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親子関係の根本は、火之迦具土神を生んだ伊邪那美大神が黄泉国に入る仕組みの中に隠されている

280px-Akiba_jinja_17.jpg         火之迦具土神の総本宮とされる秋葉山本宮秋葉神社


 親子関係の根本は、古事記において、火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)を産んだ伊邪那美大神(イザナミノオオカミ)が黄泉国に入る仕組みの中に隠されています。

『古事記は神界に聳え立つ龍宮城』、こちらの記事の中でも書きましたが、古事記には、単に歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組み・プログラムが隠されており、人が神として出産するまでの内的なプロセスが、象徴的に描かれています。

 そして、私たち人間が存在している一番根本を成す親子関係というものの、最も根本となる本質的な部分が、火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)を産んだ伊邪那美大神(イザナミノオオカミ)が黄泉国に入る仕組みの中に隠されているのです。
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 古事記において、国生みの夫婦神とされる伊邪那岐大神(イザナギノオオカミ)と伊邪那美大神(イザナミノオオカミ)の間に、火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)が産まれます。

 火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)とは、一般的には『光り輝く火の神霊』ともされています。

 ところが、この火の神様を産んだことが原因で、母親である伊邪那美大神は、ホト(女陰)が焼けただれてしまい、死んでしまうのです。

 そして、亡くなった伊邪那美大神は、黄泉国(ヨミノクニ)に入ることになります。
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 この時、父親である伊邪那岐大神(イザナギノオオカミ)は、『いとしい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもよらなかった』と言って、十拳剣(トツカノツルギ)を抜いて、火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)の首を斬ってしまうのです。

 そして、伊邪那岐大神(イザナギノオオカミ)も、亡き妻・伊邪那美大神の後を追って、黄泉国(ヨミノクニ)に入ることになります。

 実は、この火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)が誕生した仕組みの中に、人間存在の一番根本的な部分が象徴的に描かれているのです。

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 火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)は、自分が誕生したことが原因で、伊邪那美大神のホト(女陰)を焼いて死なせてしまい、自分自身も伊邪那岐大神に首を斬られて死んでしまいます。

 そして、父親である伊邪那岐大神と母親である伊邪那美大神の両親が、共に黄泉国(ヨミノクニ)に入ってしまう訳です。
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 実は、人体においては、首から上が神界となっており、型として出されているのです。

 例えば、会社を退職させられることを『首を斬られる』と表現しますね。

 また、自殺することを『首を括(くく)る』と表現しますね。

 誰が決めた訳でもないのに、『首』という箇所が生命線を表現する言葉として定着しているのは、実は、人体においては、首から上が神界を表しているからなのです。

 また、首には、頸動脈(ケイドウミャク)という、生命線とも言えるような重要な動脈がありますね。

 人体においては、首から上が神界として型で出されているのです。

 ですから、火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)が、伊邪那岐大神に『首を斬られた』という表現の中には、『神界から切り離された』ということが象徴的に描かれているのです。
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 仕組みとして、私たち人間一人ひとりは、自分が誕生した時から、物心付くまでの幼少期の間に、様々な否定的想念を潜在意識の中に持つ仕組みになっています。

 そして、その否定的な想念によって、神としての自分自身の本当の光を忘れてしまい、言わば、神界から切り離されたような状態で生きていく仕組みとなっているのです。

 それは、主に幼少期における両親との関係や家庭環境の中で潜在意識の中に植えつけられるものであり、一般的によく言われる言葉で言えば、親子関係におけるトラウマや、傷付いたインナーチャイルド(内なる子供心)などによってもたらされるものになります。

 心理学的な表現を使うとすれば、自己否定・自己嫌悪・自己懐疑・自己憐憫・罪悪感・無価値観というようなネガティブな感情を、誰でも、幼少期において潜在意識の中に植え付けてしまう仕組みになっているのです。

 あなたの潜在意識の中の奥深くにも、そういうネガティブな感情がある訳ですが、顕在意識(表面意識)では、おそらく憶えていないと思います。

 何故なら、一般的に、誕生してから3才位までの記憶は、ほとんど顕在意識(表面意識)には蓄えられていないとされているからなのです。
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 私たちの記憶は、脳の中にある『海馬』という部分が司っていますが、『海馬』は3才頃まではほとんど動いていないとされているようです。

 このため、一般的には誕生してから3才位までの記憶は、ほとんど顕在意識(表面意識)には残っていないということなのですね。

 しかし、あなたの意識の奥深くにある潜在意識の中には、様々なネガティブな感情が刻み込まれている訳なのです。

 そして、物心付くまでの幼少期に潜在意識の中に刻み込まれたことが、その後の人格形成に大きな影響を与え、人生を大きく左右することになります。

 昔からのことわざにもあるように、『三つ子の魂百まで』ということなのです。
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『黄泉国』とは、本当は、何処か特定の場所にあるのではなく、私たち一人ひとりの心の奥深く、言わば、潜在意識の奥深くにある『肥溜め』のような部分なのです。

 あなたの心の奥深く、潜在意識の中にある、否定的な想念の世界のことなのです。

 心理学的な表現を使うならば、自己否定・自己嫌悪・自己懐疑・自己憐憫・罪悪感・無価値観というようなネガティブな感情の世界のことになります。

 私たち一人ひとりが、自分自身の心の奥深く、潜在意識の中に、心の中の『肥溜め』のような世界、言わば、『黄泉国』を持っています。

 そして、自分自身の本当の光を忘れてしまい、『黄泉国』の中に入っているのです。
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 自分自身の中にある、神としての本質の光を想い出し、蘇らせることが、黄泉国からの『黄泉帰り=蘇り』ということなのです。

 それは即ち、あなたの心の中にある『天岩戸開き』ということでもあります。

『伊邪那岐大神の黄泉国からの黄泉帰り=蘇り』とは、即ち、『天照大御神の天岩戸開き』ということであり、同じことを表現しています。

 自分自身の心の奥深く、潜在意識の中にある否定的な想念をいやし、自分自身の本当の光を蘇らせて、光り輝く存在となるということなのです。

 言わば、私たち一人ひとりが、神人のように光り輝いて生きるということなのです。

 古事記では、そのことを『神武誕生』として表現しています。

『神武天皇』とは、2千数百年前に存在したとされる歴史上の人物というだけではなく、本当は、神としての本質の光を輝かせて生きている人間一人ひとりのことでもあるのです。

『神武天皇とは、私達一人一人の事でもある』、こちらの記事の中でも書きましたが、『神武天皇』とは、自分自身の中にある本当の光を輝かせて生きるようになった時の、あなた自身のことでもあるのです。
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 天の仕組みとして、私たち一人ひとりが、言わば、火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)なのです。

 そして、誕生した後に、自らの本当の光を忘れてしまい、神界から切り離されたような状態で生きることになります。

 しかし、自らの心の奥深くにある、否定的な想念の世界とも言うべき『黄泉国』、言わば、潜在意識の中にあるネガティブな感情を克服することによって、『黄泉帰る=蘇る』ことが出来るのです。

 健康、お金、仕事、恋愛・結婚、人間関係など、人生を好転させていくカギは、潜在意識の中にあるネガティブな感情を克服して、『黄泉帰る=蘇る』ということでもあります。

 そして、自分自身の中にある制限を外し、自分自身の本当の力・能力・可能性を発揮していくことなのです。

 その一番根っこにある根本的な部分が親子関係ということになります。

 親子関係の根本は、古事記においては、火之迦具土神(ヒノカグツチカミ)を産んだ伊邪那美大神(イザナミノオオカミ)が黄泉国に入る仕組みの中に隠されているということになります。


 以下の過去記事もぜひご参照下さい。

『火之迦具土神を生んだのは、岩戸(黄泉国)の中に入る為』
『「一厘の仕組みは、伊邪那美の仕組みの中に隠されている』
『黄泉国とは、「閉ざされた天岩戸」の中と同じ意味』
『天照大御神の天岩戸開き=月読命の蘇り=須佐乃男命の八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治』


猿田彦大神を中心として天宇受売の舞い踊り、天岩戸開きの舞い踊りが演じられるようになる

250px-Tsubaki-shrine.jpg          猿田彦大神を祀る総本宮とされる椿大社

 今年2016年(平成28年)も残すところあと数日となりましたが、今年の干支は申(サル)でしたので、猿に関する話を一つしておきたいと思います。

 古事記などの日本の神話に、猿の名前が付いたある神様が登場しますが、それは何という神様でしょうか?
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 ご存知の方も多いかと思います。

 そうです、猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)です。

 猿田彦大神は、古事記において、天照大御神の孫に当たる天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)の天孫降臨に際して、天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)の道案内をした「導きの神」として知られています。

 その時、猿田彦大神と一緒にいたのが、天宇受売命(アメノウズメノミコト)です。

 天宇受売命(アメノウズメノミコト)は、天岩戸開きの場面で、舞い踊りを演じて、天照大御神が岩戸から出て来るように仕向ける、重要な役割を果たしていますね。
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 猿田彦大神を祀る総本宮とされているのは、三重県にある椿大社です。

