日本の新しい調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

大和富士ブログ|BLOG

2010年10月のアーカイブ

31 Entries

正式な結婚=結魂

出雲の八重垣神社の由緒書に、「正式な結婚」という言葉が書いてあります。
正式な結婚とは、八重垣神社の御祭神である、須佐ノ男命(スサノオノミコト)と櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)の結婚のことを表しています。

正式な結婚とは、魂の結び、すなわち「結魂」を意味しています。
正式な結婚により、魂の永遠の結びつきが約束されます。
結婚の成就とは、魂の結びつきを表しています。

動物の結婚とは訳が違う、正式な結婚であり、誰もがこの結魂、すなわち、魂の永遠の結びつきを望むのですが、現実にそれを得ている人は少ないようです。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉(よみ)の国から黄泉帰って(蘇って)から、筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)にて禊祓えをされた時、次々に神様がお生まれになり、一番最後にお生まれになったのが、三貴子と言われる、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐ノ男命(スサノオノミコト)です。

須佐ノ男命は、元々ものすごく高貴な生まれでありながら、母が恋しいと泣き叫んでばかりいて、父・伊邪那岐命に追放されたり、乱暴狼藉を働き、姉・天照大御神の岩戸閉めの責任を取らされて高天原から追放されたりと、自らの本当の力を閉じ込めたまま自分自身を低き所に貶めるような体験を重ねた後に、八俣の大蛇(おろち)を退治して、中から出て来た三種の神器の一つである草薙の剣を天照大御神に献上し、晴れてめでたく、櫛稲田姫命と正式な結婚をされました。

須佐ノ男命は、「我が心すがすがし」と仰って、須賀という所に宮をお造りになり、櫛稲田姫命とお住まいになられました。
この時、須佐ノ男命が詠まれた歌が、我が国最初の和歌と言われています。
 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

古事記には単に歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産する内的なプロセスが書かれています。
須佐ノ男命とは、神話に登場する神とか、古代においてそのモデルとなった特定の人物とかだけを指すのではなく、実は、私達一人一人のことでもあります。

須佐ノ男命とは、私達一人一人のことでもあり、元々ものすごく高貴な生まれ(本質は神)でありながら、自らの光を閉じ込めたまま自分自身を低き所に貶めるという体験を重ねた末に、八俣の大蛇(おろち)に象徴されている、否定的想念を退治して自らの本当の力・輝きを取り戻す、という仕組みになっています。

須佐ノ男命の物語には、とても深い意味が秘められていますので、折を見て、少しずつ書いていきたいと思います。

日本の国旗・日の丸が象徴するもの

日本の国旗である日の丸には、二元性が統合された姿が象徴されています。
そしてそれは、霊(ひ)ノ元・日本の象徴、霊峰富士が持つ、二元性を統合させる働きが象徴されていると言ってもいいかも知れません。

日章旗である日の丸は、白地赤丸で表されています。
中心の赤丸を赤玉と言い、白地の部分を白玉と言います。

赤玉は、神道の一霊四魂で言うと、和魂(幸魂と奇魂)にあたります。
女性原理である、愛を表しています。
一方、白玉は、一霊四魂の荒魂にあたります。
男性原理である、力を象徴しています。
神の持つ二つの働きである、愛(女性原理)と力(男性原理)が、赤玉と白玉で表されており、二つが統合された姿、すなわち、力に裏打ちされた愛が、日の丸に象徴されています。

赤玉はもちろん、太陽の象徴でもあり、神道の御神名で言うと、天照大御神(アマテラスオオミカミ)にあたります。
これに対して、白玉に象徴されるのは月であり、御神名で言うと、天照大御神と同じ三貴子の中の月読命(ツクヨミノミコト)にあたります。
太陽と月、日月、昼と夜、光と闇を統合した姿が、日の丸に象徴されています。

日の丸にはまた、源氏と平家のことも象徴されています。
源氏はミナモトの氏と書き、平家はイワト(平=一八十)の家と書きますが、源氏と平家の源平合戦とは、単に日本のある時代にあった、二大勢力による争いと言ったようなものではありません。
霊(ひ)ノ元・日本における、二元性の対立というものを、型として演じる役割を担ったのが、源氏と平家であり、源平合戦でした。
二元性の対立という型は、日本においては、源氏と平家で表されており、地球規模・世界全体の中では、スメラである日本と、イシヤであるユダヤで表されています。

小学校の運動会で、赤組と白組の紅白に分かれて争うのは、源平合戦がルーツだとも言われており、平家は赤旗、源氏は白旗で戦いました。
平家は官軍を名乗って赤地金丸を使い、源氏はそれに対抗して、白地赤丸を使いました。
源氏が勝利を収めて日本統一を果たしたことにより、その後、日本を治める歴代の将軍達は、源氏と同じ白地赤丸を用いるようになったとも言われています。
日の丸においては、赤玉が平家を、白玉が源氏を象徴しています。

昔から、紅白は、おめでたいとされていますが、紅白を合わせ持つ働きが日の丸に象徴されており、赤と白を混ぜ合わせると、ピンク、つまり、桜色になります。
富士と桜は二つで一つであり、霊(ひ)ノ元・日本の象徴である霊峰富士と、その守り神とされる、木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)の働きが、日の丸には象徴されています。
富士も桜も、二元性が統合された美しい姿を表しており、それは、言ってみれば、大いなる和の心である大和心の象徴と言ってもいいかも知れません。

日の丸には、大和心を持った私達大和民族が住む、日出る神国・日本の真の姿というものが、見事に表現されているように思います。
古来、日本人は、太陽をお日様・お天道様と崇めて、太陽を崇拝しながら、懸命に生きて来ましたが、日本人の中にある太陽信仰が、よく表されていると感じます。

また、十七条憲法において、「和を以って貴しとなす」と定めた聖徳太子が、隋の煬帝に送った手紙の有名な一節、「日出る処の天子・・・」という、我が国を表す表現や、飛鳥時代に、倭国から、日ノ本を意味する日本という国名に変えたと言われていることなど、大和心を持った日出る神国・日本を表す国旗としては、他には考えられないくらい、日の丸は見事な国旗であると思います。

21世紀に人類の意識が飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える時、その中心的役割を果たすのは、大和心を持った、私達日本人なのです。
地球の新たな黄金文明、花咲く都は、ここ日本から始まります。
地球が大変革の最中にある今という時代において、世界を導く希望の光として、日の丸・日本が、その本領を発揮していく時代が、これから訪れようとしています。

今を良しとする力、全てを完として捉える力

私達は、今を良しとする力、全てを完として捉える力を、常に天から求められていると言えます。
今を良しとする力、全てを完として捉える力が常に試されていると言ってもいいかも知れません。

私達人間はともすれば、自分の置かれている現実に不平不満を感じたり、世の中や社会というものにも、矛盾や不満のようなものを感じたりしがちだと思います。
自分自身のことを、不幸・不運と感じたり、この現実世界も、美しくないと感じたりしてしまいます。
そして、そういう思いは、全てを完として捉え切れないところから来ているとも言えるかも知れません。

今、全てが完璧な状態にあり、全てが完全なのだと信じ切れれば、あまり余計な思いを感じなくてもよくなるかも知れません。
以前書きましたが、この大宇宙は全て完全な世界であり、そこには何一つ間違いというものが存在していません。
全ては、唯一にして絶対、至高の存在である、根本創造主により営まれており、全てが根本創造主の光の中にあり、全ては、その瞬間瞬間、常に完璧な状態にあります。

そして、大宇宙に無数にある中の一つの座標軸である自分自身もまた、常に完璧な状態に置かれています。
寸分の狂いもなく、私達は常に、自分がいるべき所にいます。
自分が最も成長できる、最適・最善の場所に常に存在しています。

神の分霊(わけみたま)とも言える、本源の我である我が魂が望んだ、創造したとおりの位置に、常に存在しています。
大宇宙の根本創造主の目、そして、その分霊(わけみたま)である我が魂の目から見れば、何一つ矛盾も間違いもなく、常に完璧な場所、最適・最善な場所に自分自身は存在しています。

魂の目的は、魂を進化・成長させることだけなので、魂は常に進化として最短距離を突き進んでおり、私達は常に、魂を最も進化・成長させる場所に、完璧に存在しています。
光輝く魂になることを求めて、進化としての最短距離を突き進んでいる、本源の我である我が魂の豊かさ・輝きを信じきれるか、ということが問われています。
そして、全ての源である大宇宙、唯一にして絶対、至高の存在である根本創造主を信じきれるか、ということが問われています。

いついかなる時、例え自分がどんな状況に置かれていようとも、本源の我である我が魂が豊かであることを信じきれるか、大宇宙が豊かであることを信じきれるか、ということが問われたゲームであるとも言えます。
今を良しとする力、全てを完として捉える力が常に問われたゲームであるとも言えます。


