予定通り

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 今年2015年(平成27年)もまもなく終わろうとしています。

 今年一年を振り返って、様々な想いを抱いておられる方も多いかも知れません。

 そして、自分が過去に行なった出来事を後悔してみたり、「もしあの時・・・」という仮定に囚われたりしている方もあるかも知れません。

 しかし、今年一年自分が歩いた道のりは、寸分の狂いもなく、自分が元々歩くことになっていた道のりであり、それ以外の道のりはありませんでした。

 全ては、予定通りなのです。

 現れた現実、起きた出来事が全てであり、それ以外の現実は存在していません。

「もしあの時・・・」という仮定は存在していないのです。

 行った道が行く道であり、歩いた道が歩く道です。

 今年自分が歩いた道が、今年自分が歩く道だったのです。

 それ以外の道は存在していません。

 誰もが抱く「もしあの時・・・」という仮定は、果たして存在していたのでしょうか?

 実際には、そのような仮定は元々存在していなかったのです。

 この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけなので、大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーにより大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で動いています。

 全ては大宇宙の計画の中にあり、未来は100パーセント確定していますので、今年一年自分が歩いた道のりは、元々大宇宙の計画の中にあった道であり、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり真我である魂が決めてきた道でもあるので、それ以外の道は存在していなかったのです。

 例え肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)から見れば、思い通りでないように感じられ、不幸・不運と感じられることが多かったとしても、真我である魂から見れば、全ては思い通りであり、魂の進化にとっての道の最短距離を突き進んできています。

 今年歩いた道のりは、魂の進化にとって最善の出来事の連続だったのであり、それはそれで、決して悪くはなかったのです。

 全ては予定通りです。

 今年歩いた道が、今年歩く道だったのです。


 今年一年ご愛顧いただき、ありがとうございます。

 来年2016年(平成28年)もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 どうぞ良い年をお迎えください。

大宇宙の全ては完であり、今を良しとし、人生の流れを信頼する

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 今年2015年(平成27年)も、残すところあと数日となりました。

 時が経つのは早いもので、あと数日で2015年が終わり、2016年の新年を迎えることになります。

 今年一年を振り返って、様々な想いを感じておられる方も多いことと思います。

 お正月の年賀状では、「今年こそ良い年にしましょう」という言葉を書く方がおられますが、そういう方は、次の年にもまた同じように、「今年こそ良い年にしましょう」と書かれています。

 そして、毎年毎年同じことが繰り返されることになりますが、そのような思考形態から抜けることが大切だと思います。

 去年一年はつらくて苦しいことが多い不幸・不運な年だったから、今年こそは幸福・幸運が多い年にしたい・・・・。

 毎年毎年が、この繰り返しです。

 そして、これは一年単位ではなく、一日単位でも同じことであり、今日一日はつらくて苦しいことばかりが多い日だったから、明日こそは何か幸福や幸運なことが起きる良い日であってほしい・・・・。

 毎日毎日が、これの繰り返しになります。

 結局のところ、今を良しとする心、今を楽しむ心、今に感謝する心、今を完とする心を作らない限りは、いつまでたっても、毎日が不足・不備・不満の連続になります。

 一年単位で言えば、毎年毎年が、今年は良くない年だった、だから来年こそは良い年になりますように・・・という連続になります。

 このような思考形態から抜けることが大切だと思います。

 今を良しとする心、全てを完として捉える心を作ることが大切になります。
 そして、人生の流れを信頼する心を持つことも大切になります。

 実は、毎瞬毎瞬、大宇宙の全ては完なので、瞬間瞬間における大宇宙の森羅万象の全ては完全であり、完璧なのです。

 何故なら、この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけだからなのです。

 大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。

 物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものであり、大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーにより、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で動いています。

 瞬間瞬間、マクロにおける大宇宙の森羅万象の全てが完全であり、完璧なので、ミクロにおいても、森羅万象の一つひとつが完全であり、完璧なのです。

 ですから、大宇宙に生かされている自分自身においても、毎瞬毎瞬、全ては完璧であり、完全なのです。

 今を良しとし、全てを完として捉える力が大切になります。

 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。

 自分という存在は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、大宇宙に無数に存在するある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、ある一つの角度・視点(してん)から、この大宇宙を映し出して体験している一つの支店(してん)になります。

 自分の人生の全ては、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 自分の人生の全ては、真我である魂が、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 魂の進化とは、心の純化、意識の福化ということであり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。

 タイタン(巨人)のような心を創る以外に、永遠の幸福へと至る道は用意されていないからなのです。

 ある特定の何かが手に入れば真の幸福が得られると思っていても、その思いは必ず、天の仕組みとして外されることになります。

 何かが手に入ろうと入るまいと、例え自分がどんな状態にあろうとも、その状態を遊んで幸福を感じていられるところに答えがある訳なのです。

 そして、真我である魂が望んでいるのは、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」ということを夢見ているのです。

 豊かなる世界とは、自分の外の何かの形の中にある訳ではなく、自分自身の心の中にしか存在していませんので、自分自身の心が豊かになればなるほど、自分が映す現実世界もまたさらに豊かなる世界として輝きを増してくることを体験したいのです。

 自分が体験する全ての現実は、その為に真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、人生で起きる全ての現実は、魂の進化にとって最善のことが起きており、最善のことの連続でしかありません。

 しかし、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、そのことがなかなか分からないので、自分に起きる出来事を、近視眼的なものの見方で、幸・不幸、運・不運と捉えて大騒ぎしています。

 しかし、例え肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)ではつらく苦しく感じられたとしても、魂の進化にとっての道の最短距離を突き進んでいる本当の自分自身というものを信じる力が大切になります。

 今を良しとし、全てを完として捉える力が大切になります。
 そして、人生の流れを信頼する力が大切になります。

 私たちが見ている物理的大宇宙(相対世界)とは、絶対世界(大宇宙の本質の世界)において大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージを、映し出して体験する為に「創造(そうぞう)」されている「映し世」であり、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界です。

 私たちが見ているこの物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。

 そして、肉体を持った自分という存在は、本当の自分ではなく、真我である魂が物理的大宇宙というバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験する為に使っているアバター(分身・化身)なのです。

 本当の自分というのは、本源の我、真我である魂であり、魂というのは、大宇宙意識という「純粋意識」の分霊(わけみたま)なのです。

 大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識という「純粋意識」の分霊(わけみたま)である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験する為に今存在しているのが、肉体を持った自分というアバター(分身・化身)なのです。

 肉体を持っていると、色々と辛く苦しいことも大変なこともありますが、肉体があるからこそ、喜びも悲しみも体験することができます。

 真我である魂というのは、大宇宙意識という「純粋意識」の分霊(わけみたま)なので、肉体を持ったアバター(分身・化身)での体験を通してしか、喜びも悲しみも味わうことができないのです。

 自分が体験する全ての現実は、喜びも悲しみも、真我である魂という「純粋意識」が体験して味わいたかったことなので、きちんと体験して味わうということが大切になります。

 例え肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では不幸・不運としか感じられず、人生の流れが何か間違っているように感じられたとしても、それはそれで完であり、人生の流れを信頼することが大切になります。

 大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識に間違いはありませんし、その分霊(わけみたま)である我が魂にも間違いはなかったのです。

 全てはただ、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した、自分を解放するプログラムがあっただけなのです。

「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」のを体験する為のプログラムがあっただけなのです。

 大宇宙意識の全知全能の光が織り成す、物理的大宇宙というバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界で、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」のを体験する為のプログラムがあっただけなのです。

 今年一年がどのような道のりであったとしても、それはそれで完であり、それ以外の現実は存在していませんでした。

「もしあの時・・・」という仮定は存在していないのです。

 今年一年、自分が歩んできた道のりは、真我である魂から見れば全て予定通りであり、それ以外の道のりは無かったのです。

 そして、何があったとしても、それはそれで完であり、高い視点から見れば、それはそれで良かったのです。

 今を良しとする力、全てを完として捉える力が大切になります。
 そして、人生の流れを信頼することが大切になります。

 今年一年は、何があったとしても、やっぱり、それはそれで良い一年だったのです。

 そして、来年ももちろん、良い年であり、全ては予定通りなのです。


意識変革の風は、上昇気流となって私たちの意識をより高い地点へと導いていく

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 今年3月28日のブログ『意識変革の大きな風が吹いてきている』、こちらの記事の中でも書きましたが、今年2015年の春頃から、私たち人類の意識を飛躍的に進化させるためのエネルギーが大量に降り注がれてきており、意識変革の大きな風が加速度的に吹いてきています。

 私たち人類の意識を飛躍的に進化させるための、意識変革の大きな風は、上昇気流となって私たちを乗せ、さらなる意識の高みへと導いていくことでしょう。

 その過程においては、自らが持つ常識・思い込み・概念などは、どんどん手放さざるを得なくなる筈です。

 自らがしがみついている小さな認識などは、どんどん外される流れにありますので、自らが持つ自信のようなものも、どんどん外されていきます。

 世間一般的に使われているような自信という概念なども、あくまでも、人との比較や優劣の中にあるものなので、そのようなものも、どんどん外されていきます。

 例え自分が、一大事業を成し遂げたり、オリンピックで金メダルを取ったり、あるいは何かの偉大な賞を受賞したとしても、究極的には、それは自分自身の力ではありません。

 どんな人間であったとしても、全ての人間一人ひとりは、大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは一呼吸すら出来ない存在なので、何かを成し遂げたとしても、それは自分自身の力ではないのです。

 大宇宙に生かされている自分に与えられた役割の中で、何かを成就させていただいたというだけのことなので、他者との比較や優劣の中で生まれる自信のようなものは、どんどん外されていきます。

 自分が社会的にどのような評価を受けているかとか、他者との比較や優劣の中で生まれる自信などは、本当は、単なる過信であり慢心にしか過ぎないので、そのような自信などは、どんどん外されていきます。

 自分は大宇宙に生かされている存在であり、ある役割の中で生かされているだけなので、人との比較や優劣の中で、自分に自信を持ったり、自分を偉く感じたりしたところで、意味が無いということを思い知らされることになります。

 自信だけではなく、自らが持つ常識・認識・思い込みなども、どんどん外されていきます。

 自分が体験する全ての現実によって、自分が持っている認識というのは、あくまでも自分の認識にしか過ぎないことを思い知らされ、意識の拡張を迫られることになります。

 私たち人類の意識を飛躍的に進化させるための、意識変革の大きな風は、上昇気流となって私たちを包み込み、意識のさらなる高みへと導いていくことでしょう。

 この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけなので、宇宙的な観点に立てば、全ては最善の目的のために起きており、全てのものは平安へと導かれています。

 自分自身に起きる全ての現実も、心の平安へと導いてくれているものなので、その過程においては、自らが持つ常識・認識・思い込みなども、どんどん外されていきます。

 肉体の自我意識が囚われている「自信」などは、その最たるものです。

 結局のところ、大宇宙はすごいな、生命は素晴らしいな、ということしかないので、全ては、その想いをますます深く感じられるようにと導かれていきます。

 自分自身が様々な常識や認識・概念などを持っていると、その分だけ、大宇宙や生命の素晴らしさを感じにくくなるので、意識変革の大きな風が吹いてきて、自分の中にあるややこしい認識をどんどん外してくれて、全てはただありがたいなという想い、心の平安へと導いてくれることになるのです。

自分の身に起きる全ての現実は、心の純化、意識の福化の為に最善の出来事が起きている

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 自分の身に起きる全ての現実は、心の純化、意識の福化の為に最善の出来事が起きており、全ては、心の広がりとしてうまくいっています。

 私たちの人生には、基本となるプログラムがあります。

 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂なのです。

 自分の人生の全ては、真我である魂が、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 ですから、私たちの人生には、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」した基本プログラムが存在しています。

 それは、魂の進化ということであり、私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、自分の身に起きる全ての現実は、魂の進化の為に起きているということになります。

 魂の進化とは、心の純化、意識の福化ということであり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。

 心を純化させ、意識を福化させて、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心を創る以外に、永遠の幸福へと至る道は用意されていないからなのです。

 ある特定の何かが手に入れば真の幸福が得られると思っていても、その思いは必ず、天の仕組みとして、外されることになります。

 何かが手に入ろうと入るまいと、例え自分がどんな状態にあろうとも、その状態を遊んで幸福を感じていられるところに、答えがある訳なのです。

 苦しみの原因となっているのは、肉体の自我意識が囚われている、自分という「我」になります。

 肉体の自我意識が囚われている、自分という「我」を開放して、宇宙へと帰っていくプログラム上に、自分を解放するプログラムとして、全ての現実が用意されているのです。

 真我である魂が体験したいのは、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」ということを体験したいのです。

 豊かなる世界とは、自分の外の何かの形の中にあるのではなく、自分自身の心の中にしか存在しませんので、自分の心が豊かになればなる程、自分が映す現実世界もまたさらに豊かなる世界として輝きを増してくるのを体験したいのです。

 自分が体験する全ての現実は、その為に、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものになります。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)は、幸・不幸、運・不運という概念に囚われて、うまくいくとか、うまくいかないとか、大騒ぎしていますが、真我である魂の関心事はただ一点、心の純化、意識の福化としてうまくいくかどうかだけなので、自分の身に起きる全ての現実は、心の広がりとして、全てはうまくいっています。


現れた現実、起きた出来事が全てであり、「もし・・・」という仮定は存在していない

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 目の前に現れた現実、起きた出来事が全てであり、「もし・・・」という仮定は存在していません。

 私たちは、ともすれば、起きた出来事に対して、「もし〜でなかったら、〜だったのに・・・」というような仮定をすることがあります。

 自分が行った行為の場合には、後悔をしてみたり、自分が行った行為ではない場合にも、「もし誰々が〜しなかったら、こうはならなかったのに・・・」とか、「もし、何々が起きなかったら、今は違う状況だったのに・・・」などと考えたりします。

 しかし、目の前に現れた現実、起きた出来事が全てであり、それ以外の現実は存在していません。

「もし〜だったら、今は違った状況なのに・・・」という仮定は存在していないのです。

 何故なら、この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけなので、大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーにより、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で動いているからなのです。

 この大宇宙には、「もし、あの時・・・」という仮定は、存在していません。

 起きた出来事が全てであり、目の前に現れた現実が全てです。
 それ以外の現実はありません。

 何故なら、大宇宙の森羅万象の全てが、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))により、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーによって営まれているからなのです。

 目の前に現れた現実、起きた出来事が全てであり、「もし・・・」という仮定は存在していないのです。

『「もし、あの時・・・」という仮定は存在していない』『大宇宙意識の見えざる糸(意図)』などの記事もご参照下さい。


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書籍『何故、未来は100パーセント確定しているのか』について

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 書籍『何故、未来は100パーセント確定しているのか』は、未来が100パーセント確定しているということを、知る為の書籍です。

 何故、未来は100パーセント確定しているのかということは、知識や学問などによっては知ることは出来ず、この大宇宙の本質というものを、体験的に知らない限りは、理解することは出来ません。

 何故、未来は100パーセント確定しているのかを理解する上で、大切なポイントは、二つあります。

 一つ目のポイントは、この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である、大宇宙意識だけであるという点になります。

 そして、二つ目のポイントは、時間そのものが幻想であり、本当は、時間は存在していないということなのです。

 何故、未来は100パーセント確定しているのかを知る上で、この二つのポイントは、必要不可欠となります。

 何故、未来は100パーセント確定しているのかを知る為には、私たちが生きている、この物理的大宇宙そのものが、大宇宙の仮相(仮の姿)の世界であり、大宇宙の実相(本質)の世界ではないことを知る必要があります。

 大宇宙は、大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界と、大宇宙の仮相(仮の姿)の世界である相対世界から成り立っています。
 私たちが生きている、この物理的大宇宙は、相対世界に属していますので、大宇宙の本質の世界ではありません。
 まずは、このことを理解する必要があります。

 そして、大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界なので、そこにはただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。

 大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界には、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙意識という一つの「純粋意識」だけが実在しています。

 大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
 物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 私たちが生きている物理的大宇宙(相対世界)とは、絶対世界において大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージを、映し出して体験する為の「鏡」の世界であり、絶対世界の「映し世(うつしよ)」として「創造(そうぞう)」されている世界なのです。

 大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))により、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーによって動いています。
 全ては、大宇宙意識の計画の中なのです。

 時間も空間も存在しない世界(絶対世界)において「想像(そうぞう)」されたイメージが、「時間と空間」という座標軸から成り立っている物理的大宇宙(相対世界)に「創造(そうぞう)」されているのです。

 何故、未来は100パーセント確定しているのかを知る上で、このことは、必要不可欠であり、大宇宙の本質というものを体験的に知らない限りは、理解することは出来ません。

 しかし、体験的に知らなくても、私たち人間一人ひとりの意識の一番奥深くには、大宇宙意識が内在していますので、私たちは自分の意識の奥深くでは、死に至るまでの自分の未来を既に100パーセント知り尽くしているのです。

 そのことを想い出していく為の書として、書籍『何故、未来は100パーセント確定しているのか』をご活用いただければ幸いです。

 未来が100パーセント確定しているということを理解出来るようになれば、無駄なことに時間やお金やエネルギーなどを使わなくても済むようになるでしょう。

 神仏というものに無闇矢鱈に願い事をして、助けや救いを求めるような御利益信仰にハマる必要もありませんし、人間のエゴや願望から創り出された、間違った概念にしか過ぎない「引き寄せの法則」などにも囚われる必要は無くなります。

 未来が100パーセント確定していることを理解出来るようになれば、多くの時間・お金・エネルギーを無駄なことに使う必要が無くなり、時間・お金・エネルギーを節約出来るようになるでしょう。


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人生は奇跡の連続――生もまた奇跡であれば、死もまた奇跡

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 私たちの人生とは、ある意味においては、奇跡の連続だと言えます。

 日々、瞬間瞬間が奇跡の連続なのです。

 何故なら、この大宇宙の存在そのものが奇跡だからなのです。

 私たち一人ひとりは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、この大宇宙に二つとして同じものが無い「支店=視点(してん)」から、この奇跡の世界を体験して味わっている存在なのです。

 ですから、自分が生きている人生そのものが奇跡であるとも言えます。

『いきているうれしさをやさしく感じる』の中でも書きましたが、本当は、今朝自分の目が覚めて、今自分が生きているということすら奇跡だとも言え、私たちの人生とは、ある意味においては、奇跡の連続なのかも知れません。

 人生そのものが奇跡なのであり、生もまた奇跡であれば、死もまた奇跡だとも言えます。
 そして、人生最後の奇跡が、死という奇跡なのです。


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こみ上げてくる喜びの中で微笑みを感じられる心

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 人生を生きていく中で、日々、瞬間瞬間に、こみ上げてくる喜びの中で微笑みを感じられる心を創ることが大切だと思います。

 生きる喜びとは、何か特別な出来事の中にあるのではなく、普通の日々の中にあり、日々、瞬間瞬間、こみ上げてくる喜びの中で微笑みを感じられる心を創ることが大切になります。

 今自分が生きていることのうれしさ、今自分が存在していることのうれしさというのは、とても淡い感じのものです。

 以前、『生きているうれしさをやさしく感じる』の中にも書きましたが、今自分が生きているといううれしさ、ありがたさというのは、何か特別な出来事の中にあるのではなく、普通の日々の中にあり、それは、ほんのり淡い感じのものです。

 そよ風がとてもやさしく心地良く感じられるような、道端に咲いている一輪の小さな花が、限りなく美しく感じられるような、ふと見上げた夜空の月が、何とも言えず美しく輝いて感じられるような、とても淡い感じのものなのです。

 多くの人たちが考える、何か特別な出来事の中にある楽しみや喜びというものよりも、もっともっと淡くて軽い感じのうれしさなのです。

 そして、人生に生きる中で、日々、瞬間瞬間、どんな時でも、生きているうれしさをやさしく感じられる心を創ることが出来れば、全ては喜びとなります。

 それは言ってみれば、日々、瞬間瞬間に、こみ上げてくる喜びの中で微笑みを感じられる心だと言っても良いかも知れません。

 私たちは、ただ、魂の進化と呼ばれる、心の純化、意識の福化の旅をしているだけなのです。

 魂の進化とは、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。

 私たちはただ、心を純化させ、意識を福化させる旅をしているだけです。

 日々人生を生きる中で、瞬間瞬間、生きているうれしさをやさしく感じられる心、こみ上げてくる喜びの中で微笑みを感じられる心を創る旅をしているだけなのです。


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プラス思考・プラス発想には限界がある――プラス思考を超える

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 よく、プラス思考せよ、とか、プラス発想せよ、という言葉を耳にします。
 しかし、プラス思考やプラス発想には、限界があります。

 プラス思考やプラス発想というのは、マイナス思考やマイナス発想という概念とセットになった考え方です。

 何かをプラスと捉える考え方が、そうでないものをマイナスと捉えるのです。
 何かをプラスと捉える認識は、そうでないものをマイナスと捉える認識とセットになっています。

 うまくいく・うまくいかない、と捉える心が、プラス・マイナスという認識を創り出しているのです。

 しかし、大宇宙の森羅万象の全ては、本来無事象であり、意味がなく、中立です。

 プラスとかマイナスというのは、あくまでも、自分自身の認識でしかありません。

 プラス・マイナスという認識は、あくまでも、自分の認識でしかなく、自分が勝手に、ある事柄をプラスと呼び、ある事柄をマイナスと呼んでいるだけのことだからです。

 幸・不幸、運・不運という概念もそうです。

 昨日、『不幸というものがある訳ではなく、それを幸福と思えない心がそこに残っただけ』の中にも書きましたが、本来、不幸というものがある訳ではなく、それを幸福と思えない心が、そこに残っただけなのです。

 プラス・マイナス、幸・不幸、運・不運、これらは全て、自分の認識でしかありません。
 自分が勝手に付けた意味付けでしかありません。

 そのような意味付けの旅、認識の旅から卒業していくことが大切だと思います。

 マイナスをプラスに転じようと無理に頑張らなくても、元々自分が勝手にある事柄をマイナスと捉えて大騒ぎしていただけのことなのです。

 プラス思考やプラス発想には、限界があります。
 プラス思考を超えていくことが大切だと思います。

 プラスやマイナスというのは、自分が付けていた意味付けでしかないということに、気付いていくことが大切になります。

 心を無地透明にして、プラス・マイナスという認識を超えていくことが、心の成長であり、意識の福化、意識の拡張であり、挑戦でもあると言えるかも知れません。

 以前書いた『プラス思考を超える』もご参照下さい。


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考えることも大切だけど、時には、考えないことはもっと大切

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 私たちが人生を生きていく上で、考えるということはとても大切なことですが、時によっては、考えないことは、もっと大切なこともあります。

 生きるとは何か、人生とは、人生いかに生くべきか、生とは、死とは、幸福とは、不幸とは、運命とは、宿命とは、人生は決まっているのか、自分の使命は何か・・・・・。
 あれをどうしようか、これをどうしようか、どっちの道を選べば良いのか、ああでもない、こうでもない・・・・・。

 生きている限り、様々な思いが頭をよぎりますので、考えるということは大切なことであり、考えるべき時には、じっくりと考えるのが良いのだと思います。

 しかし、何も考えたくない時や、何も考えられない時には、考えることを止めて、ただ時が過ぎ行くのを待つことも大切だと思います。

 特に、毎日生きていくということ自体がしんどく感じられるような時には、考えるということをなるべく止めて、時が過ぎ行くのを、ただ耐え忍ぶということも大切なことであり、ある種のサバイバルテクニックのようなものかも知れません。

 変な例えになりますが、もし、田舎道を歩いていた時に、台風や竜巻が突然やって来て、吹き飛ばされそうになったとします。
その時、近くに身を隠す建物などが無いとしたら、近くに有る電柱か大木にしがみついて、台風や竜巻が通り過ぎて行くのを必死に待つしかありません。

 そのような絶体絶命の時には、電柱か大木にしがみついている自分のことを、不幸だとか不運だとか考えて悩んでいる余裕も無ければ、どうすれば良いかなど考えているゆとりも無い筈です。

 ただ、何も考えずに、台風や竜巻が通り過ぎて行くのを待つだけです。
 ただ、何も考えずに、時が通り過ぎて行くのを待つだけです。

 もし、どうしても、毎日生きていくということ自体がつらく苦しく感じられ、何も考えられない時は、考えることを止めて、ただひたすら、時が過ぎ行くのを待つことも大切だと思います。

 ある種のサバイバルテクニックのようなものかも知れません。
 そして、考える余裕が出来てきた時、考えたくなった時には、また好きなだけ考えれば良いと思います。

 ちょっと極端な話をしましたが、日常生活においても、考える時と考えない時のメリハリを付けることは、とても大切かも知れません。

 将棋の羽生善治名人は、大事な対局の前日などは、将棋とは関係の無い本を読んだりして、将棋のことは考えないように時間を過ごされているようなことを本で読んだ記憶があります。
 大事な対局で将棋に集中する為には、将棋のことを考えないオフタイムもとても大切なのかも知れません。

 現代は、インターネットやSNSの普及などによって、ネットに繋がってばかりいると、考えない時間を持つことすら難しくなってしまう面もあります。

 何も考えたくない時や、何も考えられないような時は、いっそ考えることを極力止めて、ただ時が過ぎ行くのを待つということも大切だと思います。
 生きていくこと自体に余裕が無い時には、特に大切かも知れません。

 考えるということはもちろん大切ですが、時には、考えないということは、もっと大切なことかも知れません。


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人生の流れを信頼する――今、自分はこの世界を完璧に通過中

 人生の流れを信頼することが大切だと思います。

 今、自分は、魂の進化としての道を最短距離で突き進んでおり、この世界を完璧に通過中だということを、信頼する力が大切になります。

 人は常に、自分が今いるべき、最善の場所に生かされています。

 自分が今映す現実世界に喜びや楽しさをあまり感じられず、つらく苦しいと感じることの方が多い時、人はとかく、過去を悔やんだりして、今まで自分が歩んできた道のりが、何かの間違いであったかのように思いたくなったりするものです。

 しかし、自分が今まで歩いてきた道のりの全ては、魂の進化として最善の道のりを最短距離で突き進んできたのであり、今、自分はこの世界を完璧に通過中なのです。

 そのことを信頼する力が大切になります。

 過去を悔やんで、「もし、あの時、こうしていれば・・・」と考えてみたところで、「もし、あの時・・・」という仮定は、実際には、存在していません。

 人生は、一点一角が違っても、全く違ったものになります。
 今現在の自分の意識が創られる為には、今までの自分の人生の全てが必要だったのです。
 今までの自分の人生で体験した全ての出来事が、今現在の自分の意識を形成するのに必要な体験でした。

 そのことを、信頼する力が大切になります。

 もし今、自分が映す現実世界が、あまり美しく感じられないとしても、今の心だから、今のことが、よく分からないだけなのです。

 未来の心であれば、そのことは、よく分かっています。
 未来の心であれば、今のことは、よく分かっているのです。

 今、自分はこの世界を完璧に通過中だということが、未来の心であれば、よく分かっているのです。

 例え今、自分が映す現実世界がつらく苦しく、今の自分が最善の場所に生かされているとは感じられなかったとしても、魂の進化としての道を最短距離で突き進み、この世界を完璧に通過中の自分自身を、信じる力が大切になります。

 人生の流れを信頼することが大切になります。

 例え今、分からなかったとしても、後で分かります。
 それはそれで悪くはない流れだったということが、後になれば、ちゃんと分かるのです。


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相手に思いがあるのではなく、相手がこう思っているという、自分自身の思いがあるだけ

 多くの人たちは、自分の周囲にいる人たちに対して、あの人は、自分のことをこう思っているという思いを持つことがあると思います。

 あの人は、自分のことを嫌っているとか、あの人は自分に一目置いてくれているとか、あの人は自分を好いてくれているとか、あの人は自分を軽蔑しているとか、様々な思いを持つことがあります。

 しかし、実際には、相手に思いがあるのではなく、相手がこう思っているという、自分自身の思いがあるだけなのです。

 何故なら、自分が映す現実世界(宇宙)とは、自分の意識が映し出された内面の世界であり、全ては心の内の景色であり、言わば、幻なのです。

 自分が映す現実世界(宇宙)の全ては、自分の心の中にある心象風景にしか過ぎず、言わば、インナーワールドなのです。

 あの人は、自分のことをこう思っているというのは、あくまでも、自分の認識にしか過ぎません。

 自分に対してこう思っている相手というのは、自分の認識の中にしか存在していません。

 相手に思いというものがあって、自分に対してこう思っている訳ではなく、相手が自分に対してこう思っている筈だという、自らの思い込みがあるだけなのです。

 相手に思いがあるのではなく、相手がこう思っているという、自分自身の思いがあるだけなのです。


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人に対する最大の批判は、「よく分からない」が精一杯

 私たちは、つい、人を価値判断し、人を非難・批判したくなりがちです。

 しかし、人に対して出来る最大の批判は、「よく分からない」が精一杯のところです。

 何故なら、自分が批判している人というのも、自分の認識の中にしか存在していないからです。

 この人はこういう人、この人はこんなひどい人、この人はこんな情けない人と捉えている人というのは、あくまでも、自分の認識にしか過ぎず、自分の認識の中にしか存在していないからです。

 その人がどういう人なのか、本当のところは、自分には分からないのです。
 本当のところは自分には分からないので、人に対して出来る最大の批判は、「よく分からない」が精一杯のところです。

 この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識だけです。

 大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識が全知全能の光で織り成すバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、「全ては大宇宙意識の戯れ(リーラ)」にしか過ぎず、言わば、一切が無、一切が幻の世界なのです。

 大宇宙の森羅万象の全てについて、その本当の意味が分かるのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識だけなのです。