 私も何度か訪れたことがありますが、静寂な環境の中にあり、良い御神気に包まれた神妙な雰囲気が漂っています。

 同じ三重県内には、伊勢神宮の内宮の近くにも猿田彦大神を祀る猿田彦神社があります。

 猿田彦神社の開放的な感じも悪くないのですが、私は、椿大社の少し奥まったような神妙な感じの趣が結構好きです。
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『古事記は、神界にそびえ立つ龍宮城』、こちらの記事の中でも書きましたが、古事記には、単に歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組み・プログラムが隠されてあり、人が神として出産するための内的なプロセスが象徴的に描かれています。

 そして、『神々の名前(御神名)について』、こちらの記事の中でも書きましたが、神様の名前である御神名の最も本質的な第一義的な捉え方というのは、神界の中にある、神が持っているある働きについて付けられた名前なのです。

 ですから、猿田彦大神という御神名も、姿・形や名前を持ったある特定の神様が存在しているというのは、二義的な捉え方になります。

 猿田彦大神という御神名が持つ本質的な働きは、神界の入り口への導きの働きということであり、猿田彦大神は「導きの神」なのです。

 天孫降臨に際して、猿田彦大神と共に、天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)の道案内をした天宇受売命(アメノウズメミコト)は、それをきっかけにして猿田彦大神に仕えて猿女君(サルメノキミ)になり、猿田彦大神の奥様になったとも伝えられていますが、それも意味のあることだと思います。

 何故なら、天宇受売命(アメノウズメノミコト)が舞い踊りを演じて、高天原が鳴りとどろくばかりに八百万神々をどっと笑わせたことで、天照大御神が天岩戸を少し開けることにつながったからです。

 神界の入り口への「導きの神」としての猿田彦大神の働きと、天宇受売命(アメノウズメノミコト)の働きとは、決して別々のものではないのです。
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 西暦2020年の東京オリンピックが終わった後、あと10年後位の西暦2020年代の半ば位から、神界における猿田彦大神の働きというものが、本格的に表に現れてくることになるでしょう。

 その時、猿田彦大神の働きを演ずる役割の日本人も登場し、その人物を中心にして、多くの人たちが、天宇受売(アメノウズメ)の舞い踊りとも言うべき、天岩戸開きの舞い踊りを演ずるようになるでしょう。

 新しい地球の誕生に向けて、私たち日本人の遺伝子の中に眠る大和心・大和魂を花開かせた有意の人々が、天岩戸開きの舞い踊りを演ずるようになるのです。

 そうやって、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本の天岩戸開きに向けた動きが本格化していくことになり、いずれ、神国・日本の天岩戸開きが実現する時を迎えるのです。

 東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本の天岩戸開き、富士は晴れたり日本晴れが実現する時を迎えられるのは、本当に楽しみなことですね。

 


エネルギー的には、月が地球を支配しているとも言える

moon-372797_1280 (1).jpg
 私たちの星・地球にとって、最も関わりの深い天体として、太陽と月があります。

 地球が太陽の周りを回っているのに対して、月というのは、地球の衛星であり、月が地球の周りを回っています。

 ですから、ともすれば、太陽が主であり地球が従の関係にあり、地球が主であり月が従の関係にあるような印象を持つ方が多いかと思います。

 しかし、ある意味においては、月が地球を支配しているとも言えるかも知れません。
 エネルギー的には、月が地球を支配しているとも言えるかも知れません。

 太陽が持つ働きだけではなく、月が持つ働きも、地球の生命にとって、必要不可欠なのです。

 女性の生理を始め、月の持つ働きが、地球の生命のバイオリズムに大きな影響を与えていることは、よく知られています。

 何故なら、地球の全生命の創造者である、異星人エロヒムが、そのように配置したからなのです。

 旧約聖書「創世記」の、天地創造の4日目には、次のように書かれています。
「神(エロヒム)は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神(エロヒム)はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神(エロヒム)はこれを見て、良しとされた。」(「創世記」第1章・第16〜18節)

 古事記においても、太陽の持つ働きと、月が持つ働きは、互角に表現されています。

 伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉国(よみのくに)から蘇り(=黄泉帰り(よみがえり))、禊祓えの後に多くの神々を生み、一番最後に生んだのが、三貴子と言われる、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツキヨミノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)です。

 伊邪那岐命(イザナギノミコト)が左目を洗った時に、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が生まれ、右目を洗った時に、月読命(ツキヨミノミコト)が生まれたと書かれているように、太陽が持つ働きと、月が持つ働きは、互角に表現されています。

 太陽が持つ働きだけではなく、月が持つ働きも、地球の生命にとって、必要不可欠なのです。

 私たちの星・地球は、太陽の周りを回る惑星であるのに対して、月というのは、私たちの星・地球の周りを回る衛星なので、ともすれば、地球が主で、月が従のような印象を受けがちです。

 しかし、太陽が持つ働きを「陽」とするならば、月が持つ働きは「陰」であり、目にははっきりとは分かりにくいですが、影で地球の生命をエネルギー的に支配しているのは、月なのです。

 つい先日、『月を今の形に配置したのは、人類の創造者であるエロヒム』の中にも書きましたが、太陽と月という、地球にとって最も関係の深い二つの天体が、大きさも地球からの距離もそれぞれ全く違うのに、地球から見て同じ大きさに見えるように配置されているのは、地球の全生命の創造者であるエロヒムが、そのように配置したからなのです。

 私たちが、日食や月食などの天体ショーを楽しめるのは、地球の全生命の創造者である、異星人エロヒムがそのように配置したからなのですが、太陽と月が地球から見て同じ大きさに見えることによって、太陽の持つ働きと、月の持つ働きは、地球の生命にとって互角であり、どちらも必要不可欠な働きであることを、暗示しているのかも知れません。

 地球と月の関係で言えば、地球の生命にとっては、エネルギー的には、月が地球を支配していると言っても良いかも知れません。


参考文献
ラエル「真実を告げる書」 無限堂
ラエル「地球人は科学的に創造された」 無限堂


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九九は白を意味し、白山の守り神・白山菊理媛と関係深い数字

300px-Mount_Haku_from_Onanjimine_2011-07-17.jpg                日本三霊山、白山
 本日は、9月9日です。
 重陽節という、菊の節句にも当たります。

 九九という数字は、「白」を意味し、日本三霊山、白山の守り神でもある、白山菊理媛(ハクサンククリヒメ)、白山比咩神(シラヤマヒメノカミ)と関係が深い数字です。

 99歳の別名を「白寿」というように、99、九九という数字には、「白」という意味があります。

 99+1=100、九九+一=百です。
 白+一=百です。

「百」は「神」を表す数字でもあり、「モモ」とも呼びますが、「桃」にも通じています。

 古事記の中で、黄泉国(よみのくに)から伊邪那岐命(イザナギノミコト)が逃げ延びる時、黄泉比良坂(よもつひらさか)で、桃の実三つを投げて黄泉国の軍勢を退治しましたが、あの桃の実のことです。
 伊邪那岐命(イザナギノミコト)は、桃の実に、意富加牟豆美命(オホカムヅミノミコト)という御神名を付けました。

 九九から「百」(神)に至る、最後の「一」のことを、「最後の一厘」とか、「一厘の仕組み」と言います。

 以前、『99=白、白山菊理媛(白山比咩)』の中に書きましたので、ご参照下さい。

 日本三霊山、富士山・立山・白山のうち、立山(富山)と白山(石川)は、裏日本とも呼ばれる、北陸地方に位置しています。

『2015年3月14日(土)、北陸新幹線開通!』の中にも書きましたが、今年3月14日に北陸新幹線が開通したのは、一つの型示しであり、神界の裏の働きが、本格的に表に現れて来る、型示しの一つでもありました。

 東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本が蘇り、その本来の役割を発揮する為には、日本三霊山が持つ働きが本格化することが必要であり、今年2015年は、立山と白山が持つ働きが本格化する、一つの節目の年ともなりました。

 ハクサンククリヒメの「ククリ」とは、「クク(九九)リ」ということでもあり、肚(ハラ)を「ククリ」、締め「ククリ」をすることにも通じています。

 日本三霊山の一つ、白山の持つ働き、その守り神である白山菊理媛(ハクサンククリヒメ)の働きは、「最後の一厘」、「一厘の仕組み」と深く関係しています。


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ルシファーは、エロヒムの科学者のリーダーで、仏陀の父親

 地球の全生命の創造者は、異星人エロヒムです。
 地球上の全生命は、異星人エロヒムの科学者たちが、科学的に創造したものなのです。

 聖書において神(GOD)と誤訳されている元々の原語は、ヘブライ語のエロヒムという言葉であり、「天空から飛来した人々」を意味する、れっきとした複数形なのです。
 単数形が、エロハになります。

 創造者であるエロヒムの中で、特に知っておくべき、三人のエロハがいます。
 ヤハウェと、ルシファーと、サタンです。

 エロヒムの惑星においては、不死の資格ありと認定された一部の人たちには、不死の特権が与えられ、不死の生命、永遠の生命が与えられます。

 具体的には、高度なクローン技術によるクローニングなのであり、ヤハウェもルシファーもサタンも、高度な遺伝子工学によって、死と再生を繰り返し、何万年も生き続けているクローン人間なのです。

 本日は、ルシファーについて書いてみたいと思います。

 ルシファーは、地球に来ていたエロヒムの科学者たちの中の、代表的なリーダーです。

 人類最初の人間であるアダムとイブは、古代イスラエルの地にあった実験場で科学的に創造された「試験管ベビー」でした。
 この実験場に、「蛇」というニックネームで呼ばれている科学者チームがあり、そのチームのリーダーが、ルシファーでした。

