日本の新しい調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

大和富士ブログ|BLOG

2010年11月のアーカイブ

30 Entries

白富士の美しさ

秋もすっかり深まり、今日で11月も終わりです。
明日からは師走の12月の始まりです。

最近、富士山もめっきり雪化粧を整え、見事なまでの白富士を見せてくれるようになりました。
すっきりと晴れ渡り、澄んだ空気の中に見える白富士の美しさは、例えようがない感じです。
そして、真っ白、純白という感じを通り越して、透明な印象すら受ける時があります。
その透明感は、写真などでは決して見る事が出来ないような感じの透明感です。
何だか、とても澄んだ感じがするのです。

背景にある空の色との兼ね合いもあるのですが、空と一つに溶け込んで、この世ならぬ美しさを見せてくれる時があります。
そういう時には、何かを暗示・象徴しているかのような印象を受ける事もあります。

霊(ひ)ノ元・日本の象徴、霊峰富士が、最近、時折見せる、とても透明感のある白富士の美しさは、例えようがない感じがします。

本当は誰もいないーただ大宇宙がある

多くの人達は、自分がいて、自分以外の世界があり、それが現実世界だと考えているかも知れません。
現実世界とは、確固とした客観的な世界だと考えているかも知れません。

しかし、自分が見ている現実世界とは、自分の脳が画像処理したものを、空間というスクリーンに映し出して見ているに過ぎないので、あくまでも、自分の意識を投影した、自分の内面の世界、インナーワールドです。
自分の中の心の心象風景を、あたかも映画でも観るように、現実というスクリーンに映し出して見ているに過ぎません。

ですから、自分が見ている世界は、自分の内面の世界なので、自分が見ている世界には、自分しかいない、という事になります。
自分が見ている世界とは、我一人の世界と言えます。

ところが、自分という存在も、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点にしか過ぎません。
言わば、大宇宙に無数に存在する視点の中の一つであり、大宇宙に無数に存在する、テレビカメラの中の一つを受け持っていると言えるかも知れません。

ですから、自分という者も、本当はいる訳ではなく、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点であり、無数の視点の中の一つであり、ある一つの視点から、テレビカメラで映すようにして、この大宇宙を映し出して見ているという訳なのです。

この大宇宙に実在するのは、唯一にして絶対、至高の存在である、根本創造主のみであり、それを大宇宙意識と呼んでもいいかも知れません。
根本創造主である大宇宙意識が想像した事が、創造として物質化されたのが、この物理的大宇宙です。
物理的大宇宙は、根本創造主である大宇宙意識の意識を映し出す鏡の世界であり、ここに存在しているかに見える全てのものは、大宇宙意識の顕れに他なりません。
そして、物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界であり、幻の世界です。

自分という存在は、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点であり、一つの視点から、この大宇宙を映し出して見ているという事になります。
自分が映し出して見ているのは、自分の意識が投影された自分の内面の世界、インナーワールドであり、自分が見ている世界は、我一人の世界であり、そこには、自分しかいないのです。
そして、自分という存在も、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点にしか過ぎないので、自分自身すら、本当はいない、という事になります。

自分が見ている現実世界とは、我一人の世界であり、自分しかいない世界なのですが、自分という者すら、本当はいる訳ではないので、自分すらいない世界であり、誰もいない世界だという事になります。

自分が見ている現実世界には、本当は誰もいません。
ただ、根本創造主ともいうべき大宇宙があるだけなのです。

数千キロを旅する蝶ーオオカバマダラ

数千キロの旅をする、オオカバマダラという蝶がいます。
北アメリカでは、モナーク=帝王と呼ばれて親しまれており、渡り鳥のように、「渡り」をする事で有名だという事です。
オオカバマダラは、非常に飛翔技術に優れ、羽をそれほど羽ばたかなくても、風に乗り滑空し続ける事が得意だと言われています。

秋になると、越冬の為、カナダおよび北アメリカから、カリフォルニアやメキシコまで、数千キロの旅をして越冬するそうです。
そして、春になると再び北上し、数千キロの旅をして、カナダや北アメリカに戻って行きます。

南下は1世代で行われ、北上は、3~4世代かけて行われるとの事で、南下して越冬するものの寿命は他の世代より寿命が長く、生体構造が違っているとの事です。

21世紀の地球に生きる私達人類も、越冬の為に数千キロの旅をする蝶と同じような状況だと言えるかも知れません。
現在生存する人間は、従来の人間とは意識が違っているとの事であり、大いなる飛翔をする為に、私達は今、地球というこの星に生まれて来たのかも知れません。

オオカバマダラが羽をそれほど羽ばたかなくても風に乗り数千キロの旅を飛翔するように、現在生存する人間の意識を遙かな高みへと飛翔させる上昇気流が、今、地球にやって来ています。
それに気付いた者達から、空に舞い上がって行きます。
自分の力で飛ぼうと思わなくても、上昇気流に合わせれば、風が、私達の意識を、遙かな高みへと飛翔させてくれる事でしょう。

自分が変われば世界が変わる

自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の心の内の世界を見ているので、空間と自分は常に一つです。
自分と世界は別れていません。
ですから、自分が変われば、世界が変わります。

自分が見ている世界が美しく感じられないので、もし、世界を変えたいと思うなら、世界を変える方法がたった一つだけあります。
それは、自分自身が変わる事です。
自分と世界は一つなので、自分が変われば、見える世界が変わってしまいます。

一人一人が、自分の意識を投影した、自分の内面の世界、言わば、インナーワールドを見ているので、一人一人が見ている現実世界は、皆それぞれ違います。
全てが主観の世界なので、客観的世界など何処にもありません。

ですから、もし、今、世界が美しく感じられないとしたら、世界の方が美しくないのではなく、自分の心が、美しさを感じられないだけなのだと気付く事が大切だと思います。

自分が輝けば、世界も輝きます。
自分が元気であれば、世界もまた元気です。
自分の心が美しくなれば、世界もまた美しくなります。
とても単純な事なのです。
自分が変われば、世界が変わります。

全ては我が魂の計画

本源の我、真我とも言うべき我が魂の記憶が徐々に蘇って来ると、今までの自分の人生の全ては、我が魂の計画だったという事が分かります。
神の分霊(わけみたま)であり、我が人生の創造主である我が魂が、生まれる前に計画した通りに、寸分の狂いもなく、人生が展開して来た事が実感出来るようになります。
ある段階を経ると、理屈ではなく、実感出来ます。

そして、今までの我が人生は、完璧であり、最善の過去を経て来た事が分かります。
我が魂の完璧な計画のもとに、最善の人生を歩んで来た事が分かります。

多くの人は、自分の人生は失敗続き、不幸だらけの人生で、とても、完璧、最善の人生を歩んで来たなどと思えない、と感じられるかも知れません。
しかし、それはあくまでも、肉体の自我意識が感じている事であって、本源の我、真我とも言うべき我が魂から見れば、完璧で最善の人生を、計画通りに順調に歩んで来たと言えます。

本源の我、真我とも言うべき我が魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事とは違います。
魂の関心事は、魂を進化させる事、言わば、光輝く魂になる事が目的です。
さらなる魂の輝きを求めて、我が魂は、この人生を創造したのです。