 自分という存在は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、この大宇宙に二つとして同じものが無い、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、ある一つの角度・視点(してん)から、この大宇宙を映し出して体験している一つの支店(してん)なのです。

 自分が映す現実世界(宇宙)の全ては、自分の意識が投影された、自分の内面の世界であり、全ては心の内の景色、言わば、幻です。

 自分が映す現実世界(宇宙)の全ては、自分の心の中にある心象風景にしか過ぎず、言わば、インナーワールドなのです。

 そこに存在しているかに見える、全ての人、事、ものは、ただ、自分を解放するプログラムとして存在しているだけです。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)が囚われている、自分という「我」を解放して、宇宙へと帰って行くプログラム上に存在してくれているだけなのです。

 誰かを批判したくなる時というのは、自分という「我」が強くなっている時です。

 自分が持っている「正しさ」によって、人を批判したくなるのです。

 しかし、自分が持っている「正しさ」というのも、自分の認識にしか過ぎません。

 もし、誰かを批判したくなったら、そここそが、今、自分が解放すべきところになります。
 自分の心が強く囚われているところこそ、今、自分が解除すべきところなのです。

 自分が映す現実世界(宇宙)の全ては、あくまでも、自分の心の中の心象風景にしか過ぎないので、もし、自分が映す現実世界(宇宙)に、何か引っかかるところがあるとすれば、そここそが、今、自分が解放するところになります。

 今、誰かを批判したくなっているとすれば、そここそが、今、自分が解放すべきところなのです。
 自分の心の中にある凝り固まった部分を、解きほぐしなさい、ということになります。

 自分が批判したいひどい人というのは、あくまでも、自分の認識の中にしか存在していません。

 その人がどういう人なのか、本当のところは自分には、分からないのです。

 ですから、人に対して出来る最大の批判は、「よく分からない」が精一杯のところなのです。


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自分自身が「想像=創造」しない現実は、自分自身には起きない

 自分自身が「想像=創造(そうぞう)」しない現実は、自分自身には起きません。
 自分の目の前にある現実は全て、自分自身が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。

 自分の人生は全て、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 ですから、自分自身が「想像=創造(そうぞう)」しない現実は、自分自身には起きません。

 例え、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、予期せぬ出来事が起きたとしても、「想像=創造(そうぞう)」の源である、本源の我は、静かな心であり、少しも騒いではいません。

 本源の我である魂は、「想像=創造(そうぞう)」の源なので、そのことを元々よく分かっているのです。

 真我である魂の意図が感じられるようになってくると、何か予期せぬ出来事が起きて、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)がビックリしたり困ったと感じている時でも、心の源は少しも騒いではおらず、源の心は常に静かな心であり、豊かな心であることを感じられます。

 何か予期せぬ出来事が起きて、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)がビックリしたり騒いでいる時でも、自分の心の奥深くに、少しも騒いではいない静かな心、本当の自分自身の豊かな心を感じることが出来ます。

 自分の現実の全ては、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなので、何か予期せぬ出来事が起きた時でも、本当の自分自身は少しも驚いている訳ではなく、そのことをちゃんと知っている、安心している、という感じなのです。

 自分が体験する現実の全ては、自分の人生の主体者・創造者である魂が、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した最善の出来事なので、真我である魂の高い目的に叶ったものであり、決して自分自身にとって悪いようにはなっていないのです。

「想像=創造(そうぞう)」の源である魂は、そのことをよく分かっていますので、心の源は、少しも騒いではいません。

 何か予期せぬ出来事が起きて、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)がビックリしたり大騒ぎしている時でも、心の奥深くにある源の心は少しも騒いではおらず、そのことをよく分かっています。

 源の心は、常に静かな心であり、豊かな心なのです。


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夢や希望や目標を持つこと自体が、既に自分自身の力ではない

 生きるとは創造することであり、心と感じるままに、自分の夢や希望や目標に向かって、何かを創造していく旅の連続であるとも言えます。

 ですから、生きるということそのものが、何かを夢見たり、何かを望んだりすることなのですが、ここで忘れてはならない大切なことは、何かを夢見たり、何かを望んだりすること自体が、既に自分自身の力によって行われている訳ではないということなのです。

 私たちは、大宇宙に生かされている存在であり、自分自身の力だけでは、一呼吸すら出来ない存在なので、夢や希望や目標を持つこと自体が、既に自分自身の力で行われている訳ではないことを知ることが大切になります。

 私たちは、大宇宙に生かされている存在であり、一呼吸一呼吸生かされているからこそ、何かを夢見たり、何かを望んだり出来る訳であり、何かを夢見たり、何かを望んだりすること自体が、既に自分自身の力で行われているのではないということを、知ることが大切になります。

 自分が抱く夢や希望や目標自体が、既に、自分自身の力で行われている訳ではないのですから、ましてや、それが実現するかどうかなど、自分自身の力を超えた所にあるのです。

 純粋に自分自身の思考や感情というものはありません。
 生きているからこそ、生かされているからこそ、何かを思ったり、何かを感じたり出来る訳で、自分の思考や感情というのも、自分自身のものではなく、自分を生かしている力によって動かされているのです。

 大宇宙の森羅万象を貫く根源的エネルギーは一つです。
 大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーによって、森羅万象の全ては、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))により営まれています。

 大宇宙の森羅万象を動かしている根源的エネルギーが自分自身をも生かし、自分の思考や感情や行動も司っていますので、純粋に自分自身の思考や感情や行動というものはありません。

 夢や希望や目標を持つということ自体が、既に自分自身の力で行われている訳ではないので、ましてや、それが実現するかどうかなど、自分自身の力を超えた所にあるのです。

 私たちに出来るのは、心と感じるままに、自分の夢や希望や目標に向かって最善を尽くし、生きるという創造の旅を楽しんでいくことなのですが、それらの全てが、自分自身の力で行われている訳ではないということを、知ることが大切になります。

 昨日、『未来は100パーセント確定しているので、開く扉は開くし、開かない扉は、永久に開かない』の中にも書きましたが、未来は100パーセント確定していますので、開く扉(夢・希望・目標など)は必ず開きますし、開かない扉は、永久に閉じられたままであり、開かれることはありません。

 自分の思考や感情や行動の全ては、自分自身のものではなく、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))によって操られていることを知ることが大切になります。

 夢や希望や目標を持つこと自体が、既に自分自身の力ではないのです。


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未来は100パーセント確定しているので、開く扉は開くし、開かない扉は、永久に開かない

 未来は100パーセント確定していますので、開く扉は開きますし、開かない扉は、閉じられたままで、永久に開きません。

 自分が、希望しているどこかの会社に就職したいとか、希望している会社か誰それとビジネスパートナーになりたいとか、こういう仕事をしたいとか、こういう賞を受賞したいとか、誰それと結婚したいとか、様々な夢や目標があるかと思います。

 自分が開きたいと望んでいる扉(夢や目標のようなもの)があるかと思います。

 未来は100パーセント確定していますので、もし、それが、自分に向けて開かれるべき扉であれば、必ず開かれることになります。

 単に、その扉が開かれることが決まっているだけではなく、何時開かれるのか、どうようなプロセスを経て開かれるのかなども含めて、全ては100パーセント確定しています。

 ですから、もしそれが、自分に対して開かれるべき扉であれば、必ず、必要なプロセスを経て、必要なタイミングで開かれることになりますので、ある意味においては、安心していても大丈夫です。

 また一方で、もしその扉が、自分に対して開かれることの無い扉であれば、どんなに強く望もうが、どんなに努力しようが、扉は閉じられたままであり、永久に開かれることはありません。

「ご縁」という言葉がありますが、自分に「ご縁」のある扉は開かれますし、自分に「ご縁」の無い扉は、決して開かれることはありません。

 例えば、男女において、異性との出会いがあり、誰かと結婚することを望んだとします。
 もし、その異性と、結婚という「ご縁」にあるならば、必要なプロセスを経て、必要なタイミングで、必ず結婚することになります。

 もし、その異性と結婚という「ご縁」になければ、結婚に至ることはありません。
 人と人との出会いという「ご縁」はあった訳であり、もし、恋愛関係という「ご縁」にあるならば、交際するという扉は開かれることになります。

 しかし、もし、その異性と、結婚という「ご縁」には無いとしたら、結婚には至らず、結婚という扉が開かれることはありません。

 知っておくべき大切なことは、自分自身の高い目的に叶った最善の扉というのは、元々開かれることが決まっており、しかるべきプロセスを経て、しかるべきタイミングで必ず開かれるということです。

 そして、自分に「ご縁」の無い扉は決して開かれることはなく、自分に開かれることの無い扉、自分に「ご縁」の無い扉というのは、自分自身の高い目的に叶った最善の扉ではないということなのです。

 夢や目標を持つのは、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)ですが、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分にあるので、自分自身のことがあまりよく分かっていません。

 自分自身のことを一番よく分かっているのは、意識の奥深くにある、真我である魂です。
 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)が開かれることを望んだ扉(夢や目標など)が、例え開かれなかったとしても、その扉は、自分自身の高い目的に叶った最善の扉ではないことを、真我である魂は、元々よく分かっています。

 未来は100パーセント確定していますので、開く扉は開きますし、開かない扉は、閉じられたままで、永久に開きません。

 そして、自分が望んでいる何かの扉が開かれないというのも、決して悪いことではなく、自分自身の高い目的に叶った最善の扉ではないというだけのことなのです。
 
 未来は100パーセント確定しており、真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを知り尽くしていますので、そのことをよく分かっています。

 ですから、開かない扉があったとしても、大丈夫です。
 自分に開かれるべき扉は、別にあるということなのです。


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やる気が出ない時期というのも、魂の基本プログラムにある「間」の取り方の一つ

 お盆休みの時期を迎えましたね。
 皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 人生には、「間」というものがあります。
 仕事をしている1日でも、ティータイム・休憩時間や、お昼休みの時間など、「間」を取る時間が必要です。

 現代では、週休二日が一般的になりましたが、何千年も前の旧約聖書の時代から、週に1日は、安息日と言って、休息を取る「間」の時間が必要とされてきました。

 お盆休みやお正月休みなども、日本人の生活習慣の中にある、一つの「間」の取り方だと言えます。
 お盆やお正月休みに、忙しい日常を離れて一服することで、英気を養い、明日への活力を充電することが出来ます。

 それと同じように、人生において、やる気が出ないような時期というのも、魂の基本プログラムにある「間」の取り方であるケースが往々にしてあります。

 人生が大きく変わるような時期には、往々にして、やる気が出ないような時期を体験することがあります。
 やる気が出ないような時期というのも、魂の基本プログラムにある、ある種の「間」を取る時間であるケースが往々にしてあります。

 巷にあるような自己啓発書や成功哲学のようなものは、とにかく、目標を設定して、目標に向かって邁進することを推奨するような傾向がありますが、やる気が出ないというのも、必ずしも悪いことではなく、魂の基本プログラムにある、ある種の「間」を取る時間であるケースが往々にしてあります。

 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
 自分の人生の全ては、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを、既に知り尽くしています。
 そして、未来の地点から、現在の私を導いています。

 進むべき時には、やる気を起こさせますし、進むべきでない時には、その度合いに応じて、やる気を調節してくれます。

 やる気が出ないというのも、必ずしも悪いことではなく、魂の基本プログラムにある、「間」の取り方、調整の仕方であるケースが往々にしてあります。

 巷にあるような自己啓発書や成功哲学にはまっているような人たちの中には、例えば、10年後の目標を設定して、それに向かって邁進するようなことをしている人たちが、いまだにいるかと思います。

 それはそれで、一つの試行錯誤としては悪くはないかも知れませんが、それはあくまでも、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)が考えている最善のやり方であって、本当に最善であるかどうかは、分かりません。

 今の時代のような、かつて人類が経験したことがないような、変化が激しく速い時代に、10年後の社会を予測することすら困難だと思います。
 変化が激しく急速な、今のような時代に、10年後の自分の姿を想像することに、どれだけの意味があるのかは、はなはだ疑問です。

 時代がこれから進めば進む程、今人間がやっている仕事の多くは、コンピューターやロボットが取って代わることになるでしょう。
 10年後、今自分がやっている仕事自体は無くならないとしても、その大部分は、コンピューターやロボットが行っているかも知れません。

 そのような変化の激しい忙しい時代に、10年後の目標を設定して、それに向かって邁進するようなことが、本当に最善の道なのかどうかは、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、本当は分かっていないのです。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、自分の未来のことはなかなか分かりませんが、自分の人生の全ては既に100パーセント確定していますので、真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを、既に知り尽くしています。

 真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを、既に知り尽くしていますので、未来の地点から、現在の私を導いてくれています。
 進むべき時には、やる気にさせてくれますし、進むべき時でない時には、その度合いに応じて、やる気を調節してくれているのです。

 仕事であれ、趣味であれ、恋愛であれ、やる気が出た時には、誰に何を言われようともやる気になりますし、やる気が出ない時には、誰に何を言われても、なかなかやる気にはなれません。

 やる気が出ないというのも、必ずしも悪いことではなく、真我である魂の調節の仕方、ある種の「間」の取り方である場合が多くあります。

 真我である魂との折り合いを付けることがだんだん出来るようになってくると、進むべき時進み、ゆっくりする時ゆっくりし、止まるべき時止まるということが、だんだん自然に出来るようになってきます。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分にあるので、ほとんど何も分かっていないとも言えます。
 自分自身のことを本当に分かっているのは、意識の奥深くにある、真我である魂なので、真我である魂は、自分のやる気というようなものも調節しながら、自分自身を導いてくれています。


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真のグル(導師)は、自分自身の中にいる

 精神世界に関心が高い人たちや、霊性修行を求める人たちの中には、グル(導師)を求める人たちもあるかと思います。
 
 しかし、真のグル(導師)、本当のグル(導師)は、自分自身の中にしかいないことを、知っておくことは大切だと思います。

 もちろん、何かを学んだりする時には、教師に付き、教えを乞うことも、時には必要だと思いますし、人間一人ひとりには、様々な御縁がありますので、グル(導師)と呼ばれるような教師に教えを仰ぐこともあるかと思います。

 しかし、真のグル(導師)は、自分自身の中にしかいませんので、何れは、自分自身の中に、本当のグル(導師)がいることに気付くことになります。

 例え、世界中の、聖者・覚者・グル(導師)と呼ばれる人たちを訪ね歩いたとしても、最後に行き着くのは、自分自身の中にいる、真のグル(導師)、本当のグル(導師)なのです。

 敢えて、自分の外に、誰かグル(導師)を求めなくても、既に自分自身の中には、真のグル(導師)がいることを知ることが大切だと思います。


反省と後悔について

 反省と後悔ということについて、少し書いてみたいと思います。

 反省と後悔という言葉は、少し近い言葉のようにも捉えられていますが、反省ということと、後悔ということとは、はっきりと分けて考えるべき言葉だと思います。

 はっきり言うならば、反省はすべきですが、後悔はしても意味が無いということなのです。

 反省とは、過去の出来事を振り返って、それが何であったのかを省みることであり、何でそうなったのかを学ぶことが出来るものです。
 決して、過去の出来事を、良いとか悪いとか判断する必要はないのですが、何でそうなったのかを感じて、学ぶことが出来ます。

 ですから、反省はすべきであり、今後に使えるものだとも言えます。

 しかし、後悔というのは、しても意味が無いものなのです。

「後悔先に立たず」ということわざなどでも言われているように、後悔しても取り返しが付かないということだけではなく、後悔という思考そのものが、自らの認識の中にある小さな思考形態にしか過ぎないからなのです。

 後悔というのは、「後で悔いる」と書きますが、悪い結果に対して、後から悔いるということです。
 しかし、悪い結果と捉えたのは、あくまでも、自分の認識です。
 例え、人から言われたとしても、それを受け入れたのは、やっぱり自分自身であり、全ては自分の認識にしか過ぎません。

 悪いかどうかは、もっと後になって、時が変われば、見方が変わるかも知れません。
 また、もっと別の角度・視点から捉えてみれば、もっと別の見方が出来るかも知れないのです。

 それなのに、あなたは、悪い結果と決めつけてしまい、それに対して悔いているのです。

 人は皆、瞬間瞬間に行う選択の全ては、その時の自分自身にとって最善と思われる選択をしています。
 誰も、自分自身を傷付けて苦しめるような選択を、わざわざ好き好んで自分自身に行ったりはしません。
 
 自分が過去において、何かを選択した時は必ず、その時の自分にとっては最善と思われる選択をしてきた筈です。

 しかし、後になってから、それを悪い結果と決めつけてしまい、後悔して悔いているのです。

 しかし、それが本当に悪い結果なのかどうかは、もっともっと後になってみないと、本当のところはよく分からないかも知れません。
 また、もっと別の角度から見れば、違う見方が出来るかも知れません。

 それなのに、あなたは、悪い結果と決めつけてしまい、それに対して悔いているのです。

 後悔ということは、しても意味がありません。
 何故なら、後悔という思考形態そのものが、自らの認識の中にある小さな思考形態にしか過ぎず、本当のところは、何も分かっていないとも言えるからなのです。

 反省はすべきですが、後悔というのは、しても意味が無いのです。

 後悔するという思考を消滅へと向かわせることは、心の進化に繋がります。

魂の基本プログラムにより、未来の私が現在の私を導いている

 以前、『原因があって結果があると言うより、原因は結果によって選ばれている』の中にも書きましたが、原因があって結果があると言うより、原因は結果によって選ばれているのです。

 多くの人たちは、時間というものが、過去→現在→未来へと流れていると思っていますので、原因があって結果があると考えています。

 しかし、大宇宙の本質の世界である絶対世界においては、時間というものは存在しておらず、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。

 大宇宙の本質の世界である絶対世界においては、時間というものは存在していませんので、時間というのも、本当は幻想にしか過ぎないのです。
 時間は流れている訳ではなく、過去も未来も、今、同時に存在しています。

 時間は流れている訳ではないのですが、敢えて、時間の流れというものを想定するとすれば、それは、多くの人たちが考える、過去→現在→未来という流れではなく、それとは逆の、未来→現在→過去という流れになります。

 既に100パーセント確定している未来から時間がやって来て、未来に至る為のプロセスが、順番に創り出されているのです。
 原因があって結果があると言うより、原因は結果によって選ばれていると言った方が真実に近いのです。

 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
 真我である魂というのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。

 大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識が実在する絶対世界(大宇宙の本質の世界)とは、時空を超越した根源の世界なので、大宇宙の過去・現在・未来の全てが、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に存在しています。

 そして、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)である、真我である魂は、自分の人生の全て、受胎から肉体の死に至るまでの全てを、既に100パーセント知り尽くしているのです。

 真我である魂の基本プログラムにより、真我である魂が、未来の私が、現在の私を導いています。
 真我である魂は、意識の奥深い所にありますので、何かに夢中にさせたり、何をする気も起きなくさせたりして、未来から現在の私を導いているのです。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)は、近視眼的な物の見方しか出来ないので、様々な出来事を幸・不幸、運・不運と決めつけて大騒ぎしていますが、真我である魂は、魂の進化というプログラムによって「想像=創造(そうぞう)」された、未来の視点から、現在の私を最善の道へと導いています。

 頭(表面意識・顕在意識)でいくらあれこれと考えても、最終的には、必ず、真我である魂が決めてきた基本プログラム通りの選択をすることになります。
 真我である魂が決めてきた基本プログラム以外の心にはならないからです。
 そして、瞬間瞬間に自分が行う全ての選択は、魂の進化にとって最善の選択なのであり、決して自分自身にとって悪いようにはなっていないのです。

 自分がとった選択が最善の選択であったということは、未来にならないと、本当のところは分かりません。
 何故なら、死に至るまでの人生の全てを100パーセント知り尽くしている真我である魂が、未来から現在に向かって導いているので、未来になって初めて、その本当の意味が分かるからなのです。

 魂の基本プログラムにより、魂の進化の為に、未来の私が、現在の私を最善の道へと導いてくれているということを、信じる力が大切になります。

魂の基本プログラムによって、死に至るまでの全てがプログラムされている

 昨日、『真我である魂の基本プログラムによって人生が導かれている』の中にも書きましたが、自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である魂なので、自分の人生には、生まれる前に魂が決めてきた基本プログラムが入っています。

 そして、真我である魂の基本プログラムによって人生が導かれていますので、死に至るまでの全ては、既にプログラムされています。
 真我である魂は、死に至るまでの自分の人生を、既に知り尽くしているのです。

 真我である魂の関心事は、魂の進化ということであり、光り輝く魂になるということなので、自分の人生の全ては、魂の進化というプログラムによって、既に死に至るまでの全てがプログラムされています。
 私たちの人生とは、魂の進化というプログラム上にしか存在していないのです。

 私たちの人生を導いているのは、真我である魂の基本プログラムなのです。
 自分が、仕事であれ、趣味であれ、恋愛であれ、何かに夢中になったり、あるいは時には、何もする気が起きなかったりするのは、全ては魂の基本プログラムなので、その時は、その状態がベストということなのです。

 というよりも、魂が決めてきた基本プログラム以外の心にはならないからです。
 自分であれこれと考えたり、損得勘定をしてみたり、人の意見や本に書かれていることなどを参考にしてみたりしても、魂の基本プログラム以外の心にはならないので、最終的には、必ず、魂が決めてきたプログラム通りの選択をすることになります。

 そして、瞬間瞬間に自分が選択した全ては、魂の進化にとって最善の選択なので、決して自分自身にとって悪いようにはなっていないのです。

 私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、真我である魂から見れば、全ては最善の選択なのです。

 例えその時、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では分からなくても、真我である魂は、鳥瞰図という言葉があるように、大所・高所から自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」していますので、決して悪いようにはなっていないのです。

 自分の人生には、真我である魂が、生まれる前に決めてきた基本プログラムが入っており、死に至るまでの全ては、生まれる前から既にプログラムされています。

 自分の人生の全ては、生まれる前から100パーセント決まっているのです。
 何故なら、真我である魂とは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)なので、真我である魂の決めてきた基本プログラムとは、即ち、大宇宙意識が決めた基本プログラムであり、大宇宙の計画の一部でもあるからです。

真我である魂の基本プログラムによって人生が導かれている

 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である魂です。
 自分の人生には、真我である魂が決めた基本プログラムが入っていますので、必ず、魂が決めた基本プログラム通りに導かれていきます。

 多くの人たちは、自分の頭であれこれ考えて、人生の選択をしていると思っていますが、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分なので、実際には、意識の深い部分にある、真我である魂が、全ての選択を行っています。

 生まれる前に魂が決めてきたプログラム通りに、全ての選択を行っているのです。
 ですから、例え、頭で、あれこれと損得勘定をしてみたり、あれこれ考えても、最終的には、必ず、魂が決めてきた基本プログラム通りの選択をすることになります。

 魂が決めてきた基本プログラム以外の心には、ならないからです。
 ですから、頭でどんなに損得勘定で、いま会社を辞めないほうが得だと自分に言い聞かせてみても、会社を辞めたい時には、やっぱり、それ以外の心にはならないので、最終的には、会社を去ることになります。

 それが良いとか悪いとかではなく、その時は、その会社とのご縁がもう必要ではなくなる時だというだけのことです。
 そして、次なる場面が必ずあるということです。
 それがどのような場面になるのかは、なってみなければ分かりませんが・・・。

 仕事に夢中になっている時は、誰に何を言われようとも、がむしゃらに突っ走ったりしますし、あるいはまた、何もする気が起きない時には、誰に何を言われようとも、何もする気にはなれません。
 誰かを好きになった時には、他のことが眼中に無くなったりしますし、また時には、異性のことに何も興味が湧かない時期もあったりします。

 自分の人生には、真我である魂が決めてきた基本プログラムが入っていますので、それ以外の心にはならないのです。
 何かに夢中になる時には何かに夢中になりますし、何もする気が起きない時には、何もする気にはなれません。

 それらの全ては、自分自身の中に入っている魂の基本プログラムなので、良いとか悪いとかではなく、それ以外の心にはならないというだけのことなのです。

 そして、自分の人生の主体者・創造者であり、真我である魂というのも、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、大宇宙における一つの「支店=視点(してん)」としての役割として存在しているだけなので、真我である魂が決めてきた基本プログラムとは、即ち、大宇宙意識の決めた基本プログラムであり、大宇宙の計画なのです。


意識を創る旅の連続――ある意識は次なる意識を創り、その意識はまたさらなる意識を創っていく

 生きるとは、瞬間瞬間の意識を創る旅の連続だとも言えます。
 ある意識は次なる意識を創り、その意識はまた、さらなる次の意識を創っていきます。

 私たちが生きるとは、ある意味においては、瞬間瞬間の意識を創る旅の連続だと言えるかも知れません。

 そして、ある意識に到達して始めて、次なる意識が現れて来るのです。

 徒歩や車や電車、あるいは飛行機などで、何処かへ旅をするのと同じで、その場所に到達して始めて、そこの景色・風景が見えて来るのです。
 あるいは、山登りをするのも同じですが、ある場所まで登って来て初めて、そこから眼下に広がる風景・景色が見えて来ます。

 その場所に到達するまでは、そこから展開する風景・景色・パノラマは見えて来ません。

 旅行や山登りなど、現実での旅だけではなく、意識を創る旅においても、同じことが言えます。
 ある意識に到達して初めて、そこから展開するさらなる次の意識が見えて来るのです。

 多くの人たちは、自分が幸福・幸運だと願っている希望が実現したら、どんなに幸せだろうかと夢見る一方で、自分が不幸・不運と恐れている事態が起きたら、どんなに苦しいだろうかと恐れたりします。

 しかし、実際には、幸福・幸運と夢見る出来事や、あるいは逆に不幸・不運と恐れる出来事なども、それらが実際起きた時、自分がどのように感じるのかは、実際にその時になってみなければ分からないのです。

 それらの出来事を実際に体験した時初めて、その時点での意識が現れて来るのです。

 極端な例を挙げると、ノーベル賞受賞という、一生の悲願を実現したことで、かえって猛烈な虚無感に襲われて、死にたくなる人もいるようです。
 また、それとは逆に、阪神大震災で家や仕事など全てを失った人が、何もかも綺麗さっぱり無くなってしまったことで、かえって清々したと語っておられた方もあるようです。

 これらは、あくまでも、極端な例ですが、ある出来事が起きた時に、自分が実際どのように感じるのかは、その時になってみなければ分かりません。

 ある意識に到達した時初めて、次なる意識が現れてくるのです。

 そして、どちらにしろ、全ては自分にとって最善の出来事が起きています。
 全ての出来事は、魂の進化にとって最善の出来事であり、高い目的に叶ったものなのです。

 何故なら、自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂だからです。

 自分の人生の全ては、真我である魂が、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、自分自身にとって、決して悪いようにはなっていないのです。

 自分の人生の全ては、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である魂が、豊かなる心の位置で現れてくる、豊かなる世界を体験して味わう為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

自分が映す現実世界(大宇宙)の全てが、心の内の景色であることが実感出来るようになると、寂しいという感情が薄れていく

 自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、全ては心の内の景色であり、言わば、幻です。

 自分自身の中にある、心の心象風景とでも言うべきものを、空間という、360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出して見ているだけなので、言わば、インナーワールドなのです。

 このことが実感出来るようになってくると、人との関係が、だんだん淡く感じられるようになり、友達と友達でない人とを分けて考える思考形態も消えていき、寂しいという感情も、だんだん薄れていきます。

 肉体を持った自分がいて、自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界があると思っているうちは、友達が多いとか少ないとか、この人は友達で、あの人は友達でない人というふうに、友達と友達でない人とを分けて考える思考形態が強く、寂しいという感情を強く持つこともあります。

 しかし、自分が映す現実世界(大宇宙)の全てが、自分の内面の世界であり、全てが心の内の景色であることが分かると、空間(自分が映す現実世界)の全てが自分自身であり、空間(自分が映す現実世界)の全てが友達であるとも言えますので、友達が多いとか少ないとか、この人は友達で、あの人は友達でない人というふうに、友達と友達でない人とを分けて考える思考形態も消えていき、寂しいという感情も薄れていきます。

 自分が映す現実世界には、その瞬間瞬間に自分が体験すべき、自分の心の内の心象風景が映し出されているだけなので、自分の人生に現れる全ての人たちは、その瞬間瞬間に自分にとって必要な役割を演じてくれているだけなのです。

 電話やメールをやり取りしたり、お茶や食事を一緒にしたりする人たちばかりが友達なのではなく、瞬間瞬間に出会う全ての人たちが友達であるとも言えます。

 旅先で出会って一言だけ言葉を交わし、もう二度と再び会うこともないであろう人たちも、ある意味においては、友達のようなものですし、プライベートでは決して会うことの無い、自分の苦手な人や嫌いな人たちさえも、ある意味においては、友達であるとも言えます。

 プライベートでは決して付き合いたくない、会社の苦手な上司や同僚たちでさえも、瞬間瞬間に自分が体験すべき役割を職場の中では演じてくれている訳なので、ある意味においては、友達のようなものだと言えるかも知れません。

 全ては心の内の景色であり、全てが、主観の世界なのです。
 自分が映す現実世界(大宇宙)の全てが、自分の内面の世界なので、空間の全てが自分自身であるとも言え、空間に映る全てが友達であるとも言えます。

 そのことが実感出来るようになると、人とのことが淡く感じられるようになり、友達と友達でない人とを分けて考える思考形態も消えていき、寂しいという感情も、だんだん薄れていくのです。

宇宙は様々な形でサポートしてくれている

 宇宙は、様々な形でサポートしています。
 この大宇宙は、様々な形で、自分をサポートしてくれているのです。

 自分自身にとって、幸福・幸運、あるいは、人から優しくされたり、親切にされたりというような、自分にとって心地良く感じられることばかりが、宇宙からのサポートではありません。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)から見れば、不幸・不運としか思えない出来事や、人から冷たくされたり、厳しく叱られたり、人から裏切られたり、というようなことさえも、宇宙からのサポートの一つの形なのです。

 例え、その時は、宇宙からサポートされているなどとは、とても思えなかったとしても、ずっと後になってから振り返ってみれば、それはそれで悪くはなかったのだということが分かります。

 私たちの人生とは、毎瞬毎瞬、意識を創っていく旅の連続になります。
 自分にとって、うれしかったこと、楽しかったこと、心地良かったことばかりが、意識を創ってくれるのではありません。
 自分にとって、辛かったこと、悲しかったこと、心地悪かったことなども含めて、全てのことが、意識を創っていく旅の肥やしになります。

 自分にとって、都合良かったこと、心地良かったことだけが、自分の為になった訳ではありません。
 自分にとって、都合悪かったこと、心地悪かったことも、実は、自分の為になっていたのです。

 今この瞬間の自分自身の意識というのは、今まで生きてきた人生の全ての体験が創りあげてくれたものなのです。
 今までの人生におけるどのような体験も、今の意識を創る為には必要だったということになります。

 この大宇宙というのは、計り知れないものなので、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では分からないような、様々な形を通して、自分をサポートしてくれています。

 例え今、自分がどのような状態にあろうとも、宇宙は常にサポートしてくれています。
 この大宇宙は常に、様々な形を通して、自分をサポートしてくれているということを、信じる力が大切になります。

書籍「魂の夢、光り輝く魂」――豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる

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 書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、21世紀の新しい世界観「開眼世界観」に基づき、生きるということの本質について、考察した書です。

 書籍「魂の夢、光り輝く魂」には、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」というサブタイトルが付いています。
 自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分の意識が投影された自分の内面の世界であり、全ては心の内の景色であり、言わば、インナーワールドなのです。
 ですから、自分の心の位置の豊かさでしか、豊かなる世界を感じることは出来ないのです。

 自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界というものがある訳ではなく、自分が映す現実世界の全ては、自分の心の内の景色なのです。

 書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、何方にとってもお勧めなのですが、特に、幸・不幸、運・不運という概念に囚われている方、自分が映す現実世界の全てが、自分の意識を投影した自分の内面の世界であり、自分の外に何か確固とした客観的な現実世界がある訳ではないということが理解出来ていない方にお勧めです!