 ルシファーは、堕天使と呼ばれることもありますが、語源的には、「光を運ぶ人」を意味します。

 何故、ルシファーが堕天使と呼ばれるようになったのかというと、エデンの園と呼ばれた、古代イスラエルの地にあった実験場で、アダムとイブに、「禁断の果実」である科学の書のことを教えてしまい、エロヒムの惑星政府のリーダーであるヤハウェの怒りにより、エロヒムの惑星への帰還を禁じられ、地球に追放されてしまったからなのです。

 ルシファーは、堕天使とか、悪魔とか言われたりすることがありますが、悪魔とはサタンのことであり、ルシファーとは、全く別の存在になりますし、ルシファーとサタンとは、私たち地球人に対する考え方も、全く違います。

 地球での生命創造実験に一貫して反対して来た、反対派のリーダーの名前がサタンなのです。

 数千年前には一度、地上に人間たちの悪が蔓延った時、サタンたち反対派の意見が優勢になり、ヤハウェを中心とするエロヒムの惑星政府は、地球に核ミサイルを発射して、地球の創造物を抹殺したことがあります。

 これが、「ノアの箱舟」と大洪水の話なのですが、この時、「ノアの箱舟」と呼ばれた宇宙船(UFO)の中に、地球の生命を保存して、大災害から救ったのが、ルシファーなのです。

 私たち人類が、今こうして生きていられるのは、ルシファーたち「蛇」チームと、ノアを始め、一部の助け出された人間たちの協力によるものなのです。

 ルシファーの語源は、「光を運ぶ人」であることを、忘れないことが大切になります。

 また、ルシファーは、仏教と深く関係があり、人間仏陀の生誕や、仏陀の「悟り」、仏教の誕生と、深く密接に関わっています。
 ルシファーの存在抜きにして、仏教を語ることは出来ません。

 昨日、『ヤハウェはエロヒムのリーダーであり、イエス・キリストの父』の中で書きましたが、イエス・キリストの実の父親は、エロヒムのリーダーであるヤハウェであり、イエスは、エロヒムと地球人の女性マリアとの間に生まれた、ハーフでした。

 実は、仏陀もまた、エロヒムと地球人の女性摩耶夫人(まやぶにん)との間に生まれたハーフであり、仏陀の実の父親は、ルシファーでした。

 仏陀の母親である摩耶夫人(まやぶにん)が仏陀を身ごもった時、天から六本の牙を持つ白象が右脇から胎内に入る夢を見たと伝えられています。
 白象はナーガと言いますが、ナーガとは元々はサンスクリット語で「蛇」を表す言葉であり、「蛇」はルシファーのシンボルでもありました。
 摩耶夫人(まやぶにん)がナーガ族の出身というのも興味深いものがありますが、仏陀が「悟り」を開く時はナーガが守護したとされており、ナーガは後に竜王として取り入れられ、仏教の守護神ともなっています。

「蛇」をシンボルとするルシファーへの信仰が、やがて「龍」という架空の生き物を生み、仏教の守護神である竜王にも繋がっていくのですが、仏教にはルシファーが深く関わっており、仏陀の実の父親となっただけではなく、仏陀が得た「悟り」というのも、実は、ルシファーたちエロヒムによって伝授された奥義だったのです。

 昨日書いたように、イエス・キリストが、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネからパプテスマを受けた時、「神の霊」が鳩のようにイエスの上に降りて来て、その後、イエスは四十日四十夜荒野をさまよい、サタンの試みを受けたとされているのは、実際には、イエスはその間、エロヒムの宇宙船(UFO)で、エロヒムの不死の惑星に連れて行かれて、実の父親であるヤハウェに引き合わされ、自分の素性を知らされて、自分の使命を知らされ、使命を遂行する為の様々な手ほどきを伝授されたのでした。
 そして、最後に、サタンの試みを受けています。

 実は、菩提樹の下で四九日間瞑想して「悟り」を開いたと言われている期間、仏陀もまた、エロヒムの不死の惑星に連れて行かれて、奥義を伝授されていました。
 この時、仏陀を全面的にサポートしたのが、仏陀の実の父親である、ルシファーなのです。

 菩提樹とはイチジクの木のことで、元々「神々が集まる場所」とか「不死の秘密を観察する場所」という意味があるようです。
 仏陀は、「神々が集まる場所」である、エロヒムの不死の惑星に宇宙船(UFO)で連れて行かれて、四九日間、エロヒムから地球の真実を教わり、エロヒムのメッセンジャーとしての使命を遂行する為の奥義を伝授されました。
 仏陀が菩提樹の下で開いた「悟り」とは、実は、このことだったのです。

 四九日間瞑想して、「悟り」を開いた訳ではありません。

 仏陀が「悟り」を開く時、悪魔マーラの誘惑を受けたとされていますが、仏陀もまたイエスと同様、人類を導く偉大なメッセンジャーとしての使命を遂行するにあたって、サタンからテストを受けて試されています。

 このように、地球に来ていたエロヒムの科学者たちの中の代表的なリーダーであるルシファーは、仏教と深く関係しており、人間仏陀の父親となっただけではなく、仏陀の「悟り」をサポートし、仏教を誕生させ、竜王として、仏教の守護神ともなっています。

 また、日本の古事記には、日本の国生みが、イザナギとイザナミの夫婦神によって行われたと書かれていますが、イザナギとはルシファーのことなのです。


参考文献
ラエル「真実を告げる書」 無限堂
ラエル「地球人は科学的に創造された」 無限堂
『[謎解き]聖書』 戸来優次著 徳間書店
『複製された神の遺伝子』 戸来優次著 同朋舎 角川書店


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ヤハウェはエロヒムのリーダーであり、イエス・キリストの父

 地球の全生命の創造者は、異星人エロヒムです。
 地球上の全生命は、異星人エロヒムの科学者たちが、科学的に創造したものなのです。

 聖書において神(GOD)と誤訳されている元々の原語は、ヘブライ語のエロヒムという言葉であり、「天空から飛来した人々」を意味する、れっきとした複数形なのです。
 単数形が、エロハになります。

 創造者であるエロヒムの中で、特に知っておくべき、三人のエロハがいます。
 ヤハウェと、ルシファーと、サタンです。

 エロヒムの惑星においては、不死の資格ありと認定された一部の人たちには、不死の特権が与えられ、不死の生命、永遠の生命が与えられます。

 具体的には、高度なクローン技術によるクローニングなのであり、ヤハウェもルシファーもサタンも、高度な遺伝子工学によって、死と再生を繰り返し、何万年も生き続けているクローン人間なのです。

 今日は、まず、ヤハウェについて、書いてみたいと思います。

 エロヒムの惑星において、不死の資格を得た人々で構成されている不死会議の議長がヤハウェであり、エロヒムの惑星のリーダーになります。

 地球での生命創造の実験は、ヤハウェのリーダーシップの元に行われたものなのです。

 ヤハウェは、ユダヤ教の唯一絶対神ヤハウェのことであり、イエス・キリストが「天の父」と呼んだ存在のことであり、イスラム教においては、唯一絶対神アラーと呼ばれています。

 ヤハウェが、イスラム教においては、アラーと呼ばれているのは、当時の人々が、ヤハウェを崇拝するあまり、本当の名前を出すのは畏れ多いと考えて、普通名詞のエロハと呼んでいたことから来ています。

 エロヒムのリーダーであるヤハウェは、イエス・キリストの実の父親でもあります。

 聖霊によってイエスを身籠ったとされる、聖母マリアの処女懐胎とは、実際には、エロヒムの宇宙船(UFO)の中で人工授精が行われたのであり、イエス・キリストの実の父親が、ヤハウェなのです。
 聖母マリアは、宇宙船(UFO)の中での記憶を消されてから、地球に戻されています。

 聖母マリアに受胎告知した、大天使ガブリエルとは、ガブリエルという名の、エロハになります。

 イエスが洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼(パプテスマ)を受けた時のことです。
「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(「マタイによる福音書」第3章・第16・17節)
「神の霊」とは、もちろん、エロヒムの宇宙船(UFO)のことです。

 この後イエスは、「神の霊」に導かれて、四十日四十夜、荒野をさまよい、悪魔(サタン)に誘惑されて、試みを受けたとされています。
 実はこの時、イエスは、エロヒムの不死の惑星に連れて行かれて、様々な奥義を伝授され、サタンの試みを受けたのです。

 イエス・キリストは、彼が「天の父」と呼んだ、実の父親であるヤハウェに引き会わされ、自分の素性を教えられると共に、自分の使命を知らされ、様々な科学技術の手ほどきを受けました。
 イエス・キリストが「天の父」と呼んだのは、抽象的な概念などではなく、エロヒムの不死の惑星にいる、彼の実の父親であるヤハウェのことだったのです。

 イエスは、テレパシーによる集団催眠を用いて説得力のある話し方をする方法など、自分の使命を遂行していく為に必要な、様々な科学技術を、エロヒムの不死の惑星で伝授されました。
 イエスが言う「天の王国」とは、エロヒムの不死の惑星のことであり、仏陀が言う「極楽浄土」も同じことを言っています。

 奥義を伝授された時、イエスはサタンのテストを受けています。
 イエスの知性が確かなものかどうか、イエスがエロヒムを敬愛しているかどうかを試されて、イエスが信頼出来ると分かったので、彼に使命の遂行が委ねられたのです。

