日本の新しい調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

大和富士ブログ|BLOG

2013年12月のアーカイブ

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キリスト意識の目覚めーキリストや仏陀とは、私達一人一人の事でもある

 イエス・キリストや仏陀は、私達人類の偉大なメッセンジャーの一人です。

 イエス・キリストも仏陀も、地球神界とでも呼ぶべき天界から、ある使命と役割を与えられて地上へと遣わされた、偉大なメッセンジャーの一人なのです。

 しかし、キリストや仏陀という言葉自体は、固有名詞ではなく称号なので、キリストや仏陀という言葉は、ある特定の一人物だけを指す言葉ではありません。

 ですから、キリストや仏陀という言葉は、二千数百年前に存在したとされる、歴史上のある特定の人物だけを意味する言葉ではありません。

 仏陀という言葉なども、覚者とか、悟りを開いた人などを意味する称号なので、そういう意味においては、覚者と呼ばれるような人達は、一人一人が仏陀であるとも言えます。

 仏陀やキリストという言葉は、固有名詞ではなく、あくまでも称号なので、そういう意味においては、私達一人一人が、本質において、本来、仏陀であり、キリストであるとも言えます。

 キリストや仏陀とは、二千数百年前に活躍したとされる、歴史上の偉大なメッセンジャーだけを指す言葉ではなく、私達一人一人の事でもあるのです。

 私達一人一人が、仏陀であり、キリストであるとも言えます。

 神道的に言えば神性、仏教的に言えば仏性、キリスト教的に言うならばキリスト意識とでも言うべき、私達一人一人の中にある本当の光、神聖な光を想い出し、蘇らせ、それを顕現して神人のように生きる時、人は皆、仏陀であり、キリストであるとも言えます。

 神の本質である神性、「愛(女性原理)と力(男性原理)」を想い出し、蘇らせ、それを顕現して生きる時、私達一人一人が、仏陀となり、キリストとなるのです。

 キリストや仏陀とは、私達一人一人の事でもあるのです。
 地上に生きる70億人の人間全てが、本質において、本来、キリストであり、仏陀なのです。

 その事に目覚めていく時を迎えています。
 言わば、キリスト意識の目覚めの時を迎えているのです。

 今、私達人類の意識が飛躍的に進化し、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する時を迎えています。

 私達人類の意識が飛躍的に進化するのに伴い、既存の宗教の多くは、その存在意義を失い、いずれ役割を終えていく事になるでしょう。
 最早、既存の宗教に頼らなくても、私達一人一人が、精神的に自立した生き方が出来るようになるからです。

 有史以来数千年の人類は、自分の外に神や仏を見て、神や仏に縋(すが)り、神や仏に精神的に依存し、神や仏に救いを求めてきました。
 自分自身の力では歩けないので、言わば、宗教という松葉杖が必要な時代であったとも言えます。

 私達人類が、宗教という松葉杖が無くても精神的に自立して生きられる時代を迎えるまで、私達人類を導くメッセンジャーとして、天界から遣わされたのが、イエス・キリストであり、仏陀だったのです。

 ですから、自分の外にキリストや仏陀を見て、キリストや仏陀に縋(すが)り、キリストや仏陀に依存し、キリストや仏陀に救いを求める時代は、間もなく終わりの時を迎えようとしています。

 自分の外にキリストや仏陀を見るのではなく、自分自身の中にある、キリスト意識、仏性、神道的に言えば神性に目覚めて、それを蘇らせ、顕現して、自分自身が、神人のようになって、精神的に自立した生き方をしていく時代を迎えようとしているのです。

 自分の外に神や仏を見る時代は、もう終わりの時を迎えようとしています。
 これからは、自分の外にではなく、自分自身の中に、神や仏を発見し、それを蘇らせ、顕現して、自分自身が、キリストとなり、仏陀となる時代を迎えようとしているのです。

 私達一人一人が、キリストであり、仏陀なのです。

 私達人類のキリスト意識の目覚めにより、新たな地球が誕生する時を迎える事になります。
 西暦2030年代の何れかの時期に、今ある物質文明の次に来る、新たな精神文明、花咲く都・黄金文明が、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本から花開く時を迎えます。

 その時、外の世界においても、イエス・キリストの復活・再臨を目の当たりにする時を迎えるでしょう。

 神の経綸において、神の復活は、イエス・キリストの復活として、型で出されています。
 イエス・キリストは、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本において、復活するのです。

