日本の新しい調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

大和富士ブログ|BLOG

2010年9月のアーカイブ

30 Entries

モンスター銀河196個発見=年1000の星誕生

地球がある天の川銀河の数百倍の速さで年1000個もの星が誕生する「モンスター銀河」を196個まとめて発見したと、国立天文台や東京大学などの研究チームが、昨日・9月29日発表しました。
英王立天文学会誌の電子版に近く掲載されるとの事です。

見つかったのは80億年以上前のモンスター銀河で、宇宙137億年の歴史の中で、初期の巨大銀河の大量発見は世界初だとの事です。
モンスター銀河の形成過程や、宇宙に存在する謎の暗黒物質(ダークマター)の分布を解明する手掛かりになるとの事です。

今回のニュースは、無限の大宇宙の広大無辺さへの理解をさらに一歩深めるものだとは思いますが、今後人類が、無限の大宇宙の広大無辺さをより深く知って行く旅のプロセスにおいては、ほんの序の口にしか過ぎないとも言えます。

人類は、現在の科学が認識できる枠の中でしか、この無限の大宇宙を認識出来ませんが、科学がより進歩して枠が大きくなればなる程、大宇宙の無限さをより深く理解出来るようになる筈です。

そして、無限の大宇宙を知る旅に終わりは無く、知れば知る程、無限の大宇宙は計り知れないものだという事を知る事になります。

そして、科学が進歩すればする程、私達は、「無限」という言葉が持つ本当の奥深さを思い知らされる事になります。
「無限」とは、「限り無し」と書きます。

「無限」から見れば、年1000個の星を誕生させるモンスター銀河の196個などは、ほんのごく一部でしかないとも言えそうです。

そして、137億年前に宇宙が誕生したというのも、今の科学の枠の中で捉えた認識にしか過ぎないという事に、いずれ気付く時が来る筈です。

今回のこの発見も、今までの宇宙研究の歴史においては大きな一歩であるとともに、これから無限に続く宇宙探求の旅のプロセスの中では、ほんの小さな一歩にしか過ぎないとも言えそうです。

それ程、無限の大宇宙の広大無辺さは、計り知れないということなのだと思います。

永遠とは

永遠という言葉は、はるか悠久の時の流れ、気の遠くなる程の永い時間、というような意味でよく使われているかと思います。
確かに、永遠という言葉は、とてもとても永い時間というものをイメージさせる言葉だと思います。

しかしながら、永遠とは、別の言い方をするなら、「今この時」ということになります。
はるか悠久の時間と、「今この時」とは、まるで正反対の対極にあるような感じですが、「今この時」というものこそ、永遠というものの本質なのです。

以前書きましたが、時間とは幻想であり、本当は時間は存在していません。
この大宇宙には、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき「永遠(えいえん)」の「今」しか実在していないのが真相なのです。
永遠とは、別の言い方をするなら、時間は存在していない、ということであり、「今」しか存在していない、ということなのです。

「今」という「この時」しか実在していない、だからこそ、永遠なのです。
これはちょっとイメージするのが難しいかと思いますが、「今」という「この時」しか実在していないからこそ、それを永遠と呼ぶことが出来るのです。

今の地球の科学では、約137億年前に宇宙が誕生したと考えているようです。
137億年という時の流れは、人間の時間の感覚からすると、気の遠くなるような時間かも知れませんが、無限の大宇宙から見れば、ほんの一瞬かも知れません。

それはともかく、137億年というのは、たかだか137に0(ゼロ)が8個ついただけの数字でしかありません。
1000億年であろうと、1000兆年であろうと、あるいは1000京年であろうと、それらは、所詮、有限の時間でしかありません。
仮に137に0(ゼロ)を1億個つけたとしても、所詮は有限な時間でしかないので、本当の意味で、それを永遠と呼ぶことは出来ないということになります。

そして、「今」という「この時」しか存在しないからこそ、それを永遠と呼ぶことが出来るのです。

この事は、時間は幻想であり、本当は時間は存在していない、という事を体験して知らない限りは理解出来ないと思いますが、もし体験出来れば、自ずと理解出来る事だと思います。

「時」には、始まりも無ければ終わりもありません。
究極的には時間は存在しておらず、「今」という名の「永遠(えいえん)」の「時」があるだけなのです。
私達は今、「永遠(とわ)の中今」に生きています。


神武三千年の神計り

この21世紀の間に、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎えることになります。

そしてその時、中心的役割を果たすのが、日出る国、神国・日本に生きる、私達日本人なのです。
日本とは、霊(ひ)ノ元・日本であり、日本は、世界の雛形として創られた神国であり、そして、私達日本人が持つ心のことを、大和心と呼びます。
日本の象徴・霊峰富士が持つ働きは、二元性の統合により、大いなる和、すなわち「大和」を地球・世界にもたらすという働きになります。

そして、私達現代に生きる日本人が、その役割を果たす事が出来るように、人類の歴史で言うと約三千年に亘って、用意周到な準備が、神界のプログラムとして発動して来ました。(もちろん、地球の新たな夜明けは、それよりずっと前からプログラムされていましたが、特に、日本建国・大和民族の形成の大きな基礎が築かれたのが約三千年前という事です。)
これを、神武三千年の神計りと言います。

初代天皇・神武天皇即位紀元(皇紀)とされているのが、今から2670年前、紀元前660年になります。
今年2010年(平成22年)は、皇紀2670年にあたります。

約三千年近く前に、日本が建国されたということになるのですが、ちょうど三千年位前、古代のイスラエル王国においては、ダビデ王の子・ソロモン王が栄華を極めていました。

紀元前922年のソロモン王の死後、イスラエル王国は、北王国のイスラエル王国(10支族)と、南王国のユダ王国(2支族)に分裂しました。

紀元前722年には、北王国のイスラエル王国が滅亡し、そこにいたイスラエルの10支族は、その後、歴史上から消息を絶ちました。
これが有名な、「イスラエルの失われた10支族(部族)」と呼ばれる人々の事です。

そして、イスラエルの失われた10支族は日本に辿り着いたという説があり、日ユ同祖論とも呼ばれています。

紀元前722年の北王国・イスラエル王国の滅亡、そして、10支族が消息を絶ってから、約60年後に、わが国・日本において、初代天皇・神武天皇が即位され、神国・日本が建国されたということになります。

神武天皇の称号は、カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト(神倭伊波礼昆古命)と言います。
この言葉は、日本語では満足な説明ができないようですが、ヘブライ語だと、「サマリアの皇帝、神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になるようです。
そして、サマリアとは、北王国・イスラエル王国の首都だった場所です。

もし、日本人が、純粋な単一民族だとしたら、二元性を統合させ、大いなる和「大和」を地球・世界に実現させるという役割を果たすことは出来ません。
また、この大役を担えるのは、それなりの血筋・霊統の民族でなければならず、仮にイスラエルの失われた10支族が日本に辿り着いたとして、そもそも、古代ユダヤ人とは何者なのかというユダヤ人のルーツ、即ち、旧約聖書の創世記は何を語っているのか、というところまで遡らないと分からない事だと思います。