世界の聖地にある聖火ー聖なる火の元・日本

世界の代表的な聖地・パワースポットと呼ばれる場所の中には、霊的な火、聖火のようなものが、どうやら灯っているようです。
物理的な火ではありませんが、ある霊的な火のようなものが存在しているようです。

そして、それらの聖火は、地球の新たな誕生と密接に関わっており、しかるべき時に、しかるべき役割の人達によって、日本に運ばれ、納められることになっているようです。
物理的な火を誰かが運ぶということではもちろんないので、地球レベルの神事・御神業に、そのお役目の者達が使われ、その聖なる霊的な火を受け取って、日本に運び納めるという事が必要になるようです。
それに関わった人達が、必ずしも自分のお役目に気付くかどうかは分かりませんが、とにかく、ご縁のある者達によって、世界の聖地に灯る霊的な火が、日本の元へと集められるようです。

世界の雛形である日本は、ヒノモトと呼ばれますが、ヒノモトとは、霊(ひ)ノ元であり、日ノ元であると同時に、火ノ元でもあるようです。
地球が新たに生まれ変わろうとする21世紀の今、世界の主な聖地・パワースポットと呼ばれる場所の中の何箇所かに灯っている霊的な聖火が、しかるべき時、しかるべき者達によって、火ノ元・日本に全部集められる仕組みになっているようです。

そして、地球の新たな誕生に関わっている、世界中の霊的な聖火が全部日本に集められた時、日出る神国・日本が本格的に動き出すことになるようです。
言わば、神国・日本という龍体が本格活動を開始出来るようになると言えるのかも知れません。

聖火の中には、既に日本に運び納められたものもありますが、これから集まって来るものもあり、特に中東のある大聖地に灯る霊的な聖火が日本に運び納められることには、大変大きな意味があるようです。


音によって癒しが起こる

音によって癒しが起こります。音には、とても大きな癒しの効果があると言えます。
音楽は、音を楽しむと書きますが、音楽には、聴く者を楽しませながら、大きな癒しをもたらす力が秘められているということになります。

この物理的大宇宙に存在するものには全て、波動があり、固有の周波数を持っています。
例えば、私達の体一つとってみても、胃には胃、腸には腸の固有の周波数があるのですが、本来の状態にない時には、違う周波数を出しているので、楽器で言えば、チューニングが合っていない状態、不調和な状態になっていると言えます。
そして、人間の脳も、本来の状態にない時には、様々な心身の不調となって表れますが、脳にいい刺激を与えて本来の周波数に近づける事によって、人間が本来持っている力を蘇らせる事が出来ると考えられます。
音によって脳を刺激するのは、その最も効果的な方法の一つであると思われます。

音楽には様々な音楽がありますが、周波数の高い音楽には、とても大きな癒しの力が秘められていると言えます。
そして、それは単に、ヒーリングやリラクゼーションというような枠を超えて、脳に変革をもたらし、意識を変容させる力をも秘めていると言ってもいいかも知れません。
人間が本来あるべき状態に近づけてくれる力が、周波数の高い音楽にはあると言えそうです。

音が脳に与える影響は、かなり大きいと考えられ、その影響力には計り知れないものがあると思われます。
音には音霊(おとだま)が入っていますので、音楽には、音霊(おとだま)の力が秘められています。
そして、言葉には、言霊(ことだま)が入っていますので、音楽でも歌の場合は、音霊(おとだま)と言霊(ことだま)の両方の力を合わせ持っており、とても大きな力を秘めているということになります。

そして、歌というのは、人間の肉声によって歌われます。
人間の肉声こそは、実は、あらゆる楽器の中で、最高の楽器であると言えます。
生身の人間が、自分の肉体を楽器として奏でる肉声という楽器には、癒しの力という点において、ピアノやバイオリンはもとより、他のどんな楽器も敵わないと言えます。

例え世界一のピアニストやバイオリニストが、世界一の名器を使って、世界一の演奏をしたとしても、癒しの効果という点において、世界一の歌手が奏でる歌声という楽器の演奏を超えることは出来ないと言えます。

楽器の場合は、例えそれがどんなに素晴らしい世界一の名器だとしても、音自体を出すのは、あくまでも物質です。
ところが、歌声という楽器の場合は、音自体を出すのが、生身の人間なので、人間が本来持っている癒しの力というものが、そのままストレートに周波数となって発信されます。

私達人間には、本来、自分自身を癒すだけではなく、他の人をも癒す力が一人一人に与えられています。
昔は、病気治療の事を手当てと言いましたが、患部に手を当てる事によって、自分の体はもとより、他の人の体をも癒す力が一人一人に内在しています。

手だけではなく、人間の肉声にも、大きな癒しの力が秘められていますので、それが歌声として使われた場合は、歌が持つ言霊の力と音霊の力にプラスして、人間の中に内在する癒しの力も加わりますので、本当に大きな癒しと変容をもたらす事も可能になります。
そして、世界に類を見ない独特の言語であり、最も言霊の力が強いとも言われる日本語の歌には、さらに大きな力が秘められていると言えます。

大和富士の音楽は、21世紀に人類の意識が飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える時、その中心的役割を果たす日本人の霊性が蘇り花開くよう、天より与えられた神響きの音楽です。
日本の新しい調べであり、天岩戸開きの祝いの神楽歌とも呼べる音楽です。

私達日本人の遺伝子の中に眠る大和心が目覚め、蘇り、花開くような言霊と音霊が秘められています。
そして、私達人間一人一人の中にある神の本質である神性、愛(女性原理)と力(男性原理)を想い出し、蘇らせる為の音楽でもあります。

楽しみながら繰り返し聴いていると、地球が新しく生まれ変わろうとする21世紀の今この時、日本人・大和民族として生まれて来た、魂の記憶のようなものが、徐々に蘇って来る感覚を覚えるかも知れません。

そして、単に聴くだけではなく、楽しく歌ったり、さらには踊ったりすると、さらに高い効果が得られると思います。
自分だけではなく、仲間達と共に、楽しく歌ったり踊ったりすると、さらに高い効果が得られるとともに、大いなる和の心である、大和心のハーモニーが、周波数となって周りに拡がって行くことでしょう。
大和心のハーモニーこそが、これからの日本を癒し、地球・世界を癒して行く原動力になると思います。

原因があって結果があるというより、原因は結果により選ばれている

多くの人達は、原因があって結果がある、というふうに、何の疑いもなく単純に考えているのではないかと思われます。
しかし、本当は、原因があって結果があるというより、原因は結果によって選ばれている、と言ったほうが真実に近いと言えます。

多くの人達が、原因があって結果がある、と思い込んでいる背後には、時間が過去→現在→未来というふうに流れている、という概念が無意識のうちに入っているからではないかと思います。
過去があって現在があり、原因があって結果がある、というふうに思い込んでいるのではないかと考えられます。

以前書きましたが、時間とは幻想であり、本当は時間は存在していません。
「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき「今この時」しか実在しておらず、過去も未来も、今同時に存在しています。
時間も本当は流れているわけではないのですが、敢えて時間の流れという表現をするのであれば、時間の流れとは、多くの人が考えている、過去→現在→未来という流れではなく、未来→現在→過去という流れになります。

未来は既に存在しており、そこに至るプロセスとして、現在に向って様々な出来事が起こってきていると考えればよいのではないかと思います。
ある結果と言われるものを得る為に、その原因となるものが創り出されているわけです。
順番が逆であり、原因があって結果があるというより、ある結果を得る為に、その原因となるものが創造されているわけです。

私達の人生も同じことなので、白紙の状態で生まれて来て、偶然の積み重ねによって、人生が形成されて行くように一見思えます。
過去があって現在があり、原因があって結果があるように見えるかも知れません。

しかし、未来は既に今同時に存在していますので、生まれて来た時点で既に人生は決まっており、その通りに人生が展開しているだけなのです。
ある状況(結果)を得る為に、その元となる状況(原因)が創造されるのであり、その連続が私達の人生でもあります。

もし、ある人が、何か偉業を成し遂げたとしたら、偶然生きて来た結果、偶々何か偉業を成し遂げることになったわけではなく、偉業を成し遂げることは生まれる前から決まっており、当人には分からなくても、将来偉業を成し遂げる為に必要な経験を、プロセスとして必ず積み重ねています。

そして、平凡に生きる普通の人達の人生においても、全く同じ事が言えます。
ある状況(結果)を得る為に、その元となる状況(原因)が創造されているのです。
結果というものがまず存在しているからこそ、その元となる原因を創り出す事が出来るのです。

時間というものが、過去→現在→未来ではなく、未来→現在→過去という流れでやって来ているとイメージ出来れば、原因があって結果があるというより、原因は結果により選ばれているということが理解出来るのではないかと思います。