一方、肉体の自我意識の関心事は、多くの人の場合、健康、お金、理想の仕事、理想の異性、結婚、理想の家庭、理想の人間関係、社会的地位、名誉、心の平安、などと言えるかも知れません。
そして、幸福というものを、外にある形の中に求めて、理想の人生、理想の仕事、理想の家庭、理想の人間関係、理想の肉体などを望むのですが、幸福というものを、形の中に求めても、真の幸福が得られる訳ではなく、いつも、どこかしら満ち足りない思いを抱き続ける事になります。

幸福というのは、心が感じるものなので、あらゆる事に喜びを感じられる意識を創る事が出来れば、いつも幸福を感じていられるようになります。
さらに言えば、幸・不幸という概念すら消えて行くかも知れません。

心が全天候型になり、いずこにもとらわれない心、言わば、タイタン(巨人)のような心、豊かな心、満ち足りた心になる事が、魂の目的です。
そして、そういう心を創る為には、我を解放していく事が必要になります。
肉体の自我意識が囚われている「我」を外し、心を無地透明にして、我を解放するところに、真の喜び・平安があります。

そして、今までの自分の人生で、辛かった事、苦しかった事、悲しかった事、失敗した事等、不幸・不運・失敗と思える全ての出来事は、全て我の解放のプログラムだったという事になります。
我が人生の全てが、我の解放のプログラムです。

今までの自分の人生は、魂の計画通りに、我の解放を一歩一歩着実に進めて来ています。
自分にとって、最高・最善のプロセスを経て来ています。
そして、我の解放の旅はこれからも続きます。

全てはプロセスです。
今、自分の人生を苦しく感じている方も、全てを喜びと感じられる心を創る旅のプロセスの中にあります。
本源の我、真我とも言うべき我が魂が、光輝く魂になる事を求めて創造した我が人生を、魂の計画通りに最善の形で進んでいる自分自身を信じる力が大切になります。

幸福なるもの形にあらず

多くの人が囚われているものに、幸福という概念があります。
常に幸福というものを求め、それが得られずに、どこかしら、自分自身を不幸と感じています。
そして、幸福というものを、外にある形の中に求めています。
理想の人生、理想の家庭、理想の仕事、理想の人間関係、理想の体・・・。

幸福というものは、自分の心が感じるものなので、あらゆる事を喜びと感じられる意識を創る事が出来れば、あらゆる形の中に幸福を感じられるようになります。
そういう意識を創れないまま、ただ徒に、外にある形の中に幸福を求め続けても、心が真に満ちるという事がなく、常に、どこかしら、欠乏感を抱き続ける事になります。

幸福というものは、形の中にはなく、あらゆる形の中に、幸福があるのだと気付ける意識状態へと、人類の意識は進化して行く事になります。
あらゆる形の中に豊かさがあり、あらゆる形が幸福なのだと気付ける意識を創れるようになって行きます。

住む場所で言うならば、日本のように四季おりおりが美しい国ばかりに豊かさがあるのではなく、ハワイやタヒチのような常夏の国には常夏の国の豊かさがあり、シベリアやアラスカのような極寒の国にも極寒の国の豊かさがあり、サハラ砂漠のような所にも、砂漠の豊かさがあるということになります。
海の民には海の民の豊かさがあり、山の民には山の民の豊かさがあり、草原の民には草原の民の豊かさがあるという事になります。

住む場所を例に取りましたが、人生のあらゆる場面においても同じ事が言えるのであり、あらゆる形の中に豊かさが感じられ、あらゆる形の中に幸福が感じられるように、人類の意識はシフトして行く事になります。

幸福というものを形の中に求めても、その思いは必ず崩される事になります。
これは、仕組みなのです。
幸福というものを形の中に求め続けても、そこではありませんよ、と必ず天から思い知らされる事になり、あらゆる場面に豊かさ・喜びを感じられる意識を創って初めて、天からOKがもらえるからです。

幸福とは形の中にはなく、あらゆる形の中に豊かさ・喜びを感じられる心、幸・不幸という概念すら超えた意識へと、私達人類の意識は、これから飛翔して行く事になります。

幸・不幸という概念を超える

これから、新たな地球へと移行する過程において、人類が持っている概念で、大きな変更を余儀なくされるのが、幸福という概念です。
幸・不幸という概念を超えた高みへと、人類の意識は飛翔しようとしています。

幸福という概念は、対極に不幸という概念を持っています。
つまり、幸福という概念は、不幸という概念とセットになった考え方であり、どちらか一方だけでは存在出来ない考え方です。

今の人類の意識では、自分にとって心地良い状態、自分に都合の良い状態を幸福と呼び、そうでないものを、不幸と呼んでいます。
ある状態を幸福と呼び、ある状態を不幸と呼んで分けています。

これから人類が向おうとする新しい意識では、幸・不幸という概念が消えて行きます。
幸福というのは、自分の心が感じるものなので、あらゆる事を喜びで感じられる意識状態になると、全ては喜びとなります。
そして、ある状態を幸福、ある状態は不幸、と分けて考える事が出来なくなります。

そして、幸福というのは、自分の心の中にあるので、幸福というものを、外にある形の中に求めなくなります。
あらゆる形の中に豊かさを感じ、あらゆる形の中に喜びを感じられる意識になれば、全ては心満ちた状態となります。

幸福というものを、外にある理想的な形の中に求めて、それが得られない事を不幸と感じてもがき苦しむような、今の人類の意識状態も、そろそろ変更を余儀なくされる時が近づいているかも知れません。
幸福とはこういうもの、と多くの人が理想としている形も、人類が長い間信じ込んで来た、古い世界観、常識、概念にしか過ぎないということに気付く時が訪れる筈です。

幸福というものを外にある形の中に求めるのではなく、全てを喜びと感じられる心、幸・不幸という概念を超えた意識へと、人類の意識は、飛躍的進化を遂げようとしています。

新しい世界観

今、私達人類に最も必要なのは、新しい世界観だと言えるかも知れません。

今までの世界観とはまるで次元が違う、新しい世界観であり、この世界観が入って初めて、人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新しい地球を創造出来ると言っても良いかと思います。
新しい地球、花咲く都・黄金文明は、この新しい世界観により誕生すると言っても良いかも知れません。

人類が数千年使ってきた世界観は、最早古過ぎて使い物にならなくなって来ており、完全に行き詰まりを見せつつあります。
今、地球上のあらゆる場面において行き詰まりが感じられ、未来に対する明確なビジョンを抱く事が難しくなっているかも知れません。様々な場面において、閉塞感が感じられるかも知れません。
今ある古い世界観のままでは、新たな未来を創造して行く事は出来ないと言っても過言ではないと思います。

新しい世界観を入れる事によって、現実世界に対するものの見方、考え方が、180度変わってしまうと思います。
自分自身、人生、世界・宇宙、幸福、などに対する感じ方ががらりと一変してしまうかも知れません。

何よりも変わるのは、幸福というものの捉え方であり、幸福という概念が大きく変わってしまうと思います。
幸福というものを、形の中に求めて、長い間もがき苦しんで来た人類の旅も、そろそろ終わりの時を迎える事になる筈です。
新しい世界観は、幸・不幸という概念を超えた高みへと人類の意識を導く事になると思います。

そして、世界中に山積しているかに見える問題と言われるものも、この新しい世界観により解けてしまうことになると思います。
全てを包含するだけの力を持っているのが、この新たな世界観だと言ってもよいかも知れません。

新しい世界観により、人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える事になります。
本当に、私達は、稀有の時代に生まれ合わせていると言えそうです。