 イエス・キリストが再臨して人類を救うのではなく、私達人類が内なるキリスト意識に目覚め、私達人類が自ら私達自身を救って、新たな地球を誕生させた時、外の世界においても、神の復活の型示しとして、イエス・キリストは復活・再臨する事になるのです。

 二千年前に、イエス・キリストを地上へと遣わされた、「天にまします父」により、イエス・キリストは、再び地上へと遣わされ、私達人類の前に姿を現す事になるのです。

 イエス・キリストの復活には、内的な復活と、外的な復活の二つの意味があり、内的な復活がまず先になります。
 そして、外的な復活は、型示しなので、後からになります。

 私達人類が、内なるキリスト意識に目覚め、内なるキリストを復活させ、新たな地球の誕生を迎えた時、外の世界においても、神の復活の型示しとして、イエス・キリストの復活・再臨を見る時を迎えるのです。

 イエス・キリストの復活については、「イエス・キリストの復活とはー内的な復活と外的な復活」をご参照下さい。

 イエス・キリストが、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本において復活・再臨した時、天界(地球神界)と私達人類との新たな友好関係・協力関係が始まり、私達人類は、宇宙時代を迎える事になります。

 キリスト教の世界で言われる、「至福千年王国」の事であり、私達人類の黄金時代の幕開けの時でもあります。
 真の世界平和、地球の恒久平和の始まりの時でもあります。

 私達人類の黄金時代は、まず、私達日本人のキリスト意識の目覚めにより齎(もたら)される事になるのです。

 自分の外にキリストや仏陀を見て、キリストや仏陀に縋(すが)り、依存し、キリストや仏陀に救いを求める時代は、もう終わろうとしています。

 自分自身の中にあるキリスト意識、仏性、神性に目覚め、それを蘇らせ、顕現して、私達一人一人が、キリストとなり、仏陀となる時代を迎えようとしているのです。

 キリストや仏陀とは、二千数百年前に存在したとされる、私達人類の偉大なメッセンジャーを指す言葉であるだけではなく、自分自身の事でもあるのです。

 私達一人一人が、キリストであり、仏陀なのです。

神武天皇とは、私達一人一人の事でもある

 神武天皇とは、私達一人一人の事でもあります。

 神武天皇とは、二千数百年前に、大和王朝を建国したとされる、歴史上の人物であるだけではなく、私達一人一人の事でもあります。

 古事記には、歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産するまでの内的なプロセスが、象徴的に描かれています。

 一番最初の天地開闢から、神武天皇誕生までの、所謂、神代の時代の神話は、人が神として出産するまでの、魂の出産、魂の蘇りが、主要なテーマとして隠されています。

 そして、人が、自らの中にある本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、顕現して、神人のようになった状態を、神武天皇という言葉で象徴しています。

 古事記において、神武天皇という言葉が象徴しているのは、魂の蘇り、魂の出産を迎えて、神として蘇った人の事なのです。

 ですから、神武天皇とは、私達一人一人の事でもあります。
 私達一人一人が、自らの中にある本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、それを顕現して、神人のようになった時、神武天皇として誕生したとも言えます。

 「神武」とは、「神の武士」と書きます。
 神道的に言えば神性、仏教的に言えば仏性、キリスト教的に言うならばキリスト意識とでも言うべき、自らの中にある本当の光、神聖な光を顕現して、言わば、「神の武士」として、神人のように生きられるようになった人の事を、神武天皇という言葉で象徴しているのです。

 今、私達人類の意識が飛躍的に進化して、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する時を迎えていますので、私達一人一人が、神武天皇として誕生する時を迎えています。

 徒に、自分の外に神を見て、神に縋(すが)り、依存し、神に救いを求めるのではなく、自分の中にある神性を蘇らせ、それを顕現して、自分自らが、神人のようになって、精神的に自立した生き方をする時を迎えているのです。

 自分の外に神を見る時代は、もう終わりの時を迎えています。
 自分の外に神を見るのではなく、自分自身の中に神を発見し、それを顕現して、自分自身が神人のようになって、精神的に自立した生き方をしていく時を迎えているのです。

 古事記において、神武天皇という言葉が象徴しているのは、魂の蘇り、魂の出産を迎えて、神の蘇りを迎えた人の事なので、神武天皇とは、歴史上の一人物を指す言葉であるだけではなく、私達一人一人の事でもあるのです。

 神武天皇とは、私達一人一人の事でもあります。

火之迦具土神を生んだのは、岩戸(黄泉国)の中に入る為

 一昨日、『「一厘の仕組み」は、伊邪那美命の中に隠されている』の中で、「一厘の仕組み」は、古事記においては、伊邪那美命の中に隠されている事について書きました。

 伊邪那美命が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を生んだのは、岩戸(黄泉国)の中に入る為です。