 イエスは、天に祈るとき、ヤハウェのことを「アッバー」と呼んでいたようですが、「アッバー」とはアラム語で「お父さん」、「父ちゃん」という意味の、子供が父親を呼ぶ時の親しみを込めた言葉であり、ヤハウェはイエスの実の父親だったのです。

 また、日本の神道における最高神である、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)というのも、ヤハウェのことになります。

 世界の主な宗教の源は一つであり、神道のルーツは、古代ユダヤ教なので、神道の最高神である、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)とは、ヤハウェのことであり、ヤハウェとは、「天空」を意味する言葉でもあります。


参考文献
ラエル「真実を告げる書」 無限堂
ラエル「地球人は科学的に創造された」 無限堂


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異星人エロヒムの宇宙船(UFO)の様々な表現

 聖書における神(GOD)という言葉は誤訳であり、元々の原語は、ヘブライ語のエロヒムという言葉であり、「天空から飛来した人々」を意味する、れっきとした複数形なのです。
 単数形が、エロハになります。

 つまり、聖書における神(GOD)とは、他の惑星から飛来して来た人々、つまり、異星人・宇宙人のことなのです。

 聖書が書かれたような古代の時代には、「宇宙船(UFO)」などという言葉はありませんでしたので、エロヒムの宇宙船(UFO)は、古代の神秘家たちの手によって、様々に表現されています。

聖書においては、「神の霊」「主の栄光」「ヤハウェの栄光」「雲」「光る雲」、「火の柱、雲の柱」などと表現されています。

仏教においては、「輪宝」「天蓋」などとも表現されています。

インド神話では、空飛ぶ船「ヴィマナ」として登場します。

 日本の神話では、アメノイワフネ(天岩船・天磐船)、アメノトリフネ(天鳥船)、アメノウキフネ(天浮舟)などと表現されています。

 古事記においては、日本の国生みの最初の場面で、「天の浮橋」として登場します。
 イザナギとイザナミの夫婦神が、「天の浮橋」に立って、天の沼矛を下してかき回し、天の沼矛を引き上げた時に、そこから滴り落ちた潮水が積り重なって、オノゴロ島が出来たと書かれています。

 キリスト教の宗教画には、宇宙船(UFO)が書かれているものが色々ありますし、仏像でも、仏陀の頭上に宇宙船(UFO)が配置されている仏像もあります。


参考文献
ラエル「真実を告げる書」
ラエル「地球人は科学的に創造された」


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「創世記」や世界中の天地開闢物語は、地球における天地創造であり、「無限」の大宇宙そのものの誕生が語られている訳ではない

 旧約聖書の「創世記」における天地創造を始め、日本でも古事記など、世界中の様々な宗教や神話には、宇宙開闢物語が登場します。

 しかし、それらの全ては、あくまでも、地球における天地創造であり、地球から見た天地開闢物語、地球から見た宇宙開闢物語なので、「無限」の大宇宙そのものの誕生を語っている訳では決してありませんので、勘違いしないように注意する必要があります。

 前回、『エロヒムという「天空から飛来した人々」――聖書における「神」とは』の中でも書きましたが、世界の主な宗教の源は一つであり、「創世記」において「神」と呼ばれている存在たちが、そのルーツとなっています。

 しかし、聖書において神(GOD)と誤訳されている元々の原語は、ヘブライ語のエロヒムという言葉であり、「天空から飛来した人々」を意味する、れっきとした複数形なのです。
 単数形が、エロハになります。
 
 今ある地球の大陸や全生命は、非常に高度な文明を持つ、エロヒムという、他の惑星からやって来た科学者たちの手によって、科学的に創造されたものなのです。

 ラエルの「真実を告げる書」によると、創造者であるエロヒムが地球にやって来たのは、今から約25000年前であり、その当時の地球は、水と濃密な霧にすっぽりと包まれていたようです。
 エロヒムは、太陽からの光線や地球の大気の組成などを科学的に調べて、生命の創造に適していることを確認してから、地球での生命創造の実験を開始したのです。

「創世記」に書かれている天地創造とは、あくまでも、エロヒムという「天空から飛来した人々」である、他の惑星からやって来た科学者たちの手によって、地球の全生命が科学的に創造された記録なのです。

「創世記」の二日目は、次のように書かれています。
「エロヒムは言われた。
『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』
 エロヒムは大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。エロヒムは大空を天と呼ばれた。」(「創世記」第1章・第6〜8節)

 水と濃密な霧にすっぽりと包まれていた地球から、濃密な霧を科学的に除去して、大空の下の水(即ち海)と、大空の上の水(即ち雲)とに分け、地球から大空を見えるようにしたことが語られています。

「創世記」における「天」とは、あくまでも、地球から見えるようになった大空のことなので、「無限」の大宇宙そのもののことを語っている訳では決してありません。

 日本の古事記も、最初は「天地(あめつち)の初め」として、天地開闢から物語が始まります。
「天地初めて発(ひら)けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、次に神産巣日神(カミムスヒノカミ)・・・・・」

 神道の最高神である、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を、「無限」の大宇宙そのものの根本創造主と勘違いしている方が多くいらっしゃるようですが、古事記の天地開闢には、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が天地を創造したとは、書かれていません。

 あくまでも、「天と地とが初めて分かれた開闢の時に、高天原に成り出でた神の名は、アメノミナカヌシノカミ、次にタカミムスヒノカミ、次にカミムスヒノカミである。」と書かれているだけなのです。

 天と地とが初めて分かれた開闢の時に、高天原に成り出でた神の名は、アメノミナカヌシノカミを始めとする、いわゆる、造化三神だと書かれているだけであり、アメノミナカヌシノカミが宇宙を創ったとも、あるいは造化三神が宇宙を創ったとも一言も書かれてはいません。

 世界の主な宗教の源は一つなので、古事記の最初の「天地(あめつち)の初め」、即ち天地開闢は、「創世記」と同じように、地球から見て、天地が開け、大空が現れ、「天」が開けたことを語っているのです。

 神道のルーツは古代ユダヤ教であり、神道の最高神とされる天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、ユダヤ教における唯一絶対神ヤーウェのことなのです。

 ヤーウェとは、エロヒムの惑星のリーダーであり、地球での生命創造プロジェクトはヤーウェのリーダーシップの元に行われたものなのですが、ヤーウェとは、「天空」を意味する言葉なのです。

「創世記」を始め、日本の古事記や、世界中の様々な宗教や神話で語られている、天地開闢物語、宇宙開闢物語というのは、無形の超自然の全能の神によって、「無限」の大宇宙が創造されたというような大袈裟なものなどでは決してありません。

「創世記」を始めとする、世界中の様々な天地開闢物語、宇宙開闢物語というのは、あくまでも、地球から見た天地開闢物語であり、地球から見た宇宙開闢物語なのです。

「創世記」を始め、世界中の様々な天地開闢物語、宇宙開闢物語というのは、あくまでも、異星人エロヒムの科学者たちが、25000年程前、地球にやって来て、水と濃密な霧にすっぽりと包まれていた地球上で、大空と大陸を形成し、生命創造の実験を行なっていったことが語られているのです。

 ビッグバン理論に代表されるような、物理的大宇宙そのものの始まり・誕生というような概念は、科学が発達してきた20世紀頃から、人々が意識するようになったものではないでしょうか?

 ほんの400年程前、天動説を否定して地動説を唱えたガリレオ・ガリレイが、宗教裁判にかけられ、ローマ教皇庁から有罪を宣告されたのは、有名な話です。
 また、ガリレオより少し早い時代に生きたコペルニクスも地動説を唱えましたが、自己の地動説発表による影響を恐れて、主著「天体の回転について」の販売を、死期を迎えるまで許さなかった為、自著の完成を見ることなく逝ったと言われています。(1543年没)

 ほんの400年程前の時代は、ほとんどの人々が、地球が宇宙の中心にあり、宇宙の中心にある地球の周りを太陽が回っているのだと信じ込んでいたのです。

 ビッグバン理論に代表されるような、物理的大宇宙そのものの始まり・誕生などという概念は、コペルニクスやガリレオの時代よりもさらに科学が進み、地動説が当たり前になり、さらに宇宙への探求が進んでから一般的になった概念であり、人々が大きく意識するようになったのは、20世紀に入る頃くらいからなのではないでしょうか?