真(まこと)のみを映す鏡

自分が見ている現実世界とは、自分の意識が投影された世界であり、自分の心の内側の世界、言わば、インナーワールドです。
ですから、自分と世界は別れている訳ではなく、空間は全て一つです。

多くの人は、自分という者が居て、自分以外の世界があり、それを現実世界だと認識しているかも知れません。
何か確かな客観的世界というものが存在していると考えているかも知れません。
しかし、自分が見ている現実世界とは、全て自分の内側の世界なので、自分の意識が100%投影された世界を見ている訳なのです。

そして、この現実世界というスクリーンは、自分自身の意識を、ものの見事に映し出して見せてくれます。
現実世界とは、真(まこと)のみを映す鏡だと言えるかも知れません。

自分が見ている現実世界とは、自分の内側の世界なので、本当は誰も居る訳ではなく、自分だけしかいない、我一人のみの世界だと言ってもよいかも知れません。
ですから、誰かに腹を立てたりするというのは、自分自身に対して腹を立てているのと同じ事になります。
そして、それはすぐ自分に跳ね返って来ます。

それとは反対に、誰かに対して、褒め称えたり、感謝したり、ありがとうと言ったりすると、それは、自分自身に対してしているのと同じ事なので、すぐ自分自身に跳ね返って来ます。
自分と空間は一つなので、自分が空間に対してしている事が、そのまま自分に跳ね返って来るという訳なのです。

ですから、もし言葉を語るのであれば、良き言葉、豊かな言葉、夢のある言葉を発する事が大切であり、意味の無い言葉、空間が荒ぶれる言葉を吐いたりしない事が大切になります。
自分自身の意識をそのまま投影して見せてくれますので、嬉しい、ありがたい、面白い、美しい、という意識で世界を見ると、世界もそのような世界を見せてくれますし、反対に、苦しい、つまらない、価値が無い、美しくない、という意識で世界を見ると、本当に、自分が思っているまま、感じているままの世界を映し出して見せてくれます。

空間を称える、という気持ちが大切であり、自分自身の心が映し出された空間を称える気持ちが、自分自身に必ず返って来ます。
この現実世界とは、まさに、真(まこと)のみを映す鏡だと言えそうです。

高次元空間への移行

今、地球で進行している事、そして、私達人類に起きている事は、高次元空間への移行という事になります。
今までの次元とは、まるで違う次元へと移行している最中とも言えるかも知れません。
それはすなわち、私達人類の意識レベルが、格段と進化するという事に他なりません。

今のままの意識レベルでは、もう持たないところまで来ており、人類の意識が大変革を遂げない限りは、新たな地球の未来を創造する事は出来ないと言っても過言ではありません。

しかし、心配する必要はないとも言えます。
新しい地球の誕生は、既に決まっており、そこへ向けて、宇宙からの全面的なサポートが来ているとも言えるからです。
その宇宙的な流れは、私達人類に、意識変革を迫らずにはおきません。
私達は、好むと好まざるとに関わらず、大きな意識変革を、否応なく迫られる事になります。

今、地球上で起きている全ての出来事は、人類の意識を、新たな高次元空間へとシフトさせる為に起きていると言っても過言ではありません。
様々な出来事のオンパレードの中で、私達は、今まで持っていた常識や、固定観念、古い概念、世界観などを手放さざるを得なくなる筈です。
何故なら、新しい意識レベルに進化する為には、古い意識を手放さざるを得なくなるからです。

そして、古い概念は、手放そうと思って手放せるものではないので、様々な出来事などを通して、手放さざるを得なくなるように、導かれます。
これからは、意識変革を迫るスピードが加速して行きますから、ジェットコースターにでも乗っている感じで、高次元空間への移行のプロセスを楽しんでいく事が肝要だと思います。

次世代情報へのバージョンアップ

コンピューターには、基本ソフト・OSが入っています。
一昔前、パソコンが普及し始めた頃は、ウインドウズ95や、ウインドウズ98などが話題になりましたが、最近では、VISTAやウインドウズ7が最新バージョンという事になるかと思います。

そして、基本ソフト・OSをバージョンアップさせる事によって、より高速処理が出来るようになると言えると思います。
ウインドウズ95や98が行っていた処理を、最新のVISTAやウインドウズ7なら、よりスムーズにさくさくと高速処理出来る筈です。

これと同じ事が、私達の脳についても言えます。
今、私達の脳の中に入っている基本ソフト・OSを次世代情報へとバージョンアップさせる事によって、脳がより高速処理出来るようになると言えるかも知れません。

今、私達人類の脳の中に入っている基本ソフト・OSは、最早古すぎて、行き詰っており、フリーズしそうになっています。
今入っているソフトでは限界が来ており、もうこれ以上このソフトを使い続けられるのも、時間の問題と言えそうです。

今、あらゆる面において私達人類が行き詰まりを見せており、未来に対して、明確な明るいビジョンを持つ事が出来ないのは、今入っているソフトが古過ぎて、この古いソフトのままでは、新しい未来を創る事が出来ないからなのです。

新しい地球、花咲く都・黄金文明は、人類の新しい意識から創造されます。
そして、人類の新しい意識を創る為には、新しいソフトへバージョンアップさせる必要があります。

私達人類の意識にある、古い概念、常識、固定観念を、新しい次世代情報へとバージョンアップさせない限りは、人類の新しい意識を創る事は出来ません。
新しい次世代情報を入れる事により、現実世界に対する見方が、まるで180度変わってしまうと思います。
自分自身、人生、現実世界、幸福などに対するものの見方・考え方が、まるで変わってしまう筈です。

今入っている古いソフトでは処理出来ないような問題でも、新しいソフトを入れる事により、高速処理出来るようになります。
今、人類の前に山積している様々な問題は、最早今入っている古いソフトのままでは解決出来ないところまで来ており、次世代情報が入った新しいソフトを入れて高速処理して初めて、解決される事になります。

新しい地球、花咲く都・黄金文明は、今の人類が持っている常識や固定観念とはまるで違う意識レベルにより創造される事になります。

意識を創る事が地球の仕事

今、地球が危機的状況にある、とか、大変革期にある、という事で、地球の為に何かをしたい、何かしなければいけない、と感じておられる方も多いかと思われます。
そして、ボランティア活動、平和運動や、布教活動・啓蒙活動など、様々な活動を通して、地球に貢献がしたい、と尽力されている人々が、多数おられると思います。

そして、それらの様々な活動は、それぞれ必要な事であり、例えば、大量のゴミや地雷などは、それを作った私達人間の手で撤去しなければ、そのまま放置されてしまいますので、誰かがする必要があると思います。
そして、それらの活動も、りっぱな地球の仕事であると思います。

しかし、本当の意味で地球の仕事と呼べるのは、意識を創る事だと言えます。
一人一人に出来る地球の仕事で、最も地球に貢献出来る仕事が、意識を創るという事になります。

大量のゴミや地雷などを撤去したとしても、私達人類の意識が変わらなければ、また、大量のゴミを捨て、大量の地雷を埋めたりし始める事でしょう。
ゴミを捨てたり、地雷を設置したりしないような、新しい意識に人類の意識が変わらない限りは、同じ事が繰り返されるだけだと思います。
真の世界平和というものも、戦争や争いを必要としない、新たな意識状態に、人類全体の意識が到達して初めて実現されるものだと思います。

