日本の新しい調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

大和富士ブログ|BLOG

2010年12月のアーカイブ

31 Entries

平成二十二年(2010)年は、第一回目の天岩戸開き

平成二十二年(2010)年も、今日の大晦日で終わりになります。
今年、平成二十二(2010)年は、第一回目の天岩戸開きが行われた、記念すべき年となりました。

今年、平成二十二年(2010)年7月1日、日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本の天岩戸開きが行われました。
イワト(平=一八十)成るフジ(二二)の年・富士山開きの日の7月1日、日本の象徴・霊峰富士が夜明けを迎え、富士の持つ真の働き、世界に二つとない(不二)働きが表に現れ、世界は新たな時を迎える事になりました。

富士の夜明けは日本の夜明け、そして、日本の夜明けは、地球・世界の夜明けです。
今年7月1日の天岩戸開きによって、地球・世界は新たな段階に突入し、もう後戻り出来ない段階へと入りました。

地球の新たな誕生、花咲く都・黄金文明はこれで確約されましたので、これからは、そこに向って全てが進んで行く事になります。

そして、天岩戸開きはこれが最初で最後ではなく、この後、何回か行われる事になります。(おそらく、全部で5回)
最後の岩戸が開かれた時、日出る神国・日本に花咲く都・黄金文明が誕生する事になるでしょう。
そして、それは全世界に波及し、その後千年間(至福千年王国)に亘って、日本は世界の精神的中心となるでしょう。

意識変革の風

今年も残すところ、明日の大晦日一日だけとなりました。
今年2010年、平成22年は、私達人類に、意識変革を迫る風が、本格的に吹き始めた年だと言えるかも知れません。

そして、この意識変革の風は、来年、さらには再来年と、さらに加速していく事になります。
21世紀という今この時、しかも、日出る神国・日本に生まれ合わせて来た私達日本人は、好むと好まざるとに関わらず、さなぎから蝶へと生まれ変わるように、大きく変わらざるを得ないのです。

何故なら、地球が新しく生まれ変わり、新たな地球が誕生しようとする、今というこの時に合わせて、我が魂は、この時空にやって来たからです。
意識が飛躍的に進化して、さなぎから蝶へと生まれ変わるように、大変革を遂げる為の準備は、着々と整いつつあります。

地球の新たな誕生に合わせて宇宙から降り注がれるエネルギーが、大きなうねりとなって、私達一人一人の意識を、さらなる高みへと導いて行く事でしょう。
あたかもジェットコースターにでも乗っている如く、制御不能と思える位の猛スピードで、これから私達は、新たな地点へと意識をシフトさせていく事になります。

あまりにも猛スピードで突き進んで行く為、気の遠くなるような思いの連続で、ジェットコースターを降りたくなるかも知れませんが、もう乗ってしまっているので、降りる事は出来ません。
何故なら、本源の我、真我である我が魂、我が人生の主体者・創造主が、そうと決めて、この人生を創造して来たので、既にレールは敷かれてしまっているのです。

あとは観念して、むしろ開き直って、我が魂が敷いたレールの上を、淡々と進んで行くしか道はなさそうです。
どうせ進んで行くのであれば、楽しみながら進んで行くほうが、面白さを味わえる筈です。

本当の自分自身である我が魂が敷いたレールなので、決して自分自身にとって悪いようにはなっていないのです。
むしろ、自分の進化の為に、最善のルートが設定されています。
今はまだ、分からなくても、後で分かります。

自分自身を信頼して、前進あるのみです。
変革の風は、少々風当たりが強く感じられるかも知れませんが、見方によっては、とても心地よく感じられる事でしょう。
今、意識変革の大きな風が、母なる星・地球に、そして、そこに生きる私達一人一人に吹いて来ています。

弥勒世とは今ここにある

弥勒世という言葉があり、地上天国とでも呼ぶべきパラダイスのような世界を表している言葉だと思われます。

そして、地上天国とも言える新たな黄金文明、花咲く都は、この21世紀に日本を中心として地球上に花開く事になっています。
その世界の事も、弥勒世というように表現出来るかと思います。

しかし、本当は、弥勒世とは、どこか遠い未来にあるとか、ある形の中にあるとかではなく、今、ここにあります。
ここが既に弥勒世だと知る事が大切になります。

この世界は、神が創り賜うた美しき世界です。
例え美しくないように見える部分・紋様があったとしても、それらも含めて、清濁併せ持った美しさの中にあります。

私達人間は、近視眼的なものの見方しか出来ず、様々な紋様を見て、この世界は美しくないと感じたりしていますが、天の神仏の目から見れば、何一つ矛盾するものも欠けたるものもない、調和に満ちた美しき世界であり、この世界が既に弥勒世だと言えるかも知れません。

私達は、神が創り賜うた、この美しき世界、清濁併せ持った美しき世界に生かされ、生きているのであり、既に弥勒世に生かされ生きているのだと言えるかも知れません。

気の遠くなるような遠い未来を待たなくても、弥勒世とは、今、ここにあります。
ここが既に弥勒世だと知る事が大切であり、弥勒世とは、私達の心の中にあるとも言えるかも知れません。

この世界は自分次第

多くの人達は、現実世界とは、何か、確固とした客観的な世界だと考えているかも知れません。
しかし、何度も書いているとおり、自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、インナーワールドです。
自分の脳の中にある、心の心象風景とでも呼ぶべきものを、空間というスクリーンに映し出して見ているだけなので、言わば、映画やテレビを見ているのと同じような状態だと言えるかも知れません。

ですから、自分が見ている現実世界とは、自分の内面の世界なので、どこまでも、主観の世界であり、客観的世界など、何処にもありません。
自分と世界は一つであり、自分と空間は別れてはいません。

この事が分かれば、この世界は自分次第だという事が分かります。
自分の外に、何か確固とした客観的な世界があるのであれば、もし自分が見ている世界を変えたいと望んだ場合、世界に対して変革を迫る闘いを挑まなければいけなくなります。

しかし、自分と世界は一つであり、分かれている訳ではない事が分かると、自分が変われば世界が変わるので、世界を変えたければ、自分自身が変われば良いという事が分かるかと思います。
自分自身が変われば、世界の見え方が、まるで変わってしまいます。

現実世界とは、自分の外にある、断固として微動だにしない敵のような存在ではなく、自分の内面の世界なので、言わば自分自身であるとも言えるので、敵ではなく味方であり、友達のようなものだと考えてもいいかも知れません。

ですから、現実世界という、この空間を最高の友として遊んでいけばいいと言えるかも知れません。
自分の心を、あたかも鏡に映し出すが如く如実に映し出して見せてくれますので、空間というスクリーンに映しだされた自己の内面を見ながら、瞬間瞬間の創造を楽しんでいけばいいという事になります。

もし、今、自分の目に映る世界が美しく感じられないとしたら、それは世界が美しくないからではなく、自分の心が美しさを感じられないだけなのです。
自分の心が美しくなればなる程、現実世界はより一層美しくなり、輝きを増します。

自分が見ている現実世界とは、自分の内面の世界であり、自分と世界は一つであるという事は、世界は我が手の内だという事にもなりそうです。
この世界は自分次第でどうにでもなる、魔法のような不思議な世界だと言えるかも知れません。

全ては愛のメッセージ

自分が見ている現実世界に映る様々な人や出来事の全ては、私に向けての愛のメッセージだと言えるかも知れません。
自分の目に映る様々な人や出来事などの紋様は、自分に何かを気付かせてくれる、教えてくれる為に存在している、愛のメッセージなのかも知れません。

コンピューターには基本ソフト・OSが入っているように、私達の人生にも、基本となるソフト・OSがあります。
その基本ソフトの名は、「魂の進化」と呼ばれるものであり、私達の人生とは、「魂の進化」というプログラム上に存在していると言えます。
「魂の進化」というプログラムを体験する場が、私達の人生であると言えるかも知れません。

そして、自分が体験するプログラムとは、私の唯一のプログラムであると言えます。
一人一人が皆それぞれ違うプログラムを体験するので、私が体験するプログラムは私の唯一のプログラムであり、私のプログラムは全て、私の「魂の進化」の為に存在していると言っても良いかと思います。

ですから、自分の目に映る現実世界の全ては、私の「魂の進化」の為に存在しているという事になります。
既に何度も書いているとおり、自分が見ている現実世界とは、自分の意識を空間というスクリーンに投影した自分の内面の世界、言わば、インナーワールドなので、本当は、外の世界に誰もいる訳ではないのです。
自分の脳の中にある、心の心象風景とでも呼ぶべきものを、空間というスクリーンに映し出して見ているだけなので、言わば、映画やテレビを見ているのと同じような状態だと言えます。

そして、そこに映る様々な登場人物や出来事などの紋様は、我が心を開放する為に現れているだけだと言えます。
自分自身に何かを気付かせてくれる為、何かを教えてくれる為に、映っているだけなので、目に映る全ては愛のメッセージだと言えるかも知れません。

そんなに悩まなくてもいいよ、とか、そんなに悲しまなくてもいいよ、とか、そんなに苦しまなくてもいいよ、とか、もっと笑ってごらん、とか、ただ喜びを感じていればいいんだよ、とかいうような、愛のメッセージを携えて、我が心の開放を促してくれているだけだと言えるかも知れません。