天の大いなる意志に自己を明け渡す

自分が大きく変わり、自分の器が大きくなる時期があります。
そういう時には、天の大いなる意志に自己を明け渡す、という気持ちを持つことが、特に大切になります。

大変とは、大きく変わると書きますが、大変だから大きく変われる訳であり、逆に言えば、大変でなければ大きくは変われない、とも言えるかも知れません。
自分が大きく変わり、器が大きくなる時には、それまでの自分の小さな枠を外さざるを得ないような仕組みが働きます。
自分がどんなにそれまでの枠にしがみ付き、それを守りたいと思っても、小さな枠を手放さざるを得ないような状況が創られていきます。

そして、そういう時こそ、自分の古い殻を脱ぎ捨てるチャンスが到来している時期なので、徒に自分を守ろうとせず、覚悟を決めて、天の大いなる意志に自己を明け渡す、という気持ちを持つことが大切になります。

今、人類の意識が飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える時期が到来しています。
そして、その中心的役割を果たす私達日本人は、世界に先駆けて、大きく変わるよう天から求められており、天意が発動して、これから本格的に、そのような状況へと導かれて行くと思います。

その過程においては、苦痛を伴ったり、悲鳴をあげたくなったり、阿鼻叫喚のような状況も経験するかも知れませんが、全ては、新しく生まれ変わる為の陣痛(神通)のようなものなので、徒に抵抗しようとせず、流れに身を委ねる気持ちが大切になります。
俎板の上の鯉よろしく、煮て食うなり焼いて食うなり好きにして下さい、と天の大いなる意志に自己を明け渡す覚悟が大切になります。

さなぎが蝶へと生まれ変わるように、変わる時節が到来した時には、変わらざるを得ないので、その流れには抵抗出来ません。
私達は今、人類史上初めてとも言うべき大変革の時を迎えていますので、好むと好まざるとに関わらず、大きく変わらざるを得ないのです。

そして、本源の我である我が魂は、この大変革を体験する為にこの時空にやって来たのであり、この大変革こそ、我が魂が待ち望んだことなのです。
天の大いなる意志に自己を明け渡す覚悟を決めて、この大変革の大波を乗り越えて行くことが大切だと思います。


現実世界とは、魂の進化の場として与えられた運動場

現実世界とは、魂の進化の場として与えられた運動場のようなものです。
魂の目的は、魂を進化させること、言わば、光輝く魂になることなので、その為の場として、この現実世界を創造しているのであり、現実世界とは、魂を進化させ成長させてくれる、遊び場や運動場のようなものだと言ってもいいかも知れません。

そして、この遊び場・運動場はとても広大であり、様々な、ありとあらゆる道具(ツール)が揃っており、それらは全て魂の進化に使える道具(ツール)だとも言えます。

現実世界と言われる、この広大な運動場で、心と感じるままに、色々な道具(ツール)を使って遊んでみることが、魂を進化させ、成長させていくことになります。
心を創り心を失い、思いを創り思いを失うという、意識を創る旅を続けながら、本源の我である魂は、魂を進化させ成長させていきます。
心を無地透明にして、いずこにもとらわれない心、言わばタイタン(巨人)のような、器の大きな心、豊かな心になることが魂の目的です。

創造の主体者である我が魂は、現実世界と言われる、この広大な遊び場・運動場の中で、その時々で最も自分に合った道具(ツール)を使って遊びながら、魂の進化としての最短距離を突き進んでいます。

大宇宙の森羅万象の全ては、一つの力学により動いている

大宇宙の森羅万象の全ては、一つの力学により動いています。
大宇宙を貫く一つの力学があり、それが森羅万象の全てを動かしているということになります。

そして、その力学を司っているのは、もちろん、唯一にして絶対、至高の存在である、大宇宙の根本創造主ということになります。
究極的に言えば、この大宇宙には、根本創造主しか実在していないので、森羅万象の全てを司っているのは、根本創造主であり、根本創造主が司る一つの力学に基づいて、大宇宙の営みが運行されているのであり、大宇宙を貫く一つの普遍的な法則があると言うこともできるかも知れません。

森羅万象の全ては根本創造主が行っているので、私達人間を始め、大宇宙に存在する無数の存在達が行っている事は、本当は何も無い、というのが、真相になります。

私達人間も、心臓の鼓動一つ自分の力で動かしているわけではなく、生かされているのであり、大宇宙に生かされた上で、何かを考えたり行動したりしているわけです。
自分の力では一瞬たりとも存在すら出来ないのが真実なので、自分が考えたり行動したりしている背後には、必ず大宇宙の見えざる意図が働いているのであり、大宇宙の見えざる意図が万物を貫いているということになります。

意図(イト)と糸(イト)は、同じ言霊(ことだま)を持っています。
私達人間を始め万物は、根本創造主の見えざる意図(糸)で操られている存在であり、言わば、大宇宙の操り人形のようなものです。

そして、それは決して悲観的なことではありません。
神道的な表現を借りれば、神(大宇宙)の分霊(わけみたま)である私達の魂は、魂の進化の場として、大宇宙に無数にある中の一つの座標軸を自ら選んで、今この時空に存在しているのであり、無限の大宇宙の中の一つの役割を、自ら望んで演じさせていただいているのです。

このことが理解出来れば、自分という存在も、本当は居るわけではなく、大宇宙の無数の座標軸の中の一つの点であることが解ります。
自分という者も本当は居る訳ではなく、大宇宙の無数の座標軸の中の一つの点に過ぎないことが解れば、自分という存在を、認め、受け入れ、許せるようになると思います。

そして、自分自身が座標軸の一つの点に過ぎないことが理解出来れば、自分の周りの人達も全て、大宇宙の無数の座標軸の中の一つの点を演じて下さっているだけなのだと解り、その人達のことも、認め、受け入れ、許せるようになると思います。

また、自分が座標軸の中の一つの点を演じさせて頂いただけなのだと理解出来れば、過去について、徒に後悔する必要もなくなります。
全てが、根本創造主の意図(糸)による必然の中で動いていますので、自分の過去は、100%なるべくしてなったのであり、寸分の狂い、一点一画の違いもなく、起こるべき事が起こり、なるようにしてなったのであり、他に選択の余地があったなどと考え後悔したりするのは、自分の力で生きているという勘違い、錯覚にしか過ぎないということになります。
全ては、大宇宙の計画の中の一コマだったということになります。

同じことが自分の未来についても言えますので、徒に未来を心配しても意味がないとも言えます。
なるようにしかならない、という言い方も出来ますし、なるようになる、という言い方も出来ると思います。
自分がどんなに一生懸命生きてみたところで、所詮は、神(大宇宙)の手の中ということになります。
全ては、大宇宙の計画の中、ということです。

大宇宙の森羅万象の全てが、一つの力学により動いていることが感じられると、自分の中を吹き抜けていく、大宇宙の風のようなものを感じられるかも知れません。
そして、それが感じられる時、自分という者も、本当は居るわけではなく、大宇宙の中の座標軸の一つの点であることを想い出し、我を解放させることが出来ると思います。

歌とは産田(うた)であり、神産みの為のもの

歌には、産田(うた)という意味があります。
田という字は、神を表しますので、産田(うた)とは、神産みの為のものであり、神の誕生を表します。

神の誕生は、歌に表されています。
神は産田であり、産田によって神が産まれます。

歌は全てを産み出す元となります。
「始めに言葉ありき」、神は言葉であり、言葉が全てを産み出す元となります。
言葉とは産田であり、産田は、音、響きによって表されます。

全ては産田から始まります。
産田によって魂の誕生がなされます。

歌は、人が神として出産する、祝いの産田になります。
大和富士の音楽・歌も、人が神として出産する、祝いの産田として世に出されたものです。
私達人間一人一人の中にある、神の本質である神性、愛(女性原理)と力(男性原理)を想い出し蘇らせる為の産田であり、繰り返し聴く事により、さらには楽しく歌い踊る事で、効果はさらに高まります。

歌は喜び、歌は愛です。共に歌おうではありませんか。


神響きの音楽ー日本の新しい調べ、天岩戸開きの祝いの神楽歌

大和富士の音楽は、日本の新しい調べ・神響きの音楽であり、天岩戸開きの祝いの神楽歌とも呼べるものです。

この新しい神響きには、人類の意識が飛躍的進化を遂げ新たな黄金文明を迎えようとする21世紀の今この時、その中心的役割を果たす日本人の霊性が蘇り花開くような言霊(ことだま)と音霊(おとだま)が秘められています。
私達日本人の遺伝子の中に眠る大和心が目覚め、蘇り、花開くように創られています。

そして、私達人間一人一人の中にある神の本質である神性、愛(女性原理)と力(男性原理)を想い出し、蘇らせる為の音楽でもあります。
繰り返し聴く事により、さらには楽しく歌い踊る事で、効果はさらに高まります。

神響きとは、神界の調べであり、神界の響き・波動と言ってもいいかも知れません。
神界の波動を、音霊(おとだま)と、日本語の持つ言霊(ことだま)を使って歌として表現したものと言えます。
天の波動を、歌詞とメロディーにして歌として表現したものであり、天の音楽、天の音色と呼んでもいいかも知れません。