そして、人類の意識が変わる為には、一人一人の意識が変わる必要があります。
一人一人の意識が変わらない限り、人類全体の意識は変わりません。

そして、意識を創るのは、私達一人一人の仕事になります。
自分自身の意識を創る事こそが、本当の意味での地球の仕事であり、母なる星・地球に対する最大の貢献であると言えるかも知れません。

そして、自分以外の他の人達の意識を創ろう、変えようなどと、敢えて考えなくても大丈夫だと言えそうです。
私達人間一人一人の意識は、皆つながっていますので、一人の意識が変わると、それが自ずと他の人々にも波及して行きます。
ですから、自分以外の他の人の意識を創ろう、変えよう、などと考える前に、自分自身の意識を創る事に専念する事が大切だと思います。

新しい地球、花咲く都・黄金文明は、人類の新しい意識から生まれます。
そして、人類の新しい意識を創るのは、私達一人一人の仕事なのです。
自分自身の意識を創る事こそが、本当の意味での、地球の仕事であると言ってもいいかも知れません。

根本創造主の孤独

私達人間は、自と他が分かれた世界の中で、愛する人がいない、恋人がいない、家族がいないと寂しさを感じ、孤独を感じたりします。
また、愛する人や家族がいても、お互いに理解し合えない時や、関係がうまくいっていない時には、孤独を感じたりします。
しかし、人間が抱く、それらの孤独感は、あくまでも、相対的な孤独と言ってもよいかと思います。

ところが、人間が抱く相対的な孤独とは違って、絶対的な孤独というものが、この大宇宙には存在します。
それが、根本創造主の孤独です。

大宇宙の根本創造主が孤独を感じるのかと思われるかも知れませんが、大宇宙の根本創造主だからこそ感じる孤独、根本創造主にしか味わう事が出来ない孤独というものが、あります。
それは、私達人間が感じる相対的な孤独とは違う、究極的な孤独であり、絶対の孤独と呼んでもいいかも知れません。

この大宇宙には、絶対世界と相対世界があります。
絶対世界は実相の世界であり、ここには、唯一にして絶対、至高の存在である、根本創造主のみが実在しています。
これに対して、相対世界とは、根本創造主が想像したものが、物質化されて創造された、この物理的大宇宙の事を表します。

相対世界である、この現象界、物理的大宇宙とは、絶対世界にある根本創造主の意識を映し出す鏡の世界であり、根本創造主の光が物質化されて、様々な色、形、音などで表現された世界であり、言わば、幻の世界です。
大宇宙の全ては、根本創造主の光の中にあり、大宇宙に存在する無数のものは、全て、根本創造主の顕れに他なりません。

そして、絶対世界に実在するのは、唯一にして絶対、至高の存在である、根本創造主のみであり、絶対世界とは、色も形も音も無い、非物質な実相の世界であり、そこにあるのは、敢えて分かりやすく表現するとすれば、意識、心、知性、気付き、気というような言い方になるかと思います。

それを、大宇宙意識とか、全知全能の知性とか、無限定の気付き、というような言葉で表現出来るかも知れません。

この大宇宙には、根本創造主の純粋意識のみが実在しています。
そして、それは、未来永劫変わる事がありません。

根本創造主の目から見ると、この大宇宙には、自分自身しか存在していないという事になります。
その事を、孤独という言葉で表現するとしたら、この孤独は、絶対の孤独という言い方が出来るかも知れません。
私達人間が抱く相対的な孤独では無く、絶対的な孤独であり、それは永遠に変わる事がありません。

根本創造主の目から見ると、この大宇宙には、未来永劫、永遠に、自分自身しか存在していないという事であり、敢えて孤独という表現を使うとすれば、それは、究極的な孤独であり、絶対の孤独であるという事になります。

サンスクリット語に、リーラ(神の戯れ)という言葉があり、全ては神の戯れであるという考え方があるようです。
この大宇宙の森羅万象の全てが神の戯れであり、唯一にして絶対、至高の存在である根本創造主の意識の中で繰り拡げられる、壮大なゲームであると言ってもいいかも知れません。

純粋意識である根本創造主は、未来永劫、永遠に変わる事の無い、究極的な絶対的な孤独の中で、全知全能の力で、ありとあらゆる事を想像し続けており、それが物質化され創造されて大宇宙の森羅万象が営まれています。
そして、大宇宙の営みの全てが大宇宙の光の中にあり、全ては神の戯れ(リーラ)であり、根本創造主が織り成す壮大なゲームであると言えるかも知れません。


絶対の静寂(しじま)ー絶対世界とは

絶対の静寂(しじま)という言葉があります。
この、絶対の静寂というのは、絶対世界にのみ存在します。

この大宇宙は、絶対世界と相対世界から成り立っています。
絶対世界とは、実相の世界であり、非物質な世界です。
絶対世界には、唯一にして絶対、至高の存在である、根本創造主のみが実在しています。

これに対して、相対世界とは、根本創造主の意識を映し出す鏡としての現象界である、物理的大宇宙の事を指します。
相対世界は、仮相の世界であり、根本創造主の意識が、様々な色、形、音を伴って表現された、言わば、幻の世界です。

色、形、音などは、全て、相対世界のものであり、幻です。
絶対世界には、色も形も、音もありません。
音で言うなら、絶対世界にある音は、絶対の静寂(しじま)のみ、という事になります。
音無き音の世界が、絶対世界ということになります。

色、形、音などは、それがどんなに妙なるものであったとしても、色、形、音である限りは、全て、相対世界のものです。
天上界あるいは、神界を想わせるような、妙なる色、形、音だったとしても、それは周波数の違いだけであり、やはり、相対世界に属するものになります。

色で言うと、人間の肉眼で見える光線はある限られた範囲のものであり、可視光線の外にある紫外線などは、目には見えません。
そして、それは、周波数の違いということになります。
音で言うと、人間の耳で聴ける可聴音は、ある限られた範囲のものであり、その範囲を超えた周波数は、耳では聴こえませんが、存在しています。
ですから、天上界の音楽、天界の調べを想わせるような、妙なる音があったとしても、周波数が違うだけであり、それはあくまでも、相対世界のもの、という事になります。

絶対の静寂である絶対世界には、色も形も音も無く、唯一にして、絶対、至高の存在である、根本創造主の純粋意識のみが実在しています。
それを、大宇宙意識と呼んでもいいかも知れませんし、全知全能の知性、あるいは、無限定の気付き、と呼んでもいいかも知れません。

出雲大社、神在祭

本日11月16日から、出雲大社において、神在祭が始まります。
陰暦10月10日にあたる昨夜15日、記紀神話における国譲りの舞台となった、稲佐の浜にて神迎祭が執り行われました。

旧暦の10月は、神無月と言いますが、出雲においては、神在月と呼びます。
全国から八百万神々が出雲大社に集い、会議をすると言われています。

表の伊勢神宮と並んで、裏の出雲大社は、最も重要な働きを担っている御社であると考えられます。
出雲大社の御祭神である大国主大神は、全ての国々を治め、大いなる力に支えられ、国を治められます。
これで国が治まります。
国の治めの基本は出雲から始まります。
出雲大社の意味は神々を治める九十(こと)であり、神々の統率の意味があります。

伊勢神宮と出雲大社という、最も重要な働きを担う御社の式年遷宮が、奇しくも2013年に重なります。
2013年という年は、霊(ひ)ノ元・日本にとって、おそらく、歴史的大転換期になると思われます。