自分の気に入らない事をすぐに、イヤだとか、苦しいとか、悲しいとか、不幸だとか、不運だとか決め付けてしまう癖、言わば、心の中の硬くこり固まった部分を解きほぐしてくれる為に、様々な登場人物や出来事が、「魂の進化」というプログラム上に現れて来てくれているだけだと言えるかも知れません。

様々な登場人物や出来事を使って、様々な場面の中で、心を無地・透明にして、いずこにもとらわれない心、言わば、タイタン(巨人)のような心を創れるように、我が心の開放を促してくれているだけなのかも知れません。

我が心の開放こそが求められています。
全てを喜びと感じられる心、満ちる心を創れるように、目に映る様々な人や出来事が、愛のメッセージを携えて、我が心の開放を導いてくれています。

全てを喜びに変える創造

以前のブログにおいて、「生きるとは創造する事」というタイトルで、生きる事の全ては創造する事である、という内容の事を書いた事があります。

私達が、何かを思ったり、何か体を動かしたりする事の全ては、何かを創造しているとも言えるので、私達は、毎瞬毎瞬、何かを創造し続けているとも言えます。
ですから、瞬間瞬間、何かを創造しながら、自らの創造を楽しんでいく事が大事だと言えます。
生きるとは創造する事であり、生きる喜びとは、創造する事の喜びだと言えるかも知れません。

そして、ここで大切なのは、全てを喜びに変える創造をしていくという事です。
出会う全ての場面の中に面白さを発見し、喜びの中で次なる場面を創造していくという事が大切になります。

人や自分自身に腹を立ててみたり、誰かに八つ当たりしたりするような、空間が荒ぶれる創造ではなく、空間が喜びに変わるような創造を意識的に行っていく事が大切になります。
既に何度も書いているとおり、自分と空間は一つであり、別々のものではないので、空間に対して行った事は、必ず自分自身に返って来ます。

空間が荒ぶれるような創造をすれば、必ず自分自身の心が荒ぶれる事になります。
そして、空間を喜びに変えるような創造をすれば、自分自身の心も喜ぶ事になります。

本来、私達人間は、全ての事を喜びと感じられるように創られています。
しかし、否定的想念が、中毒のように染み付いてしまっている為、あまり喜びを感じられない状態で生きている人が多いかと思われます。

本源の我、真我とも言うべき我が魂、我が人生の創造主である魂にとっては、全ての体験が喜びであり、魂を進化させる為に創造した事なので、魂の目から見れば、苦というものはなく、全ては喜びでしかありません。
しかし、私達の肉体の自我意識は、あまりにも肉体というものに囚われすぎている為、本源の我である魂の意図が分からず、様々な出来事をつらく苦しく捉えがちになってしまいます。

地べたを這う芋虫のような、近視眼的な目でしか、私達の肉体の自我意識は物事を捉えられないので、様々な出来事をつらく苦しいと言って大騒ぎしていますが、本源の我である魂は、鳥瞰図という言葉があるように、大空を舞う鳥のような、高所・大局的観点から、魂の進化にとって最適な体験を創造しているので、全ては最善の為に起きており、全ては喜びの体験だというのが真相だと言えます。

自分の人生の主体者・創造主は、本源の我、真我である我が魂なのだという事をしっかりと頭に入れておかないと、ともすれば、自分という者が、人生の被害者であるかのような錯覚に陥ってしまいます。

偶々自分がこの世に生まれて来て、人生とは苦の娑婆であり、生きるという事が、あたかも、何か重い罰を払ったり、長い刑に服したりするような、牢獄のような世界であるかのように感じられてしまうかも知れません。

現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、自分と空間とは一つなので、自分が人生とは苦の娑婆だと思えば、世界はそのように見せてくれますし、人生とは楽園のような世界だと思えば、世界はそのように見せてくれます。

自分が出会う場面の中で、それを喜びとは中々感じられず、つらく苦しいとしか感じられないとしても、少なくとも、次なる場面は、それを喜びに変える創造をしていく事が大切であり、苦しいからといって、空間が荒ぶれる創造に陥らないように、意識していく事が大切だと思います。

その事を意識的に習慣化していけば、出会う様々な場面の中にも面白さを発見し、喜びの中で、次なる場面を創造していく事が、だんだん出来るようになっていくと思います。
面白がる力、遊ぶ力、楽しむ力こそが、心の実力であり、心の余裕であり、創造力であるとも言えるので、様々な場面に一喜一憂したり、あまり囚われたりする事なく、全ての場面を面白いと感じながら、全てを喜びに変える創造を行っていく事が大切だと思います。

クリスマス、イエス・キリストの再臨と至福千年王国

本日12月25日は、クリスマスです。
全世界に20億人以上いるとされているキリスト教徒達は、イエス・キリストの生誕を熱心に祝い、特にキリスト教徒という訳ではない日本人の多くの人達も、クリスマスパーティーを盛大に祝っている事と思います。

イエス・キリストは、人々を導く為に天から遣わされた、人類の偉大なメッセンジャーなので、キリスト教徒であるなしに関わらず、その生誕を祝う事は、喜ばしい事だと思います。
そして、キリストだけではなく、仏陀やマホメットなど偉大な聖人と言われている人達も、やはり、天から遣わされたメッセンジャーなので、その宗教を信じている・いないに関わらず、人類の偉大な先人として、尊敬と感謝の想いを持つ事は良い事だと思います。

ただ、ここで大切なのは、彼らだけが特別な存在なのではなく、私達一人一人の人間の中にも、キリストや仏陀と同じ聖なる光が内在している事を想い出す事が必要になります。
神道的に言えば、神性、仏教的に言えば、仏性、キリスト教的に言えば、キリスト意識とでも呼ぶべき、聖なる光が、私達人間一人一人の中には、内在しています。

そういう意味においては、私達一人一人は、人類の偉大な聖人達と同等の潜在能力を秘めているので、その事を決して忘れないようにする事が大切になります。

人間が本来潜在的に持っている可能性に気付いてもらう為、想いだしてもらう為に、天から遣わされたメッセンジャーが、キリストや仏陀などの聖人達なので、彼らだけを特別な人間とみなし、自分は価値の無い小さな存在だとみなすのは、彼らを遣わされた天の御心からは、ずれているという事になります。
そして、メッセンジャーであるキリストや仏陀自身の意図するところからも、ずれているという事になりますので、決して彼らメッセンジャーを、人類の唯一の救い主のように崇め、すがり、依存したりしないように、意識していく事が大切になります。

今までの人類は、まだ成長途上で半人前だった為、自分の外に神を見るという、宗教という松葉杖が必要でしたが、そろそろ成長して一人前の大人になろうとしている時期なので、これからは、外にではなく、自分の中に神を見る時代に入っていきます。
私達人間一人一人の中に内在する、神性、仏性、キリスト意識と呼ばれるような、聖なる光を想い出し、蘇らせ、顕現していく時代を迎えようとしています。

キリストや仏陀などの聖者、あるいは、天の神や仏に救ってもらおうと依存するのではなく、自分自らが自分自身を救う時を迎えようとしています。
自分自身こそが、自分自身の救い主なので、徒に聖者や神仏にすがろうとせず、自分の中にある神性、愛(女性原理)と力(男性原理)を想い出し、蘇らせ、それを顕現して、自分自らが光を放つ存在になる時代を迎えようとしています。

多くのキリスト教徒達は、終末の日に、イエス・キリストが再臨して最後の審判を行い、神の国を確立すると考えているかも知れません。
いつか機会があれば、はっきりと書いてみたいと思いますが、確かに、イエス・キリストの再臨というものは、この21世紀に行われる事になっています。

しかし、人類を救う為にキリストが再臨して来るのではなく、私達人類が自らを救い、至福千年王国とでも呼べる新たな黄金文明を実現させる準備が出来た時、イエス・キリストは再臨して、私達人類の前に姿を現す事になります。

キリストが再臨して人類を救うのではなく、私達人類が、私達の中に内在するキリスト意識を顕現して新たな誕生を迎えた時に初めて、キリストは再臨して、人類の前に再び姿を現す事になります。
2000年前にキリストを地上へと遣わされた、「天にまします父」によって、キリストは再び地上に遣わされ、再臨する事になります。

もし仮に、私達人類が、人間が持つ潜在能力を発揮して、私達自身を救おうと自発的に行動しなければ、私達人類は、自己破滅の道を辿る事になってしまいます。
まさに、「天は自ら助くる者を助く」ので、自ら助けようとしない場合、このままでは人類は自己破滅に向うしかなくなります。

そして、私達人類が自らを救い、新たな人類として蘇った時、天は助けとしてキリストを再び地上に遣わし再臨させ、天と地との新たな友好関係が、そこから始まる事になります。

キリストが再臨した時、聖書に記述されている内容の真実が明らかにされるとともに、天界の奥義が伝授される事になるでしょう。
「あなたがたは、天国の奥義を知る事が許されている」(「マタイによる福音書」第13章11節)
天国の奥義とは、人類に幸福をもたらす様々な英知やテクノロジーなどの科学技術であり、私達人類は、天界との新たな協力関係のもと、文字通り、至福千年王国とでも呼ぶべき、新たな黄金文明を築き上げる事になるでしょう。
仏教的に言えば、弥勒世という事になります。

この21世紀に実現しようとしている、至福千年王国、弥勒世という、私達人類の明るく輝く未来に想いを馳せながら、クリスマスの今日、人類の偉大なるメッセンジャー、イエス・キリストの生誕をお祝いしてみるのも良いかも知れません。

神道(八百万の神)と、アニミズム(精霊信仰)