そして、二元性が統合される時代を迎えるにあたって、なぜ、スメラとイシヤ、すなわち、日本とユダヤが、二元性の対立を演じる役割を担っているのか、ということも関わってきます。

神武三千年の神計りは、一言では語り尽くせないので、折に触れて、少しずつ書いていきたいと思います。


想像=創造

イメージするという意味の「想像」と、クリエイトするという意味の「創造」は、どちらも「そうぞう」と読み、同じ言霊(ことだま)を持っています。

実は、大宇宙の本質的な世界においては、想像も創造も同じ事なのです。
想像(そうぞう)=創造(そうぞう)ということになります。

以前書いたとおり、この大宇宙は、絶対世界と相対世界という二つの世界から成り立っています。

絶対世界とは、実相(本質)の世界であり、そこには、唯一にして絶対、至高の存在である、根本創造主のみが実在しています。
絶対世界とは非物質な世界であり、そこは、あえて分かり易い表現をするとしたら、意識、心、気というような世界なので、ここでは便宜上、根本創造主のことを、大宇宙意識と呼ぶことにします。

一方、相対世界とは、仮相(仮の姿)の世界であり、現象界としての、この物理的大宇宙の事です。
絶対世界にある大宇宙意識の中の心象風景・イメージを、映し出し体験する為の世界です。
非物質な世界にある大宇宙意識の心象風景・イメージが、あたかも鏡に映し出すが如く物質化されて創造された世界、それがこの物理的大宇宙ということになります。

全知全能の根本創造主である大宇宙意識がイメージした事、想像した事が、そのまま100%、この物理的大宇宙に創造されるという仕組みになっているというわけなのです。
まさに、想像=創造、ということなのです。

想像(絶対世界にある大宇宙意識のイメージ・心象風景)=創造(相対世界の物理的大宇宙に物質化)

この物理的大宇宙とは、絶対世界にある大宇宙意識の想い、すなわち「想像」が100%、光により物質化されて「創造」された世界なのです。

「想像」と「創造」が、ともに「そうぞう」という言霊(ことだま)を持っているのは、本当に、意味が深いと感じます。

この大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い

この物理的大宇宙には、始まりも無ければ終わりもありません。
この物理的大宇宙は、かつて存在していたし、今も存在しているし、これからも未来永劫に亘って存在し続けます。

現代の科学では、宇宙の誕生というものを、約137億年位前と捉えているようです。
しかし、これはあくまで、現在の地球の科学が捉えている認識にしか過ぎません。
科学者はあくまでも、理論・理屈でしか捉えられないので、この大宇宙の誕生以前、すなわち、大宇宙が存在しない時があったなどという事を、本気で考えているのだと思います。

この物理的大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い、という事は、頭で考えても決して理解できる事ではなく、この大宇宙の本質というものを、実際に体験して初めて、理解できる事だと思います。

今私が大宇宙と呼んでいるのは、この大宇宙全体の事を指していますので、個々の銀河宇宙の事ではありません。
私達の太陽系が属する銀河は天の川銀河と呼ばれていますが、それは、この大宇宙のほんの一部でしかなく、たくさんの銀河がこの大宇宙には存在するものと考えられています。
そして、個々の銀河には、確かに、誕生と最後(終わり)がある筈ですが、それらは、無限とも呼ぶべきこの大宇宙のほんの一部でしかないので、大宇宙そのものが存在しないという事は、あり得ないことなのです。

この大宇宙は、絶対世界と相対世界という二つの世界から成り立っています。
絶対世界とは大宇宙の実相(本質)の世界であり、ここには、根本創造主のみが実在しています。
そして、絶対世界とは非物質な世界なので、あえて分かり易い表現をするとしたら、そこに存在するのは、意識、心、気というようなものだという事になります。
ここでは便宜上、大宇宙意識と呼ぶことにします。

一方、相対世界とは仮相(仮の姿)の世界であり、現象界としての物理的大宇宙のことです。
絶対世界にある大宇宙意識の中の心象風景とも呼ぶべきものを映し出し体験する為の世界です。

絶対世界にある大宇宙意識が想像(そうぞう)した事が、相対世界である物理的大宇宙にそのまま創造(そうぞう)されているのです。絶対世界と相対世界は、表裏一体、密接不可分の関係として、同時に存在しています。

絶対世界にある大宇宙意識の想像(そうぞう)が瞬時にそのまま、あたかも鏡に映し出すが如く、相対世界であるところの、現象界としての物理的大宇宙に創造(そうぞう)されるのです。
ですから、絶対世界の方が本質の世界だからと言って、絶対世界だけで存在できるわけではなく、必ず相対世界とセットになって同時に存在しています。

また、時間とは幻想であり、本当は時間は存在していません。
この大宇宙には、「永遠(とわ)の中今」とも呼ぶべき、「今この時」しか実在していないのが真相なのです。

「永遠(とわ)の中今」という「今この時」、絶対世界に大宇宙意識が実在し、大宇宙意識の想像(イメージ・心象風景)が創造された(映し出された)物理的大宇宙(相対世界)が存在する、ただそれだけなのです。

絶対世界に実在する、根本創造主であるところの大宇宙意識とは非物質な存在なので、消滅したりするようなものではなく、永遠に存在しています。
そして、それを映し出す鏡としての相対世界(物理的大宇宙)もまた、永遠に存在しているという事になります。

従って、この大宇宙には始まりも無ければ終わりも無い、ということになります。


日本三大古泉・走り湯、走湯神社

愛媛の道後温泉、兵庫の有馬温泉、と並んで、日本三大古泉と言われているのが、熱海にある、走り湯です。

走り湯は、約1300年前、修験道の開祖・役小角(役行者)によって発見されたとも伝えられています。
役小角(役行者)は、走り湯で、「無垢霊湯 大悲心水 沐浴罪滅 六根清浄 むくれいとう だいひしんすい もくよくざいめつ ろっこんしょうじょう」という神言を感得し、唱えていたと言われています。

走るが如くお湯が湧き出し海に注いでいることから、走り湯と呼ばれるようになったとのことです。
鎌倉三代将軍・源実朝は、走り湯の事を次のように和歌で詠んでいます。
「伊豆の国山の南に出づる湯の早きは神のしるしなりけり」

走り湯は、全国唯一の横穴式源泉だとのことで、トンネルの入口のような所から洞窟に入って源泉を見ることが出来ます。

源泉のすぐ近くに、走湯神社があります。
走湯神社は、伊豆山神社の摂社とされており、走湯神社から急な石段を数百段登った所に、伊豆山神社があります。
走り湯は、伊豆山神社の神湯とされています。
かつて伊豆山神社は、神仏混淆の時代、般若院とともに伊豆山権現、あるいは走湯権現と呼ばれ、絶大な権力を誇っていたようです。

伊豆山を天に昇るめでたい龍に例えて、富士山から入った龍は日金山(十国峠)から岩戸山までは胴体、岩戸山を龍の頭、伊豆山神社は目、浜町内にある花水を龍の鼻、走り湯は龍の口で呼吸している、富士山に繋がっているものである、という信仰が生まれ、富士山信仰にも関係しているとのことです。