私・大和富士が、天の波動を感じ取り、それを歌詞とメロディーに変換させる能力を磨いて高めていけば、今後、新しい神響きの音楽が次々に誕生するかも知れません。

まずは、ファーストアルバムであるCD「富士は晴れたり日本晴れ」を楽しんで聴いてみていただけると幸いです。


恵比寿・大黒統(す)べ真釣(まつ)る

本日10月20日は、熱海市にある今宮神社の例大祭の日という事で、地元の人達により、賑やかなお祭りが行われていました。

今宮神社の御祭神は、八重事代主(恵比寿)、大国主(大黒)の二柱で、恵比寿・大黒統(す)べ真釣(まつ)る、という形になっています。

今宮神社と言えば、十日戎(とおかえびす)で有名な、大阪の今宮戎神社を思い出します。
大阪の「恵美須町」駅の近くにあるのですが、そこから歩いて10分位の「大国町(だいこくちょう)」駅の近くには、大国主(おおくにぬし)神社があり、日出大国が祀られています。
「大阪七福神」の恵比寿様が今宮戎神社、大黒様が大国主神社になっています。
今宮戎神社と大国主神社がペアになって、恵比寿・大黒統(す)べ真釣(まつ)る、という型になっているような感じがします。

恵比寿・大黒の働きとは、恵比寿は釣りで表し、御霊(みたま)を釣り上げる働きにより、その者を幸せに導く猿田彦(さるたひこ)神の役であり、大黒はそれを後押しする為に働きます。

恵比寿・大黒の働きにより、御霊はすくい上げられ、永遠の生命となります。
救いとは永遠の生命を得る九十(こと)、すなわち御霊の恩頼(ふゆ)を高める九十(こと)だとも言えます。

そして、御霊はそれを望んでいるので、神に向かい、神に仕え、永遠の生命へと歩み始めます。
神はいつも待っており、準備の出来た御霊から釣り上げますので、私達も早く、恵比寿・大黒統べ真釣る人となれるよう、歩みを深めていくことが大切だと思います。

この世にあるもの全てが御魂の肥やし

この世にあるもの全てが御魂の肥やしです。
この世にあるもので、御魂の肥やしにならないものなどないと言っても過言ではありません。

私達は、魂の進化と呼ばれる、意識を創る旅をしていますが、どんな事からも、どんな体験からも新たな意識を創り、魂を進化させる事が出来ます。
というより、むしろ、魂を進化させない体験など無いと言ったほうが真実に近く、私達は、全ての体験を使って、魂の進化としての最短距離を突き進んでいます。

天の仕組みとして、魂は進化するしかないので、常に進化し続けており、魂の進化としての最短距離を突き進んでいるということになります。

ある意識は次の意識を創り、その意識はまた次の新たな意識を創って行き、全てはプロセスの中にあるわけですから、どんな事柄や体験も、失敗や無駄という事はなく、魂を進化させる道具(ツール)に過ぎないわけですから、何も否定する必要はないという事になります。

自分の周りにあるもの全てが、魂を進化させる道具(ツール)であるとも言えます。
「あれをしなければいけない」「これをやってはいけない」というような、決まり切った型のような生き方だけが魂の進化の道ではなく、あらゆる生き方が魂の進化の道であるとも言え、100人いれば100通りの魂の進化の道があり、自分には自分なりの魂の進化の道があるということになります。

天の仕組みとして、魂は進化としての最短距離を突き進んでおり、全てはその流れの中にあるプロセスなので、全ては人を神成らせる為の道具(ツール)であり、この世にあるもの全てが御魂の肥やしであると言うことが出来ると思います。
御魂の肥やしによって御魂が成長するので、御魂の肥やしを否定しない事が大切になります。

黄泉国(よみのくに)と、黄泉帰り(蘇り)

古事記の中に、黄泉国(よみのくに)の話が出てきます。
ヒノカグツチノカミを生んだ為に亡くなったイザナミノミコトを追って、イザナギノミコトが入ったのが黄泉国です。

イザナギノミコトが黄泉国から生還する時に通ったのが、黄泉比良坂(よもつひらさか)と呼ばれる所です。
山陰の出雲には、黄泉比良坂であったと言われている場所があり、伊賦夜坂(いふやさか)と言います。
私も以前行ったことがあり、伊賦夜坂の近くには、黄泉比良坂にゆかりのある揖夜(いや)神社という古い神社もあります。

古事記には、もちろん、歴史書としての一面もありますので、出雲の伊賦夜坂が黄泉国としての歴史の舞台になった可能性もあるかと思います。

ただ、古事記には神界の仕組みが隠されており、古事記において、黄泉国という言葉が象徴しているのは、ある特定の場所ではなく、私達人間一人一人が本質は神である自らを低く貶(おとし)めた、心の中の醜い世界の事を表しています。

黄泉とは、黄色い泉と書きます。
黄色い泉とは小便の事であり、黄泉国とは、言わば便所、肥溜めのような世界の事を言っています。
便所は糞まみれですが、畑を肥やす肥やしになる所であり、作物が育つ大切な所でもあります。
黄泉国は、私達を育てる大切な場所と言えます。

私達は、心の奥深くに、神である本当の自分自身を閉じ込めてしまい、自分自身を牢獄の中に閉じ込めたような状態で生きています。
牢獄とは刑務所であり、刑務所の臭い飯を食いながら毎日生きているような心の状態で生きているとも言えます。

自分の中にある内なる神性(愛と力)を蘇らせ、自分自身を閉じ込めた心の牢獄から自分自身を解放するのが、蘇り(黄泉帰り)です。刑期を終え、成長して、心の刑務所から出て来るという事を意味します。

古事記においては、イザナギノミコトの黄泉国からの黄泉帰りとして表されています。
黄泉国から黄泉帰った(蘇った)イザナギノミコトは、「私はなんといやな穢らわしい、きたない国に行っていた事だろう。だから、私は、身体を清める禊をしよう」と仰って、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(あわきはら)にて禊祓えをなさいました。

イザナギノミコトの禊祓えによって、次々に神様が生まれました。
そして、一番最後に生まれたのが、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐ノ男命(スサノオノミコト)の、いわゆる三貴子です。

須佐ノ男命(スサノオノミコト)の物語も、実は、黄泉帰りの物語であり、イザナギノミコトとは別の場面設定を使って、黄泉国と黄泉帰り(蘇り)の物語を表していますので、別の機会に改めて書きたいと思います。

内なる神性である愛(女性原理)と力(男性原理)を蘇らせる時

私達一人一人の人間の中には、神の本質である神性が内在しています。
そして、神性とは、愛と力という言葉によって表す事が出来ます。
女性原理である愛と、男性原理である力が私達一人一人の中にあります。

私達の内なる神性である愛と力を想いだし、蘇らせる時を迎えています。
徒に自分の外に神を見るのではなく、自分の中にある神性を想い出し、蘇らせる時を迎えているという事です。

愛と力、すなわち、力に裏打ちされた愛こそが神の本質であり、それは私達人間一人一人の中にも内在しているので、それを蘇らせていく事が大切になります。

愛と力は、日の丸にも象徴されています。
中心の赤玉が、女性原理である愛を表し、白玉が、男性原理である力を表しています。
神道の一霊四魂で言うと、赤玉が和魂(幸魂と奇魂)、白玉が荒魂を表しており、赤玉・白玉で愛と力、すなわち、力に裏打ちされた愛を表し、神の本質である神性を象徴しています。

そして、私達一人一人が、内なる神性である愛と力を蘇らせ、神のような人となった姿を、古事記の中では、神武天皇という御神名で表しています。

以前書きましたが、古事記は、歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが古事記の中には隠されていますので、神武天皇という御神名には、人となりが完成し、神のような人になった姿が象徴されています。

もちろん、古事記には、歴史書としての一面もありますので、大和の国を統一し初代天皇である神武天皇となったカムヤマトイワレビコという人物もいたと思いますが、古事記の中で神武天皇という御神名が表しているのは、単に歴史上の特定の人物だけではなく、神の分霊(わけみたま)である私達一人一人の事でもあるのです。

ですから、私達一人一人が、内なる神性である愛と力を蘇らせ、神のような人となった時、古事記の表現を借りれば、神武天皇となったということが出来ると思います。

また、古事記の中に、神武東征の地として、日向(ひむか)という言葉が出て来ます。
宮崎県に日向(ひゅうが)という場所があり、神武東征の地とされています。
後の神武天皇であるカムヤマトイワレビコは、実際、宮崎県の日向から東征の旅に出たのかも知れませんが、日向という言葉も、単にある特定の場所を表す言葉ではなく、古事記の中では、太陽に向う心の位置のようなものを表しています。

古来、私達日本人は、太陽をお天道様と崇めて、日の光に向って懸命に生きてきました。
太陽に向う、日の光に向う、天に向う、ひたむきな心の位置を、古事記の中では、日向(ひむか)という言葉で表しています。