今夜は、クリスマス・イブです。
特にクリスチャンという訳でもない日本人の多くの人達も、今日・明日にかけて、キリストの誕生を祝い、盛大にクリスマスを祝う人達が多い事と思います。

あと一週間程して新年を迎えると、今度は、神社に初詣に行く事でしょう。
そして、人が亡くなると、今度は仏教でお葬式をあげる人が多いと思います。

このように、私達日本人は、神道、仏教、キリスト教という、異なる宗教を、何気なく日々の生活の中に取り込んで生きています。
宗教というものに対して、無節操とも言えるような日本人の態度は、海外の一神教の人達から見れば、ちょっと考えられないような事かも知れませんが、ある意味においては、とてもおおらかで、懐が深いとも言えるかと思います。

このようなおおらかさ、懐の深さというものは、八百万の神を信仰する神道という多神教、そして、日本人が古来持っていたアニミズムというものと、深く関係があるのかも知れません。

古来、日本の先住民である縄文人は、生きとし生ける全てのもの、即ち、万物には精霊が宿るというアニミズムを信仰していたと言われています。
アニミズムとは、汎霊説、精霊信仰などと訳されていますが、私達日本人の中には、こういった自然崇拝、精霊崇拝というものが、原点としてあったと思われます。
その後、弥生時代には、海を渡って渡来して来た弥生人との交流・融合・混血が進む中で、八百万の神を信仰する神道というものが体系化されていき、私達日本人の宗教観というものを、深く形成していったのだと思われます。

八百万の神を戴く神道という多神教を信仰する日本人の感性が、イエス・キリストや仏陀をも、一柱の神として受け入れられるおおらかさ、包容力につながっているのかも知れません。

私達日本人や日本国は、大和民族、大和の国、大和心、大和魂など、大いなる和「大和」という言葉で表現されます。
これからの新しい地球に、大いなる和、即ち「大和」を実現させ、世界平和を実現させるのは、大和心を持った私達日本人なのです。

中東に代表されるような、一神教を信仰するあまり、自らが信じる神だけを唯一絶対の神とし、他の宗教の神を否定するような民族や国家は、紛争を解決する事も出来ず、とても世界平和を実現させる中心的役割を果たす事は出来ません。

大いなる和の心「大和心」を持った私達日本人こそが、中東に代表されるような対立・紛争を大きく包み込み、大いなる和「大和」を地球にもたらし、世界平和を実現させていく役割を担っている事を自覚する事が大切だと思います。

長く続いた縄文時代は、ほとんど戦いや争いが無い時代だったと考えられています。
東洋の東端にある島国・日本は、元々、アニミズムを信仰する縄文人によって、長く平和な時代が続いていましたが、その後、大陸から弥生人が渡来して来た事により、様々な対立・闘争などを経験しながら、異質なものを取り込み、異質なものと独自のものを融合させながら、独自の文化を熟成させて来たのだと考えられます。

先住民である縄文人が信仰してきたアニミズムと、大陸からの渡来人との交流・融合の中で体系化されていった、八百万の神を戴く多神教である神道こそが、21世紀の現代に生きる私達日本人が、これからの新たな地球を開く中心的役割を果たし、花咲く都・黄金文明をもたらし、世界平和を実現させる上において、とても大切な働きをしているのだと思われます。

平成とは、イワト(平=一八十)成る時代

本日12月23日は、天皇陛下の77歳の誕生日にあたり、祝日となっています。
昭和天皇が崩御されてから、元号が平成に改まりました。

平成という元号の由来は、「史記」の「内平外成(内平らかに外成る)」、「書経」の「地平天成(地平らかに天成る)」から来ており、「内外、天地とも平和が達成される」という意味だとの事です。
「成」が付く元号は、日本では初だとの事です。

実は、平成という言葉には、イワト(平=一八十)成るという意味が隠されており、平成とは、イワト(平=一八十)成る時代を表しています。
もちろん、これは、裏に隠された神の意図・図りの話です。

人間サイドでは、当時の竹下首相を中心とした関係者によって、上記の中国の故事から元号を決めているだけなので、「岩戸成る」という意味を込めて、竹下首相達が決めたわけではありません。
しかし、私達人間は、自分の力だけでは一呼吸も出来ない存在であり、神に生かされている存在なので、人間の力でやっているように見えても、何一つ人間だけの力で出来る事はなく、森羅万象の背後には、必ず神の意図・図りが働いています。

この平成という元号も、当時の竹下首相を中心とした関係者によって、中国の故事から付けられた元号ですが、その背後には、平成の時代とは、イワト(平=一八十)成る御世だという神の真意(神意)が隠されています。
この平成の時代の中で、日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本は、岩戸成る御世を迎える事になります。

人間の場合もそうですが、新たな誕生というものは、大変な陣痛を伴います。
日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本が岩戸成る御世を迎える前には、大変な陣痛(神通)を伴うかも知れません。

間もなく新年を迎えますが、来年あたりから、出産に向けての陣痛(神通)が本格的に始まるかも知れませんので、それなりの覚悟は必要かも知れませんが、その先に待っているのは、花咲く都・黄金文明とでも呼ぶべき真の大和の国の国創りであり、岩戸成る弥勒世の始まりなのだという事を忘れずに、産道を歩んで行く事が大切だと思います。

冬至、一陽来復、七福神の到来

本日は、冬至です。
陰の気が極まって陽の気が生ずる時でもあり、一陽来復でもあります。
一陽来復には、難が去って福が来るという意味も含まれており、一陽来復の来復=来福という意味でもあります。

難を去って福をもたらすのは、七福神の働きでもあります。
福の神は、七福神としてやって来ます。
七福神の到来です。
七福神とは、恵比寿、大黒、弁財天、毘沙門天、福禄寿、寿老人、布袋様の事を言います。

一昨日、ブログの中で、「徐福伝説と七福神の宝船」というタイトルで、七福神についても触れていますので、ご覧頂けると幸いです。

まもなくお正月を迎え、全国各地の神社などでは、七福神をあしらった様々な縁起物が目を楽しませてくれます。
私は、日本のお正月が大好きです。
初詣で賑わう神社の中で、七福神をあしらった縁起物などを眺めていると、日本という国に生まれて来たありがたさを、しみじみと感じたりします。

私達日本人の遺伝子の中には、七福神というものに対する、とても深い祈りや願いが入っているような感じがします。
私達日本人にとって、七福神とは、幸福をもたらしてくれる福の神のイメージそのものなのかも知れません。

日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本も、そう遠くない将来、陰極まって陽に転じる時、一陽来復の時を迎える事になります。
その時こそが、七福神の到来の時になります。

CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録曲、「七福神の宝船」は、その事を歌っていますので、ぜひお聴き頂けると幸いです。

皆既月食、月が蘇る型、月読命の蘇り

本日、3年4ヶ月ぶりに、皆既月食が観測されました。
皆既月食とは、満月の時に太陽と地球、そして月が一直線に並ぶと、太陽の光が遮られて満月が赤黒く輝く天体現象の事です。

ほとんどの方が、ニュース等でご存知かと思いますので、一般的な皆既月食の話ではなく、別の角度からの皆既月食の話を書いてみたいと思います。

私達の魂は、月に例えられる事があり、月とは、魂の象徴でもあります。
そして、満月とは、魂が完成した姿を表しており、魂の出産、言わば、人となりが完成して神人となった状態を象徴しています。
月とは真中であり、真中の型示しが月なのです。

かいき(皆既)月食とは月が蘇る型でもあり、かいき(回帰)月食という意味でもあり、隠れていたものが表に表れる型でもあります。
蘇る為には元に返らなければならず、元に返って蘇るのであり、元に返らなければ蘇る事は出来ないという事になります。

魂の蘇り、魂の出産、真中、満月とは、御神名で言うと、月読命(ツクヨミノミコト)の蘇りという九十(こと)になります。

古事記には、神界の仕組みが隠されており、魂が出産して人が神として誕生するまでの内的なプロセスが、色々な場面設定を使って象徴的に描かれています。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)が、黄泉の国から蘇って(黄泉帰って)から、禊祓えをされた後に、次々と神々が生まれ、一番最後に誕生されたのが、三貴子として有名な、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)です。

天照大御神と須佐之男命は、その後の物語の中でも大活躍され、天岩戸開きの場面や、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する場面など、日本人なら誰でも知っている有名な神話の中心的役割を演じられる事になりますが、何故か、月読命だけは、その後の物語には登場しません。

伊邪那岐命の左目から天照大御神が、右目から月読命が誕生したと書かれているとおり、天照大御神と月読命は、一対の関係にあります。
一日に昼と夜があるように、太陽(天照大御神)が治める昼と、月(月読命)が治める夜があるように、光と闇があるように、それらは一対の関係であり、二つで一つ、お互いにとって無くてはならない関係になります。

そして、伊邪那岐命の鼻から誕生したのが、須佐之男命です。
天照大御神と月読命を統合した働きが、須佐之男命であり、須佐之男命が中心の神になります。
須佐之男命が中心の神であるのは、型でも表されています。
鼻とは、顔の中心であり、顔の中心である鼻から誕生したのが須佐之男命であるという表現によって、須佐之男命が中心の神である事を象徴的に言い表しています。
そして、中心の神であるスサノオが、天照大御神と月読命の働きを統合させて、中心の神としての本来の働きをした時、カムスサナルノオオカミとなります。