 書籍の詳細につきましては、こちらからどうぞ!

一つひとつの事象を無識別に戻して、判断しないことが大切

 幸福という概念は、対極に、不幸という概念を持っています。
 何かを幸福と思う心は、そうでないものを不幸と思う心と、セットになっています。
 幸福という概念は、不幸という概念とセットになった考え方であり、どちらか一方だけでは存在出来ない考え方です。

 幸運という概念も、同じです。
 何かを幸運と思う心は、そうでないものを不運と思う心と、セットになっています。

 私たち人間はともすれば、人生で起きる一つひとつの事象に対して、幸・不幸、運・不運という判断をする傾向がありますが、一つひとつの事象を無識別に戻して、判断しないことが大切だと思います。

「人間万事塞翁が馬」という故事にもあるように、一つひとつの事象に対して、これは幸福だとか、これは不幸だとか判断していても、それが本当にそうなのかは分かりません。

 馬から落ちて足を骨折したことを不幸・不運と捉えていても、そのおかげで戦争に行かなくてよくなり、命拾いをすることもあります。

 落馬して骨折したことを、で捉えると不幸・不運と映るかも知れませんが、そのおかげで兵役を免れて死なずに済んだ訳ですから、もっと広い目でとして捉えると、今度は逆に、幸福・幸運だったと映るかも知れません。
 禍福は糾(あざな)える縄の如しなのです。

 何かを不幸・不運と捉えても、それが本当にそうなのかは分かりません。
 逆に、何かを幸福・幸運と捉えても、それが本当にそうなのかも分からないのです。

 製造業などが分かりやすい例ですが、会社が傾く原因は、実は、会社の業績が良くなった時に、会社が傾く種が蒔かれていたりします。
 業績が良くなり、新しい工場を新設して多大な設備投資をしたり、人員も大量に採用したりしたことが、後で業績が落ちて来た時に、経営を圧迫する原因となるのです。

 逆に、主力商品の売り上げが大幅に落ち込み、主力商品に依存出来なくなることで、新商品の開発や、新しい分野に活路を求めて会社が生まれ変わるということもあります。

 会社の売り上げが伸びたからと言って、それが本当に幸運なのかは、よく分かりません。
 逆に、会社の売り上げが落ちたからと言って、それが本当に不運なのかも、本当のところは、よく分からないのです。

 人生に起きる全てのことは、それと同じようなものなので、一つひとつの事象に対して、幸・不幸、運・不運というような判断をしないで、無識別に戻すよう心掛けることが大切だと思います。

幸福という概念そのものが、あやしい概念

 多くの人たちは、幸福を求めて、幸福という概念に囚われていますが、幸福という概念そのものが、実は、あやしい概念なのだと気付くことが大切だと思います。

 多くの人に、何を望んでいますか、と聞いたなら、ほとんどの人は、幸福を望んでいます、と答えることでしょう。
 では、幸福とは何ですか、と聞いたなら、よく分からないので、世間一般で言われているような答え方をする人が多いかと思います。

 そして、あなたは幸福ですか、と聞いたなら、周囲の人との比較や、周囲の人が自分をどう評価しているのかによって、自分はまあまあ満たされているから幸福だとか、自分は他の人たちよりもまだまだ足りないものが多いから不幸だとか、判断したりしています。

 幸福とは、自分自身の心が感じるものなのに、人との比較や人からの評価で、自分は幸福だとか、自分は不幸だとか判断したりしています。
 自分が幸福かどうかは、自分自身の心の中にしか答えはないのに、世間一般の人たちとの比較や、人からの評価によって、自分の外に、自分が幸福かどうかの判断基準を置いたりしています。

 そして、いつもどこかしら、自分には何かが足りず、少し不幸だと感じており、もっと幸福な明日を夢見て、今日ここにある幸福、今ここにある幸福を、どこか蔑(ないがし)ろにして生きています。

 そして、夜が明けると、明日が今日という日になります。
 そしてまた同じように、自分の外の世界を見て、人との比較や人からの評価によって、自分が幸福か不幸か判断しながら、今ここにある幸福、今日ここにある幸福をどこか蔑(ないがし)ろにして、自分はどこかしら不幸だと感じながら、もっと幸福な明日を夢見て、永遠に来ない明日に心を奪われています。

 幸福とは何でしょう?
 その答えは、自分自身の心の中にしかありません。
 自分の外の世界に答えを求めて、人との比較や人からの評価の海に溺れていても、そこには答えは無いのです。
 
 そして、幸福という概念そのものが、囚われとなって自分自身を苦しめることにもつながります。

 多くの人たちが、何の疑いもなく、いつも頭にこびり付けて囚われている概念、幸福という概念そのものを、もう少し淡く捉えるようにすると良いかも知れません。

 多くの人たちが、いつも囚われている概念、幸福という概念そのものが、実は、あやしい概念なのだと気付くことが大切だと思います。

元々道があった訳ではなく、人が通ったから道だと思うようになっただけ

 昔々、人が住んでいない場所には、人が通る道はありませんでした。
 獣が通る獣道だけがありました。

 やがて、人が移り住んで来て、人が生活するようになると、人が通った跡が、少しずつ道になっていきました。
 杣道や、田んぼの畦道のように・・・。
 そして、人が多く通る道は、だんだん整備されて、大通りのようになっていきました。

 これはあくまでも、地面の道、道路の話なのですが、私たちが持っている、常識や概念、認識、世界観などについても、同じようなことが言えると思います。

 私たちが常識だと思っている概念は、多くの人たちが、何の疑いもなく当たり前のように通っている大通りのようなものかも知れません。
 みんな通っているから、みんながそう言っているから、だから正しい道なのだ、という感じで・・・・・。

 しかし、元々そこに道があった訳ではないのです。
 人が通ったから、そこが道だと思うようになっただけなのです。

 住んでいる国や地域、人種、民族、宗教、あるいは同じ地域でも時代によって、考え方は様々です。
 それらは全て、元々、天道、天の道としてあった訳ではなく、人が通ってそこが道だと思ったから、正しい道だと思うようになっただけなのです。
 
 元々道があった訳ではなく、人が通ったから、そこが道だと思うようになっただけなのです。

徹底した脳の洗浄(ロンダリング)が大切

 私たちは皆、物心ついた時から、親を始め世間の人たちが持つ、様々な常識・概念・考え方などをインプットされながら育ち、大きくなります。

 自分が持っている常識や、正しいと思っている考え方・概念などは、ほとんど他の人たちから入れられた概念なので、常に、脳の中を洗濯・洗浄(ロンダリング)して、不必要な概念はどんどん排除していくように心掛けることが大切だと思います。

 今という時代は特に、ありとあらゆる書物が氾濫している上に、インターネットの普及によって、世界中のありとあらゆる情報が入って来ますので、知らず知らずのうちに、不必要な情報・概念で頭の中が一杯になっているかも知れません。

 衣服を洗濯して、衣服に着いた汚れをこまめに洗浄(ロンダリング)していくような感じで、自分の頭の中を徹底的に洗浄(ロンダリング)していくような意識を持つことが大切だと思います。

 今という時代は、あまりにも、ありとあらゆる情報が氾濫し過ぎている為に、知らず知らずのうちに洗脳されてしまっているかも知れません。

 これは、誰にとっても気を付けなければいけないことなのですが、特に、精神世界とかスピリチュアルな世界が好きな人たちは、より一層の注意が必要だと思います。
 いわゆる、精神世界とかスピリチュアル系と呼ばれる世界で語られていることの中には、あまりにも、訳の分からない、様々な情報や概念が氾濫し過ぎているような感じがします。

天が難しい生き方を人間に求めているのではなく、私たち人間の方が、生き方を難しくしているだけ

 天は、元々私たち人間に対して、それ程難しい生き方を求めている訳ではなく、私たち人間の方が、生きることを難しくしているだけなのかも知れません。

 どう生きれば良いかというようなことは、本来、学校で学んだり、本を読んだりしなければ分からないようなことではなく、子供にでも分かるような、単純なことなのかも知れません。

 縄文時代はとても平和な時代であったようですが、書物や学校など無かった筈で、だからと言って、どう生きれば良いかということを、誰も知らなかった訳ではない筈です。
 どう生きれば良いのかなど、本来、子供にでも分かるような単純なことであり、敢えて一言で表現するならば、次のような言葉になるのかも知れません。

 天を敬い、自然と調和しながら、人皆仲良く相和して、毎日を喜びと感謝に生きよ!

 時代が進むにつれて、様々な宗教や教え・道が生まれ、様々な書物が生まれ、ありとあらゆる情報が反乱し過ぎている為に、かえって、どう生きれば良いのかが分からなくなり、生き方を難しくしているのかも知れません。

 それらのほとんどは、私たち人間が創り出したものです。
 私たち人間の方が、生き方を難しくしているだけなのかも知れません。
 元々、天は、それ程難しい生き方を、私たち人間に要求している訳ではないと思います。

 どう生きれば良いのかなど、学校に行って学んだり、書物をたくさん読まなければ分からないようなことではなく、子供にでも分かるような、単純なことなのかも知れません。

 天を敬い、自然と調和しながら、人皆仲良く相和して、毎日を喜びと感謝に生きよ!

生きるとは創造すること――全てを創造に使っていく生き方

 生きるとは、創造することであると言えます。

 私たちが何かを考えたり、体を動かしたり、何かを行ったりすることの全てが、何かを創造していることであると言えるかもしれません。

 生きるとは創造することであり、常に毎瞬毎瞬、何かを創造し続けていく連続であるとも言えます。

 そして、ここで大切なことは、全てを創造に使っていく生き方が出来るということなのです。

 自分の長所や得意分野、成功したこと、幸福・幸運だと感じるような事柄だけが、創造に使える訳ではありません。
 自分の短所や欠点、不得手な分野、失敗したこと、不幸・不運と感じられるような事柄まで含めて、全てを創造に使っていく生き方が出来るということなのです。

 拡張した意識になると、自分の短所や欠点、自分の苦手な分野、不得意な分野なども、それはそれで悪いという訳ではなく、一つの創造力になっているということが分かります。

 また、不幸・不運としか思えなかったような出来事や、失敗したことなども、それはそれで、必ずしも不幸・不運・失敗という訳でもなく、次なる創造、新たな創造を生み出していく創造力の元にもなっていたということが分かります。

 自分の短所や欠点、苦手なこと、不得手なこと、失敗したこと、不幸・不運としか思えなかった出来事なども含めて、全ては創造に使えるということなのです。

 もし、自分にとって大切だった何かが失われてしまったとしても、それで人生終わりという訳ではなく、そこからまた、新たな創造を掛けて、次なる場面、新たな創造の旅を楽しんでいけば良いということになります。

 空気と同じで、この空間(大宇宙)には「無限」の創造が拡がっています。
 あとはただ、自分が「想像力=創造力(そうぞうりょく)」をどこまで発揮して、生きるという創造の旅を楽しんでいくのかということになるのかも知れません。

 生きるとは創造することです。
 私たちが生きるとは、創造の連続であり、常に何かを創造し続けていくことの連続であると言えます。

 そして、自分の長所や得意な面、成功している分野、幸福・幸運と思える事柄だけではなく、自分の短所や欠点、不得手・苦手な分野、失敗したこと、不幸・不運と思える事柄まで含めて、全ては創造に使えるということなのです。

 生きるとは創造することであり、全てを創造に使っていく生き方が、私たちには出来るのです。


自らが持つ強い認識・常識をどんどん手放していくことが、楽しい流れとなる

 人は誰でも、心の中に、自らが信じる強き思い込み・認識・常識というものを持っています。
「〜はこうあらねばならない」、「〜はこうあるべきだ」というような、自らが信じる強い認識・常識・思い込みというものを持っています。

 しかし、それはあくまでも、自分の認識・常識・思い込みにしか過ぎないので、それらの強き思い込み・認識・常識は、常に崩されていく流れの中にあります。

 心を無地透明にして、ピュアな心になっていくことが、流れなのです。

 自らが持つ強い認識・常識・思い込みを強めるのではなく、「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」とゆるやかに開放していくことが、心の成長であり、意識の拡張であり、楽しい流れとなります。

 家族とはこういうもの、家族はこうあるべき・・・・・。
 親とはこういうもの、子供とはこういうもの、夫はこうあるべき、妻はこうあるべき、兄弟姉妹はこうあるべき・・・・・。
 親戚とはこういうもの、親戚付き合いはこうあるべき・・・・・。
 
 会社とはこういうもの、会社はこうあるべき・・・・・。
 経営者とはこういうもの、上司とはこういうもの、同僚とはこういうもの、部下とはこういうもの・・・・・。

 社会とはこういうもの、世の中はこうあるべき・・・・・。
 隣人とはこういうもの、友達はこうあるべき・・・・・。

 それらは全て、自らが持つ強い認識・常識・思い込みにしか過ぎません。
 そして、自らが持つそれらの概念が、自分自身を苦しめる原因にもなっています。

 家族とはこういうもの、家族はこうあるべきだ、というような強い認識・常識・思い込みを持っているので、家族の中のある部分に不平・不満を覚えたり、許せないと感じてしまうのです。

 会社とはこういうもの、会社はこうあるべきだ、上司はこうあるべきだ、部下はこうあるべきだ、というような強い認識・常識・思い込みを持っているので、自らが持つそれらの概念が、不平・不満の原因にもなって、自分自身を苦しめることにもつながっています。

 自らが持つ強い認識・常識・思い込みは、あくまでも、自らの認識にしか過ぎないので、常に崩されていく流れの中にあります。

 心を無地透明にして、ピュアな心になっていくことが、流れなのです。

 自らが持つ強い認識・常識・思い込みを強めるのではなく、ゆるやかに開放し、「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」と、どんどん手放していくことが、心の成長であり、意識の拡張であり、楽しい流れとなります。


未来の私に委ねる――未来の心であれば、今のことは、良く分かっています

 人生に行き詰まりを感じて、今の自分が置かれている状況をどう捉えたら良いのか、今、自分は何をすれば良いのかが、全く分からず、途方に暮れる時があります。

 八方塞がりの中に自分がいるように思えたり、出口の全く見えない、暗いトンネルの中にいるように感じることもあるかも知れません。
 絶体絶命のピンチに追い込まれたような感じで、死にたくなるような時もあるかも知れません。

 そのような時は、未来の私に委ねる、ということが大切になります。
 未来の私、大いなる私に委ねる、ということが大切になります。

 今の心だから、今のことが、良く分からないだけなのです。
 未来の心であれば、今のことは、良く分かっています。
 未来の心であれば、そのことは、良く分かっているのです。

 過去において、八方塞がりのような状況に追い込まれたり、絶体絶命のピンチと思えるような状況に陥ったりして、人生に行き詰まりを感じたこともあるかも知れません。
 出口が全く見えない、暗いトンネルの中に自分がいるような感じがして、自分は何故、このような状況にいるのか、自分はこれからどうすれば良いのかが、全く分からず、死にたくなるような思いをしたこともあるかも知れません。

 しかし、次なる場面が必ずあり、次なる展開が必ずあり、ちゃんと道は付いていた筈です。
 今、その時のことを振り返れば、あの時はああいう時だったのか、ということが、今の心であれば、分かるのです。
 
 あの時は、ああいう時だったからこそ、次なる場面があり、次なる展開があり、今現在に繋がっているということが、今の私であれば、分かる訳なのです。

 人生に行き詰まりを感じて、何故、自分はこのような状況にいるのか、自分はどうすれば良いのかが分からなくても大丈夫です。
 今の心だから、今のことが良く分からないだけなのです。
 未来の心であれば、今のことは、良く分かっています。
 分からないところは飛ばしておいて、未来の私に委ねれば良いのです。

 未来は100パーセント確定していますので、未来の私、大いなる私は、死に至るまでの自分の人生の全てを知り尽くしています。
 未来の私、大いなる私は、今の私のことを、良く分かっています。

 例え、今の私の心では、自分が不幸・不運のドン底にいるように感じられたとしても、未来の私、大いなる私から見れば、魂の進化にとって必要なプロセスであり、魂の進化にとって最善の状況であり、魂の進化としての道を最短距離で突き進んでいることを、良く分かっているのです。

 次なる場面が必ずあり、ちゃんと道は付いているから大丈夫だということを、未来の心は、良く分かっているのです。

 今の心だから、今のことが良く分からないだけなので、分からないところは飛ばしておいて、未来の私、大いなる私に委ねれば良いのです。

 未来の私、大いなる私は、今の私のことを、良く分かっています。
 やがて、未来の私、大いなる私が解決してくれます。

新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が完成致しました!

2014年11月11日発売の新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が完成致しました!
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「何故、未来は100パーセント確定しているのか」カバー見開き.jpg             四六判  228ページ
         価 格  本体1500円+税
         発 売  星 雲 社

新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」は、全国の書店、および、アマゾン等のオンライン書店での発売日は、
11月11日となりますが、当ホームページにて先行販売を開始致します。

先行販売に御予約いただいた方には、本日、書籍を郵送させていただきますので、お手元に届くまで、今しばらくお待ち下さい。

書籍の内容につきましては、書籍「何故、未来は100パーセント確定しているのか」のページをご参照下さい!

ご注文につきましては、「ご注文・ご予約」ページからお願い致します!

この大宇宙に本当に実在しているのは、根本創造主(大宇宙意識)だけであるということと、未来は100パーセント確定しているということとは、本質的に、同じこと

 今月発売の新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」に続き、来月10月には、さらにもう一冊の新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が、出版されます!

「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」と、「何故、未来は100パーセント確定しているのか」は、ある意味において、姉妹書とも言える内容になっており、この大宇宙についての、最も本質的な、根源的な内容の書になっていますので、両書を併せてお読みいただくことを、強くお勧め致します!

 この大宇宙に本当に実在しているのは、根本創造主(大宇宙意識)だけであるということと、未来は100パーセント確定しているということとは、本質的に、同じことなのです。

 大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界においては、時間というものは存在しておらず、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。

「時」には、始まりも無ければ終わりもありません。
 大宇宙の根本主体であり、根本創造主である大宇宙意識は、不生不滅の実在であり、誕生するということも無ければ、消滅するということも無く、「永遠(えいえん)の今」に実在しています。

 大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
 物理的大宇宙(相対世界)の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界においては、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識だけが実在しており、大宇宙意識という「純粋意識」の中に、大宇宙の全てが存在しているのです。

 絶対世界においては、大宇宙の全て、大宇宙の過去・現在・未来の全ては、元々存在しているのです。

 未来とは、今これから創られていくものではなく、元々存在しているものであり、既に100パーセント確定しているものなのです。

新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が、2014年10月に出版されます!

9月15日発売の新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」に続き、さらにもう一冊、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が、2014年10月に出版されます!

「何故、未来は100パーセント確定しているのか」と、「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」は、ある意味において、姉妹書とも言える内容になっています。

ぜひ、新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」と、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の二冊を、併せてお読みいただくことを、強くお勧め致します!

全国の書店での発売に先立ち、書籍が完成し次第、当ホームページにて先行販売を開始致します。
詳細につきましては、後日改めてお知らせ致しますので、どうぞお楽しみに!

   「何故、未来は100パーセント確定しているのか」  
         白紙の未来がある訳ではなく
      未来は100パーセント確定しています

   目  次
 はじめに

大宇宙の真相
   大宇宙における実相(本質)の世界と、仮相(仮の姿)の世界
  絶対世界――大宇宙の実相(本質)の世界とは
  相対世界――大宇宙の仮相(仮の姿)の世界とは
  想像(そうぞう)=創造(そうぞう)
  根本創造主が唯一行っているのは、「想像=創造(そうぞう)」という仕事
  大宇宙=無限
  大宇宙の本質の世界(絶対世界)には、時間も空間も存在しない
  全ては、根本創造主(大宇宙意識)の顕れ
  大宇宙の森羅万象を貫く根源的エネルギーは一つ
  大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))
  全ては大宇宙の計画の中
  全ては必然、一切偶然なし
  この大宇宙に本当に実在しているのは、根本創造主(大宇宙意識)だけ
  大宇宙意識を映し出す「鏡」――物理的大宇宙は「映(うつ)し世」
  大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」の喜びを体験する為の世界
  物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界であり、幻の世界
  物理的大宇宙は、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界
  物理的大宇宙の全ては、根本創造主(大宇宙意識)の光の中
  全ては、「大宇宙意識の戯れ(リーラ)」
  全ては、根本創造主(大宇宙意識)の弥栄
  一切無、一切幻
  大宇宙の全ては完
  大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
  大宇宙意識とは、神や仏という概念を遥かに超えたスーパーな存在
  大宇宙の森羅万象の全てが、大宇宙意識により営まれている

時間は幻想
   時間は幻想
  永遠(とわ)の中今
  永遠とは
  無始の過去、無終の未来
  「時」には、始まりも無ければ終わりも無い
  大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)は、不生不滅の実在
  大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
  大宇宙の全てが、元々存在している
  絶対世界の「時」と、相対世界(物理的大宇宙)の時間
  時空を超越した絶対世界と、「時間と空間」から成る物理的大宇宙
  大宇宙の過去・現在・未来の全てが、今、同時に存在している
  大宇宙の全ての時空が、今、同時に存在している
  ありとあらゆる全てのものが、元々存在している
  「想像=創造(そうぞう)」し得る限りの全てのものが、元々存在している
  大宇宙は、元々完成している
  大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
  ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)
  大宇宙は元々完成しているから、未来は100パーセント確定している

未来は100パーセント確定している
  未来は100パーセント確定している
  未来からやって来る時間(時間の流れは、未来→現在→過去)
  原因があって結果があると言うより、原因は結果によって選ばれている
  白紙の未来がある訳ではない
  未来は変えられるという幻想――未来は変えられない
  未来は、これから創られて行くのではなく、ここが既に未来とも言える
  ここは、「追想の中」での「追体験」
  大宇宙意識と本源の我
  大宇宙意識の操り人形
  真の意味において、自由意志というものは存在していない
  「もし、あの時・・・」という仮定は、存在していない
  ただ、そうなっていたから、そうなって行くだけ
  「想いは実現する」、「思考は現実化する」とは
  自分の人生の主体者・創造者は、本源の我、真我である我が魂
  魂の記憶を蘇らせる
  心と感じるままに、生きてみる
  生きるとは、創造すること
  明日を感じて今日を生きる
  未来の記憶を蘇らせる

おわりに

新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の内容を、ご紹介致します!

新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の内容を、ご紹介致します!
「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」表紙カバー.jpg         四六判  270ページ
         価 格  本体1400円+税
         発 行  表現社(表現社図書)

   はじめに
 この大宇宙には、たった一つの存在しか実在していません。
 この大宇宙に、本当に実在しているのは、たった一つの存在なのです。

 それは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主という存在なのです。
 本書においては、便宜上、大宇宙意識と呼んでいます。

 物理的大宇宙の全ては、根本創造主である大宇宙意識によって「想像=創造(そうぞう)」された世界であり、全てが大宇宙意識の光の中にあり、そこに存在している全てのものは、大宇宙意識の顕れに他なりません。

 この大宇宙の森羅万象の全ては、根本創造主である大宇宙意識によって繰り広げられている壮大なゲームであり、全ては「大宇宙意識の戯れ(リーラ)」と呼べるものなのです。

 物理的大宇宙の全ては、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識が、自らが持つ「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を体験して味わう為の「映(うつ)し世」であり、「鏡」の世界なので、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世界なのです。

 これを知ることが、本質的に最も大切なことであり、このことが理解出来て初めて、自分という存在は何なのか、自分は何故今ここに存在して生きているのか、自分が映す現実世界とは何なのか、という謎も解けてきます。

 ただ、この大宇宙に本当に実在しているのは、唯一、根本創造主である大宇宙意識のみであることは、知識や学問などによっては知る由も無く、体験的に知る他無いので、ある種の「神我一如」、あるいは「梵我一如」とでも言うべき体験が必要になります。

 しかし、体験的に知らなくても、私たち人間一人ひとりは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)なので、私たち一人ひとりの「意識」を一番奥深くまで遡れば、最終的には、根本創造主である大宇宙意識まで辿り着くことになります。

 ですから、私たち人間一人ひとりは、「意識」の一番奥深い部分においては、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。

 唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)とは、宇宙空間の何処か彼方に存在しているのではありません。
 大宇宙の根本主体である大宇宙意識とは、全知全能の「純粋意識」として存在しており、それは、私たち一人ひとりの「意識」の一番奥深くに内在しているものなのです。

 そのことを想い出していく手助けとして、本書をご活用頂ければ、これに勝る喜びはございません。
                                                             大和富士  

   目   次
はじめに
 
根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在
  根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在
  絶対世界と相対世界
  絶対世界とは
  根本創造主(大宇宙意識)とは、全知全能の「純粋意識」
  想像(そうぞう)=創造(そうぞう)
  根本創造主が唯一行っているのは、「想像=創造(そうぞう)」という仕事
  相対世界とは、絶対世界を映し出して体験する為の「映(うつ)し世」
  全ては、根本創造主(大宇宙意識)の顕れ
  物理的大宇宙(相対世界)は、仮相(仮の姿)の世界
  物理的大宇宙は、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界
  物理的大宇宙の全ては、根本創造主(大宇宙意識)の光の中
  全ては、「大宇宙意識の戯れ(リーラ)」
  根本創造主(大宇宙意識)の孤独
  全ては、根本創造主(大宇宙意識)の弥栄
  一切無、一切幻
  大宇宙の全ては完
  大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
  宇宙的な観点の中では、善悪は存在していない
  多様性こそが大宇宙の豊かさ
  大宇宙=無限
  「あり得ない」ということこそ「あり得ない」――あらゆることがあり得る
  神についての二つの概念
  「意識」の一番奥深くに内在している根本創造主(大宇宙意識)

永遠(とわ)の中今
  永遠(とわ)の中今
  永遠とは
  大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
  大宇宙の森羅万象を貫く一つの力学(法則)
  大宇宙意識の見えざる糸(意図)
  全ては大宇宙の計画の中
  全ては必然、一切偶然なし
  過去も未来も、今、同時に存在している
  未来からやって来る時間
  未来は一〇〇パーセント確定している
  大宇宙の過去と未来の全てが、元々存在している
  大宇宙の全ての時空が、元々存在している
  ありとあらゆる全てのものが、元々存在している
  「想像=創造(そうぞう)」し得る限りの全てのものが元々存在している
  大宇宙の全ては、元々完成している
  大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
  ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)

大宇宙意識と本源の我
  大宇宙意識と本源の我
  「意識」の中に大宇宙がある
  大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある
  物質世界を「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」
  「意識」というものは、それを映し出す「鏡」が必要
  ここは「意識」の海の中
  一人ひとりが自分の宇宙(世界)の創造主
  現実世界とは
  自分一人の世界
  全てが主観の世界
  自分が変われば世界が変わる
  心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く
  生きる目的
  今ここに自分が存在している理由
  今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない
  魂を自分の肉体の外に想像
  多次元に生きる、本源の我
  永遠の旅をしている我が魂の夢
  魂にとっては、体験こそが喜びであり財産
  魂の進化
  魂の願い
  心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
  魂の進化の場として与えられた運動場
  魂の進化としての道の最短距離
  魂の夢
  今を良しとする力、全てを完として捉える力
  どれだけの「意識」を創れたかが大切
  自分を解放するプログラム
  自分の唯一のプログラム
  本当は誰もいない――ただ大宇宙がある
  全ては我が魂の計画の中
  魂の記憶を蘇らせる
  魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定通りだったことを想い出す
  人生は一〇〇パーセント決まっている
  大宇宙意識の操り人形
  「想いは実現する」とは
  ここは「追想の中」
  自分の中に全ての答えがある
  明日を感じて今日を生きる
  心と感じるままに、生きてみる
  生きるとは、創造すること
  今、目の前にある道が、黄金の道
  現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている
  空間を最高の友として遊ぶ
  豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくる
  魂の夢、光り輝く魂
  幻の世と知って生きることに、生命の輝きを見る
  自分の中に内在している、大宇宙意識の想いを感じて生きる

 おわりに

   おわりに
 この大宇宙は、「意識」というものによって成り立っています。
 この大宇宙を「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」というものなのです。

 大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるのです。

 この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という、一つの「純粋意識」だけなのです。
 現象界である物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識の顕れに他なりません。

 本源の我であり、真我である、我が魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つとして、ある一つの角度・視点(してん)から、この大宇宙を映し出し、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
 
 自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の全ては、自分自身の「意識」の中にあるものなのです。

 そして、自分の「意識」の一番奥深くには、大宇宙の根本主体である大宇宙意識が内在しています。
 ですから、自分の中には、この大宇宙の全てがあるのです。

 自分の「意識」の中にある、「無限」の大宇宙を感じて生きることが大切になります。
 自分の中に内在している、大宇宙意識の想いを感じて生きることが大切になります。

 西暦二〇一四年(平成二六年)四月吉日              大和富士


「もし、あの時・・・」という仮定は存在していない

 私たちは、自分の過去を振り返った時、「もし、あの時〜していれば、今は違った状況にいる筈なのに・・・」と、後悔にも似た思いを抱くことがあります。
 自分の人生を振り返ると、過去には様々な選択肢があったようにも感じられ、「もしもあの時、別の選択をしていれば、今は別の人生を歩んでいる筈なのに・・・」と感じることも多々あるかと思います。

 しかしながら、実際には、「もし、あの時・・・」という仮定というものは、存在していません。

 「もしもあの時、別の選択をしていれば、今の自分は違う状況にいる筈なのに・・・」と考えるのは、自分自身の力で生きているという勘違い・錯覚にしか過ぎません。

 私たちは、大宇宙に生かされている存在であり、自分自身の力だけでは、一呼吸すら出来ない存在なので、自分の力で何かをやっているということなど、本当は、何一つ無いのです。

 私たちは、表面意識であれこれ考えて、自分の人生の選択をしているように思えますが、最終的な選択は、意識のより深い部分にある、真我である魂が、自分の人生の全ての選択をしています。

 自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂なのです。

 本源の我であり、真我である、我が魂というのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。

 私たちの意識を一番奥深くまで遡ると、最終的には、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識まで辿り着くことになります。

 ですから、表面意識であれこれ考えて自分の人生の選択をして来たと思っていても、その背後には、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の見えざる糸(意図)が働いています。

 自分の人生の選択の全ては、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の見えざる糸(意図)によるものなのです。

 この大宇宙に本当に実在しているのは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)だけなのです。
 大宇宙の森羅万象の全ては、ある一つの力学・法則の元、大宇宙意識の見えざる糸(意図)により営まれています。

 自分の人生の過去の選択の全ては、大宇宙意識の見えざる糸(意図)によるものであり、他に選択の余地は無かったのです。

 自分の過去を振り返り、「もしもあの時、別の選択をしていれば、今は違った状況にいる筈なのに・・・」と、後悔にも似た思いを抱くことは無益なことです。
 「もし、あの時・・・」という仮定そのものが、元々存在していなかったからです。

 私たちの人生とは、瞬間瞬間の選択の連続であり、何十年も生きていれば、それこそ、無数の選択をして来たとも言えます。

 自分一人の人生を振り返っただけでも、「もし、あの時・・・」という仮定は無数に存在するかのように思えますが、地球上に生きる何十億人の人間が一人ひとり抱く、「もし、あの時・・・」という無数の仮定というものは、果たして存在していたのでしょうか?