伊豆山神社は、源頼朝が箱根神社三嶋大社とともに篤く崇敬したことで有名ですが、この走り湯も、源頼朝にゆかりのある場所のようです。

かつて源頼朝が、走り湯の前にある岩風呂から、美しく力強い日の出を見て源氏再興を決意したとも伝えられており、頼朝は見事に源家を復興させ日本の統一を果たしました。
それから、物事を始める時、この走り湯に入って気持ちを新たにすれば大願成就するものと今日まで言い伝えられているとのことです。
頼朝にあやかり、走り湯は「出世の湯」とされています。

走り湯洞窟のすぐ近くに、入浴できる所が数箇所あります。
私も本日、走湯神社に参拝し、源泉に浸かって来ました。
ここの源泉は、疲労回復にかなり効果が高いような感じがします。

走り湯は、いつ行っても、力強いエネルギーのようなものを感じます。
走り湯は、富士山の持つエネルギーとかなり深くつながっている感じがします。

熱海・湯前神社

日本有数の温泉地である熱海の街中に、湯前神社という、湯の神様を祀る神社がひっそりと佇んでいます。
社前には、日本三大古泉の走り湯と並んで熱海温泉本来の源泉とされる大湯があります。
大湯は現在、大湯間欠泉として整備されています。

湯前神社には、通常のような形式の手水鉢がなく、鳥居を入るとすぐ右手に、岩から温泉が流れ出ており、その岩が手水鉢の代わりになっています。
実際には、お湯がかなり高温なので、手を洗うには熱すぎる感じですが、鳥居脇から、こんこんと湧き出る温泉を眺めていると、なかなかいい気持ちがします。

御祭神は、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)の子とされる、少彦名神(スクナヒコナノカミ)です。少彦名神は、日本各地でも、温泉の神様として祀られているようです。

本日、湯前神社の近くの温泉に入浴後、湯前神社に参拝して来ました。
湯前神社の境内からこんこんと湧き出る温泉を眺めていると、何となくうれしい感じがして、日本有数の温泉地であり、熱い海とも書く熱海という場所への愛着がより一層深まるような感じがしました。

熱海の温泉と言えば、将軍・徳川家康にも愛されたことで有名です。
元祖「温泉宅配便」とも言うべき「御汲湯(おくみゆ)」によって、徳川家康を始め歴代将軍の元へと、熱海の温泉が、江戸城へと運ばれました。
「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄が唄われたそうです。

熱海は、霊峰富士から箱根・芦ノ湖、伊豆山、走り湯へと続く、大きなレイライン(龍脈)上にあるようで、他の場所にはないような、ある種特別な地場のエネルギーを秘めているような感じがします。

大宇宙の全ては光の中、調和した完璧な世界

この物理的大宇宙は、根本創造主とも言うべき唯一の実在である、大宇宙意識によって創造された世界なので、この大宇宙の全ては光の中にあります。
そして、それは調和した世界であり、完璧な世界だということになります。

ですから、この大宇宙には、何一つ欠けたところも、矛盾するところもありません。
ただ、私達人間は、自分の認識できる範囲でしか物事を捉えることができないので、大宇宙にある様々な紋様の一面だけを捉えて、矛盾、不調和、不完全さというようなものを感じがちだと思います。

この物理的大宇宙は、偶然の産物などでは決してありません。
森羅万象の全てが、根本創造主とも言うべき大宇宙意識によって営まれています。
そして、私達人間には、大宇宙意識の御心というものが、深く理解できないというだけなので、大宇宙の全てが光の中にあり、調和した完璧な世界なのだということを、常に忘れないことが大切だと思います。

中秋名月(旧暦八月十五夜)、かぐや姫の昇天

今夜は、旧暦八月十五夜にあたり、中秋名月です。
今日の夕方、海上からぽっかりと浮かんでいるようなお月様を観ていた時、とても気持ちが良い風が吹いて来て、何とも言えず、いい感じでした。明日が満月になります。

八月十五夜で想い出すのは、「かぐや姫の物語」における、かぐや姫の昇天の場面です。
「かぐや姫の物語」である「竹取物語」は、わが国最古の物語とも言われているようですが、私達日本人の心に深く根ざした何かがあるような感じがします。

かぐや姫の「かぐや」という言葉は、大和三山の一つである天香具山(あめのかぐやま)を連想させるような響きを持っています。

そして何より、日本の象徴・霊峰富士の名前の由来は、「かぐや姫の物語」から来ています。「竹取物語」の一番最後に、富士山の名前の由来が書かれています。

そういう訳で、かぐや姫と富士山は深い関係があるのですが、実は、日本の象徴・霊峰富士と月の世界もまた、深い関係があります。

「かぐや姫の物語」とは、一体何を表しているのでしょうか?
CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録曲、「かぐや姫と富士」を聴きながら、それらのことに想いを馳せてみて頂けると幸いです。

絶対世界と相対世界

この大宇宙は、絶対世界と相対世界という、二つの世界から成り立っています。

絶対世界とは、実相の世界であり、非物質な世界です。
相対世界とは、仮相(仮の姿)の世界であり、現象界としての物理的大宇宙のことです。

そして、絶対世界には、たった一つの実在しかありません。
それは、言ってみれば、この大宇宙の根本創造主ということになるのですが、この大宇宙には、唯一にして絶対、至高の存在である、根本創造主だけが実在しているという事なのです。

そして、絶対世界とは、非物質な世界なので、そこに実在するのは、あえて表現するなら、意識、心、気と呼ばれるような類のものだということになります。
ここでは便宜上、大宇宙意識と呼ぶことにしますが、この大宇宙には、大宇宙意識しか実在していないということになります。

そして、大宇宙意識を映し出す鏡の世界が、現象界である、この物理的大宇宙なのです。
大宇宙意識がまず絶対世界に実在し、それを鏡に映し出し体験する場として、相対世界であるところの、この物理的大宇宙が創造されているということになります。

絶対世界と相対世界は、表裏一体、切っても切れない密接不可分の関係として、同時に存在しています。

相対世界である物理的大宇宙にあるものは全て、絶対世界にある大宇宙意識が表現されたものなので、もし神という言葉を使うとしたら、この物理的大宇宙にある全ては神の顕れであると言うことができます。
そして、この物理的大宇宙は全て神の光の中にある、と言うことができます。

絶対世界にある大宇宙意識を映し出し体験する為の世界が、現象界としての物理的大宇宙、すなわち、相対世界ということになります。

酵素玄米

私は日頃、酵素玄米を炊いて毎日食べているのですが、結構体にいい感じがします。
多少の無理をしても踏ん張りが効いて、体がガクッと疲れる事があまりないのは、酵素玄米のおかげもあるかも知れません。

酵素玄米を食べると、質的な重量感を感じるというか、お腹にしっかりとエネルギーが満たされて、力が湧いてくるような感じがします。
これに対して、パンなどをいくらお腹一杯食べても、何となくお腹が空虚な感じで、力が漲ってくるという感じがあまりしません。