月は、太陽の光によって輝いています。
本日あった皆既月食とは、満月が地球の影に隠れて太陽の光を遮られてしまう事によって起きた天体現象です。
地球の影に隠れて太陽の光が遮られ、輝きを一旦失った満月は、太陽の光に照らされる事によって、再び輝きを取り戻し、光輝く満月となります。

これと同じように、魂の蘇り、魂の出産、真中、満月、月読命の蘇りとは、天照大御神の天岩戸開きと同じ九十(こと)なのです。
古事記の中で、天照大御神が天岩戸の中にお隠れになった事によって、天も地も暗闇になってしまい、やがて、天照大御神が天岩戸開きによりお姿を現された九十(こと)により、天も地もともに明るくなったと書かれています。

太陽の光に照らされて月も輝くので、天照大御神の天岩戸開きと、月読命の蘇りとは、同じ九十(こと)を表しています。
そして、古事記の中では、別の場面設定を使って、伊邪那岐命の黄泉の国からの蘇り(黄泉帰り)、あるいは、スサノオの八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治のストーリーなどで表しています。

場面設定と登場人物は違いますが、魂の蘇りというテーマを、様々な形で象徴的に言い表しています。
月読命の働きは隠された働きなので、古事記の中には、月読命の蘇りは書かれていませんが、天照大御神と月読命の働きを統合したスサノオの蘇りの中で、月読命も蘇る九十(こと)になります。
月読命(ツクヨミノミコト)のヨミとは、蘇り(黄泉帰り)を表しており、月の蘇り、即ち、魂の蘇りを表している御神名になります。

私達一人一人の中に、内なる神性が内在しており、天照大御神という御神名は、私達の中にある中心の光をも表しています。
私達一人一人は、その内なる中心の光を、心の奥深くにある岩戸の中に閉じ込めてしまいました。
今こそ、心の奥深くにある岩戸の中に閉じ込めてしまった、中心の光である天照大御神を岩戸の外に開放し、本来の輝きを取り戻す時であり、それは即ち、魂の蘇り、魂の出産、真中出し、月読命の蘇り、満月の輝き、という九十(こと)になります。

次回の皆既月食は、来年2011年、平成23年6月16日になります。

徐福伝説と、七福神の宝船

徐福伝説というものがあります。ご存知の方も多いかも知れません。
今から2200年程前、中国の徐福という人物が、秦の始皇帝の命を受け、東方の三神山(蓬莱など)にある不老不死の霊薬を求めて旅に出たとされており、徐福は最終的に日本に辿り着き、日本で天寿を全うしたとも言われています。

日本の各地に、徐福伝説ゆかりの地があり、佐賀県の金立山なども、その一つです。
金立山にある金立神社には、徐福が御祭神として祀られているとの事です。
金立山で採れる、フロフキ(カンアオイ)という植物の名前は、不老不死から来ているとも言われています。

徐福は、若い男女や、百工とも呼ばれる、多くの技術者達からなる、3000人もの大集団で、稲など五穀の種や、農耕や医療、金属加工などの様々な技術を船に積んで、日本にやって来たとも言われています。

間もなくお正月を迎えますが、お正月には、七福神や、七福神の宝船をあしらった縁起物が、神社を始め、色々な形で登場して目を楽しませてくれます。
七福神や、七福神の宝船というイメージは、私達日本人の心の中に、深く根付いている感じがします。

普段はあまり意識されていなくても、お正月という、日本人にとって最も大切で晴れがましい年中行事の舞台で登場して来るのは、それだけ、日本人の中にある幸福のイメージと、七福神、そして、七福神の宝船についてのイメージが重なる部分が大きいからだとも考えられます。

そして、七福神や、七福神の宝船には、そのモデルとなった人物達や、出来事があるとも考えられます。
それまでの日本には無かった、稲などの五穀の種、様々な技術などを船に積んで、颯爽と日本にやって来た渡来人達の姿から、七福神や、七福神の宝船のイメージが出来上がったのかも知れません。
七福神の中で、純粋に日本の神様とされているのは恵比寿様だけであり、中国やインドの神様が多くを占めているのも、大陸からの影響を感じさせます。

そして、徐福伝説が、七福神の宝船のモデルになったのかも知れません。
稲などの五穀の種(とその栽培法)、土木建築や鍛冶、医療などの様々な技術、言わば、当時としては世界最高の先進文化を携えて日本に渡来して来た徐福達一行の船が、金銀財宝を山のように積んだ七福神の宝船のイメージの原型になったのかも知れません。

徐福は、蓬莱山の辺りに来て住み着き、その子孫は、秦王国出身という事で、みんな秦氏を名乗るようになったとも言われています。
蓬莱山が何処だったのかについても、富士山を始め、諸説あるようですが、それはともかく、この徐福伝説というものは、私達日本人にとって、とても深い関係があるように思われます。

日本人を日本人たらしめているとも言える、お米というもの、稲の種を始めとした五穀の種を積んで日本に渡って来た渡来人達の船が、五穀豊穣をもたらし人々に幸福と繁栄をもたらす七福神の宝船のイメージとなり、私達日本人の心の中に、大切に保存されて来たのかも知れません。

お正月を彩る七福神、そして、七福神の宝船の晴れがましく目出度い美しさには、私達日本人が古来大切にしてきた、とても深い祈りや願いが込められている感じがします。


現界(現実)の中に神界がある

神界という言葉を聞くと、現実界とは遊離した、どこか遠くの世界をイメージする人がいるかも知れません。
しかし、神界というものを、どこか遠くに探し求めなくても、神界とは、この現実界の中にあります。

神の図りは、必ず現象を通して表れてきますので、もし、神の図りを知りたければ、現象を見るのが一番だと言えます。
世の中で起きている森羅万象の全てには、神の意図・図りが入っていますので、この現実界の中に神界があり、この現実界こそが神界だと言ってもいいかも知れません。

例え人間がやっているように見えても、私達人間は、自分の力では、一呼吸すら出来ない存在であり、神に生かされている存在なので、厳密に言えば、人間がやっている事は何も無い、とも言えます。
同様に、動物や植物も神に生かされている存在なので、動植物がやっている事も本当は何も無く、雨・風などの気象や自然現象も含めて、全ては神が動かしていると言えるので、この現界(現実)こそが神の図りの表れであると言えます。

したがって、現実こそが神界なので、現実の中に神を見、現実の中に神の図りを知り、現実の中に神の本体を知る事が大切になります。
現実と神界を遊離させない事が大切になります。

全ては神の経綸によって動いており、神の経綸は、必ず現象を通して表れて来ますので、神の経綸を知りたければ、現象を注意深く見るのが一番だと言えます。
逆に言えば、現実を見ようとせずに、現実界とは違うどこかに神界を探してみたところで、大きな勘違いにしか過ぎないという事になります。

決して現界と神界を遊離させる事なく、現象を通して表れて来る神の図りに意識を向けながら、神の経綸の中で生かされている自分の現実というものを、しっかりと生きて行く事が求められています。

全ては原因、全ては結果、そして、全ては意味の付け方次第

以前、原因と結果というものについて、ブログに書いた事があります。
原因があって結果があるというより、原因は結果により選ばれている、という内容で書かせていただきました。
本日は、この点について、さらに話を進めてみたいと思います。

あの時あのブログを書いたのは、多くの人達が、原因分析という思考パターンに嵌っている感じがしたので、その思考パターンを逆に切り替える一つのきっかけにでもなれば、という思いがありました。
原因があって結果がある、という思考パターンの背後には、時間の流れが、過去→現在→未来というふうに流れていて、過去があって現在がある、という認識が無意識のうちに入っているようにも感じていたからです。

何度かブログに書きましたが、時間というものは幻想であり、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき瞬間しか存在していないので、本当は時間は流れている訳ではなく、過去も未来も今同時に存在しているのですが、敢えて時間の流れという事をいうならば、未来→現在→過去という流れになります。
その観点に立つと、原因と結果の関係というものも、原因があって結果があるというより、原因は結果によって選ばれている、という言い方の方が、より的確な言い方になると思い、ブログに書かせていただきました。

しかし、原因と結果というものをもっと本質的に捉えるならば、原因と呼んでいるものも、結果と呼んでいるものも、全ては、意味付けをしているだけの事であると言えそうです。
ある事柄を原因と呼び、ある事柄を結果と呼んで、そこに因果関係が感じられたとしても、自分がそう思い、そのように認識しているだけの事であり、自分がそのような意味付けをしただけであると言ってもいいかも知れません。

全ては連続した中にあるので、ある結果と言われるものも、今度はそれが原因となって次なる状況、次なる結果を創っているという見方も出来るので、そういう意味では、全ては原因、全ては結果であると言う事も出来るかも知れません。
そして、ある事柄を原因と呼び、あるいは結果と呼んでみたところで、それは自分の付けた意味合い、認識にしか過ぎないという事になります。
Aという事柄を原因と呼び、Bという事柄を結果と呼んで、そこに因果関係を付けてみたところで、それは自分の認識にしか過ぎず、本当のところは、分からないと言えそうです。

それが分かれば、そのような意味付けの旅から、そろそろ卒業出来るかも知れません。
様々な事柄を原因と呼び、結果と呼んで、様々な因果関係を見つけてみたところで、自分がそういう意味付けをしただけの事であり、そういう認識をしただけの事であって、本当のところはよく分からないのだと気付けば、原因とか結果というものに対する認識を、もっと淡く捉えていけるようになるかも知れません。