 物理的大宇宙というのは、時間においても空間においても「無限」なので、ビッグバン理論などは、実際には、間違った概念にしか過ぎないのですが、それはともかく、何千年も前に書かれた「創世記」や、世界中の経典や神話などに、ビッグバン理論に代表されるような物理的大宇宙そのものの始まり・誕生などが語られている訳では決してないということだけは、しっかりと認識しておく必要があるかと思います。

「創世記」に書かれている天地創造とは、無形の超自然の全能の神が、「無限」の大宇宙を創造したというような、大袈裟な話などではなく、あくまでも、今から25000年程前、異星人エロヒムが、地球にやって来て、水と濃密な霧に包まれていた地球上で、大空(天)と大陸を形成し、植物・動物、そして最後には私たち人間を科学的に創造したことが書かれているのです。

 今から25000年程前、地球には大陸が無く、生命も存在していなかったと聞くと、ほとんどの人は信じられないと思うかも知れませんが、最近では、それを支持する科学者たちも増えてきているようです。
 ウィキペディアにも、「若い地球説」として書かれていますが、地球の年齢というのは、一般的に考えられている以上に、遥かに若いようです。

 半減期が13億年という非常に長い放射性同位元素を用いるカリウムーアルゴン法で測定すると、何十万年前、あるいは何百万年前とされる化石も、炭素14法で測定すると、数千年前、あるいは、一万年位前になるようです。

「化石の年代測定のからくり」について、戸来優次氏の「[謎解き]聖書」(徳間書店)の中から、一部引用させていただきます。
「更に、炭素14法によると、ネアンデルタール人やマンモスや他の絶滅動物のみならず、石炭や石油、天然ガスなどの年代は、全て数千年を示しており、炭素14法の発明者で、1960年のノーベル賞受賞者でもあるウォレット・レビーは、『アメリカン・ジャーナル・フィジックス』の中で、人類の歴史の長さは、いくら長くても2万年から4万年程度であると結論している。
 炭素14法では約2万年と測定される人類の歴史が、進化論を前提とすると、数百万年前と一挙に数百倍も古くなるのである。

 また、戸来優次氏は次のように結論されています。
「現在、化石の年代測定によく用いられるカリウムーアルゴン法は、半減期が13億年と非常に長いカリウム40を用いているが、この手法が年代測定に使用される事自体が、長期に亘る生物の歴史を前提としている。
 半減期が13億年の元素を用いた測定法で僅か一万年程度の歴史しか持たない化石を調べる事が、精度や再現性にどの程度信用を与えられるかはなはだ疑問である。まさに『時針しかない時計で秒をはかる』ようなものである。

 地球という惑星そのものの年齢は分かりませんが、少なくとも、今ある大陸や、植物・動物、そして私たち人間は、今から25000年位前、異星人エロヒムによって科学的に創造されていったものなので、実は、多くの人たちが考えている以上に、遥かに「地球は若い」のです。

 長くなりましたので、「若い地球」については、また次回に続きを書いてみたいと思います。


神武天皇とは、私達一人一人の事でもある

 神武天皇とは、私達一人一人の事でもあります。

 神武天皇とは、二千数百年前に、大和王朝を建国したとされる、歴史上の人物であるだけではなく、私達一人一人の事でもあります。

 古事記には、歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産するまでの内的なプロセスが、象徴的に描かれています。

 一番最初の天地開闢から、神武天皇誕生までの、所謂、神代の時代の神話は、人が神として出産するまでの、魂の出産、魂の蘇りが、主要なテーマとして隠されています。

 そして、人が、自らの中にある本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、顕現して、神人のようになった状態を、神武天皇という言葉で象徴しています。

 古事記において、神武天皇という言葉が象徴しているのは、魂の蘇り、魂の出産を迎えて、神として蘇った人の事なのです。

 ですから、神武天皇とは、私達一人一人の事でもあります。
 私達一人一人が、自らの中にある本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、それを顕現して、神人のようになった時、神武天皇として誕生したとも言えます。

 「神武」とは、「神の武士」と書きます。
 神道的に言えば神性、仏教的に言えば仏性、キリスト教的に言うならばキリスト意識とでも言うべき、自らの中にある本当の光、神聖な光を顕現して、言わば、「神の武士」として、神人のように生きられるようになった人の事を、神武天皇という言葉で象徴しているのです。

 今、私達人類の意識が飛躍的に進化して、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する時を迎えていますので、私達一人一人が、神武天皇として誕生する時を迎えています。

 徒に、自分の外に神を見て、神に縋(すが)り、依存し、神に救いを求めるのではなく、自分の中にある神性を蘇らせ、それを顕現して、自分自らが、神人のようになって、精神的に自立した生き方をする時を迎えているのです。

 自分の外に神を見る時代は、もう終わりの時を迎えています。
 自分の外に神を見るのではなく、自分自身の中に神を発見し、それを顕現して、自分自身が神人のようになって、精神的に自立した生き方をしていく時を迎えているのです。

 古事記において、神武天皇という言葉が象徴しているのは、魂の蘇り、魂の出産を迎えて、神の蘇りを迎えた人の事なので、神武天皇とは、歴史上の一人物を指す言葉であるだけではなく、私達一人一人の事でもあるのです。

 神武天皇とは、私達一人一人の事でもあります。

火之迦具土神を生んだのは、岩戸(黄泉国)の中に入る為

 一昨日、『「一厘の仕組み」は、伊邪那美命の中に隠されている』の中で、「一厘の仕組み」は、古事記においては、伊邪那美命の中に隠されている事について書きました。

 伊邪那美命が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を生んだのは、岩戸(黄泉国)の中に入る為です。

 火之迦具土神を生んだ為に、伊邪那美命はホト(女陰)が焼けて死んでしまい、黄泉国に入ったのです。
 そして、夫である伊邪那岐命も、火之迦具土神の首を十拳(トツカノ)剣で斬って、伊邪那美命の後を追って、黄泉国に入ったのです。

 岩戸(黄泉国)の中に入り、出て来る事が肝要です。

 仕組みとして、人は皆、生まれて来る時は、自らの本当の光を一旦忘れて生まれて来ます。
 言わば、生まれながらにして、岩戸(黄泉国)の中に入った状態で生まれて来るのです。

 やがて、御魂が成長するに伴い、自らの内なる本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、それを顕現して、神人のように生きられるようになるのです。

 それが、魂の出産であり、魂の蘇り(=黄泉帰り)であり、神の蘇りという事なのです。
 古事記においては、神武天皇の誕生という表現を使って象徴しています。

 そして、自らの内なる本当の光、内なる神性というのは、自分を最も落とした所、一番醜い所から出て来ます。
 以前、「神は一番下から出て来るー最も落とした所ほど最も貴い」の中に書きましたので、ご参照下さい。

 古事記の中で、黄泉国の中の伊邪那美命は、とても醜い姿で描かれています。

 そして、一昨日のブログの中で書いたように、古事記の中では隠されていますが、伊邪那美命は、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)で、夫である伊邪那岐命と仲直りし、夫婦和合して、伊邪那岐命と共に、伊邪那美大神として、蘇る(=黄泉帰る)のです。

 その時、伊邪那岐命と伊邪那美命の争いの仲裁役を務め、夫婦和合へと導くのが、白山菊理媛(ハクサンククリヒメ)です。

 白山菊理媛の総本宮とされる、白山比咩(シラヤマヒメ)神社の御祭神が、白山菊理媛・伊邪那岐命・伊邪那美命となっているのは、その為であり、日本三霊山の一つ、加賀の白山をお守りされている白山比咩神社の働きには、とても奥深いものがあり、「一厘の仕組み」、「最後の一厘」と密接に関わっています。

 「最後の一厘」において必要となるのが、白山菊理媛の働きになります。

 古事記の中では隠されていますが、伊邪那美命は、白山菊理媛の「最後の一厘」の働きにより、黄泉比良坂で夫・伊邪那岐命と夫婦和合し、伊邪那岐命と共に、黄泉国から黄泉帰る(=蘇る)事になります。

 最も醜い姿が、最も高貴な姿となり、光り輝く姿で蘇る(=黄泉帰る)のです。
 伊邪那美命が、伊邪那美大神として、蘇る(=黄泉帰る)事になります。

 古事記の中では隠されていますが、伊邪那岐命は、自分一人で黄泉比良坂から黄泉帰った(=蘇った)のではなく、白山菊理媛の仲裁により夫婦和合して、妻である伊邪那美命と共に黄泉帰り(=蘇り)、禊祓をして、次々に神々を生み、最後に、三貴子である、天照大御神、月読命、須佐之男命を生んだのです。

 伊邪那美命が火之迦具土神を生んだのは、岩戸(黄泉国)の中に入る為です。

 火之迦具土神を生んだ為に、伊邪那美命も、伊邪那岐命も、共に、黄泉国(岩戸)の中に入る事になったのです。

 そして、黄泉比良坂で夫婦和合して、黄泉帰って(=蘇って)来たのです。

 岩戸(黄泉国)の中に入り、出て来る事が大切になります。

 人は皆、自らの本当の光、内なる神性を一旦忘れ、岩戸(黄泉国)の中に入った状態で生まれて来ます。
 そして、御魂が成長するに伴い、自らの本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、それを顕現して、魂の出産、魂の蘇り(=黄泉帰り)の時を迎える事になります。

 魂の出産、魂の蘇り(=黄泉帰り)により、さらに光り輝く魂となるのです。
 自らの本当の光を一旦忘れ、暗闇(岩戸・黄泉国)の中から、自らの本当の光をもう一度想い出し、蘇らせる事によって、さらに光輝く事が出来るのです。

 岩戸(黄泉国)の中に入り、出て来る事が大切です。

 仕組みにより、人は皆、生まれながらにして、岩戸(黄泉国)の中にいるのです。
 岩戸(黄泉国)の中の暗闇の中から、自らの本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせる事が、 「一厘の仕組み」であり、「一厘の仕組み」は、伊邪那美命の中に隠されています。