 火之迦具土神を生んだ為に、伊邪那美命はホト(女陰)が焼けて死んでしまい、黄泉国に入ったのです。
 そして、夫である伊邪那岐命も、火之迦具土神の首を十拳(トツカノ)剣で斬って、伊邪那美命の後を追って、黄泉国に入ったのです。

 岩戸(黄泉国)の中に入り、出て来る事が肝要です。

 仕組みとして、人は皆、生まれて来る時は、自らの本当の光を一旦忘れて生まれて来ます。
 言わば、生まれながらにして、岩戸(黄泉国)の中に入った状態で生まれて来るのです。

 やがて、御魂が成長するに伴い、自らの内なる本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、それを顕現して、神人のように生きられるようになるのです。

 それが、魂の出産であり、魂の蘇り(=黄泉帰り)であり、神の蘇りという事なのです。
 古事記においては、神武天皇の誕生という表現を使って象徴しています。

 そして、自らの内なる本当の光、内なる神性というのは、自分を最も落とした所、一番醜い所から出て来ます。
 以前、「神は一番下から出て来るー最も落とした所ほど最も貴い」の中に書きましたので、ご参照下さい。

 古事記の中で、黄泉国の中の伊邪那美命は、とても醜い姿で描かれています。

 そして、一昨日のブログの中で書いたように、古事記の中では隠されていますが、伊邪那美命は、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)で、夫である伊邪那岐命と仲直りし、夫婦和合して、伊邪那岐命と共に、伊邪那美大神として、蘇る(=黄泉帰る)のです。

 その時、伊邪那岐命と伊邪那美命の争いの仲裁役を務め、夫婦和合へと導くのが、白山菊理媛(ハクサンククリヒメ)です。

 白山菊理媛の総本宮とされる、白山比咩(シラヤマヒメ)神社の御祭神が、白山菊理媛・伊邪那岐命・伊邪那美命となっているのは、その為であり、日本三霊山の一つ、加賀の白山をお守りされている白山比咩神社の働きには、とても奥深いものがあり、「一厘の仕組み」、「最後の一厘」と密接に関わっています。

 「最後の一厘」において必要となるのが、白山菊理媛の働きになります。

 古事記の中では隠されていますが、伊邪那美命は、白山菊理媛の「最後の一厘」の働きにより、黄泉比良坂で夫・伊邪那岐命と夫婦和合し、伊邪那岐命と共に、黄泉国から黄泉帰る(=蘇る)事になります。

 最も醜い姿が、最も高貴な姿となり、光り輝く姿で蘇る(=黄泉帰る)のです。
 伊邪那美命が、伊邪那美大神として、蘇る(=黄泉帰る)事になります。

 古事記の中では隠されていますが、伊邪那岐命は、自分一人で黄泉比良坂から黄泉帰った(=蘇った)のではなく、白山菊理媛の仲裁により夫婦和合して、妻である伊邪那美命と共に黄泉帰り(=蘇り)、禊祓をして、次々に神々を生み、最後に、三貴子である、天照大御神、月読命、須佐之男命を生んだのです。

 伊邪那美命が火之迦具土神を生んだのは、岩戸(黄泉国)の中に入る為です。

 火之迦具土神を生んだ為に、伊邪那美命も、伊邪那岐命も、共に、黄泉国(岩戸)の中に入る事になったのです。

 そして、黄泉比良坂で夫婦和合して、黄泉帰って(=蘇って)来たのです。

 岩戸(黄泉国)の中に入り、出て来る事が大切になります。

 人は皆、自らの本当の光、内なる神性を一旦忘れ、岩戸(黄泉国)の中に入った状態で生まれて来ます。
 そして、御魂が成長するに伴い、自らの本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、それを顕現して、魂の出産、魂の蘇り(=黄泉帰り)の時を迎える事になります。

 魂の出産、魂の蘇り(=黄泉帰り)により、さらに光り輝く魂となるのです。
 自らの本当の光を一旦忘れ、暗闇(岩戸・黄泉国)の中から、自らの本当の光をもう一度想い出し、蘇らせる事によって、さらに光輝く事が出来るのです。