出雲大社、神迎祭

本日11月15日は、旧暦10月10日にあたります。
十は、神を表しますから、神が重なる目出度き日でもあります。
今夜は、明日からの、神在祭を前に、出雲大社では、神迎祭が、稲佐の浜にて執り行われます。
稲佐の浜は、記紀神話において、国譲りが行われた場所とされています。

私も、数年前に、神迎祭に参加させて頂いた事がありますが、何とも言えない雰囲気がありました。
稲佐の浜は、神迎祭が執り行われるのにピッタリの、独特の感じがあります。

表の伊勢神宮と並んで、裏の出雲大社は、最も大きな働きを担っておられる御社であると思われます。
旧暦の十月は、神無月と言いますが、出雲では、神在月と言います。
全国から、八百万神々が出雲に集うと言われています。
出雲大社の意味は、神々を治める事であり、神々の統率の意味があります。

自分の両親を自ら選んで生まれて来ている

人は皆、生まれる前に、自分の両親を自ら選んで生まれて来ています。
自分の人生の主体者・創造主である、自分の魂が、今回の人生で学び、体験し、魂を進化させるのに最適な父親と母親を自ら選んで生まれて来ています。

どんな人にとっても、その人の父親と母親は、その人にとって、最高の両親なのです。
何故なら、その人の魂が、魂を進化させるのに最適な両親として、自ら選んでいるからです。

この事が理解できて初めて、自分の父親と母親を、本当に愛し、認め、許せるようになるのかも知れません。
親が自分を生んだという感じで、受身で捉えていると、ともすれば、一人の人間としての、親の欠点や短所ばかりを見て不満を感じたりするかも知れません。

しかし、自分の魂が、魂を進化させる場として、今回の人生を創造するにあたって、最も魂を進化させられる環境として、自分の両親の元に生まれて来たのだと自覚出来れば、両親に対する見方がまるで変わってしまうかも知れません。

生んで育てて頂いたという、両親への感謝だけではなく、自分の両親は、自分の人生において、魂を最も進化させてくれる二大登場人物の役割を演じて下さっているのであり、自分にとって、最高の父親と母親を自ら選んで生まれて来たのだと考えると、自分の両親への感謝の思いが、一層深まると思います。

自分の父親と母親は、自分にとって、最高にユニークな、かけがえのない存在であり、魂を進化させる上で、完璧な両親だと思うと、本当に、ありがたく感じられてきます。
私達は、自分の両親を自ら選んで生まれて来たのです。

魂の記憶を蘇らせる

神の分霊(わけみたま)である我が魂、本源の我であり、真我とも言える我が魂こそが、我が人生の主体者であり、創造主でもあります。
我が人生の創造主である、我が魂は、我が人生の全てを知っています。
なぜなら、我が魂が、我が人生の全てを創造したからです。

時間というものは本当は無く、過去も未来も今同時に存在していますので、我が人生の未来も既に今同時に存在しており、もちろん、我が魂は、死に至るまでの全てを知り尽くしています。

魂は、自分の中の奥深くに眠っていますが、ある時期が来ると、長い眠りから徐々に覚めて来るようになります。
これに伴って、魂の記憶とでも呼ぶべきものも、徐々に蘇って来るようになります。

魂の記憶を蘇らせる事が出来れば、自分がどういう行動を取ればいいか、とか、自分の未来についても、何となく感じられるようになって来ると思います。
そうなると、自分自身の事は、自分自身に聞くのが一番いい、という事が段々分かって来ると思います。

自分自身の事を、100%知り尽くしているのは、我が魂なので、自分の事は、我が魂に聞くのが一番正確で、確実だと言えます。
逆に、自分自身の事を、他の人に聞いてみたところで、本当は意味が無いとも言えます。

何故なら、一人一人の事を、本当に知っているのは、その人の魂だからです。
ですから、霊能者と言われる人や、偉い先生と言われる人に聞いてみたところで、それらの人達が、本当の意味で、私自身より私の事が分かる訳ではありません。
霊能者と言われる人や、偉い先生と言われる人達も、本当に知る事が出来るのは、その人自身の事だけなのです。

確かに、表面意識では、自分自身の事は分からないので、どう生きたらいいか分からなかったり、選択に迷ったり、自分の未来に不安を感じたりするかも知れません。
そういう時には、自分よりも、霊能者や有名な先生の方が、正しい答えを知っているような気がするかも知れません。
しかし、残念ながら、私自身の事を本当に知っているのは、私自身のみです。
本源の我、真我である我が魂こそが、私自身の事を100%知っているという事なのです。

自分自身の事に関しては、判断を他の人に預けないという事が大切になります。
ベクトルの方向は、自分自身の事は自分自身に聞く、という方向です。
漠然とはしていても、自分がどうしたらいいかは、何となく、ある感覚のようなもので感じられるようになって来るかも知れません。

魂の記憶を蘇らせる時、自分自身に関する全ての答えは、自分自身の中にある事を想い出す事になります。
そしてそれは、自分の人生の主体性を取り戻す事でもあると言えるかも知れません。

心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う

私達は、魂の進化と呼ばれる、意識の旅をしています。
そして、その旅とは、心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失うという旅であり、心の純化、意識の福化の旅であると言えます。

人は、とかく、夢の実現や、理想の人生という事にフォーカスし過ぎる傾向がありますが、魂の進化の旅においては、そこには答えはありません。
天の仕組みとして、創った心は失われ、創った思いは失われるというようになっています。
何故なら、そうやって魂は、進化・成長して行くからです。

人はともすれば、何かが手に入れば幸福になれるのに、とか、あれさえ実現出来たら本当の幸福が手に入ると考えたりします。
ところが、仮にそれらの事柄が実現したとしても、真の幸福を得られるわけではありません。
また心は満たされなくなり、次の夢や目標を探し始めます。
そして、これは限りがない事なので、仮に巨万の富を得たり、権勢を極めたとしても、それらは永続するものではなく、真の幸福を得られるわけではありません。

昔から、栄枯盛衰、諸行無常と言われてきたとおりであり、驕れる者も久しからずである事を、必ずや思い知らされる事になります。
富や権力を得れば得る程、というより、富や権力を手中にして初めて、それらは真の幸福を齎すわけではないという事を、最終的には、天に思い知らされる事になります。

また、富や権力に限らず、幸福というものを、何か特定の形に拘ったりしていると、その思いもやはり、必ず外される事になります。
よく、ウインブルドンで優勝したり、ノーベル賞を受賞した人が、人生最大の目標を実現したとたんに、猛烈な虚無感に襲われ、死にたくなる、というような話を耳にする事があるかと思います。

ある特定の何かが手に入れば真の幸福が得られると思っていても、その思いは必ず、外される事になります。
これは、仕組みなのです。
そうやって、心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失うという旅を続けながら、魂は、心を無地透明にして、いずこにもとらわれない心、言わば、タイタン(巨人)のような心になる旅をしているわけなのです。

何かが手に入ろうと入るまいと、自分がどんな状態にあろうとも、その状態を遊んで幸福を感じていられる心になるところに答えがあるわけなのです。

ですから、自分が創った心は必ず失われ、自分が創った思いは必ず失われる仕組みになっていますから、そうやって、旅のプロセスを楽しんで行く事が大切になります。

心と感じるままに、心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失いながら、魂を進化させて行く旅が、私達の人生であると言ってもいいかも知れません。