酵素玄米とまではいかなくても、普通の玄米や白米でもそうだと思いますが、私達日本人には、本来、お米を食べる事が一番体に合っているのだと思います。

戦後の学校給食でパン食が導入されてから、食の欧米化が進み、お米をあまり食べなくなったので、日本人本来の力を発揮しにくい体質になってきているとも言えそうです。

やはり、私達日本人・大和民族は、毎日お米をしっかりと食べてこそ、その本来持つ力を十二分に発揮できる民族のような気がします。

今、日本人として、大和民族としてのアイデンティティーを蘇らせる上において、お米を食べる事の大切さを想い出す必要があるのではないかと思われます。

山宮浅間神社御鎮座1900年祭

山宮浅間神社は、全国1300余社と言われる浅間神社の総本宮、富士山本宮浅間大社の元宮にあたります。
本日、平成22年9月19日(日)、山宮浅間神社御鎮座1900年祭が開かれたとのことで、奉祝祭として、舞楽・神楽・雅楽が奉納されたようです。

山宮浅間神社は、本殿を設けず遥拝所から富士山を仰ぐ、最も古い形の祭祀を今に伝える貴重な史跡でもあるようです。
古代の祭祀場である遥拝所からは、かなり間近に富士山を仰ぎ見ることができます。
1900年もの長きに亘って人々が霊峰富士を信仰してきたこの神聖な空間に立つと、仰ぎ見る霊峰富士の雄姿は、また一際感慨深いものがあります。

私は、本日の御鎮座1900年祭には行けなかったのですが、今年平成22年7月1日の富士山開きの日の御来光を富士山頂で仰ぎ見てから、下山後、村山浅間神社、山宮浅間神社、そして最後に、富士山本宮浅間大社に参拝して来ました。

山宮浅間神社は、富士山本宮浅間大社から数キロメートル程、富士山方面に行った所にあります。
富士山本宮浅間大社に参拝される際、お車で行かれる方は、元宮である山宮浅間神社にも参拝されることをお奨め致します。

物理的大宇宙(現象界)とは、根本創造主の意識を映し出す鏡

先日、「色即是空 空即是色」というタイトルの中で書きましたが、この物理的大宇宙(現象界)は、仮相(仮の姿)であり、実相(真の姿)ではありません。

そして、この大宇宙の実相とは、非物質なものです。
それは、あえて解りやすく表現するとしたら、意識とか、心とか、気、とか呼ばれる類のものです。

そして、この大宇宙には、たった一つの実在しか存在していません。
それはもちろん、この大宇宙の根本創造主ということになるのですが、実は、この大宇宙には、根本創造主だけが実在しているのです。

そして、根本創造主とは、一つの表現方法として、ある意識と呼ぶことができますので、ここでは、便宜上、大宇宙意識と呼ぶことにします。
この大宇宙には、唯一にして絶対、至高の存在である、大宇宙意識のみが実在しているということになります。

そして、根本創造主である大宇宙意識の中にある心象風景を映し出す鏡の世界が、この物理的大宇宙である現象界なのです。

現象界である物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)であり、幻の世界です。
そして、この大宇宙の森羅万象の全てが、唯一の実在である大宇宙意識の中にある心象風景が表現されたものなので、全ては神の顕れであり、全ては光の中、と言うことができます。

宇宙の根本主体である大宇宙意識は、自らの意識の中にある心象風景を映し出し体験する場としての現象界(物理的大宇宙)を必要とします。
現象界(物理的大宇宙)が仮相(仮の姿)であり、幻だからと言って、必要ないわけではなく、大宇宙の実相である大宇宙意識と、それを映し出す鏡の世界としての現象界(物理的大宇宙)とは、表裏一体、密接不可分の関係として同時に存在しています。

この現象界(物理的大宇宙)の森羅万象の全てが、根本創造主である大宇宙意識の中にある心象風景を映し出し体験する為のものなのです。

心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く

先日書いたとおり、自分が見ている現実世界とは、自分の心を映し出す鏡です。
自分の心の中にある心象風景を、現実というスクリーンに映し出して見ているだけなので、自分の外に見える世界というのは、実は、自分の中にある世界だということになります。

ですから、もし、自分が見ている現実世界が美しく感じられないとしたら、それは、この世界が美しくないからではなく、自分の心が美しくないからだということになります。

自分の内面が輝けば輝く程、自分の目に映る現実世界は、本当に、輝きを増してきます。
生きている事それ自体がありがたい、うれしい、存在が感謝、という状態に近づけば近づく程、自分の目に映る世界は、本当にありがたい、うれしい、面白い、美しい、と感じられるようになります。

これは誰でも実感できることなので、もし今、自分の目に映る現実世界が美しく感じられないとしたら、それは、世界・大宇宙の方が美しくないからではなく、自分の心が美しさを感じられないだけなのだということを、想い出す事が大切だと思います。

丹那断層、火雷(からい)神社、雷電神社

昨日、静岡県函南町にある、丹那断層を見て来ました。
話には聞いていたので、近くに行ったついでに、見て来ました。

丹那断層とは、昭和5年11月26日に起きた、北伊豆地震によって二つに裂かれた大地のことで、地震の大きさはマグニチュード7.3、震度6という直下型の大地震でした。
丹那断層は、箱根芦ノ湖から伊豆市まで続く、長さ30キロメートルの丹那断層帯の代表的な断層のことです。

丹那断層のズレの跡を良く示す場所が、国の天然記念物に指定されています。
丹那断層は、横ズレ断層の中でも世界的に有名な断層で、平成7年に発生した阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)も同じ横ズレ断層が原因とのことです。

国の指定地と同じく、北伊豆地震の時に活動した丹那断層のズレの跡が良くわかる場所が、数キロメートル離れた所にある、火雷(からい)神社です。
神社の石段と鳥居のちょうど真ん中を、断層が通っています。

火雷神社と国の指定地で断層を見た時、何となく、地層のズレということと、意識のズレ・断層ということが、オーバーラップして感じられました。

大地震によって、地層にズレ・断層が生じるように、一個人や人類全体の意識においても、何か大きな衝撃や大変化を体験した時に、意識のズレ・断層のようなものが生じるのではないかというイメージを受けました。

火雷神社からほんの数百メートル離れた所に、雷電神社という、やはり「雷」の文字が入った小さな神社があったので、参拝して来ました。
御祭神は、火牟須比命(ほむすびのみこと)でした。
「火」の神様で、別名、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)とも呼ばれています。
私がよく行く伊豆山神社の御祭神でもありますが、この時は、火之迦具土神の総本宮とされる、秋葉山本宮秋葉神社のことが、ふと脳裏を過ぎりました。

帰りに、近くの、駒の湯温泉「源泉荘」という、ぬる湯の名湯にゆっくりと浸かって、心身の疲れを癒してきました。

色即是空 空即是色

般若心経の中に、有名な、「色即是空 空即是色」という言葉があります。
あまりにも有名な言葉なので、多くの人に引用され、よく耳にする言葉だと思います。

しかし、この「色即是空 空即是色」という言葉は、この大宇宙の真相を表していますので、その状態を体験しないことには、本当のところは理解できないと思います。
万巻の書物を読んだり、仏教を学び修行したから理解できる、というようなものではなく、実際にその状態を体験して初めて理解できる境地だと思います。