 伊邪那美命が火之迦具土神を生んだのは、岩戸(黄泉国)の中に入る為であり、岩戸(黄泉国)の中に入り、出て来る事が肝要です。

 最も醜い姿が、最も高貴な姿となり、光り輝く姿で黄泉帰る(=蘇る)のです。
 伊邪那美命が、伊邪那美大神として蘇る(=黄泉帰る)事になります。

「一厘の仕組み」は、伊邪那美命の中に隠されている

 神の経綸において、「一厘の仕組み」、「最後の一厘」と呼ばれるものがあります。

 「一厘の仕組み」、「最後の一厘」に関心がある人の中には、「一厘の仕組み」、「最後の一厘」というものを知る為に、様々な知識・情報を集めてみたり、様々な御神業をしたりしておられる方もあるようですが、「一厘の仕組み」は、私達一人一人の心の中に仕掛けられているので、自分自身の心の内を見ない事には、「一厘の仕組み」を知る事は出来ません。

 「一厘の仕組み」とは、外の世界で、天変地異や大事件のような、何かが起きるというような、神仕組みではありません。

 「一厘の仕組み」とは、私達人間一人一人が神成る為の神仕組みであり、私達一人一人の心の中に仕掛けられているものなのです。
 ですから、自分自身の心の内面を見ない事には、「一厘の仕組み」を知る事は出来ません。

 「一厘の仕組み」、「最後の一厘」については、以前に書きましたので、ご参照下さい。

 そして、「一厘の仕組み」は、古事記においては、伊邪那美命の中に隠されています。

 古事記の中で、伊邪那美命が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を生んだ為に、ホト(女陰)が焼けて死んでしまいました。
 伊邪那岐命は、十拳(トツカ)剣を抜いて火之迦具土神の首を斬ってしまい、伊邪那美命の後を追いかけて、黄泉国(ヨミノクニ)の中へ入って行きました。

 「一厘の仕組み」は、伊邪那美命の中に隠されており、人間が誕生するという、人の「生」に関わる、最も根源的な仕組み、そして、自らの内なる神性を発揮して、やがて神と成る神仕組みが隠されています。

 全ての人間は、必ず、父親の精子と母親の卵子が結合して、母親の子宮から生まれてきます。

 そして、神仕組みとして、人は皆、生まれながらにして、自らの本当の光を忘れた状態で生まれてきます。
 言わば、古事記における、黄泉国の中にいる状態、「天岩戸」の中にいる状態で生まれてくるのです。

 やがて、自らの中にある本当の光、内なる神性を想い出し、蘇らせ、それを顕現して、神成る身となり、言わば、神人のように生きられるようになるのです。
 それが、魂の出産であり、魂の蘇り(=黄泉帰り)という事なのです。

 古事記における、「伊邪那岐命の黄泉国からの黄泉帰り(=蘇り)」、「天照大御神の天岩戸開き」などは、その事を象徴しています。

 そして、古事記の中では、隠されていますが、伊邪那美命は、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)で、夫である伊邪那岐命と仲直りし、夫婦和合して、黄泉国から黄泉帰る(=蘇る)のです。
 その時に、夫婦和合の仲介役を務めるのが、白山菊理媛(ハクサンククリヒメ)です。
 人が神と成る「最後の一厘」に関わってくるのが、白山菊理媛の働きになります。

 伊邪那美命は、黄泉比良坂で、伊邪那岐命と夫婦和合して、伊邪那美大神として、黄泉国から黄泉帰る(=蘇る)のです。

 伊邪那岐命は、黄泉比良坂で、伊邪那美命と夫婦和合して、伊邪那美命と共に、黄泉国から黄泉帰る(=蘇る)事になります。

 そして、禊祓(ミソギハラエ)をされた後に、次々と神々をお生みになり、最後に生まれたのが、有名な三貴子である、天照大御神、月読命、須佐之男命になります。

 古事記における、「伊邪那岐命の黄泉国からの黄泉帰り(=蘇り)」、「天照大御神の天岩戸開き」、「須佐之男命の八俣大蛇(ヤマタノオロチ)退治」などは、登場人物と場面設定はそれぞれ違いますが、魂の出産、魂の蘇りという同じテーマが、象徴的に描かれています。

 そして、人が内なる神性を顕現して、神成る身となり、神人のようになった状態の事を、神武天皇という言葉で象徴しています。

 「一厘の仕組み」、「最後の一厘」は、外の世界に仕掛けられているのではなく、私達一人一人の心の中に仕掛けられているので、自分自身の心の中を見ない事には、「一厘の仕組み」を知る事は出来ません。

 そして、「一厘の仕組み」は、古事記においては、伊邪那美命の中に隠されています。
 「一厘の仕組み」により、伊邪那美命は、伊邪那美大神として蘇る(=黄泉帰る)のです。
 最も醜い姿が、最も高貴な姿となり、伊邪那美大神として光輝く姿で蘇る(=黄泉帰る)事になります。

「大黒様 だいこくさま」の歌ー大黒様の袋の中は奇魂(くしみたま)

 一昨日、「大国主誕生」の中で、出雲大社の御祭神である、大国主大神の事を書きましたが、大国主大神は、大黒様とも呼ばれます。

 ところで、文部省唱歌に、「大黒様 だいこくさま」という歌があります。

 ご存知の方もあるかと思いますが、「大黒様」の歌は、「大きな袋を肩にかけ、・・・」という歌詞で始まります。

 大黒様が肩にかけている大きな袋の中には、実は、神道の一霊四魂で言うところの、奇魂(くしみたま)の働きが入っています。

 奇魂の働きは、一般的には、「智・功・察」とも表されていますが、御霊の一番奥の働きであり、神の図りを知る働きになります。
 現象を否定せず、現象の奥にある、神の図りを見る意識の働きであり、根性と呼ばれるものも、奇魂の働きに含まれます。

 奇魂の働きは、伊邪那岐命が、黄泉国(ヨミノクニ)で、神聖な爪櫛(つまくし)に火を灯した働きとして、象徴されています。

 奇魂が光らない限りは、大黒様にはなる事が出来ません。
 大黒の働きとは、一朝一夕に出るものではなく、長い年月に亘る、奇魂の働きが、不可欠となります。

 古事記に書かれている通り、出雲大社の御祭神である、大国主大神は、いきなり誕生した訳ではなく、様々な苦難や試練、死からの蘇生復活などを経て、誕生したのです。

 大黒様は、米俵の上に乗って、打出の小槌を持っておられますが、それは即ち、「力」の象徴でもあります。

 全国の八百万神々を統率する、出雲大社の御祭神である大国主大神とは、「力」の象徴であり、米俵の上で打出の小槌を振って、金銀財宝をザクザクと生み出す大黒様とは、「力」の象徴なのです。

 「力」の象徴である、大国主大神の働き、大黒の働きとは、一朝一夕に出るものではなく、奇魂の働きが、必要不可欠となります。


大国主誕生

 古事記には、歴史書としての一面だけではなく、神界のプログラムが隠されており、人が神として出産するまでの内的なプロセスが、象徴的に描かれています。

 天地開闢から神武天皇誕生までの、神代の物語においては、様々な登場人物や場面設定を使って、魂の出産、魂の蘇りが象徴的に描かれており、人が神として出産するまでの内的なプロセスが描かれています。

 出雲大社の御祭神である、大国主大神が誕生するまでの物語も、その一つです。

 大国主は、最初は、有名な「因幡の白兎」の場面で登場しますが、その時はまだ、大穴牟遅(オオナムジ)神という名前で、八十神(兄弟神)から荷物を背負わされ、従者として従っていました。

 その後、八十神から迫害され、二度までも殺されながら、死の苦難を克服して、蘇生復活しました。

 須佐之男命のいる、「根の堅州国(カタスクニ)」を訪問した時は、須佐之男命から、蛇のいる部屋や、蜈蚣(ムカデ)と蜂のいる部屋に寝させられたりして、様々な試練を受けました。

 須佐之男命の娘・須世理毘売(スセリヒメ)の協力により、須佐之男命のいる「根の堅州国(カタスクニ)」から見事、逃げのびる事が出来ました。

 その時、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)まで追いかけて来た、須佐之男命から、「お前が持っているその生太刀・生弓矢で、お前の腹違いの兄弟を坂のすそに追い伏せ、また川の背に追い払って、貴様が大国主神となり、また現し国魂の神となって、その私の娘の須世理毘売を正妻として、宇迦の山のふもとに、太い宮柱を深く掘り立て、空高く千木をそびやかした宮殿に住め。こやつよ」と仰せられて、国創りを始められました。

 出雲大社の御祭神である大国主大神は、いきなり誕生した訳ではなく、様々な試練や苦難、死からの蘇生復活などを経験した末に、誕生したのです。

 魂の出産、魂の蘇りもまた、かくの如きであり、長い苦難を伴う、内的なプロセスを経験した後に、成就するものなのです。

 大国主誕生とは、別の場面設定においては、「須佐之男命の八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ意味であり、「天照大御神の天岩戸開き」、「伊邪那岐命の黄泉国(ヨミノクニ)からの黄泉帰り(蘇り)」、「日子穂穂手見命(山幸彦)の龍宮城からの帰還」と同じ意味であり、神武天皇誕生と同じ事を表しています。

満月は「完成された御魂、魂の出産、魂の蘇り、月読命の蘇り」の象徴

 私達の魂は、月に例えられます。
 そして、満月とは、完成された御魂を象徴しています。

 完成された御魂とは、魂の出産、魂の蘇りと同じ意味であり、「月読命の蘇り」という事でもあります。

 伊邪那岐命の三貴子(天照大御神、月読命、須佐之男命)である、「月読命の蘇り」の象徴が、満月なのです。

 夜空に輝く満月は、「完成された御魂、魂の出産、魂の蘇り」の象徴であり、それは即ち、「月読命の蘇り」の象徴という事になります。

 そして、「月読命の蘇り」とは、「天照大御神の天岩戸開き」と同じ意味であり、「須佐之男命の八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ事を象徴しています。

 そして、それは即ち、「伊邪那岐命の黄泉国(ヨミノクニ)からの黄泉帰り(蘇り)」と同じ意味でもあります。

何故、地球から見て、太陽と月は、ほぼ同じ大きさなのか

 太陽と月は、それぞれの大きさも、地球からの距離も、大きな違いがあります。
 恒星である太陽の周りを回っているのが、地球という惑星であり、その地球の周りを回っているのが、月という衛星なのです。

 太陽と月は、それぞれの大きさも、地球からの距離も、大きくかけ離れていますが、地球から見ると、ほとんど同じ大きさに見えます。
 
 何故、地球から見て、太陽と月は、ほぼ同じ大きさなのでしょうか?