大変とは、大きく変わる事

大変という字は、大きく変わると書きます。
大変だからこそ大きく変われるとも言える訳であり、逆に言えば、大変でなければ大きく変わるのは難しいとも言えるかも知れません。
そういう意味では、大変な時期というのは、自分が大きく変われるチャンスであるとも言えそうです。

今、人類の意識が飛躍的進化を遂げ、地球そのものも、新たな星に生まれ変わる時期を迎えていますので、大変革の波が、私達人類と地球に押し寄せて来ています。
その大きな波は、私達一人一人に、意識変革を促さずにはおきません。
私達の意識をさらなる高い位置へとシフトさせるよう、私達は導かれて行きます。

今、地球上で起きている様々な出来事の全ては、人類の意識に変革をもたらし、飛躍的進化させる為に起きていると言っても過言ではありません。
一人一人が、意識をさらに進化させる事を天から求められているので、全ての人々が、この意識変革の風を受ける事になります。
全ての人が、大きく変わらざるを得ないという意味においては、今の時代、この地球上に生きる人間で、楽な人は一人もいないと言ってもいいかも知れません。

どんなに人々から羨ましがられるような身分の人であったとしても、自分自身が、意識をさらに進化させて行く以外に、永遠の幸福へと至る道は用意されていないので、必ずそのように導かれて行きます。
例えどんな名声を得ようが、大成功を収めようが、どんな偉業を成し遂げようが、そこに答えは無く、最終的には、心を純化させ、意識を福化させ、全てを喜びと感じられるような意識状態、言わば、天上界へと向う道以外には、答えは用意されていないからです。

人類始まって以来とも言うべき大変革をこれから経て、さなぎから蝶へと生まれ変わるように、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える事になるでしょう。

今年2010年、平成二十二年も、間もなく終わります。
来年2011年、そして再来年2012年にかけて、大変革の波は、さらに一段と加速して行きますので、様々な出来事や状況に一喜一憂する事なく、自分が大変革の時代に生まれ合わせて来たのだという事を自覚して、大きく変われる今という時代の、変革の風を楽しみながら乗り切って行く事が大切だと思います。


個の花を咲かせる時

日本の象徴、霊峰富士の守り神とされているのは、木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)であり、全国の浅間神社で祀られています。
私は、コノハナノサクヤヒメという御神名を想う時、よく、「個の花の咲くや姫」というイメージが重なる事があります。

木花之佐久夜毘売の働きは、桜の花に象徴されています。
桜の花は、ピンク色をしていますが、赤と白を混ぜ合わせると、ピンクになります。
赤と白は、日の丸にも象徴されており、中心の赤玉は、女性原理であり、愛を表しています。神道の一霊四魂で言うと、和魂(幸魂と奇魂)という事になります。
白玉の方は、男性原理を表し、力を表しています。一霊四魂で言うと、荒魂となります。

神の働きである、女性原理と男性原理を、愛と力という言葉で表現出来るかと思いますが、力に裏打ちされた愛という、神の働きが、日の丸には象徴されています。
そして、赤玉(女性原理・愛・和魂)と白玉(男性原理・力・荒魂)を統合した働きが、ピンク色に輝く桜の花で表されており、それは、木花之佐久夜毘売の働きを象徴しています。

私達人間一人一人の中には、神の本質である神性、愛(女性原理)と力(男性原理)が内在しています。
その内なる神性を想い出し、蘇らせ、花開かせる時を迎えています。

日本の象徴・霊峰富士の美しく雄大な姿、そして、富士の守り神とされる木花之佐久夜毘売の働きを象徴している桜の花は、いずれも、男性性と女性性が統合された姿を表しています。

私達日本人が、内なる神性を蘇らせ、花開かせて、一人一人が個の花を咲かせる時、真の大和の国・神国日本が花開き、花咲く都とでも呼ぶべき黄金文明が、日本から世界へと拡がって行く事でしょう。

五十鈴(いすず)について

本日、思いがけず、五十鈴(いすず)という言葉が、目や耳から相次いで飛び込んで来たので、五十鈴(いすず)について、思いつくままに書いてみたいと思います。

五十鈴と言えば、奈良県の天河神社(天河大弁財天社)に古来より伝わる独自の神器として有名です。

天河神社(天河大弁才天社)のホームページによると、この五十鈴は、天照大御神が天岩屋戸にこもられたとき、天宇受売命(アメノウズメノミコト)が、ちまきの矛(神代鈴をつけた矛)をもって、岩屋戸の前にて舞を舞われ、神の御神力と御稜威をこい願われたことによって、岩屋戸が開かれ、天地とともに明るく照りかがやいたという伝承に登場する、天宇受売命が使用した神代鈴と同様のものであると伝えられているとの事です。

この五十鈴の特徴的な三つの球形の鈴は、それぞれ、「いくむすび」、「たるむすび」、「たまめむすび」という、魂の進化にとって重要な三つの魂の状態(みむすびの精神)をあらわしているとの事です。

そして、この五十鈴の清流のような妙なる音の響きによって、心身は深く清められ、魂が調和し本来あるべき状態に戻り、新たな活力が湧いてくるとの事です。

天河神社は、芸術・芸能関係者に縁の深い神社として有名ですが、この五十鈴は、芸能技芸練達の器教とされているとの事です。
天河神社の御祭神は、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)こと弁財天ですが、弁財天は、別名「妙音天」とも呼ばれているようです。

五十鈴という言葉で想い出すのは、伊勢神宮の内宮(皇大神宮)の御手洗場を流れる五十鈴川の事です。
五十鈴川に架かる宇治橋は、聖俗界を分ける境界だとも言われています。
ちなみに、この五十鈴川から、いすゞ自動車の社名が付けられたとの事です。

五十鈴という言葉でもう一つ想い出すのは、初代天皇・神武天皇の皇后である、媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)の事です。
飛鳥(明日香)の橿原神宮には、初代天皇である神武天皇と、皇后である媛蹈鞴五十鈴媛が御祭神として祀られています。

以上、五十鈴という言葉から思い付く事を、取りとめも無く書いてみましたが、この五十鈴(いすず)という言葉には、とても深い意味と言霊(ことだま)が秘められているような感じがします。

霊(ひ)の元・日本の天岩戸開き、富士は晴れたり日本晴れ、真の大和の国の国創りの時、天から鳴り響いて来る妙なる音、それが五十鈴(いすず)なのかも知れません。

次に来る精神文明の中心は日本

資本主義に象徴される物質文明も、まもなく終わりの時を迎えようとしています。
資本主義というのは、元々矛盾を抱えたシステムなので、とても永続するような類のものではなく、自らが抱える矛盾の故に、いずれは崩壊する運命にあります。
資本主義の象徴的存在であり、20世紀の超大国であったアメリカは、世界の覇権国でしたが、今や急速に力を失いつつあります。

今、西洋の時代から、東洋の時代へと移行しつつあります。
アメリカに象徴される、西洋の物質文明が崩壊した後、次に来るのは、東洋の時代であり、精神文明とも呼ぶべき新たな文明が幕開けする事になります。

そして、次に来る精神文明の中心となるのは、東洋の東端にある、日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本なのです。
世界の覇権は、アメリカから、東洋の日出る神国・日本に移行する事になります。
20世紀の物質文明の時代は、軍事力や政治力・経済力の力によって世界を支配する国が、世界の覇権を握っていましたが、次に来る21世紀の精神文明の時代の覇権国家は、それとは趣を異にします。

力によって世界を支配するのではなく、精神性の高さ、徳の高さ、霊性の高さ、人々を幸福にする技術力の高さなどによって、新たな地球をリードして行ける国家が次の時代の覇権を担う事になります。
そして、世界平和を実現させる中心的役割を果たし、世界中の国々から尊敬され、世界中の人々の精神的支柱となるような国家が次の時代の覇権国家になるという事なのです。

そして、その国こそが、大和の国、日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本なのであり、日本以外に、その大役を担える国は、ありません。
大和民族、そして、大和の国・日本こそが、地球が新たな黄金文明を迎えようとする今この時、その中心的役割を果たす為に、天の計画のもと、長い年月を掛けて準備されて来た民族であり、国家なのです。

今、日本人の多くは、色々な意味において、自身を失いつつあるかも知れません。
個人レベルでもそうですし、国家レベルにおいても、世界の中で急速に存在感が薄れつつある日本、そして私達日本人が、次の時代の世界をリードして行くとは、あまり想像出来ない人達もおられるかも知れません。

しかし、これは、大宇宙の計画として、遥か昔から決まっていた事であり、その計画に基づいて、私達人類は、必要なプロセスと経験を、一歩一歩着実に積み重ねて今日に至っています。
花咲く都とでも呼ぶべき新たな黄金文明を花開かせる為に必要なプロセスと経験を、私達人類は、数千年の歳月を掛けて積み重ねて来ています。
お金というものを発明し、金利という自然界には存在しないものを発明し、お金がお金を生むというマネーゲームが行き着いた最後に、天文学的な数字のデリバティブを破綻させ、今私達人類は、資本主義に象徴される物質文明の幕を、まもなく閉じようとしています。

一つの時代が終わった後には、ちゃんと次の新たな時代が用意されており、それが、地球の新たな誕生、花咲く都、黄金文明なのです。
そしてそれは、日出る神国・日本から始まります。