 実際には、そのような仮定は、元々存在していなかったのです。

 自分の人生は元より、人類の歴史・地球の歴史、更には銀河レベルの歴史に至るまで、一点一角が違っても、今と同じ状況というものは存在していません。
 自分の人生は元より、人類の歴史・地球の歴史、更には銀河レベルの歴史に至るまで、過去の全ては、寸分の狂いも無く、大宇宙意識の見えざる糸(意図)により動いて来たのであり、「もし、あの時・・・」という仮定というものは、元々存在していなかったのです。

 大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙の根本主体である大宇宙意識の計画の中にあります。
 自分の人生は元より、人類の歴史・地球の歴史、更には銀河レベルの歴史に至るまで、過去の全ては、大宇宙の計画の中で動いてきたのであり、ただ、「そうなっていたから、そうなっている」だけのことなのです。

書籍「魂の夢、光り輝く魂」が、本日5月15日、発売日を迎えました!

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四六版  245ページ

価 格  本体価格1700円+税

発 売  星 雲 社

書籍「魂の夢、光り輝く魂」が、本日5月15日、発売日を迎えました!
既に、全国の書店並びにアマゾン等のオンライン書店でも、販売が開始されています。

書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、21世紀の新しい世界観「開眼世界観」に基づき、自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である、我が魂の視点から、生きるということの本質について光を当てた書であり、生きるとは何かについて知る為の必読の書とも言える内容になっています。

ぜひ、本書をお読みいただき、魂の蘇り、魂の出産、魂の春を迎える為の一助にしていただければ、これに勝る喜びはございません。

書籍の内容につきましては、「書籍のページ」をご参照下さい。

書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、電子書籍でもご購読いただけます!
電子書籍には、EPUB方式(Amazon Kindle、楽天KOBO、紀伊国屋書店Kinoppyなど)とXMDF方式(GALAPAGOS STORE、ドコモ dマーケット BOOKストアなど)の2種類がありますが、両方に対応しておりますので、ほとんどの主な電子書店にてご購読が可能となります!

電子書籍での配信開始は、5月下旬頃になる予定です。

今の自分にとって必要なものの全ては、常に与えられている

 今の自分にとって必要なものの全ては、常に与えられています。
 どんな時でも、その時の自分にとって必要なものの全ては、常に与えられているのです。

 もし、病気やケガをして健康状態にない、とか、恋人や愛する人がいない、あるいは友人がいない、とか、お金が無い、とか、仕事が無い、とか、夢や希望が無い、とか、情熱をもって打ち込めるものが無い、などと感じているとしたら、その状況こそが、今の自分にとって「必要」な状況なのです。

 私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在しておらず、私たちは、魂の進化と呼ばれる、意識を創る旅をしているだけなのです。

 全ての魂は進化しており、魂の進化としての道を、最短距離で突き進んでいます。
 ですから、以前書いたように、「人は常に、自分が最も学び、成長し、進化出来る最善の場所にいる」のであり、この世界を完璧に通過中なのです。

 もし、今の自分にとって、何かが足りないと感じられるとしても、それは別に、自分が不幸・不運だから、あるいは、自分にツキが無いからということではなく、今の状況が、今の自分自身にとって、一番ピッタリな、最善の状況だということにしか過ぎません。

 昔から、諸行無常、栄枯盛衰と言われる通り、全ての状況は常に変化しており、変化の流れの中にある訳ですから、今の自分が置かれている状況というものも、変化の流れの中にあるのです。
 そして、自分自身は今この瞬間、魂の進化にとって最善の場所にいるのであり、魂を進化させる為に、今の自分にとって必要なものの全ては、常に与えられているのです。

 「不足」と感じるものは、一つの挑戦でもあり、チャレンジでもあり、「想像力=創造力(そうぞうりょく)」の元にもなっています。

 生きるとは創造することであり、瞬間瞬間の創造の連続であるとも言えます。
 もし、何かを「不足」と感じるのであれば、それを「想像力=創造力(そうぞうりょく)」に変えて、新たな創造をして行けば良いだけなのです。

 私たちの人生とは、魂の進化というプログラム上にしか存在していないので、人は常に、自分自身が今、最も学び、成長し、進化出来る最善の場所に生かされているのであり、今の自分にとって必要なものの全ては、常に与えられているのです。

 ですから、今の自分が立っている場所から、自分の夢や目標に向かって、心と感じるままに、新たな創造をして行けば良いということになります。

書籍「魂の夢、光り輝く魂」の先行販売を開始致します!

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四六版  245ページ

価 格  本体価格1700円+税

発 売  星 雲 社

書籍「魂の夢、光り輝く魂」が完成致しました!
全国の書店並びにアマゾン等のオンライン書店での発売日5月15日に先駆けて、先行販売を開始致します!

書籍の内容につきましては、「書籍のページ」をご参照下さい。
ご注文は、「ご注文・ご予約ページ」からお願い致します。

書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、電子書籍でもご購読いただけます!
電子書籍には、EPUB方式(Amazon Kindle、楽天KOBO、紀伊国屋書店Kinoppyなど)とXMDF方式(GALAPAGOS STORE、ドコモ dマーケット BOOKストアなど)の2種類がありますが、両方に対応しておりますので、ほとんどの主な電子書店にてご購読が可能となります!

電子書籍での配信開始は、5月下旬頃になる予定です。

書籍「魂の夢、光り輝く魂」の内容をご紹介致します!

2014年(平成26年)5月15日発売、書籍「魂の夢、光り輝く魂」の内容をご紹介致します!

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四六版  245ページ
価 格  1700円+税
発 売  星 雲 社
  書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、電子書籍でもご購読頂けます!

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はじめに

 生きるとは何か・・・。
 古今東西を問わず、全ての人々にとっての根源的な問いである、生きるとは何を意味するのでしょうか。

 生きるとは何かについて知る為には、まず、この大宇宙の本質について知る必要があります。
 そして、大宇宙と自分自身との関係を知る必要があります。
 そして、自分が映す現実世界とは何なのかについて知る必要があります。

 この三つの要点をきちんと把握しない限りは、生きるという事の本質は捉えられないと思います。

 この二一世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
 有史以来数千年の人類の古い世界観そのものが、新たな世界観へと入れ替わる時を迎えています。

 本書において、新たな世界観に基づき、生きるとは何かについて、考察してみたいと思います。

                             大和富士 


目  次
 はじめに

大 宇 宙
 絶対世界と相対世界
 根本創造主という唯一の実在
 全ては、神の顕れ
 想像(そうぞう)=創造(そうぞう)
 大宇宙=無限
 永遠(とわ)の中今
 永遠とは
 大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
 「あり得ない」という事こそ「あり得ない」―あらゆる事があり得る
 大宇宙の全ては、光の中
 物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界
 全ては、神の戯れ(リーラ)
 根本創造主の孤独
 絶対の静寂(しじま)ー絶対世界とは
 大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
 一切無、一切幻
 大宇宙の全ては完
 全ては、大宇宙(神)の弥栄
 大宇宙の森羅万象を貫く一つの力学(法則)
 全ては、大宇宙の計画の中
 全ては必然、一切偶然なし
 未来からやって来る時間
 未来は、確定的に存在している
 大宇宙は、多重多次元構造
 大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
 ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)

新しい世界観
  大宇宙意識と本源の我
  意識の中に大宇宙がある
  一人一人が自分の宇宙(世界)の創造主
  現実世界とは
  自分一人の世界
  全てが主観の世界
  自分が変われば世界が変わる
  心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く
  魂の進化
  魂の願い
  心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
  魂の進化の場として与えられた運動場
  魂の夢
  今を良しとする力、全てを完として捉える力
  どれだけの意識を創れたかが大切
  自分を解放するプログラム
  自分の唯一のプログラム
  本当は誰もいないーただ大宇宙がある
  魂の進化としての道の最短距離
  全て幻、全て問題なし
  思い通りでないところが、全て思い通りだと気付く
  困る出来事あらず
  人のせい、社会のせいなど存在しない
  後悔するという思考を消滅へと向かわせる
  映る世に心を傾けない
  幸福なるもの形にあらず
  幸・不幸という概念を超える
  プラス思考を超える
  受ける難、全て福
  人生の悩み・苦しみの根底にあるもの その1
  人生の悩み・苦しみの根底にあるもの その2
  幻の世と知って生きる事に、生命の輝きを見る
  人は常に、自分が最も学び、成長し、進化出来る最善の場所にいる
  現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている
  宇宙はメッセージだらけ
  真のワンネスとは
  真(まこと)のみを映す鏡
  全ては愛のメッセージ
  生きるとは、創造する事
  全てを喜びに変える創造
  この世界は自分次第
  空間を最高の友として遊ぶ
  豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくる
  あらゆる否定を無くする
  この世にあるもの全てが御魂の肥やし
  肉体という衣について
  自分の両親を自ら選んで生まれて来ている
  多次元に生きる、本源の我
  魂を自分の肉体の外に想像
  今ここに生きる事が、常なるテーマ
  ここは「追想の中」
  明日を感じて今日を生きる
  自分の中に全ての答えがあるー内的な知り方と外的な知り方
  魂の記憶を蘇らせる
  魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定通りだった事を想い出す
  全ては我が魂の計画
  生きているうれしさをやさしく感じる
  自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す
  人生の全ては輝きの中のものー内なる光は消える事なく私を照らす
  魂の夢、光り輝く魂

 おわりに

おわりに

 この二一世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
 
 それに伴い、私達人類の世界観そのものが、大きく変わろうとしています。
 有史以来数千年の古い世界観そのものが、新しい世界観に入れ替わる時を迎えようとしているのです。
 現実世界に対する捉え方そのものが、根本的に変わろうとしています。

 自分と自分以外を分け、自と他を分けた思考形態の中で、自分の外に何か確固とした客観的な現実世界があるのだと捉えた認識そのものが、消えていこうとしています。

 自分が映す現実世界は、全て心の内だと分かり、自分と世界は分かれてはいないのだと知る事になるのです。
 自分と空間は一つであり、全ては、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドである事を知る事になるのです。

 自分の現実は全て、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものであり、全ては最善の目的の為に起きている事を知る事になります。

 これにより、幸福・不幸という概念そのものが、消えていこうとしています。
 肉体の自我意識(表面意識)の視点から、様々な出来事を幸・不幸、運・不運と捉えてきた認識そのものが、消えていこうとしているのです。

 言わば、幸・不幸という概念すら超えた高みへと、私達人類の意識は、これから飛翔しようとしているのです。

 自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である、我が魂の想いを感じ、魂の願いに意識を合わせられるようになると、幸福・不幸という概念そのものが消えていく事になるのです。

 永遠不滅の存在であり、天上界へと無限に続く意識の旅をしている我が魂の願いは唯一点、光り輝く魂になる事なのです。
 魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に、我が魂は、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しているのです。

 自分が映す現実世界は全て心の内だと分かり、豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくるのを体験する時、光り輝く魂になる事を求めて、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」した、我が魂の夢を想い出す事になるのです。

 西暦二〇一四年(平成二六年)三月吉日
                            大和富士 


結果は有るけど、結果は無し

 私達は、自分の人生の夢や目標に向かって進んでいますので、ある結果と呼ばれるものを求めて生きている人が多いのではないかと思います。

 しかし、結果と呼ばれるものは、確かに、有ると言えば有るのですが、無いと言えば無いのです。
 結果と呼ばれるものも、本当は、有るという訳でもないのです。

 結果は有るけど、結果は無しなのです。

 オリンピック競技というものも、結果を追い求める典型例の一つだと言えます。
 先日行われたソチオリンピックでも、悲喜こもごもの様々なドラマがありました。

 女子フィギュアスケートの浅田真央選手や、女子モーグルの上村愛子選手などは、メダルの有力候補と言われながら、結果的にはメダルに手が届かず、それぞれ6位入賞と4位入賞に終わりました。

 金メダルを目指し、4年間死に物狂いで練習してきた当人にとって、順位という結果だけ見れば、悲願のメダルを逃し、悔しい思いもあるかと思いますが、4年間の集大成の最高の演技・滑りが最後に出来たという点では、浅田選手も上村選手も、満足されている御様子で、清々しい表情が感じられました。

 もし、ライバル選手達の相次ぐミスなどによって、結果的に自分にメダルが獲れたとしても、自分自身が最高の演技・滑りが出来なかったとしたら、心の何処かで物足りない何かが残ったかも知れません。

 金メダルという結果を求めて4年間必死に生きて来て、順位という結果だけ見れば、満足出来なくても、結果ではない何かで満足出来るという事もあるのです。

 浅田真央選手の場合などは、前半のショートプログラムでミスが続き、予想外の低い得点で16位に沈み、失敗演技と思えたショートプログラムの結果というものが、逆に、心が開き直るきっかけとなり、フリーで最高の演技を実現させる元になったとも言えるかも知れません。
 自己最高得点を獲得し、浅田真央選手ご本人曰く、「競技人生最高の滑りが出来た」との事で、世界中の多くの人々に、感動を与える事になりました。

 何が結果なのか、よく分かりません。
 結果と呼ばれるものも、長い年月が経ってみなければ、あるいは、もっと別の角度・視点から見てみなければ、よく分からないという事は、たくさんあります。

 結果と呼ばれるものも、有ると言えば有るのですが、無いと言えば無いのです。
 結果は有るけど、結果は無しなのです。

 私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、私達は、ただ、意識を創る旅をしているだけなのです。
 
 天の仕組みとして、創った心は失われ、創った思いも必ず失われる仕組みになっていますから、「心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う」という、意識を創る旅を続けながら、心の純化、意識の福化の旅をしているだけなのです。

 如何なる結果と呼ばれるものを創造したとしても、心の純化、意識の福化の旅のプロセスにおける絵柄・紋様にしか過ぎず、心を成長させる為の道具(ツール)にしか過ぎません。

 先日書いたように、「本当の夢とは、心の夢ではなく、魂の夢の事」なので、心の夢を追い求めて心を成長させながら、実は、真我である魂の夢を実現させているのです。

 例え、肉体の自我意識(表面意識)から見れば、思い通りでないように思えたとしても、自分の人生の主体者・創造者である魂から見れば、全ては思い通りであり、我が魂の夢は実現しているのであり、人生の全てはうまくいっているのです。

 人生の全ては、うまくいっています。
 心の広がりとして、うまくいっています。
 意識の福化として、うまくいっているのです。

 うまくいっている事も、うまくいっていない事も、実は、全てはうまくいっているのです。
 思い通りの事も、思い通りでない事も、実は、全ては思い通りなのです。

 自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。
 自分の人生の全ての現実は、真我である我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、魂の進化にとって最善の出来事の連続でしかありません。

 ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。

 魂の進化とは、心の純化、意識の福化という事であり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていく事なのです。

 私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、何を成したかとか、何を手に入れたかという事柄の中に、人生の真の答えが有る訳ではありません。
 何を成したかではなく、どれだけの意識を創れたかが大切なのであり、そここそが、天から問われているところなのです。

 心の夢を求めて、結果と呼ばれるものを追い求めていく事自体は、心を成長させていく旅のプロセスには必要な事なのですが、結果と呼ばれるものの中に真の答えが有る訳ではなく、どれだけの意識を創れたかという事が大切なのです。

 真我である魂から見れば、自分の人生の全ては思い通りであり、魂の夢は100%叶っているのであり、人生の全てはうまくいっているので、結果と呼ばれるものも、本当は、有るという訳でもないのです。

 結果と呼ばれるものは、有ると言えば有るのですが、無いと言えば無いのです。
 結果は有るけど、結果は無しなのです。

人生の全ては、うまくいっている

 人生の全ては、うまくいっています。
 自分の人生の全てが、うまくいっています。

 例え、肉体の自我意識(表面意識)から見れば、うまくいっていない、思い通りでないように感じられたとしても、実は、全てがうまく流れているのです。

 自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。

 自分の人生の全ては、真我である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、真我である魂の視点から見れば、実は、全てはうまくいっています。

 私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、自分の人生に起きる全ての現実は、魂の進化にとって最善の出来事なのであり、最善の出来事の連続でしかありません。

 ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。

 例え、肉体の自我意識(表面意識)から見れば、不幸・不運としか感じられないような出来事であったとしても、自分の人生の主体者・創造者である我が魂から見れば、魂の進化にとって最善の出来事なのです。

 肉体の自我意識(表面意識)がとらわれている、不幸・不運という思いを外して、その事を受け入れ、認めていく事が、心の純化であり、意識の福化と呼べるものなのです。

 人生の全ては、うまくいっています。
 心の広がりとして、うまくいっています。
 意識の福化として、うまくいっています。

 自分の人生の主体者・創造者である我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、全ては最善の出来事の連続なのです。

 真我である魂は、全ての出来事、全ての現実を使って、魂の進化としての道を最短距離で突き進んでいます。

 自分の人生の全ては、うまくいっています。
 本源の我であり、真我である、我が魂から見れば、魂の進化の為に、この世界を完璧に通過中なのであり、実は、全てはうまくいっているのです。

遊ぶ力、面白がる力こそが、心の実力であり、それが創造力につながる

 私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、人生に起きる全ての出来事は、魂の進化の為に起きているという事になります。

 魂の進化とは、心の純化、意識の福化という事であり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていく事なのです。

 私達は、魂の進化と呼ばれる、心の純化、意識の福化の旅をしています。

 人生における全ての場面に一喜一憂する事なく、全ての場面を面白いと感じながら、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心を創る旅をしているだけなのです。

 ですから、遊ぶ力、面白がる力というものが、とても大切になります。

 人生における全ての場面に一喜一憂する事なく、全ての場面の中に面白さを発見し、その場面の中で遊ぶ力が必要とされるのです。

 遊ぶ力、面白がる力こそが、心の余裕であり、心の実力であるとも言え、それが新たな創造力につながっていきます。


私達は、意識を創る旅をしているだけ

 私達の人生には、基本となるプログラムがあります。
 生きるのには目的があり、それは、魂の進化という事なのです。

 魂の進化とは、心の純化、意識の福化という事であり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていく事なのです。

 如何なる人生を歩もうとも、如何なる事を為そうとも、人生のテーマは唯一点、魂の進化という事なのです。

 ですから、私達は、魂の進化と呼ばれる、意識を創る旅をしているだけなのです。

 人生のあらゆる場面を通して、心を純化させ、意識を福化させて、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心を創る旅をしているだけなのです。

 四季折々には、それぞれの風情・味わいというものがあるように、人生という旅における全ての場面にも、それぞれの風情・味わいというものが必ずあるのです。

 自分の人生に起きる全ての出来事は、魂の進化にとって最善の出来事の連続なので、そこには必ず、今の自分が体験して味わうべき何かがあるのです。

 様々な場面に一喜一憂する事なく、全ての場面を面白いと感じながら、意識を創る旅のプロセスを楽しんでいけば良いだけなのです。

 そして、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しているのは、他ならぬ自分自身なのです。
 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂なのです。

 真我である魂が、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になる事を求めて、魂の進化の為に、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しています。

 例え、肉体の自我意識(表面意識)では分からなくても、自分の人生に起きる全ての現実は、真我である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した、最善の出来事なのです。

 その事が分かれば、様々な場面に一喜一憂する事なく、全ての場面を面白いと感じながら、意識を創る旅のプロセスを楽しんでいく事が出来るようになります。

 私達は、人生における全ての場面を通して、心を純化させ、意識を福化させて、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心を創る旅をしているだけなのです。

 私達は、意識を創る旅をしているだけなので、旅のプロセスを楽しんでいけば良いだけなのです。

自分の現実を否定するのは、自分自身を否定しているのと同じ事

 自分の現実を否定するのは、自分自身を否定しているのと同じ事です。
 何故なら、本当の自分自身が、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しているからです。

 自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。

 真我である我が魂は、永遠不滅の存在であり、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になる事を求めて、魂の進化の為に、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しています。

 自分の現実の全ては、真我である我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
 ですから、自分が体験する全ての現実は、真我である我が魂にとっては、喜びの体験でしかなく、魂の進化にとって最善の出来事の連続でしかありません。

 ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。

 例え、肉体の自我意識(表面意識)では分からなくても、自分の現実の全ては、本源の我であり、真我である我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのであり、魂の進化にとって最善の出来事の連続なのです。

 その事を受け入れ、認めていく事が、心の成長であり、意識の拡張であり、意識の福化と呼べるものなのです。

 魂の記憶が蘇ってくると、自分の現実の全ては、大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である、我が魂が「想像=創造(そうぞう)」したのだという事を、想い出せるようになってきます。

 自分の現実の全ては、本源の我であり、真我である我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、自分の現実を否定する事は、自分自身を否定しているのと同じ事なのです。

「成るようにしか成らない」と同時に、「成るようには成る」

 昨日、「未来は100%確定している、という事について」書きましたが、未来は100%確定していますので、自分がどうジタバタしたところで、「成るようにしか成らない」と同時に、別の言い方をすれば、「成るようには成る」のです。

 「西遊記」の中の有名な話に、孫悟空が釈迦の掌から飛び出そうとして、いくら空遠くまで飛び回ったつもりでいても、所詮は釈迦の掌の中だったというエピソードがありますが、私達は、大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは一呼吸すら出来ない存在なので、自分の力で何かが出来ると思っていても、所詮は、万物を生かしている大宇宙の掌の中なのです。

 全ては大宇宙の調べの中、全ては大宇宙の計画の中にありますので、「成るようにしか成らない」と同時に、「成るようには成る」のです。


未来は100%確定している、という事について

 自分の未来は、決まっているのでしょうか?
 そして、人類の未来、地球という星の未来は決まっているのでしょうか?
 さらには、大宇宙の未来は決まっているのでしょうか?

 未来というものは、既に確定しているものなのか、それとも、未来は完全に白紙なのでしょうか?