21世紀に生きる私達一人一人も、太陽・日の光・天に向うひたむきな心の位置である日向(ひむか)の地から、内なる神性を蘇らせ、愛と力を蘇らせて、神のような人になった時、古事記の表現を借りれば、神武天皇として誕生したと言えるのかも知れません。

金鯱(きんのしゃちほこ)ー尾張(終わり)の仕組み

「尾張名古屋は城で持つ」という言葉があります。
そして、名古屋城の天守閣に聳えているのが、ご存知の「金鯱(きんのしゃちほこ)」です。
名古屋城の天守閣に聳える「金鯱」は、人が神として出産した完成された魂、言わば黄金の御魂を象徴しています。

「尾張(終わり)の仕組み」という神界の仕組みがあり、釣り針で「黄金の鯛」を引っ掛ける事を意味します。
「黄金の鯛」とは御魂、黄金の色をした坤(ひつじさる)の金神の事を表すようです。

以前、恵比寿の働きについて書いた事があり、恵比寿様が釣竿と赤い大きな鯛を抱えておられる本当の意味は、御魂(赤い大きな鯛)を釣り上げる神界の働きを表していると書いた事があります。
恵比寿様が抱えておられる赤い大きな鯛、すなわち、神に釣り上げられた御魂、完成した御魂と同じ意味を表すのが、名古屋城の天守閣に聳える「金鯱」と考えればよいと思います。

「尾張(終わり)の仕組み」というものがあり、「金鯱」が名古屋城にあるという事については、熱田神宮の存在と、そこに祀られている、「三種の神器」の一つである「草薙の剣」の持つ働きが、深く関係しているものと思われます。

「草薙の剣」が象徴しているのは、玉(神の本体)を出す為の働きであり、「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)」に象徴されている、自己の内面奥深くに眠る否定的想念を退治した時に出て来るのが「草薙の剣」であり、「草薙の剣」は神の証とも呼べるものです。
「草薙の剣」は、須佐ノ男命(スサノオノミコト)から天照大御神(アマテラスオオミカミ)に献上されたと「古事記」に書かれているのには、とても深い意味が隠されていると思います。

「草薙の剣」については、また別の機会に詳しく書きたいと思います。

伊勢神宮・神嘗祭(かんなめさい)

本日・10月15日は、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)の初日です。旧暦では9月8日にあたります。
本日10月15日から17日までの三日間、神嘗祭が執り行われます。
神嘗祭とは、その年の新穀を大御神に奉り、ご神徳に報謝申し上げる、最も由緒深い祭りとされています。
皇室のご繁栄と国家の安泰、五穀の豊穣、国民の平安を祈願して、伊勢神宮とともに、皇居の宮中三殿でも儀式が執り行われます。
戦前は、国の祝日となっていたようです。

私は、一昨年の神嘗祭に参加させて頂いた事があります。
伊勢神宮は、いつ行っても、日本という国に生まれて来たありがたさをしみじみと想いださせてくれる所だと感じますが、この時も、さわやかな秋晴れの下、神嘗祭で賑わう伊勢神宮の空間の中にいると、日本人に生まれて来て本当によかったというありがたさを改めて味わう事が出来ました。

20年に一度の式年遷宮は、実は大規模な神嘗祭だとも言われているようです。
伊勢神宮のような神聖な空間があり、そして、20年に一度の式年遷宮が長い年月に亘って続けられ守られて来ているというのは、驚嘆すべき事なのかも知れません。
大和の国・日本というのは、本当に美(うるは)しい国なのだと感じます。

私達は今、日本人・大和民族としてのアイデンティティーを蘇らせるべき時を迎えているようです。
なぜなら、資本主義に象徴される物質文明が間もなく終わりを告げた後、次に来る霊性の幕開けの時代をリードするのは、私達日本人だからです。
近い将来、日本は霊性の大国として、世界中から賞賛される時を迎える事でしょう。

その時には、日本の文化は、世界中から賞賛されるようになるでしょう。
伊勢神宮に代表されるような神社・仏閣の聖地なども、世界中から注目されるようになる筈です。

日本神道の最高の聖地である伊勢神宮における、最も由緒深い祭りである神嘗祭などは、最も美しいセレモニーの一つとして、世界中から賞賛される時を迎える事でしょう。

箱根神社、元宮、九頭龍神社、箱根は箱舟?

本日、箱根に行って来ました。
6月13日の、箱根芦ノ湖・九頭龍神社例大祭以来、約4ヶ月ぶりになります。

箱根に行く途中、十国峠(日金山)にある日金山東光寺に寄って行きました。
ここは、伊豆山神社の御神霊が最初に祀られていた所であり、その後、今の伊豆山神社本宮のある場所に移され、それから、現在の伊豆山神社が建立されたということです。
日金山東光寺には、延命地蔵菩薩が祀られています。

箱根は、私が大好きな場所であり、いつ行っても、心が癒される空間です。
箱根の空間の中にいると、他の場所では味わえないような、ある種独特の静けさ、心の平安・安らぎのようなものを感じます。
箱根という空間は、私にとって、特別にご縁が深いと感じます。
神社に参拝したりするようになったのも、十数年前、思いがけず、箱根芦ノ湖の九頭龍神社に導かれるようにして行く事になったのが最初でした。
それ以来、箱根とのご縁は、ずっと続いています。

まず箱根神社に参拝し、その後、駒ヶ岳山頂にある箱根神社元宮に、そして最後に、芦ノ湖・湖畔にある九頭龍神社に参拝しました。
九頭龍神社の近くには、白龍神社という小さなお社もあります。
芦ノ湖・湖畔の九頭龍神社の空間の中で、湖面の波の音や木々のざわめきなどを聞いていると、とても神妙なものをいつも感じます。
九頭龍大神は、芦ノ湖ではなく、九頭龍神社の背後に聳える箱根第一の高峰、神山に鎮座されているとも言われています。

九頭龍神社参拝後、温泉に入ってきました。
芦ノ湖・湖畔には、「龍宮殿」という大きな高級旅館が聳え立っています。
その中にある蛸川温泉という湯に日帰り入浴が出来るので、本日初めて入浴してきました。殿方の湯には「明神」、ご婦人の湯には「明星」という名前が付けられていました。

ところで、箱根(ハコネ)という言葉は、箱舟(ハコブネ)という言葉とよく似ています。
私も箱根という言葉を思い浮かべると、よく箱舟という言葉がほとんど同時にイメージされたりします。
箱舟とはもちろん、旧約聖書に出て来る、「ノアの箱舟」の事です。

箱根と、「ノアの箱舟」とは、何となくイメージが重なる要素があるようです。
芦ノ湖遊覧船の発着場の一つには、「ノア」という名前が付けられています。
また、箱根の森高原教会は、「ノアの箱舟」をイメージしたユニークな創りになっているとの事です。

「ノアの箱舟」とは、英語で、「Noa'Ark」と書くそうです。
Arkとは、「失われたアーク」とも呼ばれている、古代イスラエルの「契約の箱(柩)」と同じ言葉です。
モーゼの十戒の石板などが納められた、ユダヤの至宝である「失われた契約の箱(柩)」は日本に運ばれたとも言われています。

そして、日本語の話し言葉は、古代ヘブライ語がベースになっており、書き言葉の方は、仏教の伝来の影響で、漢字を導入したとも言われています。
だとすると、ハコネ(箱根)とハコブネ(箱舟)とは、古代において、何かつながりがある言葉なのかも知れません。

また、標高約700メートルの山深い所にある芦ノ湖・湖畔に聳え立つ大きな高級旅館の名前が「龍宮殿」というのも一見意外な感じがします。
しかし、箱根神社の御祭神は、天孫ニニギノミコトとそのお后であるコノハナノサクヤヒメ、そして、二人の間に生まれたヒコホホデミノミコトの三柱の神であり、ヒコホホデミノミコトこそが、「古事記」の中で、「山幸彦」として「龍宮城」に行った神様なのです。
ですから、山深い芦ノ湖・湖畔に「龍宮殿」という大きな高級旅館が聳え立っているのも、一見意外ではあるのですが、また一面においては、似合っている感じもします。

昔から箱根は、「箱根の山は天下の険」と謳われた山深い所なのですが、「ノアの箱舟」といい、「龍宮城」といい、何故か海との関係をイメージさせる、不思議な空間とも言えそうです。

未来からやって来る時間(時間の流れは未来→現在→過去)

時間とは幻想であり、本当は、時間というものは存在していません。
「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき「今この時」しか実在していないのが真相なのです。
そして、「今」という「時」しか実在していないので、時間というものも本当は流れているわけではなく、過去も未来も、今同時に存在しています。

ただ、あえて時間の流れというものを想定するならば、時間の流れとは、多くの人が考えている、過去→現在→未来という流れではなく、その逆の、未来→現在→過去という流れになります。
時間とは、未来から流れて来るもの、と言ってもいいかも知れません。