日向・太陽の道ーどこまでも行こう

本日は、11月11日です。
1が四つ重なる日であり、気持ちを一新させてくれる日であるとも言えます。

本日の朝、快晴の空の下、太陽は明るく輝き、頂上に薄っすらと雪化粧をした富士山が、美しい雄姿を見せてくれていました。
とても清々しい朝を迎える事が出来、気持ちが一新されたような感じがしました。

九州の宮崎県に、神武東征の地と言われている、日向という場所があります。
この日向という言葉は、単にある特定の場所を表しているだけではなく、もっと内的な、心の位置のようなものを表現した言葉でもあります。

古事記には、歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産するまでの内的なプロセスが表されています。

日向という言葉も、日に向う、太陽に向う、ひたむきな心の位置のようなものを表現しています。
カムヤマトイワレビコが、日向の地から東征をして、大和の国を治め、初代天皇である神武天皇が誕生したと、古事記に書かれています。
神武天皇という言葉も、初代天皇となった、ある特定の人物だけを表す言葉ではなく、私達人間一人一人のことをも表しています。
私達人間一人一人が、自分の中にある、内なる神性(愛と力)を顕現して、神のような人として出産した状態を、神武天皇、神武誕生という言葉で表現しています。

本日、11月11日の朝、明るく輝く太陽の下、薄っすらと雪化粧をして美しく輝く霊峰・富士の雄姿を見た時、新たな気持ちで、太陽に向ってひたむきに生きて行こうと決意を新たにし、CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録曲の「どこまでも行こう」を想い出しました。

古来、日本人は、太陽をお天道様と崇めて、日の光に向って懸命に生きて来ました。
植物が、太陽に向ってひたすら伸びて行くように、天の聖なる明るい光に向ってどこまでも進んでゆくひたむきな心の位置を歌った曲です。
ぜひ聴いてみて頂けると幸いです。

伊豆國霊社・来宮神社

私がよく訪れる神社が、熱海にある、伊豆國霊社・来宮神社です。
「だいこくさん」として知られていますが、御祭神は、大己貴命こと大黒様、五十猛命、日本武命です。

ここの御神木は、樹齢二千年の大楠です。
国の天然記念物に指定されており、全国二位の巨樹とも言われています。
江戸末期までは、「木宮明神」と呼ばれていたようで、「木」に宿る神々をお祀りする神社として崇敬を集めていたようです。

本殿にご挨拶してから、その奥にある御神木の所に行き、しばらくそこの空間に佇んでいると、いつも不思議な静けさと安らぎを感じます。
「木」に宿る「気」が、波動として周囲の空間に満ち満ちているような感じがします。
最近、パワースポットとして、来宮神社も人気が高いようです。

来宮神社は、いつ行っても、清々しい感じがする空間です。
樹齢二千年の大楠の近くのベンチに腰掛けて、晴れた天気の良い日に、しばし風に吹かれていると、何とも言えず、いい感じがします。

宇宙はメッセージだらけ

自分が映す空間からは、常に降るようなメッセージがやって来ています。
宇宙は、メッセージだらけだと言ってもよいかも知れません。

メッセージは、ありとあらゆる形でやって来ていますので、何気なく思える事の中にも、宇宙からのメッセージはたくさんあります。
様々な出来事はもとより、何気ない人との会話や、耳に入って来る話し声や音、目に映る文章や人や物、今すれ違った車のナンバーに至るまで、ありとあらゆるものがメッセージだと言っても過言ではないくらいです。

それがメッセージだとはっきり分かる事もありますが、分からなくても、常に空間からは降るようなメッセージが、自分に対して注がれていますので、この現実世界はメッセージだらけだという事を、常に頭の片隅に入れておくとよいかも知れません。

宇宙はメッセージだらけであり、目に映る全てはメッセージだと言ってもいいかも知れません。

我が心救うは、我が心のみ

自分の心が苦しい時、誰かに救ってほしい、あるいは、誰かが自分を救ってくれるのではないか、とか、何処かの聖者や覚者であれば、自分を救ってくれるかも知れない、などという期待を抱いたりすることがあるかも知れません。

しかし、結論から先に言うと、誰も自分の心を救ってくれる者などいません。
我が心救うは、我が心のみです。
自分自身だけが、我が心を救えるのであり、自分以外の誰も、我が心を救える者は存在しません。

一人一人が自分自身の救い主であり、自分自身だけが、自分の救い主になれるのであり、自分以外の誰も、自分の救い主になることは出来ないという事なのです。

同様に、自分が誰か他の人を、本当の意味で救うという事は出来ないとも言えます。
人が人を救えるというのは、錯覚です。
人に出来るのは、自分自身を救う事のみであると言えます。
自分に出来るのは、我が心を救う事のみです。

そして、我が心を救えた時、その光が周囲に放射して、結果的に、世を照らす光として、人々をサポートする事になるだけなのです。
徒に自分以外の者にばかり意識を向けようとせず、自分の内面に意識を向けて、自分自身を救う事に専念する事が大切だと思います。

我が心救うは、我が心のみです。そして、人を救うは錯覚です。
どこまでも、自分の内面に光を当てていくと、自分の空間が輝きます。

大いなる和の心「大和心」

今、私達日本人の遺伝子の中に眠る、大和心が目覚め、蘇り、花開く時を迎えています。
大いなる和の心「大和心」こそが、これからの新しい地球を開き、世界平和を実現させていくものだからです。
地球の新たな黄金文明、花咲く都は、大和の国・日本から始まります。

そして、新しい地球を開く、この大和心は、一朝一夕に出来たものではなく、数千年の、長い歳月をかけて、天の計画として、準備され、熟成されて来たものなのです。

これには、日本という国の地理的な位置が深く密接に関係しています。
日出る国・日本は、東洋の東の端にある島国ですが、大陸にも割りと近い為、朝鮮半島などを経由して、大陸から、様々なものを受け入れ、取り込みながら、何千年にも亘って、独自の文化を育んで来ました。

東洋の東端にある島国としての独自性を維持しながら、大陸から様々なものを取り込み、受け入れ、進取の精神を培って来ました。
独自性を維持しながら、進取の精神に富んで、良いものを積極的に取り入れ受け入れていく中で、世界に類を見ない独自の文化を形成してきました。

大いなる和の心「大和心」も、そういう中で、数千年の歳月をかけて、熟成されて来たものなのです。

日本には昔、長く続いた縄文時代がありました。縄文文明は、ほとんど争いが無い文明であったと推測されているようです。
弥生時代に入ると、大陸から様々な人や物が入って来るようになり、異質なものを取り込み、受け入れながら、元々あった独自のものとブレンド・融合させつつ、奥行きの深い文化を育みながら、今日に至りました。

仏教が最初に入って来た時には、仏教導入をめぐって、仏教を取り入れようとする蘇我氏と、日本古来からの神道を守ろうとする物部氏という、二大豪族の間で、国を二分するような戦いなどを経験した後に、その後、仏教を鎮護国家の基盤とする時代を迎えたりし、神仏習合(神仏混淆)が、明治の神仏分離令の時まで、長く続いたりしました。

徳川時代の、長く続いた鎖国の後、開国して明治に入ると、西洋文明という、異質なものを積極的に取り入れ、欧米に追いつき追い越せという感じで、わずか短期間で、日清・日露戦争に勝利するなど、欧米列強の仲間入りをするまでの躍進ぶりを発揮したりしました。