次の精神文明の時代には、日本が世界の中心になるので、世界に先駆けて、日本は、花咲く都とでも呼ぶべき黄金文明を花開かせ、世界をリードして行くようになるでしょう。
世界中の人々が、大和の国・日本、そして、大和民族の素晴らしさに気付き、日本を尊敬するようになり、後に続くようになるでしょう。

20世紀は、アメリカが世界の中心だったので、人々はアメリカに憧れ、Tシャツとジーンズを身に付け、コカコーラを飲んで、それがカッコイイと思っていました。
しかし、次に来る精神文明の中心は日本なので、世界中の人々が、日本に憧れ、日本から学び、様々なものを日本から吸収し、日本の真似をする事になるでしょう。
日本で流行っているものが、世界でも流行するようになるでしょう。
その時、日本は、観光大国になり、芸術大国にもなっている事でしょう。

今、私達は、大和心・大和魂を持った大和民族として生まれて来た自らのアイデンティティーを想いだし、蘇らせる時を迎えています。
これから本格化する大変革の時代の中で、時の到来とともに、多くの日本人が、遺伝子の中に眠る大和心・大和魂を蘇らせ、花開かせて、真の大和の国・神国日本を花開かせる時を迎えます。

東洋の時代の夜明けは近づいています。
そして、それは、日出る国・日本から始まります。
日本の象徴は、霊峰富士です。
富士の夜明けは日本の夜明け、そして、日本の夜明けは、地球・世界の夜明けです。

肉体という衣について

私達は、肉体という衣を纏って、この世を生きています。
そして、この肉体というものがある事が、多くの人にとって、悩みや苦しみの種となっているかも知れません。

病気や怪我をしたり、肉体を維持していく為には住む家を始め、毎日の食料や水が必要であり、その為にお金が必要となり、働かねばならず、肉体上の様々なコンプレックスを抱いたり・・・という具合に、肉体あるが故に様々な悩み・苦しみを感じておられる人達も多いかと思われます。

確かに、肉体という衣は、とても重苦しく感じられる面もあるかと思いますが、我が魂にとっては、肉体という乗り物が必要なのです。
本源の我、真我とも言うべき我が魂は、肉体という乗り物を使って遊びながら、魂の進化と呼ばれる、心の純化、意識の福化の旅をしている訳なのです。

そして、魂にとって、肉体という衣は、言ってみれば、潜水服や、宇宙服のようなものだと言えるかも知れません。

もし、私達が、深い海底にある深海の世界を覗いてみたい、体験してみたい、と望んだとします。
そして、深海の世界に行って体験する為には、潜水服が必要になります。
潜水服は、重苦しくて、自由に身動きも出来ず、呼吸をするのも一苦労かも知れません。
しかし、その潜水服のおかげで、普通には見る事が出来ない深海魚を見る事が出来たり、深海の神秘的な世界を体験する事が出来る訳なのです。

同じように、もし私達が、月や、あるいは、他の惑星に宇宙旅行をしたいと望むならば、宇宙服が必要になります。
宇宙服も、重苦しくて、自由に身動きが出来ず、呼吸をするのも一苦労かも知れません。
しかし、その宇宙服のおかげで、普通には体験出来ない、宇宙飛行や、月に降り立って月の上を歩いたりという体験が出来る訳なのです。

潜水服に身を包まなければ体験出来ない世界があり、宇宙服に身を包まなければ体験出来ない世界というものがあるのです。
同様に、今の自分の肉体の衣という「遊び着・遊び服」に身を包まなければ体験出来ない世界というものがあり、それを体験する為に、我が魂は、この時空にやって来たのです。
この世界を体験したかったので、神の分霊(わけみたま)であり、我が人生の創造主でもある我が魂は、自分の肉体の衣を創造したのです。

そして、自分の肉体の姿・形や健康状態のようなものまで、細部に亘る全てが、魂の望んだとおりに創られています。
心の純化・意識の福化の旅をして魂を進化させ、光輝く魂になる為に、最適な形で、自分自身の肉体は創造されています。

ですから、肉体という衣が重苦しく感じられたとしても、潜水服や宇宙服のような、魂にとっての「遊び着・遊び服」であり、しかも、自分自身にとって一番ピッタリな最適の「遊び着・遊び服」を着ているのだという事を想い出す事が大切だと思います。

人類の新たな意識は日本人により創られ、世界へ波及する

この21世紀に、人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明が花開く時を迎えます。
そして、その中心的役割を果たすのは、私達日本人なのです。
21世紀の今この時、大和の国・日本に生きている私達日本人には、とても大切な役割と使命があると言えます。

そして、多くの日本人はまだその事に気付いていないとしても、ちゃんと土台は出来ているので、時が来れば、私達日本人の意識は、さなぎから蝶へと生まれ変わるように、大きな変容を遂げる事になるでしょう。
数千年の歳月を掛け、天の用意周到な計画の元、準備は着々と進められ、舞台は整いつつあります。

これから、日本人が、人類始まって以来とも言うべき大仕事を果たす上で、大きな働きをするのが、母国語である日本語です。
日本語は、世界に類を見ない、ユニークな独特の言語だと言えます。
日本人というか、日本語を母国語として話す人達の脳の使い方は、他の言語を話す人達とは違うそうです。
そして、日本語は、とても言霊(ことだま)の力の強い言語だと言われています。

古来、大和の国は、「言霊の幸(さき)わう国」と言われており、言葉の霊力が幸福をもたらす国だと言われて来ました。
「言霊の幸(さき)わう国」の真価を発揮する時がこれから訪れようとしています。

聖書の中に、有名な、「始めに言葉ありき」という言葉があるとおり、言葉にはとても大きな働きと力が秘められています。
意識を創る上においても、言葉はとても大切な働きをする事になります。
新たな意識を創っていく上で、言葉の持つ力、言霊の力は、必要不可欠になります。

そして、世界に類を見ない独自の言語である日本語こそが、一段と進化した人類の新たな意識を創る上で最適の言語であり、その為に用意された言語なのです。

世界の公用語である英語などは、理屈を捏ね回して相手と議論するのにはピッタリの言語かもしれませんが、人類の新たな意識を創る役割の言語ではありません。
これに対して、日本語は、理論・理屈などではなく、そういうものを超えた何かを表現出来る言葉なのかも知れません。
「もののあわれ」、「わび・さび」、「あうんの呼吸」というような、理論・理屈を超えた、もっと深い何かを感じ取れる感性が、日本語と、それを話す日本人には、育まれて来たと言えそうです。

日本語の持つ言霊の力と、日本語を話す日本人の遺伝子の中に眠る大和心が、これから本格的に働く時を迎え、「言霊の幸(さき)わう国」の真価を発揮する時を迎えようとしています。
そして、真の大和の国・神国日本が花開いた時、それが、海の向こうの、日本語を話さない人々へも伝播し、世界へ波及して行く事になります。

イギリスの科学者である、ルパート・シェルドレイクが唱えた、「形態形成場」という仮説があります。
簡単に言うと、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが、他の人や物に伝播する」という事です。

霊(ひ)ノ元・日本は、日出る神国であり、世界の中心なので、私達日本人が、一段と進化した新たな意識を創る事が出来れば、それが、全世界へ波及していく事になります。


プラス思考を超える

よく、プラス思考、とか、プラス発想せよ、という言葉を耳にします。
しかし、このプラス思考というものには、限界があります。

何かをプラスと捉える認識は、そうでないものをマイナスと捉える認識とセットになっています。
うまくいく・うまくいかない、と捉える心が、プラス・マイナスという認識を創り出しています。

プラス・マイナスという認識から抜ける事が大切だと思います。
プラス・マイナスという認識は、自分がしているだけであって、自分が勝手に、ある事柄をプラス、ある事柄はマイナスと思っているだけの事だからです。

本来、一切の事柄には意味は無く、中立であり、無であり、幻だと言えます。
大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象であり、意味が無く、中立だという事なのです。
唯一にして絶対、至高の存在である根本創造主の目から見れば、森羅万象の全ては、プラスでもなければマイナスでもありません。

自分自身という存在は、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点であり、一つの視点から、この大宇宙を映し出して見ているとも言えます。
そして、自分の心が透明でなく、曇りがあれば、色眼鏡で映る世界を見てしまう事になり、様々な事柄を、あるものはプラスと呼び、あるものはマイナスと呼んで、大騒ぎする事になります。

マイナスをプラスに転じようと無理に頑張らなくても、そもそも自分がマイナスという意味付けをしただけの事なのだと気付く事が大切だと思います。

心を無地透明にして、プラス・マイナスの認識を超えて行く事が心の成長であり、挑戦でもあると言ってもいいかも知れません。

アンドロメダ銀河

12月に入り、冬の寒さが本格化してきましたが、夜の星空は益々冴え渡ってきた感じで、星々が一段と美しく輝くようになってきました。
夜空に輝く星々を眺めていると、自分に縁が深い感じがする星座の名前が想い浮かんで来たりします。

その中の一つに、アンドロメダがあります。
アンドロメダは、星座というより星雲であり、銀河なのですが、アンドロメダという言葉を想い出すと、とても元気が出るような、うれしい感じがして、同時に、懐かしくも感じられます。
ある種の郷愁のようなものを感じます。

アンドロメダ銀河は、私達が住む地球が属する銀河系(天の川銀河)から最も近い銀河だという事です。
肉眼でも見える為、私達が住む銀河系(天の川銀河)とは別の銀河でありながら、親近感を感じる人達もいるかも知れません。