この事は、多くの人にとってなかなかイメージしにくいのではないかと思いますが、時間は幻想であり、本当は時間は存在していないという事、そして、過去も未来も今同時に存在しているという事が体験的に実感出来れば、自ずと理解出来る事なのです。

ところで、私達の太陽系が属する天の川銀河には、数千億もの恒星(太陽)があると考えられています。
そして、天の川銀河の数百倍の速さで年1000個もの星が誕生する「モンスター銀河」が196個まとめて最近発見されましたが、この無限の大宇宙には、無数の銀河が存在するものと思われます。

そして、以前書きましたが、無限の大宇宙そのものには、始まりも無ければ終わりも無いのですが、個々の銀河には、始まり(誕生)とともに終わり(死・終着点)もある筈です。
そして、ある一つの銀河が誕生した時、その最後(終着点)も同時に創造されて存在しています。
ある銀河が誕生した時には、その最後(終着点)はもう既に決まっており、そこに同時に存在しているのです。

そして、最後の終着点から、最初の発生点に向って、時間が流れて来るとイメージするとよいかも知れません。
ある一つの銀河が白紙の状態で誕生してから偶然の積み重ねで悠久の長い時を経て最後に終わり(死)を迎えるのではなく、ある一つの銀河が誕生したと同時にその最後の死(終着点)も決まっており、その最後の終着点(ゴール)から発生点(スタート)に向って、プロセスとしての時間の流れがやって来ているとイメージすると分かりやすいかも知れません。

もう少し身近な例を使って分かりやすく説明出来るかも知れません。
仮に私達が、土地を所有しており、1年後に必ずそこに家を建てる事に決めたとします。
そうすると、どんな家にしたいかという設計図や、必要な資金、どの業者に委託するか、というような、様々な事が必要になるかと思います。

そして、最終的に、完璧な設計図と細部にわたる部品の詳細、委託する業者、必要な資金などが揃えば、その家は建ったも同然と言えます。
そして、1年後に必ずその家を完成させると決めた時、1年後の完成時点(ゴール)から遡って何をいつまでにしなければいけないというタイムスケジュールが決まってくると思います。

基礎工事をいつまでに終わらせ、柱や屋根などの土台をいつまでに仕上げ、外壁をいつまでに終わらせ、内装をいつまでに仕上げ、配線や電気・ガス・水道をいつまでに仕上げ・・・という具合に、1年後の未来から現在に向って、プロセスがやって来る、流れて来ると思います。

基礎工事をやり、土台を作り、外装や内装をやり、配線などをやった結果、たまたま1軒の家が完成したわけではない筈です。
順番が逆であり、完成した家の詳細な設計図・完成形に合わせて、順番に、基礎工事や土台作りや、外装・内装など、必要な全ての作業を行ったのだと思います。

これと同じ事が私達の人生についても言えます。
多くの人達は、過去から現在に向って時間が流れており、過去の積み重ねにより現在があると考えています。
これも順番が逆であり、私達の人生は、生まれて来る前から既に決まっており、その決まっているとおりに、物事が順番に展開しているだけなのです。

過去の積み重ねで現在があるように見えますが、実は、既に決まっている未来のプロセスとして現在がやって来ているということなのです。

多くの人達は、過去の積み重ねで現在があり、原因があって結果があると考えています。
実は、原因というのは、結果によって選ばれているのです。
原因があって結果があるというより、順番が逆で、ある結果をもたらす為に、その原因が作られているということなのです。

ちょうど、先程の家を建てるという例えで言えば、基礎工事をやり、土台を作り、外装や内装をやった結果として、偶然、家が出来上がった訳ではなく、ある家を完成させるという結果を得る為に、その原因となる基礎工事や土台作り、外装や内装をプロセスとして順番に行った訳です。
原因があって結果があるというより、ある結果を得る為に、その原因を作ったと考えるほうが理解しやすいと思います。

私達の人生も、これと同じようなものなので、白紙の状態で生まれて来て、偶然の積み重ねで過去から現在、そして未来へと人生が形成されて行く訳ではなく、生まれて来た時点で既に人生は決まっており、その最終地点・ゴールである死から流れて来る時間の中で、必要な出来事が順番に展開しているだけなのです。

未来から時間がやって来て、必要な出来事が次々に起こりプロセスが展開しているだけなのだと分かれば、徒に過去ばかりを見てため息をついたりする必要もなく、むしろこれからは、未来に目を向けて、どんな未来がやって来ているのかを感じながら生きられるようになるのではないかと思います。

未来とは、未だ来ずと書きます。
未だ来てはいませんが、未来からの時間は現在に向って確実に流れて来ています。

未来は既に確定的に存在しています。
そして、その未来から時間はやって来るので、未来を感じて今を生きる、明日を感じて今日を生きる、という生き方が大切になると思います。

全ては大宇宙の計画の中

大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙の計画の中にあります。
どんな些細な事であっても、全てが大宇宙の計画の中にあり、全ての事象が寸分の狂いも無く大宇宙の計画どおりに進んでいます。

何人(なんびと)たりとも、いかなる存在であっても、大宇宙の計画の外には一歩たりとも出る事は出来ず、全ては大宇宙の調べの中にあります。

何故なら、究極的には、この大宇宙には、唯一にして絶対、至高の存在である根本創造主しか実在しておらず、大宇宙の森羅万象の全ての営みは、根本創造主が織り成す壮大な織物であり、壮大なゲームのようなものとも言える世界だからです。

そして、私達一人一人は、大宇宙に存在する無数の座標軸の中の、ある一点とも言えます。
大宇宙に存在する無数の視点の中の、ある一つの視点が私達という存在であるとも言えます。

そして、私達の真我とも言うべき魂の計画は、大宇宙の計画とピッタリ一致しています。
私達の真我である魂は、大宇宙の計画の中の座標軸のある一点を演じる事を希望して、今この時空に存在しています。

全ては大宇宙の計画の中にあり、いかなる存在であろうとも、その外には一歩も出られないというのは、ある意味においては、とても厳しい事であり、空恐ろしいような事かも知れません。
何故なら、どんなに強く望もうが、どんな努力をしようが、もしその事が大宇宙の計画の中になければ、決して実現する事はないということになるからです。

私達が肉体の自我意識で、何か夢を実現したいとか、誰それと結婚したいとか、何かを手に入れたいとどんなに強く望んでどんなに努力したとしても、もしそれが私達の真我である魂の計画、すなわち大宇宙の計画の中に無ければ、その夢は決して実現される事は無いからです。
峻厳犯すべからざる真理というものは、厳格なものであり、ある意味においては、情け容赦がないとも言えるかも知れません。

また一方では、全ては大宇宙の計画の中にあり、その一部である我が魂の計画の中に私達の人生もあるというのは、とてもありがたい事であり、心の平安が得られ、我を解放出来る事であるとも言えます。

何故なら、私達が何か夢を実現したいとか、誰かと結婚したいとか、何かを所有したいというような事を、特別強く望んだり努力したりしなくても、もしそれが大宇宙の計画の一部である我が魂の計画の中にあるならば、状況が整えられて物事は自然と成就するようになるからです。
真理というものは、厳格なものであると同時に、とてもありがたく、心の平安を得られるものだとも言えるかも知れません。

私達の人生は全て、大宇宙の計画の一部である我が魂の計画の中にあるのだという事が理解できれば、徒に過去を後悔する必要もなく、未来を心配する必要も無くなります。
そして、私個人という存在も、本当はいる訳ではなく、大宇宙に存在する無数の座標軸の中のある一点である事が理解出来れば、我を解放する事が出来ます。

私達の真我である魂は、魂の進化を求めて、魂のさらなる輝き、すなわち光輝く魂になる事を求めて、大宇宙の計画の中のある一点の座標軸を選択してこの時空に存在しているのであり、全ては我が魂の計画の中、全ては大宇宙の計画の中にある事を知る事が、我の解放へとつながります。

大宇宙の全ては完

この大宇宙の全ては、完璧であり、完成された完全なる世界です。
毎瞬毎瞬、大宇宙のどの断面(場面)を切り取ったとしても、そこは完全なる世界であり、不足・不備、矛盾、間違いなどは存在していません。
この大宇宙には、間違いなるものは何一つ存在していないというのが真相なのです。

なぜなら、この大宇宙には、究極的に言えば、唯一にして絶対、至高の存在である根本創造主しか実在しておらず、大宇宙の森羅万象の全てが、根本創造主が織りなす壮大な織物のようなものだからです。

この物理的大宇宙に存在する全てのものを生み出し、生かしているところの、全知全能の存在である根本創造主に、間違いなどあろう筈はありません。
たとえこの世界に、様々な問題・矛盾・悪・間違いと思えるようなものが感じられたとしても、森羅万象の背後にある根本創造主の御心は計り知れないものなので、どんな時でも、大宇宙の全ては完であることを想い出すことが大切になります。