「色即是空 空即是色」という状態を、体験的に知って引用しているという人はほとんど見受けられないので、様々な人によって、様々な解釈がされているように感じられます。
中には、この言葉の持つ真理の一面を的確に捉えているものもあれば、全くとんでもない勘違いをされているという印象を受けるものもあります。

「色即是空 空即是色」という状態を体験すると、以下に述べるような事を、同時に理解することが出来ます。(それらは、分かれた別々の事ではなく、同じ事なので)

*この物理的宇宙は、どんなに広大無辺であろうと、仮相(仮の姿)であり、実相(本当の姿)ではない事。
宇宙の実相とは、非物質なものである事。
宇宙の実相とも言える大宇宙意識を映し出す鏡が現象界(物理的宇宙)である事。
現象界(物理的宇宙)は幻であり、本当の姿ではないが、宇宙の実相である大宇宙意識は、意識を映し出す鏡としての現象界(物理的宇宙)を必要とする事。
宇宙の実相である大宇宙意識と、それを映し出す鏡としての現象界(物理的宇宙)とは、表裏一体の密接不可分の関係として、同時に存在する事。(色即是空と言った後に、空即是色と言い換えているところに、とても深い意味があると思います)

*この大宇宙には、たった一つの実在しかない事。そして、それは、非物質なものであり、大宇宙意識と呼んでもいいかも知れませんが、とにかく、この大宇宙には、唯一にして絶対・至高の存在である、一つの心(意識)があるだけである事。
(古来、人はその唯一の存在を、神、仏、天、根本創造主、大宇宙、無限、宇宙意識、グレートスピリット、気、プラーナ、先天の一気、エネルギー・・・などと呼んできたのかも知れません。
そしてそれは、全てのエネルギーの源になっている、ある意識とでも呼ぶべきものであり、ここでは便宜上、大宇宙意識と呼んでおきます。)

*この大宇宙には、大宇宙意識しか実在していないので、全ては大宇宙意識が表現されたものであり、全ては神の顕れである事、そして、全ては光の中である事。

*時間とは幻想であり、本当は、時間は存在していない事。
この大宇宙には、「永遠(とわ)の中今」とでも言うべき、「永遠(えいえん)」の「今」しか実在していない事。

*この物理的大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い、という事。
この物理的大宇宙は、かつて存在していたし、今も存在しているし、これからも存在し続けるという事。

*大宇宙の森羅万象の全てが、本来、無事象(意味が無い、中立)であるという事。

*全ては神の戯れとも言え、大宇宙の森羅万象の全てが、大宇宙意識の中で繰り広げられている、壮大なゲームであるとも言える事。
(サンスクリット語に、「リーラ(神の戯れ)」という言葉がありますが、その事を表現しているのだと思います。)

これらの事は、分かれた別々の事ではなく、本質的に同じことなので、大宇宙の本質とでも言うべき真相を体験した人には、自然に理解できる事だと思います。
逆に言えば、体験しないことには、決して理解できない事なので、「色即是空 空即是色」という言葉は難解とされ、様々な解釈を生んでいるのかも知れません。
その状態を体験できた時には、この大宇宙の本質は、ものすごくシンプルだということが理解できます。

今日は、要点だけを書きましたので、折に触れて、さらに詳しく書いていきたいと思います。

                      続く

富士と飛鳥(明日香)

日本の象徴・霊峰富士と、飛鳥明日香)とは、深いつながりがあります。
霊的に深く結ばれていると言ってもいいのかも知れません。

飛鳥(明日香)のシンボルとも言える、石舞台の近くに、「日本の飛鳥から世界の飛鳥へ」という世界遺産登録を目指したキャッチフレーズが掲げてあるのを、旅の途中で目にしたことがあります。

もちろんこれは、あくまでも観光地としての飛鳥のことなのですが、実は、飛鳥(明日香)という空間には、「日本の飛鳥(明日香)から世界の飛鳥(明日香)へ」と言ってもいいような、深い霊的な意味での役割のようなものがあります。

富士の夜明け、日本の夜明け、地球・世界の夜明けを迎える上で、飛鳥(明日香)という空間にある働きが、必要になります。

「あすか」とは、飛鳥とも、明日香とも書きます。
明日の香りに向って飛ぶ鳥、それが、飛鳥(明日香)なのかも知れません。

飛鳥(明日香)という空間は今、長い年月の眠りから目覚め、封印が解かれて、その本来の役割を果たす時を迎えているのかも知れません。

飛鳥(明日香)とは、21世紀に人類の意識が飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える時、その中心的役割を果たす日本人の霊性が蘇り、花開く時に現れて来る、聖なる空間のことです。

そのあたりのことを、CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録の「聖なる飛鳥(明日香)」という曲の中で歌っています。
ぜひ聴いてみていただけると幸いです。

安芸の宮島、厳島神社、広島

猛烈に暑かった夏も終わり、先日の台風を境に、めっきり秋らしくなって来ました。
いよいよ秋到来、といったところでしょうか。

本日、広島にある、安芸(あき)の宮島のこと、そして、厳島神社のことが、ふと脳裏をよぎりました。

世界遺産の厳島神社がある、宮島は、安芸(あき)の宮島と呼ばれており、季節の秋と同じ言霊(ことだま)を持っています。
文字は後から付けられたものであり、言霊のほうが先にありますので、宮島という所は、季節の秋と何か関係があるように思われます。

宮島名物と言えば、「もみじ饅頭」が有名です。何気ないようですが、ああいうところにも、宮島と季節の秋の関係性のようなものが、表されていると思います。

そして、秋という言葉から連想されるのは、実り、とか、収穫、というようなイメージかも知れません。
宮島、厳島神社、そして、広島という所は、何かそういう役割を持った所なのかも知れません。

広島と言えば、人類史において、初めて原爆が投下された所です。
そして、そういう場所だからこそ、平和の尊さを訴え、世界平和を推進して行く、一つの中心地にもなりうるのかも知れません。

そして、厳島神社と言えば、平清盛を始め、平家一門が篤く崇敬した神社です。
一方、平家を滅ぼした源氏が篤く崇敬したのは、鎌倉の鶴岡八幡宮です。

先日少し書きましたが、源氏と平家というのは、神の経綸において、二元性の対立というものを、ここ霊(ひ)ノ元・日本において演じる役割を担った氏族でした。

これから、日本の象徴・霊峰富士の働き「二元性の統合」が本格化していく中において、平家の霊的な蘇り、霊的世界での源氏と平家の和解・統合ということが、とても重要になってくると思います。
そしてそれは、厳島神社が持つ真の働きが表に出るということになるのかも知れません。

いずれにしても、安芸(あき)の宮島、厳島神社、広島という所は、これから人類の意識が統合へと向かう上において、とても重要な役割を果たすのではないかと思われます。


魂の夢、光輝く魂

人は誰でも、心に様々な夢を描いて生きていると思います。
ああしたい、こうしたい、あれがほしい、これがほしい、ああなりたい、こうなりたい、という具合に、人により、様々な夢があるのだと思います。