 それは、地球の全生命を創造した存在達(聖書では神と訳されている)が、月をそのような位置に配置したからなのです。

 旧約聖書の「創世記」に、天地創造の話が、比喩的に述べられています。
 神が、七日間かけて、天地創造を完成した話が、比喩的に書かれています。

 第一日目には、「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」と書かれています。
  第四日目には、「神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。」と書かれています。

 太陽が治める昼と、月が治める夜は、二つで一つであり、地球上の全生命にとっても、二つの働きは、無くてはならない不可欠のものとなります。

 古事記の中に、伊邪那岐命(イザナギノミコトノ)の左目から生まれたのが天照大御神(アマテラスオオミカミ)であり、右目から生まれたのが月読命(ツキヨミノミコト)であると書かれている通り、天照大御神と月読命は、対の関係であり、二つで一つです。

 太陽が治める昼と、月が治める夜があるように、光と闇があるように、天照大御神と月読命は、対の関係であり、二つで一つなのです。

 太陽の持つ働きが、地球上の生命にとって、必要不可欠である事は、誰もが認めるところですが、月の持つ働きもまた、影に隠れて見えにくいのですが、地球上の生命にとって、必要不可欠の働きなのです。

 女性の生理を始め、潮の満ち引きなどによって、月の持つ力が、地球上の生命のバイオリズムに大きな影響を与えている事は、よく知られています。

 陽の働きである太陽の働きと、陰の働きである月の働きは、どちらも、地球上の生命にとって無くてはならない、不可欠の働きであり、二つで一つなのです。

 太陽の働きと、月の働きの、どちらが欠けても、地球上の生命は、存在出来ないのです。

 地球からの距離も、天体としての大きさも、それぞれ全く違う太陽と月が、地球から見てほぼ同じ大きさになっているのは、旧約聖書の「創世記」における天地創造のストーリーと並行して、月という天体が、今のような形に配置されたからなのです。

 それは、地球上に生命を創造する上で必要不可欠な事であり、太陽と月の二つの働きがあって初めて、地球上の生命は存在する事が出来るのです。

 地球上の全生命を創造した存在達(聖書における神)は、地球上の生命にとって必要不可欠な、太陽と月という、二つの働きを、地球から見て太陽と月がほぼ同じ大きさに見える事によって、象徴しているのかも知れません。

古事記は、神界にそびえ立つ龍宮城

 古事記は、我が国最古の歴史書です。

 712年(和銅5年)に、太安万侶によって献上されたとされています。
 天武天皇の命により、稗田阿礼が「謡習」していた「帝皇日継」(天皇の系譜)と「先代旧事」(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものとされています。

 今日では、一般的に「コジキ」と呼ばれていますが、「フルコトブミ」と呼ぶのが正しいという説もあります。

 歴史書としての古事記には、真偽も含めて、様々な見解があるかと思いますが、古事記とは、単に歴史書としての一面だけではなく、「神界のプログラム」が隠されており、「神界にそびえ立つ龍宮城」としての一面も隠されています。

 特に、一番最初の「天地開闢」から、初代天皇である「神武天皇誕生」までの、所謂、「神代の時代」の神話の物語は、人が神として出産するまでの内的なプロセスが、象徴的に描かれており、魂の出産、魂の蘇りという事が、主要なテーマとして描かれています。

 登場人物と場面設定はそれぞれ違いますが、魂の蘇りという同じテーマが、繰り返し繰り返し描かれています。

 そして、魂の出産を終え、魂の蘇りを経て、人が神として誕生した姿を、古事記では「神武天皇」という言葉で象徴しています。

 もちろん、古事記には、歴史書としての一面もありますので、初代天皇である「神武天皇」となった、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)という人物も実在したかと思われますが、「神界のプログラム」としての古事記が「神武天皇」という言葉で象徴しているのは、人が神として誕生した姿です。

 魂の出産を終え、魂の蘇りを経験して、人から神に成長した姿を、「神武天皇」という言葉で表現しています。

 ですから、「神武天皇」とは、二千数百年前に初代天皇となった歴史上の特定の人物だけを指すのではなく、私達一人一人の事も意味しています。

 私達一人一人が、魂の出産を終え、魂の蘇りを経験して、人から神へと進化(神化=しんか)した姿を、古事記では、「神武天皇」という言葉で表現しています。

 「神武天皇」とは、私達一人一人の事でもあります。
 私達一人一人が、魂の蘇りにより魂の出産を迎え、人から神へと成長して「神武天皇」として誕生する事が出来るように、「神界のプログラム」を示して、古事記は私達を導いてくれています。

 古事記とは、「神界にそびえ立つ龍宮城」でもあります。

 古事記については、折に触れて、少しずつ書いていきたいと思います。

黄泉国とは、「閉ざされた天岩戸の中」と同じ意味

 先日、「天照大御神の天岩戸開き=月読命の蘇り=須佐之男命の八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」の中で、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が入った黄泉国(ヨミノクニ)について少し触れました。

 黄泉国とは、「黄色い泉の国」と書きます。
 黄色い泉とは、小便であり、言わば、肥溜めのような世界の事です。
 
 古事記の中で、黄泉国が象徴しているのは、人が落ちた所であり、言わば、便所です。
 自分自身の心の中にある、肥溜めのような、光を失った闇のような世界の事を象徴しています。

 黄泉国とは、別の言い方をするなら、「天岩戸の中」という意味になります。
 天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、自らの光を閉ざして篭(こも)ってしまった、「閉ざされた天岩戸の中」と同じ意味になります。

 月明かりを失った闇夜のような世界の事であり、それは、私達一人一人の心の中にある世界の事を象徴しています。

 須佐之男命(スサノオノミコト)の場合には、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)という言葉で表現されています。
 八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)とは、自分自身の心の中に潜んでいるのです。

 肥溜めである便所は糞まみれですが、畑を耕す肥やしとなる場所であり、作物を育てる大切な場所でもあります。

 天の仕組みとして、私達人間一人一人は、自分自身の心の中にある闇の世界を経験する事によって、成長し、自分自身の中にある本当の光を取り戻す事が出来るのです。

 それが、魂の出産という事であり、魂の蘇りという事なのです。

 古事記には、歴史書としての一面だけではなく、人が神として出産する内的なプロセスが象徴的に描かれており、魂の蘇りという事が、メインのテーマとなっています。

 自分の心の中にある、肥溜めのような闇の世界に一度落ちて、そこから自分自身の本当の光を取り戻し、蘇るという、魂の蘇りが、伊邪那岐命の「黄泉国からの黄泉帰り(蘇り)」であり、天照大御神の「天岩戸開き」であり、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」として、象徴的に描かれています。

天照大御神の天岩戸開き=月読命の蘇り=須佐之男命の八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治

 先日、「月読命の蘇り=魂の蘇り=黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)」の中で、月読命(ツキヨミノミコト)の蘇りとは、魂の蘇りであり、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)であり、それは即ち、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の「天岩戸開き」、須佐之男命(スサノオノミコト)の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ事を象徴していると書きました。

 月というのは、太陽の光を受けて輝きますので、月が蘇るとは、太陽が蘇る事を意味します。
 
 月食というものがあります。
 地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月に掛かる事によって、月が欠けて見える現象で、満月の時に起きます。
 太陽の光が遮られる事によって、月も光を失います。

 皆既月食の時には、月は一旦完全に光を失いますが、太陽の光が蘇るにつれて、月も光を取り戻し、輝きを取り戻します。

 皆既月食は、「月読命の蘇り=魂の蘇り=黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)」の型示しとなっています。

 夜空に輝く満月は、完成された御魂、魂の出産、魂の蘇り、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)を象徴しています。

 月は、太陽の光を受けて輝きますので、月が蘇るとは、太陽が蘇る事を意味し、それは即ち、月読命の蘇りであり、天照大御神の「天岩戸開き」と同じ事を象徴しています。

 自分の中にある本当の光、内なる神性が蘇り、自分自身の本当の輝きが蘇る事を意味しています。

 それは即ち、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ事でもあります。
 八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)に象徴されているのは、自らの中に潜む否定的想念であり、自己否定などの否定的想念、神である自己を否定する否定的想念が、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)という表現を使って象徴されています。

 須佐之男命が、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時、尾から出て来たのが、三種の神器の一つである、「草薙の剣(クサナギノツルギ)」です。