 岩戸(黄泉国)の中に入り、出て来る事が大切です。

 仕組みにより、人は皆、生まれながらにして、岩戸(黄泉国)の中にいるのです。
 岩戸(黄泉国)の中の暗闇の中から、自らの本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせる事が、 「一厘の仕組み」であり、「一厘の仕組み」は、伊邪那美命の中に隠されています。

 伊邪那美命が火之迦具土神を生んだのは、岩戸(黄泉国)の中に入る為であり、岩戸(黄泉国)の中に入り、出て来る事が肝要です。

 最も醜い姿が、最も高貴な姿となり、光り輝く姿で黄泉帰る(=蘇る)のです。
 伊邪那美命が、伊邪那美大神として蘇る(=黄泉帰る)事になります。

「一厘の仕組み」は、伊邪那美命の中に隠されている

 神の経綸において、「一厘の仕組み」、「最後の一厘」と呼ばれるものがあります。

 「一厘の仕組み」、「最後の一厘」に関心がある人の中には、「一厘の仕組み」、「最後の一厘」というものを知る為に、様々な知識・情報を集めてみたり、様々な御神業をしたりしておられる方もあるようですが、「一厘の仕組み」は、私達一人一人の心の中に仕掛けられているので、自分自身の心の内を見ない事には、「一厘の仕組み」を知る事は出来ません。

 「一厘の仕組み」とは、外の世界で、天変地異や大事件のような、何かが起きるというような、神仕組みではありません。

 「一厘の仕組み」とは、私達人間一人一人が神成る為の神仕組みであり、私達一人一人の心の中に仕掛けられているものなのです。
 ですから、自分自身の心の内面を見ない事には、「一厘の仕組み」を知る事は出来ません。

 「一厘の仕組み」、「最後の一厘」については、以前に書きましたので、ご参照下さい。

 そして、「一厘の仕組み」は、古事記においては、伊邪那美命の中に隠されています。

 古事記の中で、伊邪那美命が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を生んだ為に、ホト(女陰)が焼けて死んでしまいました。
 伊邪那岐命は、十拳(トツカ)剣を抜いて火之迦具土神の首を斬ってしまい、伊邪那美命の後を追いかけて、黄泉国(ヨミノクニ)の中へ入って行きました。

 「一厘の仕組み」は、伊邪那美命の中に隠されており、人間が誕生するという、人の「生」に関わる、最も根源的な仕組み、そして、自らの内なる神性を発揮して、やがて神と成る神仕組みが隠されています。

 全ての人間は、必ず、父親の精子と母親の卵子が結合して、母親の子宮から生まれてきます。

 そして、神仕組みとして、人は皆、生まれながらにして、自らの本当の光を忘れた状態で生まれてきます。
 言わば、古事記における、黄泉国の中にいる状態、「天岩戸」の中にいる状態で生まれてくるのです。

 やがて、自らの中にある本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、それを顕現して、神成る身となり、言わば、神人のように生きられるようになるのです。
 それが、魂の出産であり、魂の蘇り(=黄泉帰り)という事なのです。

 古事記における、「伊邪那岐命の黄泉国からの黄泉帰り(=蘇り)」、「天照大御神の天岩戸開き」などは、その事を象徴しています。

 そして、古事記の中では、隠されていますが、伊邪那美命は、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)で、夫である伊邪那岐命と仲直りし、夫婦和合して、黄泉国から黄泉帰る(=蘇る)のです。
 その時に、夫婦和合の仲介役を務めるのが、白山菊理媛(ハクサンククリヒメ)です。
 人が神と成る「最後の一厘」に関わってくるのが、白山菊理媛の働きになります。

 伊邪那美命は、黄泉比良坂で、伊邪那岐命と夫婦和合して、伊邪那美大神として、黄泉国から黄泉帰る(=蘇る)のです。

 伊邪那岐命は、黄泉比良坂で、伊邪那美命と夫婦和合して、伊邪那美命と共に、黄泉国から黄泉帰る(=蘇る)事になります。

 そして、禊祓(ミソギハラエ)をされた後に、次々と神々をお生みになり、最後に生まれたのが、有名な三貴子である、天照大御神、月読命、須佐之男命になります。

 古事記における、「伊邪那岐命の黄泉国からの黄泉帰り(=蘇り)」、「天照大御神の天岩戸開き」、「須佐之男命の八俣大蛇(ヤマタノオロチ)退治」などは、登場人物と場面設定はそれぞれ違いますが、魂の出産、魂の蘇りという同じテーマが、象徴的に描かれています。