多くの人が抱く夢というものを、一般的な言葉で表現するとしたら、健康・長寿、お金・富、恋愛・結婚、仕事、豊かな人間関係、社会的成功、地位・名誉、といったようなことになるのかも知れません。

そして、それらの事柄を夢として抱く事自体は、心を進化させて行く旅のプロセスには必要なことであり、OKなのですが、夢の実現という事を、自分の理想とする形にこだわり過ぎてしまうと、ともすれば、夢というものが、叶っていないような、失望感や挫折感を味わってしまうことになるのかも知れません。

しかし、忘れてはならない夢というものが、もう一つあります。
それは、魂の夢ということです。
魂の夢を感じてみる、魂の夢に意識を合わせる、魂の夢を想い出す、ということが大切になります。

そして、魂の夢とは、魂を進化させることであり、魂の夢とは、光輝く魂、ということになります。
心の純化、意識の福化、心の器を大きくし、いずこにもとらわれない心になること、いわば、タイタン(巨人)のような心になること、豊かな心になることが、魂の夢ということになります。

神の分霊(わけみたま)である我が魂自らが、創造主として我が人生を創造しているのだということを忘れないことが大切だと思います。
そして、心を無地・透明にして豊かな心になって行くという、我が魂の夢は、ちゃんと叶っている、実現しているのだということを想い出すことが必要になります。

魂を進化させる場として、21世紀の地球というこの時空に肉体を存在させている、我が魂の想いというものを感じてみる、我が魂の想いに意識を合わせてみる、ということが必要だと思います。

何かを成したとか、何かを手に入れたとかいう事柄の中に、人生の真の答えがあるわけではありません。

我が魂の夢は、ただ一点、光輝く魂ということになります。
たとえ自分の人生が、思い通りでないように感じられたとしても、魂の進化として最短距離を突き進んでいる、本当の自分自身というものを信じる力が大切になると思います。

9・11アメリカ同時多発テロから丸9年

全世界を震撼させた、2001年の9・11アメリカ同時多発テロから、今日が丸9年目になります。

その後、アメリカは、アフガン紛争、イラク戦争へと突入して行きました。
テロリストを潰せば、世界からテロが無くなるというような単純なものではなく、そんなことをどこまでも続けて行っても、モグラ叩きのように、次から次へと新たなテロリストが現れて来るに違いありません。

外に見えるものは、内なるものの反映にしか過ぎないので、世界で起きているテロや戦争のようなものも、人類の集合無意識の中にある、自己攻撃の表れと見ることもできます。
ということは、人類の集合無意識の中にある、自己攻撃という幻想が癒されない限り、地上からテロや戦争が消えて無くなることはないとも言えるのかも知れません。

私達一人一人が自己の内面を癒し、自己の中にある、自己攻撃という中毒を癒していくことが、人類の集合無意識の中にある自己攻撃という中毒を癒していくことにつながり、それは結果的に、地上からテロや戦争が消えていくことにつながると思います。

もちろん、色々な平和活動や外交など、人的努力は必要なのですが、それだけで真の世界平和が実現するわけではなく、最終的には、私達人類の意識が変わらない限り、真の世界平和には到達できないと思います。

そういう意味では、私達一人一人が、自分の意識を変え、新たな意識を創っていくことこそが、地球の仕事をすること、地球の仕事に携わること、とも言えるのかも知れません。

こと座(琴座、Lyra)、プレアデス(昴、すばる)、シリウス、オリオン

私達の星・地球は、様々な天体からの影響を受けており、その中でも、特に関係が深い星が、色々あると思います。

その中で、私が個人的に深い関係を感じるのは、こと座(琴座、Lyra)、プレアデス(昴、すばる)、シリウス、オリオン、といった星です。

これらの星は、単に地球と深い関係があるというだけでなく、日本、そして、日本の象徴・霊峰富士とも深い関係があるような感じがします。

こと座の1等星・ベガは、日本においては、七夕の織姫星として知られており、彦星である、わし座のアルタイルとの七夕伝説は、日本人の心に深く根付いている感じがします。

私は、こと座のことを想うと、何かとても懐かしいような、魂の故郷とでもいうべき、ある種の郷愁のようなものを感じます。
何かとても深い、根源的なつながりのようなものを感じるのです。

そして、こと座に対して感じる、根源的な郷愁のような想いに比べれば、プレアデス、シリウス、オリオンに対して感じるのは、もう少し淡い感じの想いです。

                      続く

99=白、白山菊理媛(白山比咩神)

本日は、9月9日です。重陽節という、菊の節句にも当たります。

99という数字には、白という意味があります。
99+1=100です。白+一=百です。

百には、神という意味がありますので、99(九九)は、神になる一歩手前を表しています。百から一を引いた、九九(99)=白に秘められているのが、日本三大霊山の一つ、加賀の白山に鎮座されている、白山菊理媛(はくさんくくりひめ)の働きです。

九九の文字を使って、心を九九路(こころ)、括りを九九理(くくり)と表したりします。
九九路を治め、人が神として出産する為の締め九九理に関わっているのが、白山菊理媛の働きです。

九九から百(神)に至る、最後の一の部分が、「最後の一厘」とか、「一厘の仕組み」と呼ばれています。

百のことを、モモとも呼びますが、桃も百、あるいは神を表します。
古事記の中で、黄泉国(よみのくに)から伊邪那岐命(イザナギ)が逃げのびる時、黄泉比良坂(よもつひらさか)で、桃の実三つを投げて黄泉国の軍勢を退治しましたが、あの桃の実のことです。イザナギは、桃の実に、意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)という御神名を付けました。

白山菊理媛は、日本書紀の中で、黄泉国の黄泉比良坂で、イザナギとイザナミの争いをやめさせた神として登場します。
国生みをされた男性神と女性神の対立を仲裁して、夫婦和合へと導いた働きが、白山菊理媛の働きです。
それは、対立するものを統合へと導く働きであり、二元性の統合ということにもなります。
そして、国生みをされた、イザナギ・イザナミを説得して夫婦和合へと導いたところに、白山菊理媛の神格の高さ、働きの大きさを伺い知ることが出来ます。

全国に三千社以上ある白山神社の総本宮とされているのが、加賀一ノ宮の白山比咩(しらやまひめ)神社です。
御祭神は、白山菊理媛(白山比咩)、伊邪那岐命、伊邪那美命、です。

ククルという言葉は、ムスビと同じ意味があり、物事をきれいにまとめるという意味があります。
人が神として出産する、「最後の一厘」において、白山菊理媛の働きが、とても重要になってきます。そして、ククルとは、肚(はら)をククルことをも意味しており、最後の最後は、越すに越されぬ大峠、越してみて初めてわかるのが、「最後の一厘」だと思います。