アンドロメダ銀河は、地球という星とも、結構つながりがあるような感じもします。
ある情報によると、私達の銀河系からアンドロメダ銀河へと通じる次元の通路があるそうです。
さそり座の1等星・アンタレスに、その次元の通路があるとの事です。

それが本当かどうかは、私には分かりませんが、アンドロメダ銀河は、私達が住む銀河系
とは別の銀河でありながら、地球という星との結び付きが結構深いような感じがします。

これから冬の間、夜空が冴え渡り、星々が一段と美しく輝きますので、天界の星々を眺めながら、自分に縁が深いと感じる星について、しばし想いを馳せてみるのもいいかも知れません。

真のワンネスとは

精神世界系の人達や、スピリチュアル系とか呼ばれる人達の間で、ワンネスという言葉が、よく使われたりしています。
「全ては一つ」とか、「貴方は私、私は貴方」というような意味で使われたりしているようで、隣人や、動物、植物なども、自分自身を愛するように愛しようと努力されている方達もおられます。

それはそれで尊い事だとは思いますが、「貴方は私、私は貴方」というのは、自と他が分かれたところの思考形態であり、自分と自分以外を分けた思考形態の中で、自分を愛するように自分以外のものも愛しようという試みには、少々無理が感じられます。

真のワンネスとは、この大宇宙には、唯一にして絶対、至高の存在である根本創造主しか実在していないので、この物理的大宇宙に存在する全てのものは根本創造主の顕れであり、全てがつながっており、全てが一つだという事なのです。
絶対世界に唯一実在する根本創造主の意識が想像したイメージが、相対世界・現象界である物理的大宇宙に物質化され創造されているので、全ては根本創造主の顕れであり、全てがつながっているという訳なのです。

そして、自分が見ている現実世界・大宇宙というものも、自分の意識を投影した、自分の内面の心の世界を空間というスクリーンに映し出して見ているに過ぎないので、自分が見ている現実世界・大宇宙というのは、我一人の世界、自分しかいない世界という事になります。
真のワンネスとは、自分の目に映る世界全てが私自身という事でもあります。
自分という存在は、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点であり、一つの視点とも言えるので、大宇宙に無数に存在するテレビカメラの中の一つを担当して、この大宇宙を映し出して見ていると言ってもいいかも知れません。

本来、自と他は分かれておらず、自分と空間は一つなので、自分の目に映る全てが自分自身だという事なのです。
ですから、敢えて自と他が分かれた思考形態の中で、「貴方は私、私は貴方」という事で他の人や動植物を自分自身を愛するように愛しようと努力しなくても、この映る世界全てが自分自身なのだと解れば、映る世界全てが愛しく感じられてくるかも知れません。

自分が見ている現実世界・大宇宙は、自分の意識を投影した自分の内面の世界であり、自分が見ている世界には自分しかいないというのは、奇想天外で、ちょっと信じがたい事かも知れません。
しかし、この事は、最先端の量子物理学が行き着いた結論でもあるとの事です。

「大宇宙の中に意識があるのではなく、意識の中に大宇宙がある」というのが、最先端の科学が行き着いた結論だという事のようで、人間の意識が大宇宙を創り出している、という結論に行き着いたそうです。

物理学者ではない私達は、理論としては理解出来なくても、自分の意識が進化して、魂の記憶とでも呼ぶべきものが蘇って来ると、理屈としてではなく、実感として解るようになってくると思います。
この現実世界とは、まさに「意識の海」とでも呼ぶべきものであり、私達は、「意識の海」の中を泳いでいる(遊んでいる)と言ってもいいかも知れません。

そして、この認識が、人類の一定数以上に浸透して初めて、真の世界平和というものも実現することになります。
自と他が分かれた思考形態の中で、様々な利害・宗教観・歴史観・価値観・世界観の相違・対立に明け暮れているうちは、真の世界平和が訪れる事はありません。
この映る世界には自分しかいないのだと認識出来る意識状態に到達して初めて、人類は、自分自身を傷付け、罰するのを止めて、心豊かな世界を創造するという意識に向う事が出来るからです。

失われた大陸(ムー大陸、アトランティス大陸)

太古において、海に沈んだとされる、伝説の大陸に、ムー大陸やアトランティス大陸があります。
ムー大陸については、アメリカ人作家であるジェームズ・チャーチワードによって、レムリア大陸とも同一視されるようになり、レムリア文明とも呼ばれたりしています。
アトランティス大陸は、古代ギリシャの哲学者・プラトンの著作の中に出て来ます。

いずれも、超古代文明とも言える高度な文明を持っていたのですが、神の怒りに触れて、一昼夜にして海中に沈没したとも言われています。
大陸が海に沈むという事は、なかなかイメージしにくい事であり、科学的根拠も無いので、ムー大陸(レムリア文明)やアトランティス大陸は、伝説上の話という事になっていますが、多くの人達に受け入れられているのには、それなりの理由があるのかも知れません。

今、地球が大変革を遂げ新たに生まれ変わる時期にあるという事で、様々な予言や警告のようなものが世には存在しますが、その中には、どこかの陸地が海に沈むとか、逆に、陸地が海中から浮上するというものもあるようです。

それが的中するかどうかには関係なく、様々な予言などには、あまり囚われ過ぎる必要はないかと思いますが、少なくとも、今現在ある世界の大陸の形というものは、最初からあった訳ではなく、今後も、変動する可能性があるという事だけは、認識しておく必要があるかと思います。

今、世界地図で見られるような大陸の形に分かれる前は、元々、原初の大陸とも言うべき、巨大な陸塊が存在し、現在の大陸は全て陸続きだったとされています。
この原初の超大陸は、「パンゲア」と名付けられています。
この「パンゲア」という超大陸の名前は、大陸移動説を唱えた、ドイツの気象学者、アルフレート・ヴェーゲナーにより名付けられました。

世界一高いヒマラヤ山脈は、南極大陸から離れたインドが北上し、アジア大陸の南端に衝突して出来たとされています。
インドの地殻がアジアの地殻の下側に無理やり潜り込んで行った為、アジア大陸の端っこがめくれ上がって、ヒマラヤ山脈が出来たとの事です。
ヒマラヤの岩塩などが商品として売られていますが、世界最高峰のヒマラヤ山脈も、元々は海だったという事のようです。

私達が住む日本列島は、プレートが4枚接触してお互いに押し合う状態にあり、地盤の隆起や沈降などの地殻変動は、いつでも起こり得ると言えるかも知れません。

そして、今、地球上に数万発あるとされている核兵器も、私達人類がそれをきちんと管理出来なければ、大陸を海に沈没させるだけの破壊力をも秘めている事を、私達は肝に銘じておく必要があると思います。

神仏習合(神仏混淆)について

我が国においては、明治時代に神仏分離令が出るまで、長い間、神仏習合(神仏混淆)が各地で盛んに行われていました。
私は、この事は、日本人の持つ懐の深さ、大いなる和の心である「大和心」の一つの大きな顕れだと感じています。

もちろん、神仏習合は日本だけに限られた事ではなく、仏教が世界的に広まって行く過程で、土着の信仰と結び付いたりしているようですが、長い年月に亘って、全国的に、神仏習合が盛んに行われていた事には、日本人の持つ特性が良く顕れていると思います。

神の宗教である神道と、無神論の宗教である仏教が、長い年月の間、一つ屋根の下で仲良く共存していたというのは、改めて考えて見れば、とてもおおらかで、驚嘆すべき事なのかも知れません。
海外の、一神教を信仰する人々は、ともすると、自分達が信じる特定の神だけを、唯一・絶対の神と考え、他の宗教の神を否定しがちな傾向があるように感じます。

それに対して、私達日本人は、古来、八百万神(やおよろずのかみ)を信仰してきており、色々な神々を信じる事が出来る、とてもおおらかな感性を持った民族だと言えるかも知れません。

日本人は、初詣は神道、人が亡くなれば、葬式は仏教、そして、年末には、クリスチャンでもないのに、クリスマスを祝い、キリストの生誕を祝うという具合に、日々の生活の中に、何気なく、異なる宗教を取り込んで生きています。
これは、外国人には、ちょっと考えられない、真似が出来ないような事なのかも知れません。

宗教というものに関して、無節操とも思えるような、この日本人の特性こそが、懐の深さであり、大和心の顕れとも言えると思います。
この懐の深さ、大和心こそが、これからの地球・世界を包み込み、世界平和を齎す原動力になって行きます。

源氏と平氏

源平合戦で有名な、源氏と平家の戦いは、単に歴史上のある時期、二つの氏族の間で繰り広げられた対立というだけのものではありません。
源氏と平家は、神の経綸において、ある特別な役割を演じた氏族であると言えます。

霊(ひ)ノ元・日本において、二元性の対立というものの型を演じる役割を担ったのが、源氏と平家です。
そして、世界規模・地球規模において、二元性の対立というものの型を演じる役割を担っているのが、日本とユダヤであり、別の言い方をすれば、スメラとイシヤという事になります。

そして、面白い事に、平家はユダヤだったという見方があるようです。
もしそれが本当だとすると、源氏と平家の対立とは、日本における二元性の対立の型を演じると同時に、地球規模・世界規模における二元性の対立の型を同時に演じていたという事になります。

もし平家がユダヤだったとすると、源氏が白旗だったのに対し、平家は赤旗だったのが、とてもピッタリくる感じがします。

平氏の名前の由来は、最初の平氏であった桓武平氏の祖である桓武天皇が794年に建設した平安京にちなんで「平」と名付けたとされています。
平安京をヘブライ語に直すと、「エル・シャローム」、すなわち、古代イスラエルの都「エル・サレム」になるとの事です。