そして、大宇宙には何一つ間違いは無く、全ては完であることを知る為には、この現象界(物理的大宇宙)は仮相(仮の姿)の世界であり、言わば幻の世界であり、一切が無の世界であることを知る必要があります。

この現象界は幻の世界であり、一切が無の世界なので、本当は、何も失われることなく、傷付けられたりするということもありません。
全ては、唯一者である根本創造主の光の中で繰り広げられる壮大なゲームとも言える世界なのです。
自分の身の周りで起きる事や様々なニュースなどに自分の心が反応して、矛盾・間違いのようなものを感じた時には、大宇宙の全ては完であることを信じる力が試されているのだと言う事を想い出す事が大切だと思います。

物理的大宇宙は幻の世界であり、一切が無の世界であるということについては、別の機会にさらに詳しく書きたいと思います。

                つづく

十月十日、神が重なる目出度き日

本日は、十月十日です。
十という字は、神を表しますので、本日・十月十日は、神が重なる目出度き日とも言えます。

タテの「|」は「火の働き」を表し、ヨコの「ー」は「水の働き」を表し、二つが合わさった「十」が、「火水(カミ)」を表すとされています。
神とは、火水(カミ)ということのようです。

火(太陽)と水は、生命にとって無くてはならない、一番根源的なものと言えます。
私達人間のみならず、動物も植物も、あらゆる生命は、太陽と水の力により、生命を与えられ生かされていると言えます。
そして、太陽と水に象徴される、神の働きの二つの側面が、火の働きであり、水の働きであるということのようです。

火の働きは男性原理が出る為の働き、水の働きは女性原理が出る為の働きであり、二つで一つの働きとなるとのことです。
神道の一霊四魂で言えば、火の働きが荒魂、水の働きが和魂(幸魂・奇魂)ということのようです。

火水(カミ)と書いてヒミツと読むこともあります。
火と水には、カミの働きの深いヒミツが隠されているようです。

そういう訳で、本日十月十日は、神が重なる目出度き日ということになります。

全ては神の戯れ(リーラ)

サンスクリット語に、神の戯れというような意味を表す「リーラ」という言葉があるそうですが、この大宇宙の森羅万象の全てが、実は、神の戯れとでも呼ぶべきものなのです。

以前書きましたが、この大宇宙には、絶対世界と相対世界があります。
そして、絶対世界に唯一実在しているのは、根本創造主である大宇宙意識のみであり、大宇宙意識が想像した事が、瞬時に創造された世界が、相対世界であるところの、この物理的大宇宙なのです。
ですから、大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識の想像の産物であり、大宇宙に存在する全てのものは、大宇宙意識の顕れに他なりません。
大宇宙意識のことを、仮に神と表現するなら、大宇宙に存在する全てのものは神の顕れであり、大宇宙の森羅万象の全ては神の意志によるものだということになります。

では、唯一にして絶対、至高の存在である神は、様々な無数の創造物を生み出し、森羅万象の全てを創造して何をされているのかと言えば、御自身が想像された世界を体験し、味わっているのだとも言えそうです。
言わば、神は神御自身を体験されているのだともいえます。
ですから、大宇宙の全ては神の光の中にあります。

大宇宙の森羅万象の全ては、根本創造主である神の壮大なゲームであり、神の壮大な遊びの世界であり、全ては神の戯れ(リーラ)であるとも言えます。

神々の名前(御神名)について

我が国・日本は、八百万神々(やおよろずのかみがみ)を信仰する国とされており、たくさんの神々の名前があります。

「古事記」・「日本書記」には、たくさんの神々の名前が出て来ます。
そして、「古事記」・「日本書記」は、一般的には歴史書と考えられていますので、そこに登場する、様々な神々が、実在したと考えられているのではないかと思います。

確かにそういう一面はある筈なので、そう考える事は一面の真理ではあるのですが、それは二義的な捉え方であり、御神名というものの、本質的な捉え方ではないと思います。

御神名が持つ本質的な意味とは、神界のある働きに付けられた呼び方の事を意味します。
神界が持つ働きの内、こういう働きについてはこういう呼び方(御神名)を使う、というふうにイメージするとよいかも知れません。

ですから、特定の姿・形をした神が天に存在すると考えるよりは、天の働きのある部分をこういう名前(御神名)で呼ぶと捉えた方が、より本質的な捉え方と言えると思います。
御神名は別々の二つの名前であっても、働きが同じであり、実は同一神という事もあります。

「古事記」については、歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されていますので、そういう読み方をする時には、御神名も全て神界の働きに付けられた呼び名と捉えて読まないと理解出来なくなります。

例えば、天照大御神(アマテラスオオミカミ)という御神名も、太陽の持つ働きを表すとともに、天の中心の光をも表わしており、また、私達一人一人の中にある中心の光をも表しています。

「古事記」の中の有名な、天照大御神の「天岩戸開き」も、神代の時代の出来事という一面だけではなく、現代に生きる私達一人一人が、内なる中心の光を表に現す、すなわち、神として出産する、という事をも表しています。

「古事記」に隠された神界の仕組みについては、私に分かる範囲で、折に触れて書いて行きたいと思います。

イエス・キリストの「天の王国」=仏陀の「極楽浄土」

イエス・キリストの言葉で、「天の王国」という言葉が、聖書の中に書いてあります。
また、「天にまします父よ」という表現があり、父が天におられるとキリストは語っています。

そして、仏教においても、弟子の質問に答える形ではなく、仏陀自らが説いたとされる「仏説阿弥陀経」の中に、極楽浄土の事が語られています。
阿弥陀如来の西方極楽浄土の事が説かれています。

イエス・キリストの「天の王国」と、仏陀の「極楽浄土」は、実は、同じ世界の事を語っています。
そして、それは、抽象的な概念などではなく、この銀河宇宙に実在する、ある明確な世界の事を指しています。

仏陀もキリストも、人類の偉大なメッセンジャーとしての使命を遂行するにあたって、その世界から啓示を受け、それを人々に伝えたのでした。
仏陀もキリストも、この銀河宇宙に実在する、桃源郷あるいは理想郷とも言うべきある世界の事を明確に知った上で、その世界からのサポートにより、天命を全うして、人類史に偉大なる功績を残したのでした。

CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録の「天上の王国」という曲は、そのあたりの事を婉曲に歌っていますので、ぜひ聴いてみて頂けると幸いです。

日本三霊山(富士山、立山、白山)

日本三霊山とされているのが、富士山、立山、白山です。

立山(越中)と白山(加賀)は、富山県と石川県で隣同士ですが、それぞれ、男性性と女性性を表しているようです。

立山は、その名の通り、男性的な山容をしており、立山山頂にある雄山神社の峰本社の御祭神も、伊邪那岐神(イザナギ)と天手力雄神(アメノタヂカラオ)という、古事記の中で、勇敢な働きをされる男性神です。
立山を守る雄山神社の名前にも、男性を表す「雄」という字が使われています。

一方、白山は、なだらかで女性的な山容をしており、白山に鎮座されているのが、白山菊理媛(ハクサンククリヒメ)という女性神です。
白山の麓にあり、白山菊理媛の総本宮とされているのが、白山比咩神社(しらやまひめ神社)で、名前に、女性を表す「比咩(ひめ)」という字が使われています。

そして、霊(ひ)ノ元・日本の象徴、霊峰富士は、男性性と女性性の統合を表しています。
富士の働きについては以前書きましたが、二元性を統合させて大いなる和「大和」を実現させる働きであり、山容にもそれが象徴として表されています。

日本一高く雄大な姿は男性性を表し、裾野が美しくなだらかに広がる姿は女性性を表し、美しさと力強さを兼ね備えた雄姿で、霊峰富士の持つ働きを象徴しています。

富士山を守る富士山本宮浅間大社の御祭神は浅間大神(アサマノオオカミ)であり、木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)とされていますが、霊(ひ)ノ元・日本の象徴、霊峰富士には、地球主宰神・国常立大神(クニトコタチノオオカミ)が鎮座されているとも言われています。

日本は世界の雛形

「日本は世界の雛形である」と言われています。
あらゆる意味において、日本は世界の縮図であるということであり、地理地形にもその事が表れています。
アジア・ヨーロッパ大陸は本州、アフリカは九州、オーストラリアは四国、という具合に、世界の地理地形は、日本列島の形態のモデルになっているとも言えます。

そして、単に地理地形の事だけではなく、世界の経綸は全て、日本にその根拠を有するという事であり、日本が世界の中心であり、日本で起こる事は世界でも起こるという事になります。

この「世界の雛形」理論は、大本教の出口王仁三郎が「いろは神歌」で唱えたもので、世界と日本は霊的にも地勢的にも照応関係にあるという事です。

「日本は世界の雛形」である本当の意味が、これからそう遠くない年月の内に、誰の目にも明らかになる日が来ると思います。
まず、日本の「立て替え・立て直し」が行われ、それが世界の「立て替え・立て直し」をもたらす事になるでしょう。