白山菊理媛の働きが、1414(いよいよ)本格化する時を迎えたような感じがします。

三嶋大社、金色恵比寿・日之出大神

昨日の大山阿夫利神社に続き、本日、三嶋大社に参拝して来ました。

三嶋大社は、源頼朝が源氏再興を祈願した所で、由緒ある旧官幣大社です。
伊豆山神社箱根神社の「二所詣」とともに、源頼朝は、三嶋大社を篤く崇敬したと伝えられています。
頼朝の妻・北条政子が勧請した厳島神社が、境内の大きな池の中に祀られています。

まずは、境内末社の祓所神社にて、祓戸大神にご挨拶をしました。
祓戸大神とは、神道の大祓祝詞に出て来る、四柱の神々のことです。
 ・瀬織津比売(せおりつひめ)
 ・速開都比売(はやあきつひめ)
 ・気吹戸主(いぶきどぬし)
 ・速佐須良比売(はやさすらひめ)

私の知る限り、祓戸大神がきちんとした形で祀られている神社はあまり多くない感じで、祓戸大神の総本宮とされる、滋賀県の佐久奈度神社も、あまり一般的には知られていない印象を受けます。
神国・日本が、これから、本来の力を発揮する上で、祓戸大神の蘇り、ということが必要なのかも知れません。

次に、境内の中の大きな池の中にある、厳島神社にて、市杵島姫(弁財天)にご挨拶しました。

それから、本殿へと進み、ご挨拶を致しました。
三嶋大社の御祭神は、大山祇大神、積羽八重事代主(恵比寿)、の二柱です。
昨日参拝した大山阿夫利神社もそうですが、三嶋大社でも、大山祇大神が祀られています。
八重事代主は、恵比寿様としても知られていますが、三嶋大社のホームページでは、大きな鯛に乗った恵比寿様が、金福神として描かれています。

実は、八重事代主こと恵比寿様の真の姿は、金色恵比寿であり、日之出大神でもあります。これから、神国・日本が日之出の御世を迎えるにあたり、なくてはならない働きをされる神様です。
その理由の一つのヒントが、八重事代主が、天皇を守る宮中八神の中に入っていることに表れています。天照大御神との隠された関係性にありますが、詳しいことは、書ける機会があったら書きたいと思います。

とにかく、三嶋大社は、とても重要な働きを担っているようで、神様も、「富士(不二)と三嶋は、二つで一つ」と仰っています。

三嶋大社には、三嶋暦という、古くから伝わる独自の暦があり、社務所でも販売しています。私も、手元に置いてあり、折に触れて見ています。
本日9月8日は、旧暦八月一日にあたります。八には、開くという意味もあります。

ある神示の中に、「九月八日から仕組みスクリと変える」というコトバ(九十八)が出て来ます。
今年2010年(平成22年)9月8日も、ある意味において、新たな始まりの日とも言えるのかも知れません。
明治維新やルネッサンスなど、かつて人類が経験した大変革とは比較にならないような、意識の大変革を、これから人類が経験していく流れが本格化した、新たな始まりの日になるのかも知れません。

大山阿夫利神社、大山祗大神・艮(うしとら)の金神

本日、神奈川県伊勢原市にある、大山阿夫利神社に参拝し、大山に登拝して来ました。

大山阿夫利神社の御祭神は、大山祗大神、高おかみ神、大雷神です。

大山祗大神は、山の神様の代表格とも言える大神で、その娘の木花之佐久夜毘売が、霊峰富士の守り神です。
富士と大山の御祭神は、娘と父の関係になるわけで、昔から、大山と富士の一つだけに詣でるのは片参りと言われ、両方に詣でるのが良いとされてきたようです。

大山祗大神はまた、全国の産土神(うぶすながみ)の総大将とも言われており、愛媛県の大三島にある大山祗神社は、日本総鎮守とも言われています。

大山祗大神は、艮(うしとら)の金神として出て来るとも言われています。

大山祗大神を祀る代表的な神社がもう一社あり、静岡県の三嶋大社です。
御祭神は、大山祗大神と、積羽八重事代主大神(恵比寿様)の二柱です。

明日は、三嶋大社に参拝する予定です。

二元性の統合

先日、霊(ひ)ノ元・日本の象徴、霊峰富士の働きについて書きました。

霊峰富士の持つ真の働きとは、二元性を統合して、大いなる和、すなわち「大和」を地球・世界にもたらし、地上天国・弥勒世を実現させる働きのことです。

二元性とは、善と悪、正と邪、光と闇、陰と陽、男性性と女性性、東洋と西洋、プラスとマイナス、神と悪魔、というように、対立する両極にあるもののことです。

そして、神の経綸において、二元性を演じる役割を担ったのが、日本の国においては、源氏と平家、世界規模の地球という枠組みの中では、日本とユダヤ、ということになります。

日本とユダヤの役割については、「日月神示」や「火水伝文」などにおいて、スメラとイシヤということで、述べられていると思います。

霊峰富士の持つ真の働きが完成し、地上天国とも言える「大和」が実現した時、霊的世界においては、源氏と平家の和解・統合が成就することになると思います。
それは同時に、鎌倉の鶴岡八幡宮と広島の厳島神社の霊的な結び付き・統合をも意味するのかも知れません。

ただし、そうなる為には、スメラの霊統とイシヤの霊統の統合が必要となりますし、まずは現実レベルにおいて、日本とユダヤの統合が必要不可欠となります。

これは、神の経綸において、数千年の歳月をかけて準備された、とても深いテーマですので、折に触れて、書いていきたいと思います。

魂の進化

私達の人生には、生まれて来た目的があります。生きるのには目的があり、それは、魂の進化ということなのです。
魂の進化とは、心の純化、意識の福化、心の器を大きくして、いずこにもとらわれない心になる、という事です。

コンピューターには、基本ソフト・OSが入っているように、私達の人生には、基本となるテーマ「魂の進化」というプログラムが入っています。
そして、魂の進化というプログラムでしか私達の人生は動いていませんので、人生に起きる全ての事は、我が魂の進化の為に起きているということになります。

そして、全ての出来事を起こしているのは、自分自身、本源の我とも言える、我が魂だということです。
我が魂が、自らの進化を、自らのさらなる輝きを求めて、全ての現実を創造しているということになります。

決して、神とか天とか大宇宙とかが、自分自身の意に反して、勝手に自分の現実を創造しているわけではありません。
神の分霊(わけみたま)である我が魂が、自らの進化の為に全ての現実を創造しているのであり、「人は神である」とか、「人は創造主」であると言われるのは、そういうことでもあるのです。

そして、魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事とは違います。
魂にとっては、心の器を大きくし、いずこにもとらわれない心、言わばタイタン(巨人)のような心を創ること、心を純化させることだけが関心事なので、その為に必要と思われる最適な状況を創造します。
それらは、病気や怪我、お金を失うこと、失恋・離婚、失敗、失業、社会的地位や名誉を失うことなど、一般的に、不幸・不運と呼ばれているような状況かも知れません。

一方、肉体の自我意識の関心事は、多くの人にとっては、健康・長寿、お金を得ること、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の仕事、社会的成功、地位・名誉、素晴らしい人間関係など、一般的に、幸福・幸運と呼ばれているような状況かも知れません。