名称の類似だけではなく、聖地エルサレムと平安京は、構造がよく似ているとの事です。
そして、平安京のマークは、あのダビデの紋章だという事です。
また、桓武天皇は、古代ヘブライの儀式を執り行っていたとも言われているようです。
平安京の建設には、渡来人である秦氏が深く関わっていたとされていますが、秦氏は、景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)だったとも言われています。

私は、平家がユダヤだったという見方がとてもピッタリする感じがしており、源氏と平氏が演じた源平合戦とは、神の経綸における、本当に意味深い神図りだと思います。
そして、私達人類の意識はこれから、二元性の対立から統合へと向う事になります。

納め水天宮

本日12月5日は、納め水天宮の日で、水天宮は多くの人で賑わうそうです。
水天宮は、平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後、平家の官女だった按察使局(あぜちのつぼね)が筑後川の辺りに逃れて、安徳天皇ら平家一門を祀る為に創建したとされています。

水天宮の総本宮は、福岡県久留米市にあります。
御祭神は四柱です。
天御中主神(アメノミナカヌシ)
安徳天皇
高倉平中宮
二位の尼

安徳天皇については、壇ノ浦で、三種の神器とともに入水したとも言われています。
下関にある、安徳天皇を祀る赤間神宮の隣には、安徳天皇のお墓とされる、安徳天皇阿弥陀寺陵があります。

しかし、一説には、安徳天皇は、四国に逃れ、剣山の山頂に、神剣・草薙の剣を隠したとも言われており、そこから、剣山と呼ばれるようになったという説もあるようです。
剣山の近くにある栗枝渡(クリシト)という八幡社の小冊子には、その事が書かれているそうで、逃げ延びて余生を全うした安徳天皇は、その神社で火葬されたとの事です。
栗枝渡(クリシト)は、かつては、栗須戸(クリスト)と呼ばれていたそうで、つまりは、キリスト神社だという事だそうです。

平氏はユダヤ系だったという説があるようです。
これについては、次回書いてみたいと思います。

生きるとは、創造する事

生きるという事は、別の言い方をすると、創造する事であると言えるかも知れません。
私達が、ちょっと何かを思ったり考えたり、体を動かしたりする事の全てが、何かを創造している事であると言えるかも知れません。

ですから、私達が生きるという事は、創造の連続であり、毎瞬毎瞬、常に何かを創造し続けていると言ってもいいかも知れません。
そういう意味では、私達は生まれてから、創造以外の何もしていないとも言えるかも知れません。
生きるという事そのものが、創造する事であると言えそうです。

そういう観点に立てば、人生を楽しむという事は、我が創造を楽しむという事になります。
常に瞬間瞬間、新たな何かを創造し続け、その創造を楽しむ心があれば、生の輝きが増し、人生はさらに面白く感じられてくるかも知れません。

どんな所からも、どんな状況からも、新たな創造が出来るので、自分がどんな創造をしたいのかを常に意識しながら、毎瞬毎瞬、我が創造を楽しんでいく気持ちさえあれば、生きるという事が、もっと面白くなってくるかも知れません。

そして、過ぎ去った過去の事にもあまり拘らなくなるとともに、これからの未来の事についても、あまり心配にならなくなるかも知れません。

自分の過去がどうであれ、今立っている場所から、新たな創造をして行けばいいだけの事であり、また、未来において、何か予期せぬ出来事が起きたとしても、そこから、新たな創造をして行けばいいだけだからです。

転んでもタダでは起きない、というか、どこからでも拾う心さえあれば、どんな場面に出会っても、そこを拾って、新たな創造を掛けて行けばいいだけの事だからです。

心と感じるままに、毎瞬毎瞬、常に何かを創造しながら、創造を楽しみ、面白さを発見して行く旅。
生きるとは創造する事であり、生きる喜びとは、創造する事の喜びであると言えるかも知れません。

大和(やまと)の国・日本

「大和」という字は、普通に音読すると、「だいわ」となりますが、「やまと」とも読みます。
そして、日本人や日本国を表す「やまと」という字には、この「大和」という字が使われていますが、おそらく当て字だと考えられます。

当初は、「倭」の字が使われていたようです。
その後、「大倭」となり、「大和」も併用して使われるようになりましたが、いつしか、「大和」が主流となり、落ち着いたようです。

何故「やまと」と名付けられたのか、という事にも、諸説あるようですが、その中には、ヘブライ語アラム方言で、「神の民」を意味する「ヤ・ゥマト」から来ているという説もあるようです。

日本とイスラエルの類似性については、色々論じられていますが、ユダヤ系キリスト教徒とも言われる秦氏(秦一族)が深く関わっているとも言われています。
秦氏は元々、景教徒の拠点であった、中央アジアの弓月国に住み、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰し、アラム語を話していたとされています。
そして、弓月国には、「ヤマトゥ」という地名もあったようです。

何故、「やまと」と呼ばれるようになったのか、そして、何故、「大和」という字で表現されるようになったのかについては、誰も確かな事は言えないと思いますが、いずれにしても、日本人・日本国を表す言葉として、「大和(やまと)」という言葉が定着したのには、深い意味があるのだと感じます。
本当に見事だという感じで、天の意志のようなものを感じます。

元々奈良地方を表す言葉だった「大和(やまと)」という言葉が、その後、大和心・大和魂というように、日本人・日本国全体を表す言葉となりました。
今、私達日本人が大和心を蘇らせ、花開かせる時、真の大和の国・神国日本が花開き、大いなる和のハーモニーが、地球・世界へ、さらには、銀河系宇宙の大調和に向って拡がって行く事でしょう。

「大和(やまと)」・・・奈良 → 日本 → 地球・世界 → 銀河系宇宙

CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録曲、「大和の国・日本」は、大和心のハーモニーが、日本から地球・世界へ、さらには、大宇宙へと拡がって行く事を願って創られた曲ですので、ぜひ聴いてみて頂けると幸いです。

銀河系宇宙の中の地球という星

私達が住む地球という星は、銀河系宇宙に無数に存在する星の中の、一つの小さな星にしか過ぎませんが、今、大変革を遂げようとしている地球というこの星は、銀河系宇宙の中において、極めて重要な役割と使命を持った星のようです。

この21世紀に、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げる事になります。
この地球という星が、高次元空間へと移行し、新たな地球が誕生する事になります。
花咲く都とでも呼ぶべき黄金文明の時を迎える事になります。

そして、この地球の新たな誕生は、単に、地球という一つの星に留まらず、地球が属する太陽系は元より、銀河系宇宙全体にも大きな影響を与える事になるようです。
地球という星が起爆剤のような役割を果たして、地球の新たな誕生が、太陽系、そして、銀河系宇宙にも、新たな誕生をもたらすような仕組みになっているようです。

そういう意味においては、地球という星は、銀河系宇宙の中心であるという事も出来るかも知れません。
地球という星が、銀河系宇宙の核(コア)を担っていると言ってもいいかも知れません。

ですから、今進行中の、地球の新たな誕生のプロセスは、単に、私達人類の願いというだけではなく、太陽系は元より、銀河系宇宙全体の願いであると言ってもいいかも知れません。
21世紀という今に生きる私達人類には、それだけ大きな使命と役割があるのだという事を自覚する事が大切であると感じます。

そして、人類の意識が飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える時、その中心的役割を果たすのは、私達日本人なのです。
私達日本人一人一人が、地球が新たな誕生を迎えようとする今この時、日出る神国・日本という国に生まれて来た本当の目的を想い出し、自らの役割を蘇らせる事が大切だと思います。

光輝く富士山

今日から12月に入り、師走を迎えました。
今年も残すところ、あと一月となりました。

今朝、富士山を見たとき、富士山が光輝く姿に見えました。
最近めっきり雪化粧した富士山は、見事な白富士の美しさを見せてくれているのですが、今朝見た富士山は、外側が純白に輝いていたからそう見えたというより、むしろ、富士山が内面から光輝いているように感じられました。

あたかも、富士山の中に、巨大な電球のような明かりが灯っているような感じで、淡い黄金色の光が、富士山の内部から発せられており、それが雪化粧した純白の山肌から透けて見えているような印象を受けました。

ここで改めてお伝えしたいのは、富士山とは、単に日本一高い山だとか、とても美しい山だとかいうだけではないという事です。
日本一高い山が富士山というより、霊的に言えば、霊峰富士が日本を治めていると言った方が真実に近く、世界に二つとない(不二)働きを持った神体山が、霊(ひ)ノ元・日本の象徴、霊峰富士です。

そして、霊峰富士の持つ働きとは、二元性を統合させる事にあります。
善と悪、光と闇、正と邪、男性性と女性性、プラスとマイナス、陰と陽、東洋と西洋、神と悪魔、幸福と不幸など、対立しているものを統合させて、大いなる和「大和」を実現させる事にあります。
人類の意識が、分離から統合へと向う過程において、霊峰富士の持つ働きは、不可欠と言えます。

今朝見えた、内面から黄金色に光輝くような白富士の美しさは、何かを象徴しているかのような感じもしました。

富士の夜明けは日本の夜明け、そして、日本の夜明けは、地球・世界の夜明けです。
今、霊峰富士に、黄金の太陽が昇る時を迎えました。

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