 心の奥深くで、常に知りたかった事だと思います。

 結論から先に申しますと、未来は既に決まっており、未来は100%確定しています。
 未来は100%確定していますので、白紙の未来がある訳ではありません。

 未来が100%確定している事は、知識や学問などによっては知る由もなく、体験的に知る他ないので、ある種の「神我一如」、あるいは「梵我一如」とでも言うべき体験が必要になります。

 この大宇宙の本質というものを、体験的に知らない限りは、未来が100%確定しているという事を、決して理解出来ないと思います。

 この大宇宙の本質というものを、体験的に知る事が出来ると、時間は幻想である事、そして、この大宇宙には、根本創造主(大宇宙意識)という唯一の存在しか実在していない事を知る事になり、未来が100%確定しているという事を、何の疑いもなく確信する事が出来るようになります。

 時間は幻想であり、本当は、時間は存在していません。
 時間というものは、究極的には存在しておらず、「時」には、始まりも無ければ、終わりもありません。
 ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。

 時間は流れている訳ではなく、過去も未来も、今、同時に存在しています。
 大宇宙の過去・現在・未来の全てが、今、同時に存在しているのです。
 大宇宙の全ての時空が、今、同時に存在しているのです。

 時間は流れている訳ではないのですが、敢えて、時間の流れというものを想定するとすれば、それは、多くの人達が考える、過去→現在→未来という流れではなく、それとは逆の、未来→現在→過去という流れになります。

 未来は確定的に存在していますので、既に確定している未来から時間がやって来て、必要となるプロセスが順番に創り出されているのです。
 原因があって結果があるというより、ある結果と呼ばれるものを得る為に、その原因となるものが創り出されているのです。
 原因があって結果があるというより、原因は、結果によって選ばれていると言った方が真実に近いのです。

 大宇宙の過去・現在・未来の全てが、今、同時に存在しており、大宇宙の全ての時空が、今、同時に存在しています。
 ですから、二一世紀の地球という、今ここにある時空は、必ずしも、今初めて大宇宙に存在しているという訳でもないのです。
 
 二一世紀の地球という、今ここにある時空が、今初めて大宇宙に存在していると考えるのは、時間というものが、過去→現在→未来へと流れているという思い込みによるものだと言えます。

 二一世紀の地球という、この時空は、実は、かつて存在した時空でもあるのです。
 私達は、かつて存在した時空で体験した事を、今、「追体験」しているのであり、「追想の中」を生きているのです。
 ここは、「緑美しき懐かしき地球(追想の中)」なのです。

 そして、この大宇宙には、本当は、根本創造主(大宇宙意識)という、たった一つの存在しか実在していません。
 大宇宙の根本主体である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」の事なのです。

 「時」には、始まりも無ければ終わりもありませんので、大宇宙の根本主体である大宇宙意識は、誕生するという事もなく、消滅するという事もなく、「永遠(えいえん)の今」に実在しています。

 物理的大宇宙の全ては、根本主体である大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものであり、「全ては根本創造主(大宇宙意識)の顕れ」なのです。
 大宇宙の森羅万象の全ては、根本主体である大宇宙意識によって営まれていますので、全ては大宇宙の調べの中、全ては大宇宙の計画の中なのです。

 私達は、大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは、一呼吸すら出来ない存在なので、自分が努力すれば未来を変えられると考えるのは、自分の力で生きているという、勘違い・錯覚にしか過ぎません。

 私達一人一人を始め、万物を生かしている根源的エネルギーは一つなので、大宇宙の森羅万象の全ては、根本主体である大宇宙意識によって営まれているのです。

 この大宇宙には、根本主体である根本創造主(大宇宙意識)しか実在していない事、そして、時間は幻想である事を体験的に知る事が出来れば、未来は100%確定しているという事を、確信する事が出来ます。

 逆に言えば、この大宇宙の本質というものを、体験的に知らない限りは、未来が100%確定しているという事を、決して理解する事は出来ません。

 しかし、私達一人一人は、大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)の分霊(わけみたま)なので、私達の意識を一番奥深くまで遡れば、最終的には、根本主体である大宇宙意識まで辿り着く事になります。

 ですから、私達一人一人は、意識の一番深い部分においては、死に至るまでの自分の人生の全てを知り尽くしているだけではなく、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。

 その事を想い出していく手助けとして、誰にでも分かりやすい形で、何故、未来が100%確定しているのかを詳しくまとめた本を書いて、いずれ出版したいと考えています。

幻の世と知って生きることに、生命の輝きを見る

 この現象界(物理的大宇宙)は、幻の世界です。

 絶対世界に唯一実在する大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージが、光により物質化されて「創造(そうぞう)」された、バーチャルリアリティー(仮想現実)のような幻なのです。

 そこに存在しているかに見える全てのものは、仮相(仮の姿)であり、本当は何も確かな実体がある訳ではありません。

 唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」が、光により様々な紋様となって織り成されているだけなのです。

 全ては、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識の中で繰り広げられている壮大なゲームであり、全ては「神の戯れ(リーラ)」と呼べるものなのです。

 そして、本源の我、真我である我が魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つとして、ある一つの角度・視点から、この大宇宙を映し出して見ているモニターの中の一つであり、大宇宙に無数に存在するテレビカメラの中の一つであるとも言えます。

 大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つとして、ある一つの角度・視点から、この大宇宙を映し出し、体験し、味わっているのです。

 自分が映す現実世界が、いかに確固としたリアルなもののように感じられたとしても、全ては幻なのであり、一切が無の世界なのです。

 そして、この世界が全て幻であることが分かれば分かる程、現実世界はますます輝きを増して感じられてきます。
 この世界が全て幻であることが分かれば分かる程、現実世界はますます鮮やかに、美しく感じられ、ありがたく、そして、面白く感じられてくるのです。

 この世界は、大宇宙の唯一の実在である大宇宙意識の光によって創られた魔法の世界であり、私達は、魔法の国の中に生かされ、生きているのです。

 この世界が幻だから美しくない、ありがたくない、面白くない、生きる価値がないという事ではなく、この世界が幻の世だからこそ、この世界は本当に、美しく、ありがたく、面白く、生きて味わう価値があるのです。
 この世界が全て幻であるが故に、生きる喜び、生きる楽しみ、生命のかけがえのなさ、生命の美しさ、生命の輝きがより一層感じられてくるのです。

 この世界は幻です。
 そして、幻であるが故に、大事に生きようとします。
 幻の世と知って生きることに、生命の輝きを見るのです。

不安という概念について

 将来が不安に感じるのは、自分の予期せぬ事が起きるのではないかと感じるからです。

 不安という概念が持つ大きな要素の一つが、自分の予期せぬ事が起きるのではないかという怖れというものかも知れません。

 しかし、自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂なので、我が魂が「想像=創造(そうぞう)」した事しか、自分の人生には起きないのです。

 この事が分かれば、不安という概念を、もっと淡く捉える事が出来るようになります。
 例え、肉体の自我意識(表面意識)から見れば、予期せぬ出来事であったとしても、真我である我が魂から見れば、自らが「想像=創造(そうぞう)」した、予定通りの現実なのです。

 私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、自分が体験する全ての現実は、魂の進化の為に、我が魂が「想像=創造(そうぞう)」した最善の出来事なのです。

 その事が理解出来るようになれば、不安という概念が、だんだん淡くなっていくと思います。

神についての二つの概念

 神という言葉が使われる時、二つの概念が混同して使われています。

 一つは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主に対して使われています。

 また、もう一方では、神話に登場するような、「神々の世界」、「神界」と呼ばれるような世界、地球の生命を創造した世界に対しても使われています。

 しかし、これら二つの世界は、別のものなので、分けて考える必要があります。

 私が大宇宙意識と呼んでいる、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である根本創造主とは、絶対世界における唯一の実在であり、それは、完全なる純粋意識として実在していますので、絶対世界には、様々な神々や仏達などがいる訳ではありませんし、「神界」など存在しません。

 神話に登場するような様々な「神々の世界」、「神界」と呼ばれるような世界、様々な仏達の世界というものは、あくまでも、相対世界に属するものであり、地球の生命を創造した存在達も、相対世界の存在なのです。

 旧約聖書の「創世記」に、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれているとおり、地球の生命を創造した存在達と私達人間は似ており、私達人間と同じように、姿形や名前を持った存在なのです。

 物理的大宇宙の全ては、根本主体である大宇宙意識により「想像=創造」されていますので、マクロに見れば、地球の全生命も、大宇宙意識により創造されているのですが、大宇宙意識が直接、地球の全生命を創造した訳ではなく、直接地球の全生命を創造したのは、私達人間と同じように、姿形や名前を持った、神話に登場するような「神々」であり、「神界」と呼ばれるような世界の存在なのです。

 無形の超自然の神が地球の全生命を創造したのではなく、地球の全生命を直接創造したのは、私達人間と同じような姿形や名前を持った存在達であり、あくまでも、相対世界に属するものなのです。

 絶対世界に唯一実在する大宇宙意識というのは、私達人間が、神や仏という言葉からイメージするような概念を遥かに超えた、もっとスーパーな存在です。

 唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識にとっては、この物理的大宇宙の全てを破壊して、また新たな大宇宙を創造する事など自由自在ですし、全ては「神の戯れ(リーラ)」でしかないので、地球の未来を心配したり、私達個人の願い事を聞き入れてくれたりするような存在では、全くありません。

 私達人間に対して、メッセージや警告を発信してくる「神々」というのは、もちろん、相対世界の存在です。
 相対世界と一口に言っても、様々な次元が重なっており、私達人間が持つ情報指数を遥かに超えた高次元意識が存在しますが、あくまでも、相対世界の存在なのです。

 このように、神についての二つの概念が、混同して使われていますので、分けて考える必要があります。

今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない

拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 今ここに、肉体という衣を纏(まと)って存在している自分は、言わば、アバターとしての自分であり、本当の自分自身ではありません。

 本当の自分自身とは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂という「意識」なのです。

 本当の自分自身である、我が魂という「意識」が「想像=創造(そうぞう)」した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験して味わう為に、肉体という衣を纏(まと)って存在しているアバターが、今生きている自分という存在なのです。
 肉体を持った自分というのは、あくまでも、アバターとしての自分でしかないので、本当の自分自身ではありません。

 アバターとは、化身とか、分身というような意味で使われており、自分の分身となるキャラクターを意味する言葉です。
 肉体を持った自分というのは、本当の自分自身ではなく、本源の我である、我が魂の分身として存在しているアバターにしか過ぎないのです。

 肉体を持った自分というのは、あくまでも、アバターとしての存在にしか過ぎないので、アバターの中に、本当の自分自身がいる訳ではありません。

 物質というものを「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」であるということを、もう一度想い出してみて下さい。
 大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるのです。
 自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の中に、自分の「意識」がある訳ではなく、自分の「意識」の中に、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)があるのです。

 自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙(現実世界)というものがあり、その中の地球という星の中にある、日本という国に、肉体を持った自分が存在していて、その自分が「意識」を持っているのではありません。

 自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の全ては、本源の我である、我が魂という「意識」の中にある世界なので、アバターである肉体の中に、「意識」である魂が存在している訳ではありません。
 物質の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に物質が存在しているのです。

 今ここに存在している自分というのは、アバターにしか過ぎません。
 大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である、我が魂という「意識」は、アバターである肉体の中には存在していません。

 
     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より


大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある

拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるのです。

 自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)とは、自分の「意識」の中にある世界なのです。
 従って、自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙(現実世界)というものがある訳ではありません。

 多くの人達は、自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙が存在すると考えています。
 自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙というものがあり、その中の地球という星に、肉体を持った自分が存在していて、その自分が「意識」を持っていると考えています。
 そうではなく、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の全ては、自分自身の「意識」の中に存在している世界なのです。

 自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)を創り出しているのは、実は、自分自身の「意識」というものなのです。

 自分の「意識」の中に、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)があるのであり、物理的大宇宙(現実世界)の中に、自分の「意識」がある訳ではありません。

 大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるのです。

 とても奇想天外に聞こえるかも知れませんが、最先端の物理学では、この事が理解出来るようにもなってきているようです。

 この21世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
 有史以来数千年の人類の古い世界観そのものが、新たな世界観に入れ替わる時を迎えていますので、いずれ多くの人達が、この事を理解出来るようになっていく筈です。

 天動説が地動説に変わるような、コペルニクス的大転回を、私達人類は、これから経験する事になるのです。
 自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙(現実世界)があると捉えてきた認識そのものが、180度入れ替わる時を迎えます。

 自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の全ては、自分の「意識」を投影した、自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドである事を知る時を迎えるのです。

 大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある、という認識に、私達人類が到達出来る時代を迎えようとしているのです。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より

7月17日発売、「魂の夢、光り輝く魂」の内容をご紹介致します!

7月17日発売、新著「魂の夢、光り輝く魂」の内容をご紹介致します!

  電子書籍「魂の夢、光り輝く魂」
       豊かなる心の位置で
       豊かなる世界が現れてくる

   四六判  244ページ
   価  格  1200円+税
   当ホームページよりPDFファイルにてダウンロード購読


はじめに

 生きるとは何か・・・。
 古今東西を問わず、全ての人々にとっての根源的な問いである、生きるとは何を意味するのでしょうか。

 生きるとは何かについて知る為には、まず、この大宇宙の本質について知る必要があります。
 そして、大宇宙と自分自身との関係を知る必要があります。
 そして、自分が映す現実世界とは何なのかについて知る必要があります。

 この三つの要点をきちんと把握しない限りは、生きるという事の本質は捉えられないと思います。

 この二一世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
 有史以来数千年の人類の古い世界観そのものが、新たな世界観へと入れ替わる時を迎えています。

 本書において、新たな世界観に基づき、生きるとは何かについて、考察してみたいと思います。

                                        大和富士 


目  次

 はじめに

大 宇 宙
 絶対世界と相対世界
 根本創造主という唯一の実在
 全ては、神の顕れ
 想像(そうぞう)=創造(そうぞう)
 大宇宙=無限
 永遠(とわ)の中今
 永遠とは
 大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
 「あり得ない」という事こそ「あり得ない」―あらゆる事があり得る
 大宇宙の全ては、光の中
 物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界
 全ては、神の戯れ(リーラ)
 根本創造主の孤独
 絶対の静寂(しじま)ー絶対世界とは
 大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
 一切無、一切幻
 大宇宙の全ては完
 全ては、大宇宙(神)の弥栄
 大宇宙の森羅万象を貫く一つの力学(法則)
 全ては、大宇宙の計画の中
 全ては必然、一切偶然なし
 未来からやって来る時間
 未来は、確定的に存在している
 大宇宙は、多重多次元構造
 大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
 ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)

新しい世界観
 大宇宙意識と本源の我
  意識の中に大宇宙がある
  一人一人が自分の宇宙(世界)の創造主
  現実世界とは
  自分一人の世界
  全てが主観の世界
  自分が変われば世界が変わる
  心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く
  魂の進化
  魂の願い
  心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
  魂の進化の場として与えられた運動場
  魂の夢
  今を良しとする力、全てを完として捉える力
  どれだけの意識を創れたかが大切
  自分を解放するプログラム
  自分の唯一のプログラム
  本当は誰もいないーただ大宇宙がある
  魂の進化としての道の最短距離
  全て幻、全て問題なし
  思い通りでないところが、全て思い通りだと気付く
  困る出来事あらず
  人のせい、社会のせいなど存在しない
  後悔するという思考を消滅へと向かわせる
  映る世に心を傾けない
  幸福なるもの形にあらず
  幸・不幸という概念を超える
  プラス思考を超える
  受ける難、全て福
  人生の悩み・苦しみの根底にあるもの 1
  人生の悩み・苦しみの根底にあるもの 2
  幻の世と知って生きる事に、生命の輝きを見る
  人は常に、自分が最も学び、成長し、進化出来る最善の場所にいる
  現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている
  宇宙はメッセージだらけ
  真のワンネスとは
  真(まこと)のみを映す鏡
  全ては愛のメッセージ
  生きるとは、創造する事
  全てを喜びに変える創造
  この世界は自分次第
  空間を最高の友として遊ぶ
  豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくる
  あらゆる否定を無くする
  この世にあるもの全てが御魂の肥やし
  肉体という衣について
  自分の両親を自ら選んで生まれて来ている
  多次元に生きる、本源の我
  魂を自分の肉体の外に想像
  今ここに生きる事が、常なるテーマ
  ここは「追想の中」
  明日を感じて今日を生きる
  自分の中に全ての答えがあるー内的な知り方と外的な知り方
  魂の記憶を蘇らせる
  魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定通りだった事を想い出す
  全ては我が魂の計画
  生きているうれしさをやさしく感じる
  自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す
  人生の全ては輝きの中のものー内なる光は消える事なく私を照らす
  魂の夢、光り輝く魂

 おわりに

おわりに

 この二一世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
 
それに伴い、私達人類の世界観そのものが、大きく変わろうとしています。
 有史以来数千年の古い世界観そのものが、新しい世界観に入れ替わる時を迎えようとしているのです。
 現実世界に対する捉え方そのものが、根本的に変わろうとしています。

 自分と自分以外を分け、自と他を分けた思考形態の中で、自分の外に何か確固とした客観的な現実世界があるのだと捉えた認識そのものが、消えていこうとしています。

 自分が映す現実世界は、全て心の内だと分かり、自分と世界は分かれてはいないのだと知る事になるのです。
 自分と空間は一つであり、全ては、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドである事を知る事になるのです。

 自分の現実は全て、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものであり、全ては最善の目的の為に起きている事を知る事になります。

 これにより、幸福・不幸という概念そのものが、消えていこうとしています。
 肉体の自我意識(表面意識)の視点から、様々な出来事を幸・不幸、運・不運と捉えてきた認識そのものが、消えていこうとしているのです。

 言わば、幸・不幸という概念すら超えた高みへと、私達人類の意識は、これから飛翔しようとしているのです。

 自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である、我が魂の想いを感じ、魂の願いに意識を合わせられるようになると、幸福・不幸という概念そのものが消えていく事になるのです。

 永遠不滅の存在であり、天上界へと無限に続く意識の旅をしている我が魂の願いは唯一点、光り輝く魂になる事なのです。
 魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に、我が魂は、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しているのです。

 自分が映す現実世界は全て心の内だと分かり、豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくるのを体験する時、光り輝く魂になる事を求めて、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」した、我が魂の夢を想い出す事になるのです。

 西暦二〇一三年(平成二五年)六月一日
                                                    大和富士 

生きるとは何か・・・

生きるとは何か・・・。
古今東西を問わず、全ての人々にとっての根源的な問いである、生きるとは何を意味するのでしょうか。

生きるとは何かについて知る為には、まず、この大宇宙の本質について知る必要があります。
そして、大宇宙と自分自身との関係を知る必要があります。
そして、自分が映す現実世界とは何なのかについて知る必要があります。

この三つの要点をきちんと把握しない限りは、生きるという事の本質は捉えられないと思います。

この21世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
有史以来数千年の人類の古い世界観そのものが、新たな世界観へと入れ替わる時を迎えています。

生きるとは何かについて、新たな世界観に基づき、回を重ねながら少しずつ考察してみたいと思います。

新著「永遠(とわ)の中今」の内容をご紹介致します!

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「永遠(とわ)の中今」カバー.jpg

四六版 314ページ

価 格 本体価格1800円+税

発 売 星雲社

3月22日発売の新著「永遠(とわ)の中今」の内容をご紹介致します。

当ホームページから、ダウンロード購読する事も出来ます。

ダウンロード購読は、1260円(税込)となります。  
 はじめに
 
本書は、「富士は晴れたり日本晴れ」に続く、第二作目の著書となります。
 第一作「富士は晴れたり日本晴れ」と併せて本書をお読みいただくと、より一層理解が深まるように書かれていますので、本書をお読みいただいた方は、ぜひ、「富士は晴れたり日本晴れ」も併せてお読みいただく事を、強くお奨め致します。

 この21世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球の誕生を迎える事になります。
 物質文明の次に来る新たな精神文明、花咲く都・黄金文明が花開き、私達人類の新たな黄金時代が幕を開けます。
 平和で自由な、喜びに満ちた世界が花開きます。
 キリスト教の世界で言われる、「至福千年王国」の事でもあります。
 宇宙時代が幕を開け、私達人類は、宇宙時代を迎えるのです。

 そして、新しい地球を開くのは、私達日本人なのです。
 東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本から、新しい地球の幕が開きます。

 本書は、日本人の遺伝子を目覚めさせる、新しい時代のメッセージとして世に出されたものです。
 本書が、新しい時代を生きる皆様のお役に立つ事を願っています。

                                大和富士

   目 次
はじめに

永遠(とわ)の中今
 永遠(とわ)の中今
 永遠とは
 色即是空 空即是色
 根本創造主の孤独
 絶対の静寂(しじま)ー絶対世界とは
 「あり得ない」という事こそ、「あり得ない」ーあらゆる事があり得る
 一切無、一切幻
 大宇宙の全ては完
 全ては、大宇宙(神)の弥栄
 大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
 ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)

生きるヒント
 幻の世と知って生きることに、生命の輝きを見る
 本源の我、真我である、我が魂
 現実世界とは、心を映し出す鏡
 ここは「追想の中」ー「追体験」
 明日を感じて今日を生きる
 生きる目的は、魂の進化
 心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
 魂の進化の場として与えられた運動場
 魂の夢、光り輝く魂
 自分を解放するプログラム
 人は常に、自分が今、最も学び、成長し、進化出来る最善の場所にいる
 現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている
 宇宙はメッセージだらけ
 真のワンネスとは
 真(まこと)のみを映す鏡
 全ては愛のメッセージ
 生きるとは、創造する事
 全てを喜びに変える創造
 この世界は自分次第
 肉体という衣について
 自分の両親を自ら選んで生まれて来ている
 あらゆる否定を無くする
 この世にあるもの全てが御魂の肥やし
 神の想いは、人を神ならせる事ー現象の基にある、神の優しさ
 神を知りたければ己の内を見る事ー自分の中にある神性、内在神
 神は一番下から出て来るー最も落とした所ほど最も貴い
 「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると、「かみ(神)」になる
 内なる神真釣り(祀り)がまず先ー外の神真釣り(祀り)は型示し
 神の道に奇跡なしーあるのはただ普通の道のみ
 現界(現実)の中に神界がある
 弥勒世とは今ここにある
 多次元に生きる、本源の我
 今ここに生きる事が、常なるテーマ
 幸福なるもの形にあらず
 プラス思考を超える
 全ては原因、全ては結果、全ては意味の付け方次第
 我が心救うは、我が心のみ
 天の大いなる意志に自己を明け渡す
 自分の中に全ての答えがあるー内的な知り方と外的な知り方
 魂の記憶を蘇らせる
 魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定どおりだった事を想い出す
 全ては我が魂の計画
 生きているうれしさをやさしく感じる
 自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す
 人生の全ては、輝きの中のものー内なる光は消える事なく私を照らす

新しい地球
 銀河系宇宙の中の地球という星
 天変地異ー天変わりし時、地異なる
 最も大きな変化とは、最も静かな変化
 人類は、さなぎから蝶へと、飛躍的に進化する
 地球人類総真釣り(総決算)の時
 地球は未曾有の領域に突入する
 全てが白日の下に明らかにされる時代
 無限の宗教ー絶対の宗教、永遠の宗教
 イエス・キリストの復活とはー内的な復活と外的な復活
 人間の無限の可能性とはー超能力と魂の進化は別問題
 様々な予言・神示・チャネリング情報などについて
 目暗信心(盲信する事)の戒め
 一人一人が目覚める時代
 全ては自分の認識でしかない
 意識を創る事が地球の仕事
 物質文明から精神文明へー日本から始まる新たな精神文明
 宇宙時代の幕開けと、「至福千年王国」

富士・日本・大和
 日本とユダヤー火の働きと水の働き
 世界の聖地にある聖火ー聖なる火の元・日本
 霊(ひ)ノ元・日本の象徴、霊峰富士
 日本三霊山(富士山、立山、白山)
 天之御中主大神=ヤーウェ=天にまします父=アラー
 祓戸大神(瀬織津比売、速開都比売、気吹戸主、速佐須良比売)
 九九=白、白山菊理媛(白山比咩神)
 「一厘の仕組み」「最後の一厘」について
 神々の名前(御神名)について
 恵比寿の働きについて
 金鯱(きんのしゃちほこ)ー尾張(終わり)の仕組み
 正式な結婚=結魂
 諏訪大社、諏訪湖、諏訪マアカタの仕組み
 阿波の国・徳島と、封印された四国(死国)
 富士と飛鳥(明日香)
 大いなる和「大和(やまと)」ー天(神)・地(自然)・人との大調和
 スメラ(日本)の真釣りとイシヤ(ユダヤ)の魔釣り

おわりに

   おわりに

 本書が世に出る、西暦2013年、平成25年は、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮とともに、出雲大社においても、60年ぶりとなる、平成の大遷宮が行われます。
 表の神界の表の働きである伊勢神宮と、表の神界の裏の働きである出雲大社においての式年遷宮が重なる年となり、日本にとって、節目の年を迎えます。

 そして、伊勢神宮の次の式年遷宮が行われる、西暦2033年までの間の20年前後が、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本の蘇りの時であり、私達日本人が、その本来の役割を果たすべき時なのです。

 地球人類総真釣り(まつり)、総決算の時なのであり、新しい地球へと生まれ変わる為の最後の総仕上げの時なのです。

 東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本は、今この時の為に、太古の昔から、用意されてきた民族であり、国家なのです。

 今、私達日本人の中に眠る遺伝子が、目覚め、蘇り、花開く時を迎えています。
 人類数千年の古い歴史が幕を閉じ、私達人類の新しい歴史が幕開けしようとする21世紀の今この時、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本に生まれて来て、想像だにない大変化のプロセスを身を以て体験するというのは、本当に稀有な事なのです。

 西暦2013年(平成25年)1月1日
                                大和富士


人生の悩み・苦しみの根底にあるもの その2

先日、「人生の悩み・苦しみの根底にあるもの」というタイトルで書きましたが、その事を、もう一つの面から書いてみたいと思います。

自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した世界を見ているのであり、全ては心の内の景色、言わば、幻です。

自分の心の中にある心象風景とでも言うべきものを、空間というスクリーンに映し出して見ているに過ぎません。

自分の脳の中にある内面の世界を、映像として映し出して見ているに過ぎないので、言わば、テレビや映画を見ているのと同じような状態だと言えます。
空間という、360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出して、自分の内面の世界を見ているという訳なのです。

自分が見ている現実世界とは、自分の意識を映し出す「鏡」の世界であり、自分の脳が創り出した、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。

自分の外の世界に、何か確固とした客観的な世界がある訳ではなく、現実世界とは、自分自身の意識の中にあるのです。

自分が見ている現実世界とは、自分の意識が投影された、自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドなのです。

私達は、自分自身の意識の内面の世界を体験し、味わっているのです。

ですから、例え、どのような悩みがあろうが、どのような苦しみがあろうが、自分が映す現実世界とは、本当の自分自身が見たい世界であり、体験し、味わいたい世界なのです。

本当の自分自身とは、本源の我であり、真我である、我が魂です。
自分の人生の主体者・創造者は、自分の魂であり、我が魂こそが、自分の人生の創造主なのです。

自分が映す現実世界とは、自分の人生の主体者・創造者である、我が魂が見たい世界、体験し味わいたい世界なので、例え、いつ如何なる時であったとしても、何も問題がある訳でもなく、安心して大丈夫なのです。

この物理的大宇宙そのものが、意識によって創られた世界であり、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)のような、幻の世界なのです。

この大宇宙は、絶対世界と相対世界から成り立っています。
絶対世界に唯一実在しているのは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主の純粋意識のみです。
私は、便宜上、大宇宙意識と呼んでいます。

そして、絶対世界にある大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したものを、映し出し体験する為の「鏡」の世界が、相対世界である、物理的大宇宙なのです。
絶対世界にある大宇宙意識の「想像(そうぞう)」が、光により物質化されて「創造(そうぞう)」された世界が、現象界としての、物理的大宇宙なのです。
相対世界である物理的大宇宙は、大宇宙意識の光が様々な紋様となって表現された、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)のような幻なのです。

本源の我であり、真我である、我が魂というのは、根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つを受け持って、ある一つの角度・視点から、この大宇宙を体験し、味わっている存在なのです。

この物理的大宇宙そのものが、幻の世界なのであり、自分というものは、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つを受け持って、この幻の世界を体験し、味わっているのです。

この物理的大宇宙そのものが、意識によって創られた世界である事は、最先端の物理学でも捉えられるようになってきたようです。
物理的大宇宙の中に意識があるのではなく、意識の中に物理的大宇宙がある、というのが、最先端の物理学が行き着いた結論でもあるようです。
人間の意識が大宇宙を創り出している、という結論に至ったようです。

そして、物質というものにも、何も確かな実態がある訳ではないという事も、理解出来るようになってきているようです。

この物理的大宇宙の全ては、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙意識によって繰り広げられている、壮大なゲームであり、遊びであり、全ては「神の戯れ(リーラ)」とも呼べる、バーチャルリアリティー(仮想現実)のような幻なのです。

そして、本源の我であり、真我である、我が魂は、大宇宙意識の分霊として、この壮大な幻の世界を、ある一つの角度・視点(=支店 してん)から映し出し、体験し、味わっている存在なのです。

ですから、自分が映す現実世界に、例え、如何なる世界が映し出されていようとも、自分の人生の主体者・創造者である、我が魂が、見たい世界であり、体験したい世界なのであり、全ては幻の中にある紋様なので、実は、何も問題がある訳ではなく、常に安心していて大丈夫なのです。

自分が映す現実世界を、つらい、苦しい、イヤだと感じているのは、あくまでも、肉体の自我意識(表面意識)なのです。

肉体の自我意識(表面意識)では、本源の我である魂の意図がなかなか分からないだけなので、実は、自分が映す現実世界には、常に、新たな発見、楽しみがあり、生きる喜び、面白さがあるのです。

肉体の自我意識(表面意識)を外し、人生の主体者・創造者である魂の意図を感じられるようになってくると、自分が映す現実世界にある面白さ、楽しさ、新たな発見、生きる喜び、人生の輝きというものを、だんだん味わえるようになってきます。

そして、幻の世である、この世界のかけがえの無い美しさ、輝き、面白さというものを、だんだん楽しめるようになってきます。

人生の悩み・苦しみの根底にあるもの

人生の悩み・苦しみの根底にあるものは、実は、自分の現実は全て、本当の自分自身が創造したのだという事を信じきれないところから来ています。

自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。
そして、我が魂とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主の分霊(わけみたま)です。
大宇宙の根本主体の事を、私は、便宜上、大宇宙意識と呼んでいます。

我が魂というのは、大宇宙の根本主体である大宇宙意識の分霊であり、自分の現実というものは全て、我が魂が創造したものなのです。
本源の我、真我であり、大宇宙意識の分霊である我が魂こそが、自分の人生の主体者・創造者なのです。
我が魂こそが、自分の人生の創造主でもあるのです。

そして、人生を生きる上での悩みや苦しみの根底にあるものは、突き詰めていくと、実は、自分の周りにある現実の全ては、他ならぬ自分自身が創造しているのだという事を信じきれないところから来ています。

例え、自分の目の前にある現実が、どんなにつらく苦しく感じられようとも、自分の身に起きた出来事が、どんなに不幸・不運としか思えないような出来事であったとしても、どんなにあり得ないと思われるような現実が目の前にあったとしても、自分の現実は全て、本源の我であり、真我である、我が魂が創造したものなのです。

私達の人生には、基本となるプログラムが存在しています。
コンピューターに、基本となるプログラム・OSがあるように、実は、私達の人生にも、基本となるプログラムが存在しています。

そのプログラムとは、「魂の進化」というプログラムなのです。
私達の人生は、「魂の進化」というプログラム上にしか存在していませんので、人生で起きる全ての事は、我が「魂の進化」の為に起きているという事になります。

「魂の進化」とは、心の純化、意識の福化という事であり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てをよろこびと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心になる事なのです。

如何なる人生を歩もうとも、如何なる事を成そうとも、人生の基本となるテーマは唯一点、「魂の進化」という事なのです。

そして、魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識)の関心事とは違います。

魂にとっては、心の器を大きくして、心を純化、意識を福化させる事だけが関心事なので、その為に必要と思われる最適な状況を創造します。
その中には、病気や怪我、お金を失う事、失恋・離婚、失業、社会的地位や名誉を失う事、人間関係を失う事など、一般的に不幸・不運と呼ばれるような状況も多く含まれます。

一方、肉体の自我意識(表面意識)の関心事は、多くの人にとっては、健康・長寿、お金・富、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の仕事、社会的成功、地位・名誉、素晴らしい人間関係など、一般的に幸福・幸運と呼ばれるような状況かも知れません。

このように、本源の我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識)の関心事とが違い、差(ギャップ)がある為に、本当は、自分の魂が望んで創造した人生なのに、ともすれば、人生がつらく苦しく、あたかも、自分が人生の被害者であるかのように感じたりしてしまいます。

しかし、創造の主体者である魂にとっては、苦というものは無く、体験する全てはよろこびでしかありません。
大宇宙意識の分霊であり、「魂の進化」と呼ばれる永遠の旅をしている我が魂が、魂の更なる輝きを求めて、光輝く魂になる事を求めて、全ての現実を創造しているのです。

自分の現実の全ては、我が魂が、「魂の進化」の為に創造した最善の現実なのであり、私達の人生とは、最善の出来事の連続でしかありません。
ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。