このように、本源の我である魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事とが違い、差(ギャップ)がある為に、本当は自分の魂が望んで創造した自分の人生なのに、ともすると、つらく苦しく、あたかも自分が被害者であるかのように感じたりしてしまいます。

しかし、創造の主体者である我が魂にとっては、体験する全てが喜びなので、そういう魂の想いを感じ、魂の願いというものに意識を合わせていくことが、とても大切だと思います。
特に人生がつらく苦しく感じられる時は、全ては「魂の進化」の為に、我が魂自らが仕掛けたプログラムであることを想い出すことがとても大切になります。

このことは、とても重要なテーマなので、折に触れて、書いていきたいと思います。

大天使ミカエル

私は何故か、大天使ミカエルが大好きです。
ミカエルのことを想うと、とても親しみを感じるとともに、何だかうれしくなります。
聖ミカエルは言語によってサン・ミゲルとも呼ばれていますが、私にとって、決して近寄り難い遠い存在ではなく、フレンドリーな感じがする、懐かしい感じの存在なのです。

ミカエルのことは、折に触れて想い出しますが、数字の94、あるいは9月4日という数字から、あらためてミカエルのことを想ったりします。

今日は9月4日なので、折に触れてミカエルのことを感じました。

もうずいぶん昔、10年程前になりますが、オーラソーマのセッションを、信頼できる友人から一度受けた事があります。
その時、私が選んだ4本のボトルのうち、2番目のボトル「ギフト&タレントのボトル」が、大天使ミカエルのボトルでした。
私がミカエルのボトルを選んで手にした時、ミカエルからとても深いメッセージが友人の元に届けられたそうですが、あまりにも深い意識状態で聞いていたので、内容については全く想い出せない、と友人が後から言っていました。

オーラソーマの大天使ミカエルのボトルナンバーが94番であり、色は、上がペールブルー、下がぺールイエローです。

この日に私が選んだ4本のボトルは、以下のとおりです。

1番目「魂のボトル」
    101番「大天使ヨフィエル」(ペールブルー、ペールオリーブグリーン)
2番目「ギフト&タレントのボトル」
    94番「大天使ミカエル」(ペールブルー、ペールイエロー)
3番目「゛今、ここ"のボトル」
    74番「勝利」(ぺールイエロー、ぺールグリーン)
4番目「未来のボトル」
    61番「サナトクマラ&レディヴィーナスクマラ」(ペールピンク、ペールイエロー)

大天使ミカエルは、邪を払う「光の剣」を持っていると言われています。

現実世界とは、心を映し出す鏡

自分が見ている現実世界とは、自分の心を映し出す鏡のようなものです。

自分がいて、自分以外の人や物などの外的世界を見ていると、ほとんどの人が考えています。
しかし、本当はそうではなく、自分の内面の心象風景を、現実というスクリーンに映し出して見ているに過ぎません。
自分の脳が情報処理・画像処理した結果を、映画でも見るかのように、現実というスクリーンに映し出して見ているのだということです。

すなわち、自分の目に映る全ては、自分の内面の世界、インナーワールドであり、目に映る全ては自分自身だとも言えます。
本来、自分の外に世界は無く、自分の内面を映し出した鏡の世界があるだけであり、人はそれを現実世界と呼んでいるのです。

大乗仏教の唯識論においても、こういう事は昔から説かれていたようですが、最近では、最先端の物理学においても、同じことを言っているようです。
「宇宙の中に意識があるのではなく、意識の中に宇宙がある」というのが、最先端の物理学が行き着いた結論だということです。

とても奇想天外に聞こえるかも知れませんが、本当にそのとおりなので、いずれはその事を実感できる日が来ると思います。
今、人類の意識が覚醒し、飛躍的進化を遂げる時が到来しているので、21世紀のそう遠くない将来、自分の意識が創り出した世界を現実世界と呼んでいたことに、人々が気付く時が来る筈です。

時間は幻想

今日は、時間というものについてお伝えしたいと思います。

時間とは幻想であり、本当は、時間というものは存在していません。

いきなりこんな事を言われても、ほとんどの方が、何のことだかさっぱり分からないというふうに、首を傾げると思います。それは無理もないことで、時間は本当はない、ということは、体験しないことには理解できないと思います。
しかし実際には、時間というのは、人間が考え出した発明品、概念にしか過ぎません。

アインシュタインは、「過去・現在・未来という考え方は幻想に過ぎない」「時間が流れているというのは、有史以来人間にこびり付いた固定観念に過ぎない」と言っているようですが、アインシュタインの言葉を持ち出すまでもなく、過去から現在そして未来へと流れていく時間という考え方は、幻想にしか過ぎません。

本当は、時間は流れておらず、「今」という「時」しかありません。
古来、その事を体験的に知った宗教家などは、「永遠(とわ)の中今」という表現などで、その真実を伝えています。

本当は時間は流れておらず、「今」という「この時」しか実在していないというのは、アニメを例に取るとイメージしやすいかも知れません。

アニメは動画とも呼ばれ、様々な動きを表現することが出来ますが、実際には、一枚一枚の静止画から作られていることは、ほとんどの方がご存知だと思います。
一枚一枚の静止画を「今」という「この時」、アニメとして動画になったものを時間の流れ、というふうに考えてみると、イメージしやすいかも知れません。

そして、過去があって現在があり、これから未来が来るのではなく、過去・現在・未来は今同時に存在しています。

そして、あえて時間の流れという表現を使うならば、時間の流れとは、ほとんどの人が考えている、過去→現在→未来という流れではなく、その反対に、未来から現在に向って流れて来ています。

この点についても、ほとんどの人にはピンとこない感じで、なかなかイメージ出来ないのではないかと思います。
これもやはり体験しないことには知りようがないので、ある意味仕方がないことではありますが、この事を体験的に知っているチベットやネパールの高僧などの中には、時間は未来から流れて来ると語っている方もおられるようです。

時間の流れは過去からではなく、未来からやって来るという点については、別の機会にまた詳しく述べさせていただきたいと思います。

とりあえず今日のところは、時間とは幻想であり、本当は、時間は存在していない、という事を、どこか頭の片隅に入れておいていただけたら幸いです。

                         続く

9月1日・二百十日

猛烈に暑かった8月が昨日で終わりました。
今年の夏は、色々な意味で、強烈な印象の夏でしたが、終わってみれば、何だか遠い夢のような不思議な感じがしています。

そして、今日から9月が始まりました。
今日9月1日は、立春を起算日として210日目に当たり、二百十日として知られています。そういえば、夏目漱石の小説にも、「二百十日」というタイトルの小説がありますね。

それはさておき、たった一日が過ぎて暦が次の月に変わっただけなのに、もう8月とは違う、新しい風が吹いている感じがします。

今月9月から、地球の進化を促進する流れが、さらに加速しそうな感じです。
今年の夏が猛烈に暑かったのも、何か関係があるのかも知れませんね。

目には見えない形で、そして、目に見える形でも、人類の意識を新たな時代へと導くエネルギーがさらにパワーアップしたのを、感じられるかも知れません。


最近の記事|recent Entry

カテゴリー|Category

月別アーカイブ|Archives

リンク|Links

フィード|FEEDS