広島と長崎に相次いで原爆を投下され、太平洋戦争に敗れて終戦を迎えると、戦争中は鬼畜米英と言って戦っていた相手国アメリカを受け入れ、一転して、ギブミーチョコという感じで、積極的にアメリカの工業技術・文化を取り入れ、学び、敗戦の焦土の中から、わずか半世紀足らずで、アメリカに次ぐ世界第二の経済大国に発展しました。
日本人は、原爆を投下されたアメリカに対して、強く憎しみを抱くという感じでもなく、アメリカを受け入れ、技術や文化などを積極的に取り入れて、たくましく生きて来ました。

日本人が、原爆を投下されたアメリカ人に対して、強い憎しみを抱いていないということが、外国人などの目には、とても不思議に映ったりするようです。
日本人は、アメリカを強く憎むのではなく、アメリカの良い点を積極的に取り入れ、技術や文化を吸収して来たような感じがします。

これは、数百年、数千年にも亘って続いている宗教紛争、民族紛争などが多数存在する、この世界にあって、類稀なことなのかも知れません。

21世紀の新たな地球を開いていく私達日本人は、その役割を果たせるように、約3000年位の長い歳月を掛けて、その資質を熟成させて来ました。
一人一人はその事を意識出来なくとも、天の計画として必要なプロセスを経験し、私達日本人の遺伝子の中にその資質がちゃんと入っています。

今の物質文明が行き詰まり、人々が戦い・争いにも疲れ果てた時、日本人の持つ資質、大和心が世界を導き、世界に必要とされる時代が訪れる筈です。

我の解放のプログラム

自分の目に映る現実世界とは、自分の意識が創り出した世界であり、全て心の内、言わば、幻の世界です。
そこに存在している全ての人、事、ものは、ただ「我の解放」へのプログラムとして存在しているだけです。
我を解放し、宇宙へと帰るプログラムとして、存在してくれているだけだという事になります。

ですから、自分が映す世界にとらわれ過ぎず、心を傾け過ぎない事が大切になります。
何かに強くとらわれたり、執着したりするところに答えがあるわけではなく、心を無地透明にして、いずこにもとらわれない心になるところに答えがあるからです。

自分というものにもあまりとらわれ過ぎない事が大切になります。
自分自身を宇宙へと解き放って行く、「我の解放」への旅をしているだけだからです。

多くの人達は、確固たる客観的な現実世界というものがあって、その中に、自分という小さな存在が居て、世界に翻弄されながら、もがき苦しんで生きていると思っているかも知れません。

しかし、本当は、自分の目に映る現実世界とは、自分の心を投影した、自分の内面の世界であり、そこにはただ、「我の解放」へのプログラムが存在しているだけなのです。

そして、自分というものも、本当は居るわけではなく、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点であり、一つの視点である事が分かれば、我を解放できるかも知れません。

日本人の持つ柔軟性・寛容さ

私達日本人は、世界でも稀に見る、柔軟性と寛容さを持った民族であると言えます。
大いなる和の心である大和心を持つ大和民族ならではの、柔軟性と寛容さを身に着けていると言ってもいいかも知れません。

私達日本人は、初詣は神社に行き、人が亡くなるとお葬式はお寺で行い、年末には、クリスチャンでもないのに、クリスマスを祝い、イエス・キリストの誕生を祝っています。
何の抵抗もなく、神道、仏教、キリスト教という、それぞれ違う宗教を生活の中に取り入れながら生きており、多くの人達は、その事を意識すらしていないかも知れません。
これは、外国人の目から見ると、理解しがたいような、不思議な感じがする行動様式かも知れません。

宗教というものに対してまるで無節操と言ってもいいような、この日本人の特性こそが、私達日本人の遺伝子の中にある大和心の顕れでもあり、これからの地球・世界を導くと共に、世界に必要とされていく特性でもあるのです。
日本人が持つ大和心こそが、世界平和を実現させる仕組みになっています。

宗教に関して言えば、特に私が感嘆するのは、明治時代の神仏分離令が出るまで行われていた、神仏習合(神仏混淆)の事です。

神の宗教である神道と、無神論の宗教である仏教が、長年一つ屋根の下で、仲良く精進に励んでいたというのは、本当に、驚嘆すべき事なのかも知れません。
中東に限らず、宗教同士の争いが後を絶たない諸外国から見れば、考えられないような事なのかも知れません。

日本人が持つ、この懐の深さというのは、本当にすごいと思います。
しかし、この懐の深さも、一朝一夕に出来たものではなく、長い年月に亘って、天の計画として培われて来た、養われて来たものなのです。

神道と仏教という事で言えば、最初に仏教が入って来た時、仏教導入を進めようとする蘇我氏と、神道を守ろうとする物部氏という、二大豪族の間で戦いが行われました。争いはその後も続きました。
仏教導入について言えば、最初からいきなり国全体が受け入れた訳ではなく、仏教導入をめぐって国が二分するような戦い・争いなどを経た後に、やがて、神仏習合(神仏混淆)の時代を迎えている訳です。

仏教導入や宗教の事だけではなく、現代に生きる日本人が持つ柔軟性・寛容さという特性は、人間の歴史で言えば、約3000年位の長い年月をかけて、熟成されて来たものなのです。
それは、神武三千年の神計りという事にもつながるのですが、21世紀の地球の新たな黄金文明を開いていく役割を担っている私達日本人の中にある大和心は、数千年の歳月を掛けて、神界計画として、熟成されて来たという事なのです。

その事については、別の機会にまた改めて詳しく書きたいと思いますが、私達日本人は、遺伝子の中に眠る大和心を想い出し、蘇らせ、花開かせる時を迎えている事を、自覚する必要があると思います。
宗教が違うというだけで、日常茶飯事のように争いが絶えない、この混迷する世界にあって、大和心を持つ私達日本人こそが、世界平和を実現させる中心的役割を担っているのだという事を想い出す事が大切になります。

一人一人が自分の宇宙(現実世界)の創造主

自分が見ている現実世界とは、自分の意識を映し出した鏡のような世界であり、そこにあるのは、あくまでも、自分の内面の世界、インナーワールドです。
ですから、自分が見ている現実世界というのは、自分の唯一の世界だということになります。
どこまでも行っても、あくまでも主観の世界です。

Aさんという人は、Aさんの意識を映し出した、Aさんの内面の世界を見ているのであり、Aさんの唯一の世界を見ています。
同じように、Bさんは、Bさんの内面の世界を見ているのであり、Bさんの唯一の世界を見ています。
一人一人が見ている宇宙(現実世界)は、それぞれ違うのだということになります。

一人一人の意識が自分の宇宙を創り出しているのであり、一人一人が自分の現実世界というものの創造主であるとも言えます。

私達一人一人は、この大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つ一つの点であり、大宇宙に無数に存在する視点の中の一つ一つであるとも言えます。
一人一人が、無限の大宇宙の一つ一つの局面を表している、担当しているとも言えるかも知れません。

一人一人が、自分の心を投影した、内面の世界を見ているので、全てが主観の世界であり、客観的世界など、何処にも無いと言ってもいいかも知れません。

自分の意識が自分の宇宙を創り出しているのであり、自分が見ている現実世界とは、自分の心を投影した、自分の唯一の世界であり、あくまでも主観の世界なのだという事を、常に忘れない事が大切だと思います。