今、自分の目の前にある現実というものは、大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である、我が魂が、「魂の進化」の為に創造した最善の現実なので、そこには必ず、今自分が最も学ぶべきものがあり、新たな面白さ、新たな発見、新たなよろこびが、必ずあるのです。

自分の身に起きる様々な出来事などの事柄には、本来、幸福・不幸、幸運・不運というものがある訳ではありません。
ただ、肉体の自我意識(表面意識)が、ある事柄を幸福・幸運と呼び、ある事柄は不幸・不運と呼んで、大騒ぎしているだけの事なのです。
魂の更なる輝きを求めて、光輝く魂になる事を求めて、永遠に続く意識の旅をしている我が魂にとっては、全ての体験がよろこびであり、「魂の進化」の為に創造した、最善の出来事でしかありません。

人生の悩み・苦しみの根底にあるのは、その事を信じきれていない事が原因なのです。

よく、天(神)は、その人が乗り越えられない試練は与えない、と言われますが、それは本当の事です。
何故なら、大宇宙の根本主体である大宇宙意識の分霊であり、我が人生の創造主である我が魂が、全ての現実を創造しているので、自分自身が乗り越えられないような現実は創造する筈が無いからです。

例えどんなに、困難・大変と思えるような出来事が起きたとしても、その事は別に、不幸・不運という訳ではなく、自分を成長させる為の「挑戦カード」が出ているだけなので、心を大きく飛翔させるチャンスでもあるのです。
「大変」とは、「大きく変わる」と書きますが、大変だから大きく変われるのであり、逆に言えば、大変でなければ、大きくは変われないとも言えるかも知れません。

もし、大変な事、困難な事と思える事が自分の身に起きたとしたら、それは、自分が不運だったからではなく、自分が成長したので、その課題、言わば「挑戦カード」を受け取る事に成功しただけなのです。

もし、人生の悩み・苦しみから解放されて、真の幸福を得たいと望むならば、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てをよろこびと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心を創る以外に、永遠の幸福へと至る道は用意されていないのです。

自分の人生に起きる全ての現実は、永遠の幸福へと至る、意識の旅のプロセスの中にあるものなのです。

自分の現実の全ては、大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我であり、我が人生の主体者・創造者である我が魂が、「魂の進化」の為に創造した「よろこびの体験」なのであり、全ては最善の事の連続でしかありません。

その事を受け入れ、認めていく事が、心の純化であり、意識の福化と呼べるものなのです。
そして、創造の主体者である、我が魂の意図が分からなければ分からない程、それが、人生の悩み・苦しみの原因となっていきます。

自分の人生の全ては、誰のせいでもありません。
親のせいでもなければ、人のせいでもなく、会社のせいや、社会のせいでもなく、天の神仏や大宇宙のせいでもありません。
もちろん、悪魔(サタン)や悪神、邪霊や霊的存在、カルマのせいでもありません。

全ては、本源の我であり、真我である、我が魂が、「魂の進化」の為に創造した、「よろこびの体験」でしかなく、我が人生の創造主は、本当の自分自身なのです。

この大宇宙に唯一実在しているのは、絶対世界の唯一の実在である、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識のみです。
我が魂というのは、大宇宙意識の分霊であり、永遠不滅の存在なので、肉体という乗物を使って遊びながら、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になる事を求めて、「魂の進化」と呼ばれる、意識の旅をしているのです。

創造の主体者である、我が魂の意図が感じられれば感じられる程、人生の悩み・苦しみから解放されていきます。
魂の記憶とでも言うべきものが蘇ると、自分の現実の全ては、本源の我であり、真我である、我が魂が創造したのだという事を、想い出せるようになります。
そして、自分の目の前にある現実は、例え、いつ如何なる時であったとしても、決して悪くはないのだという事が分かるようになります。

今、自分の目の前にある現実というものが、今の自分が魂を進化させる為に最善の環境なのであり、今の自分が、最も学び、成長し、進化出来る場所なのであり、そこには必ず、生きるよろこびがあり、新たな発見・新たな面白さがあり、新たな意識を創れる場所なのです。


霊能力、霊能者、霊的世界について一言

世の中には、霊能力があると言われる人、いわゆる霊能者と呼ばれる人達がいます。
そして、霊能力があると思っている霊能者の中には、自分に霊能力があるという事が、何か偉い事であったり、特別な事であるかのように、勘違いしている人達も多いかと思います。
そして、自分が霊的に見えたり聞こえたり感じられた事が、あたかも真実そのものであるかのように、勘違いしている傾向も見受けられます。

また、霊能力というものに憧れている人達は、世のいわゆる霊能者と呼ばれる人達の事を特別視し、霊能者の言う事を、安易に信じ込んだりする傾向があります。
しかし、いわゆる霊能者と呼ばれる人達の言う事を、盲信したりしないように注意する必要があるかと思います。

世の中には、いわゆる霊能者と呼ばれる人達がいますが、その中には、ごく稀にですが、驚くべき霊能力を持った人も、確かに存在します。
宗教の教祖を務める役割を担った人などの中には、ごく稀ですが、驚くべき霊能力が備わった人も、確かに存在します。

しかし、だからと言って、その霊能者が言う事を、100%盲目的に信じ込んだりしないように注意する必要があるかと思います。

どんなに優れた霊能力の持ち主であったとしても、その人に見えたり聞こえたり感じられたりする事の全てが、100%正しいという事は、まず無いと思います。
ましてや、世にいわゆる霊能者と呼ばれている人達の言う事など、とても真に受けられないような事がほとんどではないかと思います。

何かが見えたり聞こえたり感じられたりという、いわゆる霊能力があるという事が、別に偉い訳でも優れている訳でもありません。
何が見えているのか、聞こえているのか、感じられているのか、そして、それが本当にそうなのかどうか、という事が肝心なのであり、霊能者本人には、分からない筈です。

ですから、もし仮に、自分に何かが見えたり聞こえたり、感じられたりしたとしても、それが何か絶対的な真実であるかのように勘違いしないように気を付ける必要があります。
それが本当にそうなのかどうかは、自分では分からない筈です。
自分に、何かが霊的に見えたり、聞こえたり、感じられたりしたとしても、それらの事に、あまり囚われない事が大切です。

その事は、別に、偉い事でもなければ優れた事でもなく、それが本当にそうなのかどうかは、分かりません。
むしろ、ほとんどの場合は、幻想にしか過ぎないかも知れません。
もし仮に、自分に霊能力があったとしても、それが何か特別な事、優れた事だと勘違いしないようにするだけではなく、自分の霊能力が、何か絶対的に正しいものだと錯覚しないように注意する必要があります。

ましてや、他人である霊能者が言っている事など、とてもそのまま鵜呑みにする事は出来ません。
きちんと自分自身で審神(さにわ)して、盲信しない事が大切です。

また、霊的世界というものに囚われている人達も多く見受けられます。
目に見えない世界、霊的世界というものが、本質の世界であり、絶対的な世界であるかのように勘違いして、そのようなところを語って人々を導こうとする人達も見受けられます。

霊的世界と呼ばれている世界も、所詮は相対世界の中のある領域のものであり、周波数が違うだけであって、別に本質の世界でもなければ、絶対の世界でもありません。

この大宇宙の本質である絶対世界に唯一実在しているのは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主の純粋意識のみです。
私は、便宜上、大宇宙意識と呼んでいます。
それ以外のものは、全て相対世界のものであり、所詮は幻の世界の中の領域のものなのです。

私達人間は、確かに霊的な存在です。
私達人間の本質は霊魂であり、大宇宙の根本主体である大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。
しかし、大宇宙意識の分霊である霊魂が、自分が「想像=創造(そうぞう)」した世界を体験し、味わう為に、肉体の衣を纏(まと)って、今、この世界に存在していますので、体験する事が全てです。

本源の我、真我である、我が魂が「想像=創造(そうぞう)」した世界をきちんと体験して味わう事が大切であり、今日一日をいかに生きるのか、さらには、今この瞬間をいかに生きるのかという事が、とても大切なのです。

真のリアリストとして、今、目の前の現実をしっかりと生きる事が大切なのです。
目に見えない世界、霊的世界というものに意識を向け過ぎる事は、囚われとなり、迷いとなります。

霊界からの通信のようなものをいくら読んでみたところで、あるいは、死後の世界を見て来たという人の話をいくら聞いてみたところで、それが本当にそうなのかどうかは、本当のところは、よく分からない筈です。
そのような本をいくら読んでみたところで、知識だけは一杯増えますが、自分でもよく分からない概念で頭が一杯になり、自分を見失ってしまう懸念もあります。

霊能力、霊的世界などに囚われている人は、これから最も進化が遅い類の人達かも知れません。
何故なら、自分が見える事、聞こえる事に、囚われているからです。
あるいは、他人である霊能者に見えている事、聞こえている事に、囚われているからです。
そして、自分でも本当のところはよく分からない概念に囚われているからです。

新しい地球というのは、霊的世界の向こうにあるのではありません。
霊的世界、霊能力などに囚われなくなった先に、新しい地球、新しい世界はあるのです。
現実レベルでの大変革の向こうに、新しい地球は誕生する事になります。

物質文明の次に来る新たな精神文明、花咲く都・黄金文明、宇宙時代の幕開け、「至福千年王国」は、最早、霊的世界などに囚われなくなった、ある一定数の日本人を中心にして花開く事になります。


全ては自分の認識でしかない

私達人間一人一人は、自分の信じる信念や考えというものを持っています。
しかし、それはあくまでも、自分の認識にしか過ぎません。

自分が正しいと思っている事、本当だと思っている事、真実だと思っている事の全ては、あくまでも、自分の認識でしかないので、「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」というように、自己の想いを、淡く、軽く、緩やかにしていく必要があるかも知れません。

自分の認識というのは、この宇宙で唯一・絶対のものでもなければ、不変のものでもありません。

地球上に70億人の人間がいれば、70億とおりの認識の仕方があります。

そして、私達人類はまだ、この大宇宙について、万分の一すら知ってはいないのです。

自己の持つ強い認識(常識)を強めるのではなく、その捉え方を、もっと緩く、軽やかにしていくとよいかも知れません。

特に、宗教や何かの教えなどを熱心に信じている人達にありがちな傾向として、自分の信じる教えや何かの道が、世界で唯一・絶対の道であるかのように思い込んだり、自分の信じる神・仏・聖者・教祖・指導者・先生などが、世界で唯一の救い主であるかのように、信じ込んだりしてしまいがちです。

しかし、本当にそうなのでしょうか?
それはあくまでも、自分がそう思っている、あるいは、そう思いたいだけなのではないでしょうか?

自分の認識は、宇宙で唯一・絶対のものでもなければ、不変のものでもありません。
あくまでも、今現在の自分がそう思っている、強く信じ込んでいるだけの事です。

私達は、地球上の全ての人、全ての事を知っている訳ではありませんし、ましてや、大宇宙の事など、何も知らないに等しいのです。
ですから、「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」のです。

いつか別の機会に改めて書いてみたいと思いますが、新しい地球の誕生というのは、何か一つの教え、あるいは団体によって達成されるというような単純なものではありません。

人類の意識が根本から新たに生まれ変わる為には、自然環境を始め、政治、経済、貨幣システム、科学技術・テクノロジー、宗教、世界観、常識、概念、ライフスタイルなど、ありとあらゆる変化が必要であり、今地球上で起きている全ての事は、人類の意識の飛躍的進化と地球の新たな誕生に向けて起きて来ています。

ある特定の人物・団体・教え・道だけが、地球を救うというような単純な、簡単な話ではありません。

また、天変地異を始め、地球の未来についても、様々な予言・神示・チャネリング情報がありますし、霊能者と呼ばれる人達も、様々な事を言っていると思いますが、それらの情報についても、何か唯一・絶対のものであるかのように強く握るのではなく、「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」と、淡く、軽く、緩やかに捉えていけると良いかも知れません。

自らが持つ強い認識(常識)は、常に崩されていきます。
仕組みとして、自分が強く握ったところ程、その想い(=重い)は天によって外され、意識の拡張・変更を迫られる事になりますから、自己の持つ強い認識(常識)を、もっと淡く、軽く、緩やかにしていくと楽しいかも知れません。

今現在まだ高齢でない人達は、20年後、あるいは30年後になってから、今の自分を振り返った時、おそらく、同じ人間とは思えない程、意識が格段に進化した事を実感する事になると思います。

それくらい大きな意識の飛躍的進化を人類はこれから経験する事になる筈です。
一人一人が、意識の拡張・変更を天から求められる流れに入っていますから、自己が持つ強い認識(常識)を強めるのではなく、緩やかにしていく事が楽しい流れとなります。

全ては自分の認識でしかありません。
「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」のです。


現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている

私達の人生は、「魂の進化」というプログラム上に存在しています。

そして、自分の目に映る現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、そこに映る全ての人、事、ものは、ただ「我の解放のプログラム」として存在しているだけのことです。

ですから、自分が映す現実世界と言われる空間全てには、常に、遊びという学びが用意されています。

あとはただ、それを発見していくだけだと言えるかも知れません。

今の自分の心がそのまま、自分の目に映る現実世界として現れており、そこには必ず、今の自分に丁度良い、ピッタリな、遊びという学びが、宇宙から常に用意されています。

例え、自分が映す現実世界に、遊びという学びの面白さが感じられないとしても、それは、自分がまだ気付いていない、発見していないだけだと言えるかも知れません。

自分の心のストライクゾーンを広げていくと、今までは、うれしい、ありがたい、面白いと感じられなかったような領域にも、面白さを感じられるようになるかも知れません。

自分の小さな心のストライクゾーンを広げて、全てを喜びと感じられるような全天候型の心に至る為に、「我の解放のプログラム」として、目に映る全ての人、事、ものが、ただ現れているだけなので、そこには必ず、今の自分に丁度良い形で、遊びという学びが、プレゼントとして、宇宙から常に用意されています。

ですから、あとはただ、面白さを発見していくだけだと言えるかも知れません。

そして、この旅には終わり(ゴール)はないので、私達の人生とは、自分が映す現実世界の中に、遊びという学びの面白さを発見していく旅の連続だと言えるかも知れません。

生きているうれしさをやさしく感じる

天によって生かされ、今自分が生きているという事のうれしさ、今自分が存在している事のうれしさ、というのは、本当に淡い感じのものです。

天に生かされ、今自分が生きているといううれしさ、ありがたさというのは、何か特別な出来事の中にあるのではなく、普通の日々の中にあり、それは、ほんのり淡い感じのものです。

そよ風がとてもやさしく心地良く感じられるような、道端に咲いている一輪の小さな花が、限り無く美しく感じられるような、ふと見上げた夜空の月が、何とも言えず美しく輝いて感じられるような、とても淡くて軽い感じのものです。

多くの人達が考える、何か特別な出来事の中にある楽しみや喜びというものよりも、もっともっと淡い感じのうれしさです。

本当は、今朝目が覚めて、自分が今生きているという事すら、奇跡だとも言え、私達の人生とは、ある意味においては、奇跡の連続なのかも知れません。

ピュアな心、無地透明な心、豊かな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、いずこにもとらわれない心へと、私達は天によって導かれて行きます。
何故なら、それこそが、「魂の進化」と呼ばれる、天上界へと向う、魂の永遠の旅だからです。


魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定どおりだった事を想い出す

魂の記憶が蘇ってくると、今までの人生の全てが、生まれる前に魂が決めた計画どおりに、寸分の狂いもなく、進んできた事を想い出す事が出来ます。

自分の人生を振り返ってみると、過去には様々な選択肢があったようにも感じられ、もしあの時、別の選択をしていれば、今の自分は違う状況にいる筈なのに、と感じる事も、色々あるかも知れません。

しかし、様々な選択肢があったように、後になってから感じられたとしても、その瞬間の自分自身にとっては、やっぱり、その選択肢しか無かったのであり、生まれる前に自分自身が決めて来た道程(みちのり)を、ちゃんと予定どおりに歩いて来たのだという事を想い出す事が出来ます。

瞬間瞬間の様々な選択をしている主体者は、本源の我であり、真我である、我が魂なので、表面意識であれこれ考えて選択しているように思えたとしても、最終的な選択は、意識のより深い部分にある、本源の我、真我である、我が魂が全ての選択をしています。

ですから、今までの自分の人生の、瞬間瞬間の様々な選択の全ては、我が魂がしたのであり、神の分霊(わけみたま)であり、我が人生の創造主である、我が魂は、生まれる前に計画して来たとおりに、寸分の狂いもなく、瞬間瞬間の選択をしたのであり、全ては予定どおりであった事が、魂の記憶として、蘇ってきます。

そして、今までの自分の人生は、全て予定どおりであり、最善の道程であった事が実感出来ます。

例え思い通りでないように感じられたとしても、そう感じているのは、あくまでも肉体の自我意識であって、本源の我であり、真我であり、自分の人生の創造主である、我が魂から見れば、全て思い通りであり、願いは叶っていると言え、魂の夢はちゃんと叶っているのだと言えます。

私達の人生は、「魂の進化」というプログラム上にしか存在していないので、魂の願いはただ一点、心を純化、意識を福化させ、光輝く魂になる事だけなので、「魂の進化」という永遠の旅を続ける魂の願いは、ちゃんと叶っているのだという事を想い出す事が大切になります。

自分の今までの人生において、瞬間瞬間の選択の全ては、本源の我、真我であり、神の分霊である、我が魂が、生まれる前に計画したとおりに、寸分の狂いもなく、選択したのであり、やっぱり、今まで自分が歩いて来た道程しか無かったのです。

そして、その道程は、「魂の進化」という視点から見れば、決して悪くはなかったのだと言えます。
例え、肉体の自我意識から見れば、失敗続きに思えたとしても、それによって、ある意識を創る事には成功している筈です。

肉体が死を迎えた時、魂が永遠の旅に持って帰れる「おみやげ」は、体験によって創られた意識だけなので、我が魂は、最短距離で「魂の進化」を、ちゃんと進めてくれています。

魂の記憶が蘇って来て初めて、自分の今までの人生を、本当の意味で、受け入れ、認め、感謝出来るようになるとともに、本源の我であり、真我であり、我が人生の創造主である、我が魂にも感謝出来るようになると言えるかも知れません。

自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す

自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す事が大切だと思います。

自分の顔や姿・形、自分の社会的な地位や立場、自分が周囲の人々からどういう評価を受けている人間か、など、自分の肉体ばかり見ていると、自分というものが、ともすれば、とても小さな、価値の無い人間のようにも思えてくるかも知れません。

そして、自分が今までの人生で行って来た、全ての想いや行動を振り返ると、自己嫌悪に陥りたくなるかも知れません。

しかし、そういう時こそ、自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す事が大切になります。

私達の中にある本質の光は、聖なる光であり、神道的に言えば、神性、仏教的に言えば、仏性、あるいは、観音菩薩の心、キリスト教的に言えば、キリスト意識とでも呼ぶべき、神聖な光だと言えます。

神の本質と同じ、聖なる光の存在が、自らの本当の光を一旦忘れ、それを想い出し蘇らせる事によって、さらに光輝く為に、肉体の衣を纏って、今、この時空に存在しているのであり、それが、私達人間なのです。

自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す事が大切だと思います。
私達人間一人一人の中にあるのは、神聖な光であり、それを想い出し、蘇らせ、体験する為に、私達は、21世紀の地球、そして、日出る神国・日本という、この時空にやって来たのです。

人生の全ては、輝きの中のものー内なる光は消える事なく私を照らす

私達の人生の全ては、輝きの中にあり、例えどんなに人生がつらく苦しく感じられたとしても、やっぱり輝きの中のものです。

如何なる時であっても、自分自身の内なる光、本源の我であり、真我である、我が魂の光は、消える事はありません。

内なる光は常に輝き、自分自身を照らし続けてくれています。
自分自身の本当の光を、本源の我の本当の輝きを、常に想い出す事が大切だと思います。

今までの自分の人生が、どのような人生であったとしても、そして、今、自分の人生が、どのような状況にあろうとも、本源の我であり、真我であり、我が人生の創造者である我が魂は、今までの人生の全てを、体験して味わいたかったのです。

「魂の進化」の為に、魂のさらなる輝きを求めて、我が魂は、我が人生の全てを創造したのであり、今までの人生の全ては、魂の輝きの中にあったと言えるかも知れません。

私達は、肉体の衣を脱いでこの世を去る時、家族や愛する人、友人、お金、家・土地・財産、仕事、地位、名誉、自分の宝物など、ありとあらゆる全てのものを置いて行く事になりますが、ただ一つ、自分の体験だけは、人生の「おみやげ」として、魂が永遠の旅に持って帰れるものなのです。

魂のさらなる輝きを求めて、「魂の進化」という永遠の旅をしている魂にとっては、体験こそが喜びであり、財産であると言えます。

人生がつらく苦しく感じられたとしても、やっぱり人生の全ては輝きの中のものであり、内なる本源の光は消える事なく、常に自分自身を照らし、導いてくれています。

内なる光を、魂の輝きを想い出す時、我が魂の想いというものが感じられ、いつ如何なる時も、常に自分は、守られ導かれて来た事が感じられます。

光輝く我が魂が、魂のさらなる輝きを求めて、我が人生の全てを創造したのであり、うれしかった事、悲しかった事、喜びや悲しみの体験の全てが、永遠の魂にとっての、かけがえの無い財産であると言えます。

今までの人生の全ては、真我である我が魂が、体験して味わいたかった事であり、どんなにつらく苦しく感じられたとしても、やっぱり輝きの中にあり、内なる光は、常に消える事なく、自分自身を照らしてくれていたのだと感じられます。

そして、これからもずっと、自分の人生の全ては、輝きの中にあり、内なる光は消える事なく、常に自分自身を照らし、見守り、導いてくれます。

人は常に、自分が最も学び、成長し、進化できる最善の場所にいる

私達人間一人一人、全ての人間は、常に、自分自身が最も学び、成長し、進化できる最善の場所にいます。

これは、宇宙の法則であり、一人の例外もなく、全ての人間が、例え、いつ如何なる時であっても、毎瞬毎瞬、自分自身が最も進化・成長できる、最善の場所にいるのです。

例え、自分が今いる場所が、どんなにつらく苦しく、不幸・不運と感じられるような環境であったとしても、そここそが、自分が今、最も成長できる、最善の場所だという事になります。

宇宙法則として、一人の例外もなく、全ての人間は、毎瞬毎瞬、常に自分にとって最善の場所にしかいる事ができないのです。
この大宇宙は、一切の無駄というものがない、完璧な世界なので、全ての存在が、最短距離で進化を常に続けています。

肉体の自我意識の視点から、自分の今いる場所を、幸・不幸、運・不運という目で捉えてしまうと、自分の今いる場所が、つらく、苦しい事ばかりで、とても最善の場所に今自分がいるとは、思えないかも知れません。

しかし、私達の人生というのは、「魂の進化」というプログラム上にしか存在していないので、「魂の進化」という視点に立てば、自分自身は常に、自分が最も学び、成長し、進化できる最善の場所を歩いて来たのであり、「魂の進化」を最短距離で突き進んで来たのだと言えます。

これは、宇宙の法則であり、天の仕組みなので、一人の例外もなく、全ての人間が、その瞬間瞬間、自分がいるべき最善の場所にいるのです。

この大宇宙は、一枚の壮大な絵のようなものであり、全てのものが一つにつながって、宇宙全体として常に最短距離で毎瞬毎瞬、進化を続けているので、私達人間一人一人もまた、常に自分が最も進化できる最善の場所に生かされているのだという事を信じる力が大切だと思います。

「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると、「かみ(神)」になる

神社に行きますと、御神体として、鏡が祀られていますが、私は、日本の神社に御神体として鏡が祀られている事に、とても奥深いものを感じます。

「かがみ」から、中心にある「が」という字を取ると、「かみ」になります。
「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると、「かみ(神)」になります。

既に何度も書いているとおり、自分が見ている現実世界とは、自分の意識を、空間というスクリーンに投影した、自分の内面の世界を見ているのであり、言わば、インナーワールドです。
自分の心の中の心象風景を映し出して見ているに過ぎないので、自分が見ている現実世界とは、自分の心を映し出す「鏡(かがみ)」の世界であるとも言えます。

自分の肉体の場合もそうなのですが、自分の顔や姿・形を知る為には、「鏡」が必要になります。
映し出す「鏡」がないと、自分がどんな顔や姿・形をしているのかが分かりません。

それと同じように、自分の意識というものも、それを映し出す「鏡」がないと、自分の意識がどんな状態なのかが、分からないのです。
意識というものは、それを映し出す「鏡」が必要であり、それが、現実世界と呼ばれるものなのです。

自分が見ている現実世界とは、本源の我であり、真我であり、神の分霊(わけみたま)である、我が魂が創造したものなので、それを映し出して見ているに過ぎないのです。

真我である我が魂が「想像=創造」した「鏡」の世界が自分の現実世界なので、本当は、望んだとおりに映し出されている完璧な世界なのですが、自分の現実世界が、イヤだ、面白くない、苦しい、こんな筈はない、おかしい、在り得ない、などと感じるのは、全て、「我」があるからなのです。

自分が見ている現実世界が、イヤだ、苦しい、面白くない、自分はついていない、などと思うのは、全て、肉体の自我意識によるものです。
肉体の自我意識の関心事と、真我である魂の関心事は違うので、そこにどうしても、ギャップ(差)が生じてしまいます。
差(ギャップ)を取る事が、「悟り=差取り」という事でもあります。

魂の関心事というのは、「魂の進化」という事であり、光輝く魂になる事だけが魂の関心事なので、自分が最も進化・成長出来るような現実を創造します。
自分が見ている現実世界とは、神の分霊(わけみたま)である我が魂が、魂を進化させる為に100%望んだ事なのです。

自分の肉体の自我意識の「我」を外して、その事を、受け入れ、認めていく事が、心の成長であり、意識の福化と呼べるものなのです。
「魂の記憶を蘇らせる」事が出来るようになってくると、自分の現実は全て、真我である我が魂が創造したのだという事を、受け入れ、認める事が次第に出来るようになってきます。

神の分霊(わけみたま)である我が魂が「想像=創造」した、現実世界という「かがみ(鏡)」の世界から、自分の肉体の自我意識という「が(我)」を外すと、「かみ(神)」としての、本当の自分自身、本源の我の姿が見えてきます。

神社で鏡を御神体として祀る神道と言い、世界に類を見ない独特の言語である日本語と言い、私達日本人は、とても奥深い国に生かされているのだと感じます。


 

人間の無限の可能性とはー超能力と魂の進化は別問題

私達人間一人一人には、無限の可能性が秘められています。
大宇宙の持つ無限の属性とでもいうべきものが、私達人間一人一人の中に、宿されています。

しかし、ここで一つだけ気をつけなければいけないのは、無限なのは、知性や霊性とでも呼ぶべき面であり、私達人間の肉体というものは、決して無限ではないので、いわゆる超能力のようなものの中に、人間の無限性を見たりしないように注意する必要があります。

世の中には、様々な能力を持った人達がおり、いわゆる、超能力者と呼ばれるような、不思議な事が出来る人達が存在します。
空中浮遊が出来るヨガ行者もいますし、水の上を歩いたり出来る人、あるいは、空間から物質化して物を取り出せる人、その他、様々な人達がいます。
確かに、それらも、人間が持つ能力の一部ではあるので、開発していくと、人間には、様々な事が出来るのだと思います。
チベットには、人に知られない山奥で、ルンゴムと呼ばれる空中歩行の訓練をする場があり、空中歩行出来る人もいるようです。

いわゆる超能力のようなものは、人間が持つ能力の一部ではあるのですが、人間に宿る無限性というものは、超能力のようなものの中にある訳ではありませんし、超能力と魂の進化とは、別問題なので、混同しないように、注意する必要があります。

私達人間の肉体というものは、生物としての制約を受けていますので、決して無限の可能性がある訳ではありません。
着の身着のままで、ジェット機のように、高度1万メートル上空を、時速千数百キロで飛んで行ける訳ではありませんし、潜水艦のように、水深数百メートル深くまで潜って行って、生きていられる訳でもありません。
月や他の天体のような宇宙空間に飛んでいって、無酸素状態の空間で息をしていられる訳でもありません。
製鉄所の中の、鉄を溶かしている数千度の空間に入って、生きていられる訳でもありません。

そういう点においては、当たり前な事なのですが、人間の肉体というものは、無限ではありません。
人間に宿る無限の属性というものは、肉体のような、外側にあるのではなく、知性、霊性というような、人間の内側にあります。

ほとんどの人達は、人間の脳の中の数%しか使っていないとも言われており、10%も使うと大天才になるとも言われています。
人間の脳の中にこそ、無限の可能性が秘められています。
高度1万メートル上空を時速千数百キロで飛行出来るジェット機を開発したり、宇宙空間に飛んで行ける宇宙ロケットを開発したり、無酸素状態の宇宙空間でも生きていられる宇宙服を開発したり、水深数百メートルまで潜って行ける潜水艦を開発したり、水深数百メートルの深海でも生きていられるような潜水服を開発したり出来る事こそが、人間の能力の無限性であって、そういう面においては、私達人間には、無限の可能性が秘められているとも言えます。

人間の進化という事と、超能力とは、また別問題なので、人間が進化するとは、いわゆる超能力者になる事だと勘違いしないように注意する必要があります。

既に何度も書いていますが、この21世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、花咲く都・黄金文明とでも呼ぶべき、新たな精神文明が、日本を中心にして誕生する事になります。
キリスト教の世界で言われる至福千年王国の事でもあり、仏教的な表現をすれば、弥勒世という事になります。

花咲く都・黄金文明というのは、決して、みんなが、いわゆる超能力者のようになって、空中浮遊したり、水の上を歩いたり、あるいは、空間から何でも物質化したりしているような世界では、ありません。