 そして、人が内なる神性を顕現して、神成る身となり、神人のようになった状態の事を、神武天皇という言葉で象徴しています。

 「一厘の仕組み」、「最後の一厘」は、外の世界に仕掛けられているのではなく、私達一人一人の心の中に仕掛けられているので、自分自身の心の中を見ない事には、「一厘の仕組み」を知る事は出来ません。

 そして、「一厘の仕組み」は、古事記においては、伊邪那美命の中に隠されています。
 「一厘の仕組み」により、伊邪那美命は、伊邪那美大神として蘇る(=黄泉帰る)のです。
 最も醜い姿が、最も高貴な姿となり、伊邪那美大神として光輝く姿で蘇る(=黄泉帰る)事になります。

全ては我が魂の計画の中

 自分の人生の主体者・創造者は、本源の我、真我である、我が魂です。
 ですから、自分の人生の全ては、我が魂の計画の中にあります。
 我が魂の計画の中に無いものは何一つ無く、全てが我が魂の計画の中なのです。

 そして、我が魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つなので、我が魂の計画とは、即ち、大宇宙の計画の一部でもあるのです。

 自分という者は、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つとしての役割でしか、存在していませんので、その役割の外へは、一歩も出る事は出来ないのです。

 自分の人生の全ては、我が魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中なのです。


ここは「追想の中」での「追体験」

 「デジャヴュ(既視感)」という言葉があります。

 初めて来た場所なのに、何となく懐かしい感じがして、初めて来た感じがしない、とか、初めて会った人なのに、以前どこかで会った事があるような感じがして、初めて会った感じがしない、というような体験をする事があります。

 よく使われるのは、この場所は過去世で来た事がある場所だとか、この人とは、前世で一緒だった人だとかいうような感じで、使われたりしています。

 しかし、「デジャヴュ(既視感)」というのは、本当は、もっともっと奥が深く、意味深いものなのです。
 何故なら、今、私達は、「追想の中」を生きており、かつて体験した事を、今、「追体験」しているからなのです。

 究極的には時間は存在しておらず、過去も未来も、今、同時に存在していますので、二一世紀の地球という、この座標軸は、必ずしも、今初めて大宇宙に存在しているという訳でもないのです。

 二一世紀の地球という、この時空が、今初めて大宇宙に存在していると考えるのは、時間というものが、過去→現在→未来へと流れているという思い込みによるものだと言えます。

 二一世紀の地球という、今ここにある時空は、実は、かつて存在した時空でもあるのです。

 私達は、かつて存在した時空で体験した事を、今再び「追体験」しているのであり、今、「追想の中」を生きているのです。
 かつての記憶を、今再び蘇らせているとも言えます。
 空間という、三六〇度立体のバーチャルなスクリーン上で、再生されたビデオを見ているようなものかも知れません。

 ですから、実は、過去世うんぬんという事に留まらず、過去には無かった現代のものや、あらゆる事に対して、「デジャヴュ(既視感)」を覚えたとしても、決して不思議な事ではありません。

 魂の記憶が蘇ってくると、様々な事に「デジャヴュ(既視感)」を覚えるかも知れません。
 それは単に、人や場所に対してだけではなく、自分が体験した一つ一つの出来事や、自分が味わった感情の一つ一つに対しても、かつて味わった事があるという懐かしさを覚えるかも知れません。

 魂の記憶が蘇ってくると、未来の記憶とでも呼ぶべきものも、少しずつ蘇ってきます。
 我が魂は、未来で体験する全て、未来で味わう感情の全てを、既に知っているのです。

 何故なら、大宇宙意識の分霊として、自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう」したというだけではなく、さらに言うならば、この時空はかつて存在した時空であり、その時既に体験をしているからなのです。

 本源の我、真我である我が魂は、自分がこれから人生で体験する全てを、既に知り尽くしているのです。
 魂の記憶を蘇らせる事が出来れば、未来の記憶が少しずつ蘇ってくるかも知れません。

 私達は、かつて体験した事を、今、「追体験」しているのであり、「追想の中」を生きているのです。
 二一世紀の地球という、今ここにある座標軸は、実は、かつて存在した懐かしき時空であり、ここは「追想の中」にある、「緑美しき懐かしき地球」なのです。

新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」が、2014年(平成26年)春、出版されます!

新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」が、来年2014年(平成26年)春、出版されます。

新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」は、この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体である、根本創造主(大宇宙意識)だけである事を、詳しく解説したものであり、この大宇宙の実相・真相を知る上で、最も本質的な、根源的な内容の書となっています。

詳細につきましては、決まり次第、お知らせ致しますので、どうぞお楽しみに!


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