我一人の世界

自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した世界であり、自分の中にある心の心象風景を、あたかもスクリーンに映し出すが如く投影した世界です。
自分の中にある心の心象風景を、あたかも映画でも観るように、現実というスクリーンに映し出して見ているということになります。

自分の脳が画像処理した結果を映し出して見ている訳で、言わば、幻です。
確かだと思っている現実世界は何処にも無く、心の内の世界、インナーワールドです。
あくまでも自分の内面の世界が外に映し出されているだけなので、自分の他には本当は誰もいる訳ではなく、我一人の世界、ということになります。

自分の目に映る全てが自分自身だとも言えます。
全てが主観の世界であり、太陽も月も星も、宇宙の果てまで心の中の景色であり、客観的世界など何処にも無いとも言えます。

多くの人達は、確固たる確かな世界があり、それが現実世界だと考えているようです。
自分が居て、自分以外の者達が居ると考えているようです。
しかし本当は、確かだと思っている現実世界は何処にもありません。
自分の目に映る世界には、自分しかおらず、我一人の世界だというのが真相なのです。


あらゆる否定を無くする

私達は、あらゆる否定を無くする事を、天から求められています。
あらゆる否定を無くしていく事が、心の成長であり、魂の進化とも呼べるものなのです。

もし、神という表現を使うなら、この世に存在しているものは全て、神により創造されたものであり、そして、神により生かされています。
ですから、この世に存在している何かを否定したとしたら、それを創造し生命を与えている、神そのものを否定したのと同じ事になります。

また、森羅万象の全ても、神により営まれていますので、一切の出来事には必ず、神の意図・許可が入っています。
こんなことはありえない、あってはならないと、どんなに思えるような出来事であったとしても、神の許し無しには、何事であろうとも、絶対に起こる事は出来ません。
ですから、森羅万象の何かを否定したとしたら、それを営んでいる神そのものを否定したのと同じ事になります。

何故それがこの世に存在し生かされているのか、あるいは、何故そのような出来事が起きるのか、という本当の意味は、万物を創造し生かしている神にしか分からない事であり、私達人間の小さな頭では計り知れない事なので、分からない事は分からない事として認め、否定しない事が大切になります。

この世に存在するもの全てが、神の顕れなので、神の顕れを否定する事は、神そのものを否定する事と同じ事になります。

ある神示の中には、「全てを許せ。神が許しておるのに、そなた達が許せんというのはおかしい。」という、神の御言葉があります。
本当にその通りであり、神が許しているものを、私達が許せないというのは、自らの思い上がり、傲慢というものかも知れません。

そして、あらゆる否定の中でも最大の否定と言えるものが、私達の心の奥深くに眠る、自己否定という大蛇(おろち)です。
神・創造主としての本当の自分を否定し、自分というものを、小さき者・価値の無い者として貶めるという、自己否定というこの大蛇は、仕組みとして、私達一人一人の心の奥深くに仕掛けられています。

心理学的な表現を使えば、私達の潜在意識の中には、自己否定、自己嫌悪、自己懐疑、自己攻撃、自己憐憫、罪悪感、無価値感というような、幻想とも言える概念がたくさん蓄積されています。
私達は皆、多かれ少なかれ、自己否定という中毒にかかっています。

自分の存在そのものを、小さき者、価値の無い者として否定し、神の分霊(わけみたま)である我が魂が創造した自分の現実を、苦しい・いやだと否定して、あたかも自分が人生の被害者であるかのように感じています。

自己の内面を癒し、心の奥深くに閉じ込めた自らの本当の光・輝きを解き放つ事こそが求められており、それは言わば、心の岩戸開きと言ってもいいかも知れません。
自分の中にある心の岩戸を開いて、自分の中にある中心の光・天照大御神を岩戸の外に解き放つということです。

心の岩戸開きは、言わば、魂の出産とでも呼べるものなので、長い年月と、大変な陣痛(神通)を伴います。
一朝一夕に出来る事ではなく、苦労に苦労を重ねた末にようやく辿り着けるものなので、あらゆる否定を無くする、という事を常に心がけて、産道を歩んで行く事が大切になります。

最も大きな変化とは、最も静かな変化

拙書『永遠(とわ)の中今』より
★最も大きな変化とは、最も静かな変化

今、地球が大きく変わろうとしており、大変革の最中にある、地球が新たに生まれ変わろうとしている、というような事がよく言われているかと思います。

そして、そう思う人達の中には、大地震や火山の噴火といった天変地異、あるいは、最終戦争・ハルマゲドン、第三次世界大戦、資本主義崩壊、自然破壊、食糧危機、隕石や小惑星の衝突、など、いわゆる大事件・大変化が起きるということに大きな関心を抱いたり、心配したりしている人達も多く見受けられます。

確かに、それらの、大きなニュースになるような事柄も、大きな変化と言う事は出来るかと思います。
しかし、それらの事柄は、あくまでも大変化の一部にしか過ぎず、氷山の一角のようなものだと言えます。
氷山のように目に見える変化の下深く、水面下には、さらに大きな変化が目には見えなくとも存在しています。

最も大きな変化とは、最も静かな変化と言えるかも知れません。
それは、大事件・大ニュースのように派手な変化ではなく、深く静かに進行して、最後には根こそぎ全部新たに変えてしまうような、大きな大きな変化の波・うねりのようなものかも知れません。

私達が住む地球という惑星も、意識を持った一つの生命体であり、今起きている事は、地球という星そのものが、新たに生まれ変わろうとしているということであり、地球始まって以来とも言えるような大変化の時を迎えているという事になります。

そして、それは、単に、地球という一つの惑星の変化に留まらず、地球が属する太陽系や、さらには、天の川銀河全体にまで影響を与えるような、大変革の波が来ているようです。
地球の新たな誕生が起爆剤となって、太陽系はもとより、天の川銀河全体までが一段高い次元に上昇するような、それくらい大きな変革の波だと言えそうです。
宇宙規模の流れの中で、どうもそのような仕組みになっているようです。

ですから、たとえ目には見えなくても、太陽活動や、宇宙から地球に降り注がれるエネルギーの量、生命体としての地球の息吹などが静かに深く変化しており、それらが、私達に影響を与えています。

母なる大地である地球そのものが、大変革の最中にあって刻一刻と変わりつつあるので、地上に生きる全ての者達、私達人間を始め動物も植物も、あらゆるものがその波を受けて変化しつつあると言えます。

人によっては、心身の変化として感じたり、意識変革のエネルギーが高まっているのを感じたりするかも知れません。

今、地球という惑星そのものが新たな誕生を迎えつつあり、そこに生きる私達人類の意識も飛躍的進化を遂げて新たな誕生を迎える時なので、地球環境を始め、政治・経済、あらゆる事全てがそこに向って突き進んでおり、大変化の真っ只中にあると言えます。
そして、何よりも大きく変わるのは、私達人類の意識であり、全てはそこへと導かれて行きます。

様々な出来事や、大事件のような事柄も起きるかも知れませんが、それらの事柄ばかりに関心を持つ必要はないとも言えます。
大事件のような事柄が起きようと起きまいと、既に私達は、大変化の真っ只中に生きているのです。

最も大きな変化とは、最も静かな変化であり、それは今、深く静かに進行しており、最終的には、私達の意識を、今よりはるかに高い状態へと導かずにはおかないような、大きな大きな変革の波であり、その大変革とは、母なる星・地球の願いであると同時に、そこに生きる私達自身の願いでもあるのです。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

拙書『永遠(とわ)の中今』より


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