 剣とは自らの中から出て来るものであり、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)に象徴されている、自らの中に潜む否定的想念を退治した時に現れて来た「草薙の剣(クサナギノツルギ)」とは、神の証であり、瑞(ミズノ)御魂の事でもあります。

 「草薙の剣(クサナギノツルギ)」は、須佐之男命から天照大御神に献上された、と古事記に書かれている事には、とても深い意味が込められていると思います。

 自らの乱暴狼藉により、姉・天照大御神が天岩戸に隠れてしまい、世界が光を失って闇に包まれてしまった責任を取らされて、高天原から追放されてしまった須佐之男命ですが、最後には、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)に象徴されている、自らの中に潜む否定的想念を退治して、自らの本当の輝きを取り戻し、神の証である「草薙の剣(クサナギノツルギ)」を、高天原の天照大御神に献上しました。

 そして、須佐之男命は、晴れて目出度く、櫛稲田姫(クシイナダヒメ)と「正式な結婚」をして、出雲に居を構える事になりました。

 須佐之男命の娘・須世理毘売(スセリヒメ)と結婚されたのが、出雲大社の御祭神である大国主(オオクニヌシ)大神です。

 出雲大社は、伊勢神宮と並んで、日本を代表する神社であり、表の神界の裏の働きになります。
 そして、表の神界の表の働きが、伊勢神宮になります。

 表の神界の表の働きである伊勢神宮と、表の神界の裏の働きである出雲大社、我が国・日本を代表する神社である伊勢神宮と出雲大社には、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)が深く関わっています。

 伊邪那岐命が黄泉国(ヨミノクニ)から黄泉帰り(蘇り)、禊払いの後に生まれたのが、三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)です。

 黄泉(ヨミ)とは、黄色い泉と書きます。
 黄色い泉とは、小便の事であり、言わば、肥溜めのような醜いものの象徴です。
 黄泉国が象徴しているのは、自らの心の中にある闇の世界、言わば、肥溜めのような世界を象徴しています。

 伊邪那岐命は、自らの心の中にある闇の世界、言わば、肥溜めのような世界である黄泉国から黄泉帰り(蘇り)、禊払いの後に、三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)を生んだのです。

 古事記の中で、伊邪那岐命の「黄泉国からの黄泉帰り(蘇り)」として象徴的に書かれているのは、魂の蘇りという事であり、それは即ち、天照大御神の「天岩戸開き」の事であり、月読命の蘇りという事であり、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」の事でもあります。

 古事記の中でよく知られている、伊邪那岐命も、天照大御神も、須佐之男命も、一度は自らの本当の光を失った後、再び自分自身の本当の光を取り戻し、蘇り、さらに光り輝くという仕組みになっています。

 そして、月読命の蘇りは、古事記の中では隠されていますが、天照大御神と月読命の働きを統合した須佐之男命の蘇りの中で、月読命も蘇る事になります。

月読命の蘇り=魂の蘇り=黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)

 先日のブログ、「伊邪那岐命の三貴子(天照大御神、月読命、須佐之男命)」の中で、伊邪那岐命(イサナギノミコト)の三貴子(三貴神)について書きました。

その中で、天照大御神(アマテラスオオミカミ)は「天岩戸開き」、須佐之男命(スサノオノミコト)は「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」の話などで、古事記の中で大活躍をされてよく知られていますが、月読命(ツキヨミノミコト)だけは、古事記の中で、その後ほとんど登場しないと書きました。

 伊邪那岐命の左目から生まれたのが天照大御神であり、右目から生まれたのが月読命であり、鼻から生まれたのが須佐之男命です。

 左目から生まれた天照大御神と、右目から生まれた月読命は対の関係であり、二つで一つです。
 一日に昼と夜があるように、太陽が治める昼と、月が治める夜があるように、光と闇があるように、天照大御神と月読命は対の関係であり、二つで一つなのです。

 そして、天照大御神と月読命の働きを統合した働きが須佐之男命です。
 須佐之男命が、陰陽併せ持つ、二元性を統合した中心の働きである事は、伊邪那岐命の鼻から生まれたという表現で、型として示されています。
 顔の中心にあるのが、鼻になります。
 顔の中心にある鼻から生まれたという表現で、須佐之男命が中心の働きである事が、古事記には記されています。

 そして、天照大御神と月読命の働きを統合した、中心の働きをする時の正式な御神名は、古事記に書かれているとおり、建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)となります。
 またの名を、カムスサナルノオオカミとも言います。

 伊邪那岐命の禊払いの後に生まれた三貴子の中で、月読命だけはその後ほとんど登場しなくなりますが、天照大御神と月読命の働きを統合した須佐之男命の蘇りの中で、蘇る事になります。

 月読命の蘇りとは、魂の蘇りという事であり、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)という事でもあります。

 私達の魂は、「月」に例えられます。
 満月とは、完成された御魂、魂の出産、魂の蘇りという事を象徴しています。

 月読命の蘇りとは、魂の出産という事であり、魂の蘇りを象徴しています。
 そして、それは即ち、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)という事でもあります。

 月読命(ツキヨミノミコト)の「ヨミ」とは、魂の蘇り(ヨミガエリ)の「ヨミ」でもあり、黄泉国(ヨミノクニ)の「ヨミ」をも表しています。

 月読命の蘇りとは、魂の蘇りという事であり、それは即ち、黄泉国(ヨミノクニ)からの黄泉帰り(よみがえり)をも表しています。
 古事記の中で、伊邪那岐命が「黄泉国(ヨミノクニ)」から蘇り(黄泉帰り=よみがえり)、禊払いの後、三貴子を生んだという話の中に表されています。

 古事記には、歴史書としての一面だけではなく、人が神として出産するまでの内的なプロセスが象徴的に書かれています。
 古事記には、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産する、即ち、魂の蘇りという事が主要なテーマとして隠されています。

 神武天皇誕生までの神代の話は、人が神として出産する、魂の出産、魂の蘇りという同じテーマが、様々な登場人物や場面設定を使って、象徴的に描かれています。

 例えば、伊邪那岐命の「黄泉国(ヨミノクニ)からの蘇り(黄泉帰り)」、天照大御神の「天岩戸開き」、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」、大国主誕生、日子穂穂手見命(ヒコホホデミノミコト=山幸彦)の「竜宮城からの帰還」、神武天皇誕生などは、登場人物と場面設定は違いますが、魂の蘇りという同じ事が表されています。

 夜空に輝く満月は、完成された御魂、魂の出産、魂の蘇り、「黄泉国(ヨミノクニ)からの蘇り(黄泉帰り)」を象徴しています。

 それは即ち、月読命の蘇りという事であり、月読命の蘇りとは、天照大御神の「天岩戸開き」、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ事を象徴しています。

伊邪那岐命の三貴子(天照大御神、月読命、須佐之男命)

 伊勢神宮には、内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)がありますが、内宮と外宮ともに、境外別宮として、月読宮(外宮では月夜見宮)を持っています。

 それぞれの月読宮・月夜見宮は、内宮・外宮ともに、歩いても行ける距離の、少し離れた場所に、かなり広い敷地を伴って祀られています。

 月読命(ツキヨミノミコト)を本格的に祀っている神社は、全国でもそれ程多くはないかと思いますが、日本を代表する神社である伊勢神宮において、内宮・外宮ともに、それぞれ、かなり広大な敷地を用いて月読命をきちんと祀っている事に、私は、とても奥深いものを感じます。

 内宮(皇大神宮)で祀られている御祭神は、天照大御神(アマテラスオオミカミ)です。
 天照大御神は、古事記の中で、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が禊払いの後、左目を洗った時に生まれた神とされています。

 そして、右目を洗った時に生まれた神が、月読命です。
 そして、鼻を洗った時に生まれた神が、須佐之男命(スサノオノミコト)です。

 天照大御神、月読命、須佐之男命は、三貴子と呼ばれています。

 天照大御神は、有名な天岩戸開きの場面、そして、須佐之男命も、有名な八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治の場面などで、古事記の中でも大活躍されて有名ですが、月読命だけは、何故か、古事記の中でも、その後ほとんど登場しません。

 しかし、天照大御神は左目から、月読命は右目から誕生したと書かれている通り、天照大御神と月読命は対の関係です。

 太陽と月があるように、一日に昼と夜があるように、光と闇があるように、天照大御神と月読命は対の関係なのです。

 そして、天照大御神と月読命の働きを統合した働きが、須佐之男命になります。

 須佐之男命は、伊邪那岐命の鼻から誕生したと、古事記に書かれています。
 鼻は、顔の中心にあります。顔の中心にあるのが、鼻なのです。
 須佐之男命が、天照大御神と月読命の働きを統合した中心の働きである事は、鼻から生まれたという表現で、型としても出されています。

 そして、須佐之男命が、天照大御神と月読命の働きを統合した中心の働き、本来の働きをする時の御神名は、古事記に書かれている通り、建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)となります。
 またの名を、カムスサナルノオオカミとも言います。

 日本を代表する神社である伊勢神宮において、内宮・外宮ともに、それぞれ少し離れた場所に広大な敷地を用意して、別宮として月読宮・月夜見宮を持ち、月読命をきちんと祀っている事には、とても奥深いものがあるように感じます。

 伊勢神宮に参拝される時には、ぜひ、月読宮・月夜見宮にも参拝されると良いかと思います。

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