まず、何よりも大きく変わるのは、私達人類の意識です。
幸・不幸という概念すら超えて、全てを喜びと感じられる心、無地透明な心、言わば、タイタン(巨人)のような心になり、自分という概念すらゆるやかに融けて、地球という惑星の意識と一つになっていきます。
そして、人間に与えられた知性を開発して、人類を幸福にする、様々な科学技術・テクノロジーを進化させていきます。
自然と調和し、自然と共生しながら、人類が平和で豊かに暮らしていけるような、様々な科学技術・テクノロジーを進化させ、人類に与えられた知性の恩恵を享受出来るような世界が誕生します。

新しい地球というのは、天から人類に与えられた、無限の霊性、無限の知性を進化させる事により、誕生します。
決して、超能力のようなものを開発する事によって、誕生する訳ではありませんので、勘違いしないようにする必要があると思います。

超能力の開発のようなものは、やりたい人は、自由にやれば良いとは思いますが、その事と魂の進化とは、また別であり、むしろ、逆方向に行く危険性もあります。
超能力の開発に意識を向け過ぎるような事は、ともすれば、自己というものを強めてしまう事につながりますが、自己を強めるのではなく、自己を宇宙へとゆるやかに解放し、宇宙へと帰る旅が、魂の進化と呼ばれる、永遠の旅なのです。

私達はあまりにも、自分の肉体というものに囚われがちですが、自分という者も、本当はいる訳ではなく、大宇宙に無数に存在する座標軸の中のある一点を受け持たせて頂いているだけなので、我を解放し、「本当は誰もいないーただ大宇宙がある」という事を想い出していく旅があるだけなのです。

いわゆる超能力者とはまた別ですが、世の中には、ほとんど食物を食べなくても生きていられる人達がいます。
何年も、あるいは、人によっては、何十年も、全く食べずに生きている人もいるようですし、そこまで極端ではなくても、一日ごくわずかの食料だけで元気に生きていられる人達もいます。

確かに人間には、食べなくても生きていられる要素はあるのですが、その事と、魂の進化とはまた別問題ですので、食べなくても平気な状態に自然にならない限りは、毎日食事を摂った方が自然だと思います。
人間は本来、生物として、水や食料を体内に摂り入れ、大小便として体外に排泄するように出来ていますので、それが本来の自然な形だと思います。
新しい地球、花咲く都・黄金文明においても、人々は普通に、安全な水や食料を日々、体内に摂り入れ、不要物は体外に排泄していますので、人類は進化すると食べなくても平気になるなどと、変な勘違いはしないように注意する必要があるかも知れません。

私達人間は、天によって完全に創られた知的生命体であり、大宇宙が持つ無限の属性というものが、人間一人一人の中に秘められています。
意識を無限に進化させ、天上界へと続く永遠の旅をしている存在であり、脳をフル活用出来るようになれば、様々な物事を実現させる知性を秘めています。
人間の無限の可能性とは、そのような、霊性や知性に秘められているのだと思います。

自分の中に全ての答えがあるー内的な知り方と外的な知り方

知るという方法には、二通りの知り方があります。
内的な知り方と、外的な知り方とでも呼ぶべきかも知れませんが、とにかく、知るというのには、二通りの道があります。

外的な知り方というのは、敢えて説明を必要としないと思います。
誰か他の人の話を色々聞いたり、色々な書物を読んだりして、自分の外から、答えを得ようとするやり方です。

これに対して、もう一つ、内的な知り方というものがあります。
自分の外にではなく、自分の中に答えを求めるやり方であり、内向的な方法です。

実は、自分自身の中には、自分自身に関する全ての答えがあります。
私達が普段、あれこれ考えたりしている意識は、表面意識と呼ばれたりする、氷山の一角のような部分であり、水面下には、潜在意識、さらには無意識と呼ばれる部分や、さらに深くなると、人類共通の集合無意識と呼ばれるような部分があり、意識の一番深いところまで遡ると、最終的には、大宇宙意識とでも呼ぶべき、大宇宙の根本創造主の意識まで辿り着きます。

ですから、私達一人一人は、意識の一番深い部分においては、この大宇宙の全てを知っているとも言えます。

唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主の大宇宙意識と私達の意識の関係を、仮に、コンピューターに例えるとすると、大宇宙意識が、巨大なホストコンピューターであり、私達一人一人は、ホストコンピューターにつながっている、無数の端末機の中の一つだと言えるかも知れません。

私達一人一人は、自分自身の事を、小さな端末機にしか過ぎないと思っているかも知れませんが、その小さな端末機は、実は、巨大なホストコンピューターとつながっているので、端末機をきちんと操作出来れば、巨大なホストコンピューターの情報も引き出す事が出来るとも言えます。

意識の最深部にある大宇宙意識まで遡って、大宇宙の情報を引き出すというのは、実際には、そう簡単な話ではないと思いますが、少なくとも、自分自身の事に関しては、そんなに難しい事ではないと言えるかも知れません。

私達一人一人の中には、自分自身の全てを知っている部分があります。
呼び方によっては、高次元の自己と呼ばれたり、ハイヤーセルフと呼ばれたりする事もありますが、とにかく、自分自身の全てを知っている、神聖な部分があります。
高次元の自己とか、ハイヤーセルフという表現が、あまりなじみがない人は、魂というふうにイメージすると良いかも知れません。

以前書きましたが、自分自身の事を本当に知っているのは、自分の魂だけなので、もし、自分自身の事が知りたいのであれば、自分の魂の記憶を蘇らせるのが一番だと言えます。

ですから、自分がどういう行動を取ったらいいのかは、自分自身の中に、全ての答えがあります。
もちろん、色々と、人の意見を聞いて参考にしたりするのは良いかと思いますが、最終的に、自分がどうすればいいのかは、自分の中にある、本当の自分自身が一番良く知っていますので、自分自身に聞いてみる事が大切だと思います。

最近発生した巨大地震や原発事故などの影響で、様々な情報が入り乱れる中、首都圏にいる人達を中心に、逃げ出すべきか、今いる所に留まるべきか、など、自分が取るべき行動が分からなくなっている人達も多いかも知れません。

インターネットなどを中心に、様々な情報は集めた方が良いとは思いますが、それらの情報に振り回されて自分を見失う事なく、自分自身の中に全ての答えがあるのだという事を、常に忘れずに、行動していく事が大切です。
多くの人達は、人に依存して、自分が頼りとする誰かに判断を預ける傾向がありますが、少なくとも自分自身の事に関しては、本当の自分自身が一番良く知っているのだという事を、常に想い出す事が大切だと思います。

落ち着いて、心の声に耳を澄ませてみれば、自分がどうすれば良いのかは、何となく、ある感覚のようなもので、分かると思います。

様々な予言・神示・チャネリングなどについて一言

世の中には、様々な予言や神示、チャネリング情報などが氾濫しています。
それらは玉石混交で、かなり信憑性の高いものも一部にはあるものの、かなりデタラメなものも多いかと思われます。

それらの予言・神示・チャネリング情報と自分が向き合う上で大切なのは、それらを盲目的に信頼したり依存したりせずに、参考程度にとどめ、いいとこ取りの感覚で付き合う事だと思います。

予言というものは全て、ある意味においては、外れるようになっています。
様々な予言というものは、ある意味においては、外れる為にあり、外れてこそ本当とも言えます。

もちろん、信憑性の高いものは、部分的には、かなり当たったりするのですが、100%完全に当たるものなど、まず無いと考えた方が良いと思います。
何故なら、予言には、外れてこそ果たせる役割のような面があるからです。

多くの人達は、予言に限らず、聖者や教祖と呼ばれる人達、あるいは、神からのお告げや、高次元情報などを求めて、自分を本当に救ってくれる唯一の何かを求める傾向があります。
そして、自分が本当に信頼出来る何かを求めながら、様々な人や書物などに出会い、様々な教えや、教祖・聖者・先生と言われる人達、様々な予言・神示・チャネリング情報などに出会う事になります。

様々な人達や書物、教えや予言などには、良いところもたくさんあるので、いいとこ取りの感覚で、自分にとって必要なところだけ取り入れればそれで良いのですが、多くの人達はともすれば、何かの教えや、教祖・聖者・先生と呼ばれるような誰かに頼り、依存し、自分を救ってもらおうとします。

しかし、結論から先に言うと、誰も自分を本当の意味で救ってくれるものはありません。
以前ブログに書きましたが、「我が心救うは、我が心のみ」であり、自分自身こそが、自分の本当の救い主なのです。

ですから、自分が、これこそ自分を救ってくれる唯一のもの、と強く依存したものは、それが、人であれ、教えであれ、予言のようなものであれ、自分を救ってくれる為に存在している訳ではなく、そういう自分の依存心を解放してくれる為に出会っているとも言える訳なのです。

以前書きましたが、私達の人生は、「魂の進化」というプログラム上に存在し、「我の解放」を進めていく旅なので、「心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う」という仕組みになっています。

自分が強く握ったところ程、外される仕組みになっています。
この教えこそが、自分や地球を救ってくれる唯一の教えだとか、この聖者こそが、自分や地球を救える唯一の救い主だとか、この予言・神示・高次元情報こそが、地球の未来を示す唯一のもの、などというように、自分が強く握って依存しているところ程、そういう思い(重い)を外されて、意識の拡張を迫られる事になります。

西暦2000年を迎える前には、ノストラダムスの有名な、「1999年7の月、恐怖の大王が空から下りてくる」という予言が話題になり、あたかも地球が滅亡するかのような事が言われたりしていましたが、結局何も起こりませんでした。
人々の中には、徒に恐れおののいたり、あるいは地球がもうじき終わるからと思い込んで刹那的に生きたりした人達もいるようです。
西暦2000年を迎える時には、「コンピューター2000年問題」というのも話題になりましたが、結局何も起きませんでした。

様々な予言などは、それが当たるとか当たらないとか、あるいは、良いとか悪いとかではなく、自分がそれらとどう向き合うのかだけが、天から問われています。

ほとんどの人には知られていない、ある信憑性の高い神示があるのですが、その神示では、「目暗(めくら)信心(盲信する事)」を戒める為に、わざと、違う事が時折書かれたりしています。
そうする事によって、100%盲目的に信じる事を、神は戒めてくれています。

ですから、様々な予言・神示・チャネリング情報なども、かなり信憑性が高いからといって、盲目的に100%信じたりせずに、きちんと自分自身で審神(さにわ)していく事が大切になります。

今まで当たったから、これからも必ず当たるとか、この予言こそ必ずそのとおりになる、などと思い込んでいると、その思いは天によって、外される事になりますから、自分の思いを、もっと淡く、軽くしていく事が求められています。

自動書記、神示、チャネリングなどでは、よく、「〇〇の大神からの神示」とか、「宇宙の高次元の〇〇のマスターからの光のメッセージ」などというものがあり、それを信じ込んでいる人達は、それを名乗っている存在が、文字通り、天の偉大な存在であるかのように信じ込んだりしています。
しかし、高次元の存在になればなる程、自分の名を語ってメッセージや警告を発する事など、まず無いと考えたほうが良いので、あまり、それらの名前も、盲目的に信じ込まない方が良いかと思われます。

今、地球の一大転換期を迎え、大変化のプロセスが加速していく流れの中で、自分が100%信頼出来る、何かの予言・神示・チャネリング、あるいは、何かの教えや誰か人を求める気持ちが強くなるかも知れませんが、そういう依存心を、もっと淡く、軽くしていく事が求められています。
何故なら、それこそが、意識の拡張であり、心の成長なので、私達一人一人は皆、天によって、その流れへと導かれて行くからです。

「ありえない」という事こそ、「ありえない」ーあらゆる事があり得る

よく人々が、「ありえない」という言葉を、冗談のように、よく使っています。
しかし、実際には、この大宇宙においては、「ありえない」という事こそ、「ありえない」のです。

既に何度も書いていますが、この大宇宙には、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である根本創造主しか実在していないので、根本創造主の御心次第では、「あらゆる事が、あり得る」からなのです。

根本創造主の創造力(=想像力)は、文字通り無限であり、根本創造主に不可能はないので、この大宇宙においては、実はあらゆる事が可能であり、「あらゆる事が、あり得る」というのが、真相なのです。

全知全能の根本創造主の無限の力をもってすれば、地球のような小さな星の一つや二つを、一瞬にして消滅させる事くらいは、朝飯前なのだという事が理解出来てさえいれば、例え地球上で、どんな事が起ころうとも、ある意味においては、驚くにあたらないとも言えるかも知れません。

そして、既に何度も書いているとおり、実際には、私達人類の母なる星・地球は、破滅に向っている訳ではなく、一つ高い次元へと新たな誕生を迎えようとしている最中なのです。
私達人類の意識も飛躍的に進化し、人類は、さなぎから蝶へと生まれ変わろうとしています。

全ては、その流れの中にありますので、これからの十数年間、良い意味においても、悪い意味においても、大事件・大ニュースになるような出来事が、どんどん起きて来る事でしょう。
今まで、「ありえない」と思われていたような事が、良い意味においても、悪い意味においても、どんどん起きて来る事でしょう。

そしてそれは、必ずしも、ニュースになるような、大事件のような事柄だけではなく、自分の身の回りにおける個人的な事柄においても、同じ事が言えます。

以前書きましたが、私達の人生には、「魂の進化」という目的があり、私達の人生は、「魂の進化」というプログラム上に存在しています。
そして、今、地球が高次元空間へと移行して新たな誕生を迎えようとしており、それに伴い、私達人類の意識も飛躍的に進化して、さなぎから蝶へと生まれ変わろうとしているので、私達一人一人が、急速に魂を進化させる流れの中にいます。

猛スピードで魂を進化させていく為に、意識変革の大きな風を受け、意識の拡張をどんどん迫られる流れに入っていますので、自分の身の回りで起きる様々な出来事や、地球・世界で起きる様々な出来事などをとおして、自分が持っている古い概念・小さな枠などを、どんどん外される事になります。

心の器を大きくしていく為に、一人一人が、自分が持っている枠をどんどん外される事になり、それによって、意識を拡張させていく事が出来るので、今までの自分が「ありえない」と思っていた概念を、どんどん外していくように、意識すると良いかも知れません。

これからの十数年間、世の立替・立直しと言われるような大変化のプロセスを経て、西暦2030年頃には、今生きているほとんどの人達が、「ありえない」と思うような、想像だにない素晴らしい世界が誕生している事でしょう。

それは、花咲く都・黄金文明とでも呼ぶべき、新たな精神文明であり、キリスト教の世界で言われている至福千年王国の事でもあり、仏教的に言えば、弥勒世という事になります。
そしてそれは、宇宙時代の幕開けでもあり、私達の星・地球は、銀河文明の仲間入りをする事になるでしょう。

無限の宗教ー絶対の宗教、永遠の宗教

今までの人類は、自分の外に神を見るという、宗教という松葉杖を必要としてきました。
しかし、今後、人類の意識が飛躍的に進化するのに伴い、自分の外にではなく、自分の中に神を見る時代に入っていきます。
神道的に言えば、神性、仏教的に言えば、仏性、キリスト教的に言えば、キリスト意識とでも呼ぶべき、私達人間一人一人の中に内在する、聖なる光を想い出し、蘇らせ、それを顕現していく時代を迎える事になります。

これに伴い、既存の宗教の多くは、その存在意義を失い、次第に消えていく事になるでしょう。
しかし、私達人類の意識がどんなに進化しても、決して無くならない宗教というものがあります。
それは、無限の宗教とでも呼ぶべきものです。

この大宇宙の全てを生かしている根本創造主、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙そのものを、「無限」という言葉で表現することも出来ると思います。
私達人間は、「無限」の一部であり、「無限」によって生かされている存在なので、どんなに私達の意識が進化しても、「無限」への崇敬の念と感謝の念というものは、無くなる事はないからです。

今後、人類の科学が進歩すればする程、この大宇宙は文字どおり「無限」の世界であり、限り無い世界、極まり無い世界である事が、次第に理解出来るようになっていくでしょう。
それとともに、大宇宙の「無限」の属性というものが、私達人間一人一人の中にも宿っている事を理解出来るようにもなっていきます。

大宇宙という「無限」への畏敬と感謝の想い、そして、自分自身の中にもある無限性への想いは、人類がどんなに進化しても、無くなる事はありません。
そして、それを宗教という表現を使うとすれば、それは、無限の宗教という事になります。

無限の宗教、それは、絶対の宗教であり、永遠の宗教です。
将来、全人類が宇宙レベルの意識状態に到達した時、全ての人達が、この無限の宗教を信仰するようになるでしょう。

大宇宙の無限性と、私達人間の中にも無限性が宿るという点については、最近、『最も精密「宇宙の地図」公開』というブログの中で少し触れていますので、ぜひそちらもご参照下さい。

意識変革の風

今年も残すところ、明日の大晦日一日だけとなりました。
今年2010年、平成22年は、私達人類に、意識変革を迫る風が、本格的に吹き始めた年だと言えるかも知れません。

そして、この意識変革の風は、来年、さらには再来年と、さらに加速していく事になります。
21世紀という今この時、しかも、日出る神国・日本に生まれ合わせて来た私達日本人は、好むと好まざるとに関わらず、さなぎから蝶へと生まれ変わるように、大きく変わらざるを得ないのです。

何故なら、地球が新しく生まれ変わり、新たな地球が誕生しようとする、今というこの時に合わせて、我が魂は、この時空にやって来たからです。
意識が飛躍的に進化して、さなぎから蝶へと生まれ変わるように、大変革を遂げる為の準備は、着々と整いつつあります。

地球の新たな誕生に合わせて宇宙から降り注がれるエネルギーが、大きなうねりとなって、私達一人一人の意識を、さらなる高みへと導いて行く事でしょう。
あたかもジェットコースターにでも乗っている如く、制御不能と思える位の猛スピードで、これから私達は、新たな地点へと意識をシフトさせていく事になります。

あまりにも猛スピードで突き進んで行く為、気の遠くなるような思いの連続で、ジェットコースターを降りたくなるかも知れませんが、もう乗ってしまっているので、降りる事は出来ません。
何故なら、本源の我、真我である我が魂、我が人生の主体者・創造主が、そうと決めて、この人生を創造して来たので、既にレールは敷かれてしまっているのです。

あとは観念して、むしろ開き直って、我が魂が敷いたレールの上を、淡々と進んで行くしか道はなさそうです。
どうせ進んで行くのであれば、楽しみながら進んで行くほうが、面白さを味わえる筈です。

本当の自分自身である我が魂が敷いたレールなので、決して自分自身にとって悪いようにはなっていないのです。
むしろ、自分の進化の為に、最善のルートが設定されています。
今はまだ、分からなくても、後で分かります。

自分自身を信頼して、前進あるのみです。
変革の風は、少々風当たりが強く感じられるかも知れませんが、見方によっては、とても心地よく感じられる事でしょう。
今、意識変革の大きな風が、母なる星・地球に、そして、そこに生きる私達一人一人に吹いて来ています。

全てを喜びに変える創造

以前のブログにおいて、「生きるとは創造する事」というタイトルで、生きる事の全ては創造する事である、という内容の事を書いた事があります。

私達が、何かを思ったり、何か体を動かしたりする事の全ては、何かを創造しているとも言えるので、私達は、毎瞬毎瞬、何かを創造し続けているとも言えます。
ですから、瞬間瞬間、何かを創造しながら、自らの創造を楽しんでいく事が大事だと言えます。
生きるとは創造する事であり、生きる喜びとは、創造する事の喜びだと言えるかも知れません。

そして、ここで大切なのは、全てを喜びに変える創造をしていくという事です。
出会う全ての場面の中に面白さを発見し、喜びの中で次なる場面を創造していくという事が大切になります。

人や自分自身に腹を立ててみたり、誰かに八つ当たりしたりするような、空間が荒ぶれる創造ではなく、空間が喜びに変わるような創造を意識的に行っていく事が大切になります。
既に何度も書いているとおり、自分と空間は一つであり、別々のものではないので、空間に対して行った事は、必ず自分自身に返って来ます。

空間が荒ぶれるような創造をすれば、必ず自分自身の心が荒ぶれる事になります。
そして、空間を喜びに変えるような創造をすれば、自分自身の心も喜ぶ事になります。

本来、私達人間は、全ての事を喜びと感じられるように創られています。
しかし、否定的想念が、中毒のように染み付いてしまっている為、あまり喜びを感じられない状態で生きている人が多いかと思われます。

本源の我、真我とも言うべき我が魂、我が人生の創造主である魂にとっては、全ての体験が喜びであり、魂を進化させる為に創造した事なので、魂の目から見れば、苦というものはなく、全ては喜びでしかありません。
しかし、私達の肉体の自我意識は、あまりにも肉体というものに囚われすぎている為、本源の我である魂の意図が分からず、様々な出来事をつらく苦しく捉えがちになってしまいます。

地べたを這う芋虫のような、近視眼的な目でしか、私達の肉体の自我意識は物事を捉えられないので、様々な出来事をつらく苦しいと言って大騒ぎしていますが、本源の我である魂は、鳥瞰図という言葉があるように、大空を舞う鳥のような、高所・大局的観点から、魂の進化にとって最適な体験を創造しているので、全ては最善の為に起きており、全ては喜びの体験だというのが真相だと言えます。

自分の人生の主体者・創造主は、本源の我、真我である我が魂なのだという事をしっかりと頭に入れておかないと、ともすれば、自分という者が、人生の被害者であるかのような錯覚に陥ってしまいます。

偶々自分がこの世に生まれて来て、人生とは苦の娑婆であり、生きるという事が、あたかも、何か重い罰を払ったり、長い刑に服したりするような、牢獄のような世界であるかのように感じられてしまうかも知れません。

現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、自分と空間とは一つなので、自分が人生とは苦の娑婆だと思えば、世界はそのように見せてくれますし、人生とは楽園のような世界だと思えば、世界はそのように見せてくれます。

自分が出会う場面の中で、それを喜びとは中々感じられず、つらく苦しいとしか感じられないとしても、少なくとも、次なる場面は、それを喜びに変える創造をしていく事が大切であり、苦しいからといって、空間が荒ぶれる創造に陥らないように、意識していく事が大切だと思います。

その事を意識的に習慣化していけば、出会う様々な場面の中にも面白さを発見し、喜びの中で、次なる場面を創造していく事が、だんだん出来るようになっていくと思います。
面白がる力、遊ぶ力、楽しむ力こそが、心の実力であり、心の余裕であり、創造力であるとも言えるので、様々な場面に一喜一憂したり、あまり囚われたりする事なく、全ての場面を面白いと感じながら、全てを喜びに変える創造を行っていく事が大切だと思います。

全ては原因、全ては結果、そして、全ては意味の付け方次第

以前、原因と結果というものについて、ブログに書いた事があります。
原因があって結果があるというより、原因は結果により選ばれている、という内容で書かせていただきました。
本日は、この点について、さらに話を進めてみたいと思います。

あの時あのブログを書いたのは、多くの人達が、原因分析という思考パターンに嵌っている感じがしたので、その思考パターンを逆に切り替える一つのきっかけにでもなれば、という思いがありました。
原因があって結果がある、という思考パターンの背後には、時間の流れが、過去→現在→未来というふうに流れていて、過去があって現在がある、という認識が無意識のうちに入っているようにも感じていたからです。

何度かブログに書きましたが、時間というものは幻想であり、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき瞬間しか存在していないので、本当は時間は流れている訳ではなく、過去も未来も今同時に存在しているのですが、敢えて時間の流れという事をいうならば、未来→現在→過去という流れになります。
その観点に立つと、原因と結果の関係というものも、原因があって結果があるというより、原因は結果によって選ばれている、という言い方の方が、より的確な言い方になると思い、ブログに書かせていただきました。

しかし、原因と結果というものをもっと本質的に捉えるならば、原因と呼んでいるものも、結果と呼んでいるものも、全ては、意味付けをしているだけの事であると言えそうです。
ある事柄を原因と呼び、ある事柄を結果と呼んで、そこに因果関係が感じられたとしても、自分がそう思い、そのように認識しているだけの事であり、自分がそのような意味付けをしただけであると言ってもいいかも知れません。

全ては連続した中にあるので、ある結果と言われるものも、今度はそれが原因となって次なる状況、次なる結果を創っているという見方も出来るので、そういう意味では、全ては原因、全ては結果であると言う事も出来るかも知れません。
そして、ある事柄を原因と呼び、あるいは結果と呼んでみたところで、それは自分の付けた意味合い、認識にしか過ぎないという事になります。
Aという事柄を原因と呼び、Bという事柄を結果と呼んで、そこに因果関係を付けてみたところで、それは自分の認識にしか過ぎず、本当のところは、分からないと言えそうです。

それが分かれば、そのような意味付けの旅から、そろそろ卒業出来るかも知れません。
様々な事柄を原因と呼び、結果と呼んで、様々な因果関係を見つけてみたところで、自分がそういう意味付けをしただけの事であり、そういう認識をしただけの事であって、本当のところはよく分からないのだと気付けば、原因とか結果というものに対する認識を、もっと淡く捉えていけるようになるかも知れません。


大変とは、大きく変わる事

大変という字は、大きく変わると書きます。
大変だからこそ大きく変われるとも言える訳であり、逆に言えば、大変でなければ大きく変わるのは難しいとも言えるかも知れません。
そういう意味では、大変な時期というのは、自分が大きく変われるチャンスであるとも言えそうです。

今、人類の意識が飛躍的進化を遂げ、地球そのものも、新たな星に生まれ変わる時期を迎えていますので、大変革の波が、私達人類と地球に押し寄せて来ています。
その大きな波は、私達一人一人に、意識変革を促さずにはおきません。
私達の意識をさらなる高い位置へとシフトさせるよう、私達は導かれて行きます。

今、地球上で起きている様々な出来事の全ては、人類の意識に変革をもたらし、飛躍的進化させる為に起きていると言っても過言ではありません。
一人一人が、意識をさらに進化させる事を天から求められているので、全ての人々が、この意識変革の風を受ける事になります。
全ての人が、大きく変わらざるを得ないという意味においては、今の時代、この地球上に生きる人間で、楽な人は一人もいないと言ってもいいかも知れません。

どんなに人々から羨ましがられるような身分の人であったとしても、自分自身が、意識をさらに進化させて行く以外に、永遠の幸福へと至る道は用意されていないので、必ずそのように導かれて行きます。
例えどんな名声を得ようが、大成功を収めようが、どんな偉業を成し遂げようが、そこに答えは無く、最終的には、心を純化させ、意識を福化させ、全てを喜びと感じられるような意識状態、言わば、天上界へと向う道以外には、答えは用意されていないからです。

人類始まって以来とも言うべき大変革をこれから経て、さなぎから蝶へと生まれ変わるように、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える事になるでしょう。

今年2010年、平成二十二年も、間もなく終わります。
来年2011年、そして再来年2012年にかけて、大変革の波は、さらに一段と加速して行きますので、様々な出来事や状況に一喜一憂する事なく、自分が大変革の時代に生まれ合わせて来たのだという事を自覚して、大きく変われる今という時代の、変革の風を楽しみながら乗り切って行く事が大切だと思います。


肉体という衣について

私達は、肉体という衣を纏って、この世を生きています。
そして、この肉体というものがある事が、多くの人にとって、悩みや苦しみの種となっているかも知れません。

病気や怪我をしたり、肉体を維持していく為には住む家を始め、毎日の食料や水が必要であり、その為にお金が必要となり、働かねばならず、肉体上の様々なコンプレックスを抱いたり・・・という具合に、肉体あるが故に様々な悩み・苦しみを感じておられる人達も多いかと思われます。

確かに、肉体という衣は、とても重苦しく感じられる面もあるかと思いますが、我が魂にとっては、肉体という乗り物が必要なのです。
本源の我、真我とも言うべき我が魂は、肉体という乗り物を使って遊びながら、魂の進化と呼ばれる、心の純化、意識の福化の旅をしている訳なのです。

そして、魂にとって、肉体という衣は、言ってみれば、潜水服や、宇宙服のようなものだと言えるかも知れません。

もし、私達が、深い海底にある深海の世界を覗いてみたい、体験してみたい、と望んだとします。
そして、深海の世界に行って体験する為には、潜水服が必要になります。
潜水服は、重苦しくて、自由に身動きも出来ず、呼吸をするのも一苦労かも知れません。
しかし、その潜水服のおかげで、普通には見る事が出来ない深海魚を見る事が出来たり、深海の神秘的な世界を体験する事が出来る訳なのです。

同じように、もし私達が、月や、あるいは、他の惑星に宇宙旅行をしたいと望むならば、宇宙服が必要になります。
宇宙服も、重苦しくて、自由に身動きが出来ず、呼吸をするのも一苦労かも知れません。
しかし、その宇宙服のおかげで、普通には体験出来ない、宇宙飛行や、月に降り立って月の上を歩いたりという体験が出来る訳なのです。

潜水服に身を包まなければ体験出来ない世界があり、宇宙服に身を包まなければ体験出来ない世界というものがあるのです。
同様に、今の自分の肉体の衣という「遊び着・遊び服」に身を包まなければ体験出来ない世界というものがあり、それを体験する為に、我が魂は、この時空にやって来たのです。
この世界を体験したかったので、神の分霊(わけみたま)であり、我が人生の創造主でもある我が魂は、自分の肉体の衣を創造したのです。

そして、自分の肉体の姿・形や健康状態のようなものまで、細部に亘る全てが、魂の望んだとおりに創られています。
心の純化・意識の福化の旅をして魂を進化させ、光輝く魂になる為に、最適な形で、自分自身の肉体は創造されています。

ですから、肉体という衣が重苦しく感じられたとしても、潜水服や宇宙服のような、魂にとっての「遊び着・遊び服」であり、しかも、自分自身にとって一番ピッタリな最適の「遊び着・遊び服」を着ているのだという事を想い出す事が大切だと思います。