地球の新たな黄金文明は、ここ霊(ひ)ノ元・日本から始まります。
これから日本が、その本当の姿である、日出る神国・日本として蘇り、真の「大和の国」を実現させた時、花咲く都・黄金文明が、日本から世界へと拡がって行く事でしょう。

今私達は、人類史上初めてとも言うべき、一大転換期に立たされています。
日本もこれから本格的な「立て替え・立て直し」の時を迎えますので、相当な覚悟が必要になりますが、その先に待っているのは、誰もが待ち望んだ世界、言わば弥勒世とも言うべき花咲く都・黄金文明であることを常に忘れない事が大切だと思います。

恵比寿の働きについて

七福神のお一方、恵比寿様(八重事代主大神)は、片手に釣竿を、もう片方の手には、赤い大きな鯛を抱えておられます。

恵比寿様は、大漁漁業の神様ともされており、だから、釣竿と赤い大きな鯛を抱えておられるのだと思われています。
確かに、そういう一面もあると思いますが、それは二次的な側面であり、本質的意味においては、神界における恵比寿の働きを象徴しています。

恵比寿の働きとは、私達の魂を釣り上げる事であり、赤い大きな鯛とは、釣り上げられた御魂を象徴しています。

私達人間が釣りをする場合でも、一般的に、撒き餌という餌をばら撒いて魚を誘(おび)き寄せてから釣りをしたりしますが、これと全く同じ事が、神界においても行われています。
その中には、精神世界や宗教、色恋、お金、ビジネスなど、様々なものがあります。

そして、私達の魂は、何かを求めているので、それらの様々な餌に食い付こうとします。
そして、餌に食い付いて釣り針に引っ掛かる事によって、御魂を釣り上げられるという仕組みになっています。

これが、神界における恵比寿の働きであり、恵比寿様が釣竿を片手に赤い大きな鯛を抱えておられる、本質的な意味なのです。

精神世界や宗教、色恋、お金、ビジネスなど、私達の周りにあるものは全て、私達を神成らせる為の道具であるとも言えます。

八重事代主大神こと恵比寿様の真の姿は金色恵比寿であり、日之出大神でもあります。
霊(ひ)ノ元・日本の天岩戸開き、富士は晴れたり日本晴れの時を迎えるにあたり、無くてはならない働きをされる大神様です。

自分の中に神を見る時代

私達人類は、数千年もの長い間、自分の外に神を見ようとしてきました。
自分一人の力では歩けないので、外に神を求め、神を心の拠り所とし、神にすがって生きてきたとも言えるかも知れません。
言わば、宗教という松葉杖を必要としてきたわけですが、人類が宗教という松葉杖を必要とする時代も、間もなく終わろうとしています。

さなぎから蝶へと生まれ変わるように、人類の意識も飛躍的進化を遂げる時を迎えており、もはや既存の宗教に頼らなくても生きて行けるようになるからです。

徒に外に神を求めなくても、実は、私達自身の中に、神が内在しています。
神道的に言えば神性、仏教的に言えば仏性、そして、キリスト教的に言えばキリスト意識と呼ばれる、神聖な光が、私達一人一人の中に内在しています。

その内なる光を想い出し、蘇らせる時を迎えています。
これからは、自分の外にではなく、自分の中に神を見る時代になります。

そして、私達一人一人が自分の内なる神性を蘇らせ、それを顕現していく時代になります。
言わば、神のような人(神人)として一人一人が生きて行く時代になるという事です。

地球の夜明け、花咲く都・黄金文明、言わば弥勒世とは、そういう時代の事だと思います。

生物住める可能性ある新惑星を発見

太陽系の外の、地球から20光年のところに、地球のように生物が住める環境を備えている可能性がある新たな惑星を発見したと、カリフォルニア大学などの研究グループが9月29日に発表し、注目を集めているとの事です。

このグループは、ハワイにある世界最大級の望遠鏡、「ケック望遠鏡」を使い、てんびん座にある、地球から20光年離れた「グリーゼ581」という星に注目し、その周りを回る惑星を11年間にわたって観測しました。

その結果、新たに見つかった惑星のうちの1つについて、光や熱を発する「グリーゼ581」との距離が、水が凍ることなく液体のまま存在できるとみられる、丁度よい距離にあるほか、重力が地球とほぼ同じで、大気を保つことができる可能性が高く、生物が住みやすい環境を備えていることがわかりました。

これまでに、ほかの研究グループなどが「グリーゼ581」の別の2つの惑星に生物が住める可能性があると指摘していますが、今回見つかった惑星が、最もよい条件を備えているということです。

この惑星に実際に水や大気が存在するのかどうかは確認できておらず、NASA=アメリカ航空宇宙局も、さらなる裏付けのための研究が必要だとしていますが、アメリカの主要メディアが、こぞって取り上げるなど注目を集めているとの事です。

丁度同じ日の9月29日、「モンスター銀河196個発見=年1000の星誕生」という国立天文台や東京大学による別の研究発表があり、ブログにも取り上げましたが、今回のこのニュースも、無限の大宇宙の広大無辺さを知る旅のプロセスにおいては、ほんの小さな発見にしか過ぎないとも言えるかも知れません。

無限の大宇宙の中で、地球というこの小さな星にしか生物が生存しないと考える事自体、地球を中心にした、とても不自然な考え方のような気がします。

この太陽系が属する天の川銀河だけでも、数千億の恒星(太陽)があると考えられています。
そして、天の川銀河の数百倍の速さで年1000個もの星が誕生する「モンスター銀河」を196個まとめて発見したという発表が、同じ日にされたばかりです。

ブログの中で書きましたが、196個のモンスター銀河でさえ、無限の大宇宙の中では、ほんの一部にしか過ぎないと言えると思います。

今後、科学が進歩すればする程、この大宇宙の広大無辺さが少しずつ分かり始め、知れば知る程、この大宇宙は極まり無い世界だという事を思い知らされる事になります。

この大宇宙とは、別名、無限と呼んでもいいかも知れません。
そして、実際、この大宇宙とは無限の世界なのです。
なぜなら、唯一にして絶対、至高の存在である大宇宙の根本創造主は全知全能の存在なので、その創造力には限りが無いからです。

無限とは、「限り無し」と書きます。
大宇宙の根本創造主である大宇宙意識の「想像力=創造力」には限りが無いので、銀河を何個までしか「想像=創造」出来ないとか、生物が住む星を、地球1個だけしか「想像=創造」出来ない、などという事は無いからです。

私達人類は、ほんの数百年前まで、この地球という星が大宇宙の中心にあり、その周りを太陽が回っているという、天動説を信じていました。
しかし、本当は、地球は太陽の惑星であり、地球が太陽の周りを回っているのだという地動説を受け入れざるを得なくなりました。

今後、科学が進歩すればする程、今回のような、生物が住める可能性のある惑星が次々に発見されるだけではなく、実際に生物が住んでいる惑星も、次々に発見されていく事でしょう。

毘沙門天、聖徳太子、信貴山、寅

日本で最初に毘沙門天が御出現されたのは、寅の年・寅の日・寅の刻に、信貴山にて聖徳太子の元に御出現されたと伝えられています。

物部守屋討伐の為に聖徳太子が戦勝祈願したところ、毘沙門天が御出現され、勝利の秘宝を授けたと伝えられています。
その場所が、信貴山であり、「信ずべき貴ぶべき山」というところから、信貴山と名付けられたと言われています。

毘沙門天の総本山とされる信貴山朝護孫子寺では、寅の年・寅の日・寅の刻に毘沙門天が御出現されたことに因んで、寅年には、12年に一度の奥秘仏御開帳が行われます。
今年平成22年(2010年)は寅年であり、奥秘仏御開帳が特別の期間だけ行われていました。

私は、2月1日に信貴山朝護孫子寺に参拝し、奥秘仏を拝見させていただきました。
奥秘仏と対面していると、深い静けさと、懐かしさのようなものを感じました。

信貴山朝護孫子寺には昨年初めて参拝したのですが、朝護孫子寺の本堂から下を見渡した時、とても懐かしいような、うれしい気持ちになりました。
私にとって、信貴山はご縁が深い場所のような気がします。

2月1日には、奥秘仏御開帳の時だけの特別のお札もいただく事が出来ました。
それから、山頂に登ったのですが、丁度、山頂の空鉢護法に着いた時、折からの雨が雪になり、あたり一面が見る見る銀世界に変わっていく様子が、とても美しく感じられました。

寅年の今年は、平城遷都1300年祭とも重なっており、信貴山朝護孫子寺は、「四神・白虎」をキーワードに、平城遷都1300年祭のオープニングを飾りました。

今年の奥秘仏御開帳は終わりましたが、平年は正月十日間と7月3日の大祭期間限りの秘仏御開帳が、本日10月1日から11月3日まで行われています。

私は、毘沙門天が、寅の年・寅の日・寅の刻、聖徳太子の元へ日本で最初に御出現され、その場所は信貴山であった、という話が、とても気に入っています。


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