生きるとは、創造する事

生きるという事は、別の言い方をすると、創造する事であると言えるかも知れません。
私達が、ちょっと何かを思ったり考えたり、体を動かしたりする事の全てが、何かを創造している事であると言えるかも知れません。

ですから、私達が生きるという事は、創造の連続であり、毎瞬毎瞬、常に何かを創造し続けていると言ってもいいかも知れません。
そういう意味では、私達は生まれてから、創造以外の何もしていないとも言えるかも知れません。
生きるという事そのものが、創造する事であると言えそうです。

そういう観点に立てば、人生を楽しむという事は、我が創造を楽しむという事になります。
常に瞬間瞬間、新たな何かを創造し続け、その創造を楽しむ心があれば、生の輝きが増し、人生はさらに面白く感じられてくるかも知れません。

どんな所からも、どんな状況からも、新たな創造が出来るので、自分がどんな創造をしたいのかを常に意識しながら、毎瞬毎瞬、我が創造を楽しんでいく気持ちさえあれば、生きるという事が、もっと面白くなってくるかも知れません。

そして、過ぎ去った過去の事にもあまり拘らなくなるとともに、これからの未来の事についても、あまり心配にならなくなるかも知れません。

自分の過去がどうであれ、今立っている場所から、新たな創造をして行けばいいだけの事であり、また、未来において、何か予期せぬ出来事が起きたとしても、そこから、新たな創造をして行けばいいだけだからです。

転んでもタダでは起きない、というか、どこからでも拾う心さえあれば、どんな場面に出会っても、そこを拾って、新たな創造を掛けて行けばいいだけの事だからです。

心と感じるままに、毎瞬毎瞬、常に何かを創造しながら、創造を楽しみ、面白さを発見して行く旅。
生きるとは創造する事であり、生きる喜びとは、創造する事の喜びであると言えるかも知れません。

自分の両親を自ら選んで生まれて来ている

人は皆、生まれる前に、自分の両親を自ら選んで生まれて来ています。
自分の人生の主体者・創造主である、自分の魂が、今回の人生で学び、体験し、魂を進化させるのに最適な父親と母親を自ら選んで生まれて来ています。

どんな人にとっても、その人の父親と母親は、その人にとって、最高の両親なのです。
何故なら、その人の魂が、魂を進化させるのに最適な両親として、自ら選んでいるからです。

この事が理解できて初めて、自分の父親と母親を、本当に愛し、認め、許せるようになるのかも知れません。
親が自分を生んだという感じで、受身で捉えていると、ともすれば、一人の人間としての、親の欠点や短所ばかりを見て不満を感じたりするかも知れません。

しかし、自分の魂が、魂を進化させる場として、今回の人生を創造するにあたって、最も魂を進化させられる環境として、自分の両親の元に生まれて来たのだと自覚出来れば、両親に対する見方がまるで変わってしまうかも知れません。

生んで育てて頂いたという、両親への感謝だけではなく、自分の両親は、自分の人生において、魂を最も進化させてくれる二大登場人物の役割を演じて下さっているのであり、自分にとって、最高の父親と母親を自ら選んで生まれて来たのだと考えると、自分の両親への感謝の思いが、一層深まると思います。

自分の父親と母親は、自分にとって、最高にユニークな、かけがえのない存在であり、魂を進化させる上で、完璧な両親だと思うと、本当に、ありがたく感じられてきます。
私達は、自分の両親を自ら選んで生まれて来たのです。

魂の記憶を蘇らせる

神の分霊(わけみたま)である我が魂、本源の我であり、真我とも言える我が魂こそが、我が人生の主体者であり、創造主でもあります。
我が人生の創造主である、我が魂は、我が人生の全てを知っています。
なぜなら、我が魂が、我が人生の全てを創造したからです。

時間というものは本当は無く、過去も未来も今同時に存在していますので、我が人生の未来も既に今同時に存在しており、もちろん、我が魂は、死に至るまでの全てを知り尽くしています。

魂は、自分の中の奥深くに眠っていますが、ある時期が来ると、長い眠りから徐々に覚めて来るようになります。
これに伴って、魂の記憶とでも呼ぶべきものも、徐々に蘇って来るようになります。

魂の記憶を蘇らせる事が出来れば、自分がどういう行動を取ればいいか、とか、自分の未来についても、何となく感じられるようになって来ると思います。
そうなると、自分自身の事は、自分自身に聞くのが一番いい、という事が段々分かって来ると思います。

自分自身の事を、100%知り尽くしているのは、我が魂なので、自分の事は、我が魂に聞くのが一番正確で、確実だと言えます。
逆に、自分自身の事を、他の人に聞いてみたところで、本当は意味が無いとも言えます。

何故なら、一人一人の事を、本当に知っているのは、その人の魂だからです。
ですから、霊能者と言われる人や、偉い先生と言われる人に聞いてみたところで、それらの人達が、本当の意味で、私自身より私の事が分かる訳ではありません。
霊能者と言われる人や、偉い先生と言われる人達も、本当に知る事が出来るのは、その人自身の事だけなのです。

確かに、表面意識では、自分自身の事は分からないので、どう生きたらいいか分からなかったり、選択に迷ったり、自分の未来に不安を感じたりするかも知れません。
そういう時には、自分よりも、霊能者や有名な先生の方が、正しい答えを知っているような気がするかも知れません。
しかし、残念ながら、私自身の事を本当に知っているのは、私自身のみです。
本源の我、真我である我が魂こそが、私自身の事を100%知っているという事なのです。

自分自身の事に関しては、判断を他の人に預けないという事が大切になります。
ベクトルの方向は、自分自身の事は自分自身に聞く、という方向です。
漠然とはしていても、自分がどうしたらいいかは、何となく、ある感覚のようなもので感じられるようになって来るかも知れません。

魂の記憶を蘇らせる時、自分自身に関する全ての答えは、自分自身の中にある事を想い出す事になります。
そしてそれは、自分の人生の主体性を取り戻す事でもあると言えるかも知れません。

心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う

私達は、魂の進化と呼ばれる、意識の旅をしています。
そして、その旅とは、心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失うという旅であり、心の純化、意識の福化の旅であると言えます。

人は、とかく、夢の実現や、理想の人生という事にフォーカスし過ぎる傾向がありますが、魂の進化の旅においては、そこには答えはありません。
天の仕組みとして、創った心は失われ、創った思いは失われるというようになっています。
何故なら、そうやって魂は、進化・成長して行くからです。

人はともすれば、何かが手に入れば幸福になれるのに、とか、あれさえ実現出来たら本当の幸福が手に入ると考えたりします。
ところが、仮にそれらの事柄が実現したとしても、真の幸福を得られるわけではありません。
また心は満たされなくなり、次の夢や目標を探し始めます。
そして、これは限りがない事なので、仮に巨万の富を得たり、権勢を極めたとしても、それらは永続するものではなく、真の幸福を得られるわけではありません。

昔から、栄枯盛衰、諸行無常と言われてきたとおりであり、驕れる者も久しからずである事を、必ずや思い知らされる事になります。
富や権力を得れば得る程、というより、富や権力を手中にして初めて、それらは真の幸福を齎すわけではないという事を、最終的には、天に思い知らされる事になります。

また、富や権力に限らず、幸福というものを、何か特定の形に拘ったりしていると、その思いもやはり、必ず外される事になります。
よく、ウインブルドンで優勝したり、ノーベル賞を受賞した人が、人生最大の目標を実現したとたんに、猛烈な虚無感に襲われ、死にたくなる、というような話を耳にする事があるかと思います。

ある特定の何かが手に入れば真の幸福が得られると思っていても、その思いは必ず、外される事になります。
これは、仕組みなのです。
そうやって、心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失うという旅を続けながら、魂は、心を無地透明にして、いずこにもとらわれない心、言わば、タイタン(巨人)のような心になる旅をしているわけなのです。

何かが手に入ろうと入るまいと、自分がどんな状態にあろうとも、その状態を遊んで幸福を感じていられる心になるところに答えがあるわけなのです。

ですから、自分が創った心は必ず失われ、自分が創った思いは必ず失われる仕組みになっていますから、そうやって、旅のプロセスを楽しんで行く事が大切になります。

心と感じるままに、心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失いながら、魂を進化させて行く旅が、私達の人生であると言ってもいいかも知れません。

宇宙はメッセージだらけ

自分が映す空間からは、常に降るようなメッセージがやって来ています。
宇宙は、メッセージだらけだと言ってもよいかも知れません。

メッセージは、ありとあらゆる形でやって来ていますので、何気なく思える事の中にも、宇宙からのメッセージはたくさんあります。
様々な出来事はもとより、何気ない人との会話や、耳に入って来る話し声や音、目に映る文章や人や物、今すれ違った車のナンバーに至るまで、ありとあらゆるものがメッセージだと言っても過言ではないくらいです。

それがメッセージだとはっきり分かる事もありますが、分からなくても、常に空間からは降るようなメッセージが、自分に対して注がれていますので、この現実世界はメッセージだらけだという事を、常に頭の片隅に入れておくとよいかも知れません。

宇宙はメッセージだらけであり、目に映る全てはメッセージだと言ってもいいかも知れません。

我が心救うは、我が心のみ

自分の心が苦しい時、誰かに救ってほしい、あるいは、誰かが自分を救ってくれるのではないか、とか、何処かの聖者や覚者であれば、自分を救ってくれるかも知れない、などという期待を抱いたりすることがあるかも知れません。

しかし、結論から先に言うと、誰も自分の心を救ってくれる者などいません。
我が心救うは、我が心のみです。
自分自身だけが、我が心を救えるのであり、自分以外の誰も、我が心を救える者は存在しません。

一人一人が自分自身の救い主であり、自分自身だけが、自分の救い主になれるのであり、自分以外の誰も、自分の救い主になることは出来ないという事なのです。

同様に、自分が誰か他の人を、本当の意味で救うという事は出来ないとも言えます。
人が人を救えるというのは、錯覚です。
人に出来るのは、自分自身を救う事のみであると言えます。
自分に出来るのは、我が心を救う事のみです。

そして、我が心を救えた時、その光が周囲に放射して、結果的に、世を照らす光として、人々をサポートする事になるだけなのです。
徒に自分以外の者にばかり意識を向けようとせず、自分の内面に意識を向けて、自分自身を救う事に専念する事が大切だと思います。

我が心救うは、我が心のみです。そして、人を救うは錯覚です。
どこまでも、自分の内面に光を当てていくと、自分の空間が輝きます。

最も大きな変化とは、最も静かな変化

今、地球が大きく変わろうとしており、大変革の最中にある、地球が新たに生まれ変わろうとしている、というような事がよく言われているかと思います。

そして、そう思う人達の中には、大地震や火山の噴火といった天変地異、あるいは、最終戦争・ハルマゲドン、第三次世界大戦、資本主義崩壊、自然破壊、食糧危機、隕石や小惑星の衝突、など、いわゆる大事件・大変化が起きるということに大きな関心を抱いたり、心配したりしている人達も多く見受けられます。

確かに、それらの、大きなニュースになるような事柄も、大きな変化と言う事は出来るかと思います。
しかし、それらの事柄は、あくまでも大変化の一部にしか過ぎず、氷山の一角のようなものだと言えます。
氷山のように目に見える変化の下深く、水面下には、さらに大きな変化が目には見えなくとも存在しています。

最も大きな変化とは、最も静かな変化と言えるかも知れません。
それは、大事件・大ニュースのように派手な変化ではなく、深く静かに進行して、最後には根こそぎ全部新たに変えてしまうような、大きな大きな変化の波・うねりのようなものかも知れません。

私達が住む地球という惑星も、意識を持った一つの生命体であり、今起きている事は、地球という星そのものが、新たに生まれ変わろうとしているということであり、地球始まって以来とも言えるような大変化の時を迎えているという事になります。

そして、それは、単に、地球という一つの惑星の変化に留まらず、地球が属する太陽系や、さらには、天の川銀河全体にまで影響を与えるような、大変革の波が来ているようです。
地球の新たな誕生が起爆剤となって、太陽系はもとより、天の川銀河全体までが一段高い次元に上昇するような、それくらい大きな変革の波だと言えそうです。
宇宙規模の流れの中で、どうもそのような仕組みになっているようです。

ですから、たとえ目には見えなくても、太陽活動や、宇宙から地球に降り注がれるエネルギーの量、生命体としての地球の息吹などが静かに深く変化しており、それらが、私達に影響を与えています。

母なる大地である地球そのものが、大変革の最中にあって刻一刻と変わりつつあるので、地上に生きる全ての者達、私達人間を始め動物も植物も、あらゆるものがその波を受けて変化しつつあると言えます。

人によっては、心身の変化として感じたり、意識変革のエネルギーが高まっているのを感じたりするかも知れません。

今、地球という惑星そのものが新たな誕生を迎えつつあり、そこに生きる私達人類の意識も飛躍的進化を遂げて新たな誕生を迎える時なので、地球環境を始め、政治・経済、あらゆる事全てがそこに向って突き進んでおり、大変化の真っ只中にあると言えます。
そして、何よりも大きく変わるのは、私達人類の意識であり、全てはそこへと導かれて行きます。

様々な出来事や、大事件のような事柄も起きるかも知れませんが、それらの事柄ばかりに関心を持つ必要はないとも言えます。
大事件のような事柄が起きようと起きまいと、既に私達は、大変化の真っ只中に生きているのです。

最も大きな変化とは、最も静かな変化であり、それは今、深く静かに進行しており、最終的には、私達の意識を、今よりはるかに高い状態へと導かずにはおかないような、大きな大きな変革の波であり、その大変革とは、母なる星・地球の願いであると同時に、そこに生きる私達自身の願いでもあるのです。

今を良しとする力、全てを完として捉える力

私達は、今を良しとする力、全てを完として捉える力を、常に天から求められていると言えます。
今を良しとする力、全てを完として捉える力が常に試されていると言ってもいいかも知れません。

私達人間はともすれば、自分の置かれている現実に不平不満を感じたり、世の中や社会というものにも、矛盾や不満のようなものを感じたりしがちだと思います。
自分自身のことを、不幸・不運と感じたり、この現実世界も、美しくないと感じたりしてしまいます。
そして、そういう思いは、全てを完として捉え切れないところから来ているとも言えるかも知れません。

今、全てが完璧な状態にあり、全てが完全なのだと信じ切れれば、あまり余計な思いを感じなくてもよくなるかも知れません。
以前書きましたが、この大宇宙は全て完全な世界であり、そこには何一つ間違いというものが存在していません。
全ては、唯一にして絶対、至高の存在である、根本創造主により営まれており、全てが根本創造主の光の中にあり、全ては、その瞬間瞬間、常に完璧な状態にあります。

そして、大宇宙に無数にある中の一つの座標軸である自分自身もまた、常に完璧な状態に置かれています。
寸分の狂いもなく、私達は常に、自分がいるべき所にいます。
自分が最も成長できる、最適・最善の場所に常に存在しています。

神の分霊(わけみたま)とも言える、本源の我である我が魂が望んだ、創造したとおりの位置に、常に存在しています。
大宇宙の根本創造主の目、そして、その分霊(わけみたま)である我が魂の目から見れば、何一つ矛盾も間違いもなく、常に完璧な場所、最適・最善な場所に自分自身は存在しています。

魂の目的は、魂を進化・成長させることだけなので、魂は常に進化として最短距離を突き進んでおり、私達は常に、魂を最も進化・成長させる場所に、完璧に存在しています。
光輝く魂になることを求めて、進化としての最短距離を突き進んでいる、本源の我である我が魂の豊かさ・輝きを信じきれるか、ということが問われています。
そして、全ての源である大宇宙、唯一にして絶対、至高の存在である根本創造主を信じきれるか、ということが問われています。

いついかなる時、例え自分がどんな状況に置かれていようとも、本源の我である我が魂が豊かであることを信じきれるか、大宇宙が豊かであることを信じきれるか、ということが問われたゲームであるとも言えます。
今を良しとする力、全てを完として捉える力が常に問われたゲームであるとも言えます。


原因があって結果があるというより、原因は結果により選ばれている

多くの人達は、原因があって結果がある、というふうに、何の疑いもなく単純に考えているのではないかと思われます。
しかし、本当は、原因があって結果があるというより、原因は結果によって選ばれている、と言ったほうが真実に近いと言えます。

多くの人達が、原因があって結果がある、と思い込んでいる背後には、時間が過去→現在→未来というふうに流れている、という概念が無意識のうちに入っているからではないかと思います。
過去があって現在があり、原因があって結果がある、というふうに思い込んでいるのではないかと考えられます。

以前書きましたが、時間とは幻想であり、本当は時間は存在していません。
「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき「今この時」しか実在しておらず、過去も未来も、今同時に存在しています。
時間も本当は流れているわけではないのですが、敢えて時間の流れという表現をするのであれば、時間の流れとは、多くの人が考えている、過去→現在→未来という流れではなく、未来→現在→過去という流れになります。

未来は既に存在しており、そこに至るプロセスとして、現在に向って様々な出来事が起こってきていると考えればよいのではないかと思います。
ある結果と言われるものを得る為に、その原因となるものが創り出されているわけです。
順番が逆であり、原因があって結果があるというより、ある結果を得る為に、その原因となるものが創造されているわけです。

私達の人生も同じことなので、白紙の状態で生まれて来て、偶然の積み重ねによって、人生が形成されて行くように一見思えます。
過去があって現在があり、原因があって結果があるように見えるかも知れません。

しかし、未来は既に今同時に存在していますので、生まれて来た時点で既に人生は決まっており、その通りに人生が展開しているだけなのです。
ある状況(結果)を得る為に、その元となる状況(原因)が創造されるのであり、その連続が私達の人生でもあります。

もし、ある人が、何か偉業を成し遂げたとしたら、偶然生きて来た結果、偶々何か偉業を成し遂げることになったわけではなく、偉業を成し遂げることは生まれる前から決まっており、当人には分からなくても、将来偉業を成し遂げる為に必要な経験を、プロセスとして必ず積み重ねています。

そして、平凡に生きる普通の人達の人生においても、全く同じ事が言えます。
ある状況(結果)を得る為に、その元となる状況(原因)が創造されているのです。
結果というものがまず存在しているからこそ、その元となる原因を創り出す事が出来るのです。

時間というものが、過去→現在→未来ではなく、未来→現在→過去という流れでやって来ているとイメージ出来れば、原因があって結果があるというより、原因は結果により選ばれているということが理解出来るのではないかと思います。

天の大いなる意志に自己を明け渡す

自分が大きく変わり、自分の器が大きくなる時期があります。
そういう時には、天の大いなる意志に自己を明け渡す、という気持ちを持つことが、特に大切になります。

大変とは、大きく変わると書きますが、大変だから大きく変われる訳であり、逆に言えば、大変でなければ大きくは変われない、とも言えるかも知れません。
自分が大きく変わり、器が大きくなる時には、それまでの自分の小さな枠を外さざるを得ないような仕組みが働きます。
自分がどんなにそれまでの枠にしがみ付き、それを守りたいと思っても、小さな枠を手放さざるを得ないような状況が創られていきます。

そして、そういう時こそ、自分の古い殻を脱ぎ捨てるチャンスが到来している時期なので、徒に自分を守ろうとせず、覚悟を決めて、天の大いなる意志に自己を明け渡す、という気持ちを持つことが大切になります。

今、人類の意識が飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える時期が到来しています。
そして、その中心的役割を果たす私達日本人は、世界に先駆けて、大きく変わるよう天から求められており、天意が発動して、これから本格的に、そのような状況へと導かれて行くと思います。

その過程においては、苦痛を伴ったり、悲鳴をあげたくなったり、阿鼻叫喚のような状況も経験するかも知れませんが、全ては、新しく生まれ変わる為の陣痛(神通)のようなものなので、徒に抵抗しようとせず、流れに身を委ねる気持ちが大切になります。
俎板の上の鯉よろしく、煮て食うなり焼いて食うなり好きにして下さい、と天の大いなる意志に自己を明け渡す覚悟が大切になります。

さなぎが蝶へと生まれ変わるように、変わる時節が到来した時には、変わらざるを得ないので、その流れには抵抗出来ません。
私達は今、人類史上初めてとも言うべき大変革の時を迎えていますので、好むと好まざるとに関わらず、大きく変わらざるを得ないのです。

そして、本源の我である我が魂は、この大変革を体験する為にこの時空にやって来たのであり、この大変革こそ、我が魂が待ち望んだことなのです。
天の大いなる意志に自己を明け渡す覚悟を決めて、この大変革の大波を乗り越えて行くことが大切だと思います。


現実世界とは、魂の進化の場として与えられた運動場

現実世界とは、魂の進化の場として与えられた運動場のようなものです。
魂の目的は、魂を進化させること、言わば、光輝く魂になることなので、その為の場として、この現実世界を創造しているのであり、現実世界とは、魂を進化させ成長させてくれる、遊び場や運動場のようなものだと言ってもいいかも知れません。

そして、この遊び場・運動場はとても広大であり、様々な、ありとあらゆる道具(ツール)が揃っており、それらは全て魂の進化に使える道具(ツール)だとも言えます。

現実世界と言われる、この広大な運動場で、心と感じるままに、色々な道具(ツール)を使って遊んでみることが、魂を進化させ、成長させていくことになります。
心を創り心を失い、思いを創り思いを失うという、意識を創る旅を続けながら、本源の我である魂は、魂を進化させ成長させていきます。
心を無地透明にして、いずこにもとらわれない心、言わばタイタン(巨人)のような、器の大きな心、豊かな心になることが魂の目的です。

創造の主体者である我が魂は、現実世界と言われる、この広大な遊び場・運動場の中で、その時々で最も自分に合った道具(ツール)を使って遊びながら、魂の進化としての最短距離を突き進んでいます。

自分の中に神を見る時代

私達人類は、数千年もの長い間、自分の外に神を見ようとしてきました。
自分一人の力では歩けないので、外に神を求め、神を心の拠り所とし、神にすがって生きてきたとも言えるかも知れません。
言わば、宗教という松葉杖を必要としてきたわけですが、人類が宗教という松葉杖を必要とする時代も、間もなく終わろうとしています。

さなぎから蝶へと生まれ変わるように、人類の意識も飛躍的進化を遂げる時を迎えており、もはや既存の宗教に頼らなくても生きて行けるようになるからです。

徒に外に神を求めなくても、実は、私達自身の中に、神が内在しています。
神道的に言えば神性、仏教的に言えば仏性、そして、キリスト教的に言えばキリスト意識と呼ばれる、神聖な光が、私達一人一人の中に内在しています。

その内なる光を想い出し、蘇らせる時を迎えています。
これからは、自分の外にではなく、自分の中に神を見る時代になります。

そして、私達一人一人が自分の内なる神性を蘇らせ、それを顕現していく時代になります。
言わば、神のような人(神人)として一人一人が生きて行く時代になるという事です。

地球の夜明け、花咲く都・黄金文明、言わば弥勒世とは、そういう時代の事だと思います。

心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く

先日書いたとおり、自分が見ている現実世界とは、自分の心を映し出す鏡です。
自分の心の中にある心象風景を、現実というスクリーンに映し出して見ているだけなので、自分の外に見える世界というのは、実は、自分の中にある世界だということになります。

ですから、もし、自分が見ている現実世界が美しく感じられないとしたら、それは、この世界が美しくないからではなく、自分の心が美しくないからだということになります。

自分の内面が輝けば輝く程、自分の目に映る現実世界は、本当に、輝きを増してきます。
生きている事それ自体がありがたい、うれしい、存在が感謝、という状態に近づけば近づく程、自分の目に映る世界は、本当にありがたい、うれしい、面白い、美しい、と感じられるようになります。

これは誰でも実感できることなので、もし今、自分の目に映る現実世界が美しく感じられないとしたら、それは、世界・大宇宙の方が美しくないからではなく、自分の心が美しさを感じられないだけなのだということを、想い出す事が大切だと思います。

魂の夢、光輝く魂

人は誰でも、心に様々な夢を描いて生きていると思います。
ああしたい、こうしたい、あれがほしい、これがほしい、ああなりたい、こうなりたい、という具合に、人により、様々な夢があるのだと思います。

多くの人が抱く夢というものを、一般的な言葉で表現するとしたら、健康・長寿、お金・富、恋愛・結婚、仕事、豊かな人間関係、社会的成功、地位・名誉、といったようなことになるのかも知れません。

そして、それらの事柄を夢として抱く事自体は、心を進化させて行く旅のプロセスには必要なことであり、OKなのですが、夢の実現という事を、自分の理想とする形にこだわり過ぎてしまうと、ともすれば、夢というものが、叶っていないような、失望感や挫折感を味わってしまうことになるのかも知れません。

しかし、忘れてはならない夢というものが、もう一つあります。
それは、魂の夢ということです。
魂の夢を感じてみる、魂の夢に意識を合わせる、魂の夢を想い出す、ということが大切になります。

そして、魂の夢とは、魂を進化させることであり、魂の夢とは、光輝く魂、ということになります。
心の純化、意識の福化、心の器を大きくし、いずこにもとらわれない心になること、いわば、タイタン(巨人)のような心になること、豊かな心になることが、魂の夢ということになります。

神の分霊(わけみたま)である我が魂自らが、創造主として我が人生を創造しているのだということを忘れないことが大切だと思います。
そして、心を無地・透明にして豊かな心になって行くという、我が魂の夢は、ちゃんと叶っている、実現しているのだということを想い出すことが必要になります。

魂を進化させる場として、21世紀の地球というこの時空に肉体を存在させている、我が魂の想いというものを感じてみる、我が魂の想いに意識を合わせてみる、ということが必要だと思います。

何かを成したとか、何かを手に入れたとかいう事柄の中に、人生の真の答えがあるわけではありません。

我が魂の夢は、ただ一点、光輝く魂ということになります。
たとえ自分の人生が、思い通りでないように感じられたとしても、魂の進化として最短距離を突き進んでいる、本当の自分自身というものを信じる力が大切になると思います。

魂の進化

私達の人生には、生まれて来た目的があります。生きるのには目的があり、それは、魂の進化ということなのです。
魂の進化とは、心の純化、意識の福化、心の器を大きくして、いずこにもとらわれない心になる、という事です。

コンピューターには、基本ソフト・OSが入っているように、私達の人生には、基本となるテーマ「魂の進化」というプログラムが入っています。
そして、魂の進化というプログラムでしか私達の人生は動いていませんので、人生に起きる全ての事は、我が魂の進化の為に起きているということになります。

そして、全ての出来事を起こしているのは、自分自身、本源の我とも言える、我が魂だということです。
我が魂が、自らの進化を、自らのさらなる輝きを求めて、全ての現実を創造しているということになります。

決して、神とか天とか大宇宙とかが、自分自身の意に反して、勝手に自分の現実を創造しているわけではありません。
神の分霊(わけみたま)である我が魂が、自らの進化の為に全ての現実を創造しているのであり、「人は神である」とか、「人は創造主」であると言われるのは、そういうことでもあるのです。

そして、魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事とは違います。
魂にとっては、心の器を大きくし、いずこにもとらわれない心、言わばタイタン(巨人)のような心を創ること、心を純化させることだけが関心事なので、その為に必要と思われる最適な状況を創造します。
それらは、病気や怪我、お金を失うこと、失恋・離婚、失敗、失業、社会的地位や名誉を失うことなど、一般的に、不幸・不運と呼ばれているような状況かも知れません。

一方、肉体の自我意識の関心事は、多くの人にとっては、健康・長寿、お金を得ること、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の仕事、社会的成功、地位・名誉、素晴らしい人間関係など、一般的に、幸福・幸運と呼ばれているような状況かも知れません。

このように、本源の我である魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事とが違い、差(ギャップ)がある為に、本当は自分の魂が望んで創造した自分の人生なのに、ともすると、つらく苦しく、あたかも自分が被害者であるかのように感じたりしてしまいます。

しかし、創造の主体者である我が魂にとっては、体験する全てが喜びなので、そういう魂の想いを感じ、魂の願いというものに意識を合わせていくことが、とても大切だと思います。
特に人生がつらく苦しく感じられる時は、全ては「魂の進化」の為に、我が魂自らが仕掛けたプログラムであることを想い出すことがとても大切になります。

このことは、とても重要なテーマなので、折に触れて、書いていきたいと思います。

現実世界とは、心を映し出す鏡

自分が見ている現実世界とは、自分の心を映し出す鏡のようなものです。

自分がいて、自分以外の人や物などの外的世界を見ていると、ほとんどの人が考えています。
しかし、本当はそうではなく、自分の内面の心象風景を、現実というスクリーンに映し出して見ているに過ぎません。
自分の脳が情報処理・画像処理した結果を、映画でも見るかのように、現実というスクリーンに映し出して見ているのだということです。

すなわち、自分の目に映る全ては、自分の内面の世界、インナーワールドであり、目に映る全ては自分自身だとも言えます。
本来、自分の外に世界は無く、自分の内面を映し出した鏡の世界があるだけであり、人はそれを現実世界と呼んでいるのです。

大乗仏教の唯識論においても、こういう事は昔から説かれていたようですが、最近では、最先端の物理学においても、同じことを言っているようです。
「宇宙の中に意識があるのではなく、意識の中に宇宙がある」というのが、最先端の物理学が行き着いた結論だということです。

とても奇想天外に聞こえるかも知れませんが、本当にそのとおりなので、いずれはその事を実感できる日が来ると思います。
今、人類の意識が覚醒し、飛躍的進化を遂げる時が到来しているので、21世紀のそう遠くない将来、自分の意識が創り出した世界を現実世界と呼んでいたことに、人々が気付く時が来る筈です。

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