日本の新しい調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

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「山」には「神」という意味があり、大山祇大神は産土神の総大将であり海神大神でもある

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 本日8月11日は「山の日」ですが、今年から「山の日」は国民の祝日と制定されました。

 そこで、今日は、「山」に関する記事を書いてみたいと思います。

「山」には「神」という意味があります。

「山」には「神」という意味があり、山岳信仰などにもそれを見ることができます。

 古来、私たち日本人は、日本の象徴・霊峰富士を始め、日本三霊山の立山や白山など、「山」を「神」が宿る神体山として崇拝してきました。

 そして、山の神の代表とも言える存在が、大山祇大神(オオヤマヅミノオオカミ)になります。

 日本の象徴・霊峰富士を守る富士山本宮浅間大社で祀られている御祭神が木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)です。

 そして、大山祇大神は、霊峰富士の守り神である木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)の父親に当たります。

 霊峰富士の守り神である木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)の父上に当たる大山祇大神はまた、格別の存在であるとも言えます。

 神奈川県伊勢原市には、大山阿夫利神社があり、大山祇大神が祀られています。

 江戸時代には、富士山だけでは「片参り」と言われ、富士の守り神である木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)の父神が祀られている大山阿夫利神社への「大山参り」と、霊峰富士の両方にお参りするのが良いとされていたようです。

 それくらい、大山祇大神は尊ばれていたということになります。

 大山祇大神は、山の神の代表的存在であるだけではなく、全国の産土神の総大将ともされています。

 大山祇大神の働きには、とても深いものが秘められているのです。

 そして、注目していただきたいのは、大山祇大神を祀る総本宮は大山祇神社であり、大山祇神社が鎮座しているのは、瀬戸内海の小島である、愛媛県今治市の大三島なのです。

 大山祇神社の創建は、推古天皇2年(594年)とも伝えられていますが、大山祇神社は別名で「日本総鎮守」ともされています。

 何故、山の神の代表的存在である大山祇大神が祀られている総本宮が、瀬戸内海の大三島にあるのでしょうか?

 瀬戸内海の大三島にある大山祇神社は、私も二度参拝に訪れたことがありますが、現代であれば、美しいしまなみ海道という高速道路を使って、本州からも四国からも容易に訪れることが出来ます。

 しかし、今から1400年程前の時代、しかも都から遠く離れた瀬戸内海の小島に創建された大山祇神社が、何故、「日本総鎮守」という別名を持っていたのかと言うと、「山」を治める大山祇大神とは、実は、「海」を治める海神大神(ワダツミノオオカミ)のことでもあるからなのです。

 私たちの「心」は、「海原」で表されます。

「神界」では、私たちの心の働きを「海原」で「型」として表現しているのです。

「心とはコロコロ変わるから心と言う」とも言われるように、私たちの「心」は、どんな時でも絶えずさざ波が立って揺れ動いている「海原」に例えられているのです。

 そして、絶えず揺れ動いている「海原」の奥深くには、決して揺れ動くことの無い「深海(しんかい)」があります。

「深海=神界(しんかい)」であり、「心」の奥深くにある「神界(しんかい)」が、「海原」の奥深くにある「深海(しんかい)」に例えられているのです。

 ですから、海を治める海神大神(ワダツミノオオカミ)とは、ある意味において、「深海=神界(しんかい)」を治める特別な存在でもあります。

「山=神」であり、山の神の代表的存在である大山祇大神とは、ある意味において、「神界(しんかい)」を治める特別な存在でもあるのです。

 何故、山の神の代表的存在である大山祇大神が産土神の総大将ともされるのかという真の理由は、ここにあります。

 そして、山の神の代表的存在である大山祇大神を祀る総本宮である大山祇神社が、何故、瀬戸内海の小島にあるのかという真の理由は、大山祇大神とは海神大神(ワダツミノオオカミ)のことでもあるからなのです。

 都から遠く離れた瀬戸内海の小島に鎮座する大山祇神社が、何故、「日本総鎮守」の別名を持っているのかという真の理由は、ここにあります。

 山の神の代表的存在である大山祇大神とは、「海原」を治める海神大神(ワダツミノオオカミ)のことでもあり、産土神の総大将のことでもあるのです。

 大山祇大神の働きには、とても奥深いものがあります。

 そして、大山祇神社の御祭神である大山祇大神は、「三島大明神」とも称されており、静岡県の三島大社とも深く関係しています。

 静岡県三島市に鎮座する三島大社は、富士山本宮浅間大社と並んで、静岡県では最も格式が高く、また富士山とも深く密接に関係しています。

 三島大社の御祭神は、大山祇大神と積羽八重事代主大神です。

「富士と三島は二つで一つ」であり、日本の象徴・霊峰富士と、三島大社には深く密接な関係があります。

 東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本の象徴が、霊峰富士です。

 そして、霊峰富士の守り神が木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)であり、その父神に当たるのが大山祇大神なのです。

 大山祇大神に秘められた働きは特別なものであり、だからこそ、産土神の総大将であると同時に、「海原」を治める海神大神(ワダツミノオオカミ)のことでもあるのです。

 そして、大山祇大神は、艮の金神(ウシトラノコンジン)としても現れることになります。

 山の神の代表であり、産土神の総大将であると同時に、「海原」を治める海神大神(ワダツミノオオカミ)のことでもある、大山祇大神の働きが本格的に表に現れる時には、艮の金神(ウシトラノコンジン)としても現れることになります。

 大山祇大神の働きには、とても奥深いものが秘められているのです。

「山」には「神」という意味があり、山岳信仰にも見られますが、日本一高い「山」である富士山は、日本の象徴とされています。

 そして、日本の象徴・霊峰富士の守り神が木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)であり、その父神に当たるのが大山祇大神になります。

 大山祇大神に秘められた働きには、格別なものがあるということを、知ることが大切になります。



本日4月4日は皆既月食――皆既月食は月が蘇る型示し

 本日4月4日の夜は、皆既月食となります。

 以前、「皆既月食、月が蘇る型、月読命の蘇り」にも書きましたが、皆既月食とは、月が蘇る型示しとなっています。

 私たちの魂は、月に例えられます。
 満月とは、完成された御魂、魂の出産、魂の蘇りを象徴しています。
 神道の御神名で言うと、「月読命の蘇り」ということになります。

 月というのは、太陽の光を受けて輝いています。
 皆既月食によって太陽の光が遮られ、一旦光を失ってしまった月は、太陽の光が蘇るに連れて、月も徐々に光を取り戻し、最後には光り輝く満月となって輝きます。

 皆既(かいき)月食とは、回帰(かいき)月食という意味でもあり、魂が本来の姿に蘇り、本来の輝きを取り戻し、魂の蘇り・魂の出産を迎えて、満月となって光り輝くという型示しになっています。

 皆既月食で太陽の光が遮られ、一旦光を失った月は、太陽の光が蘇るに連れて月も蘇り、最後には満月となって光り輝く姿となります。

 月が蘇るとは、太陽が蘇ることをも意味しており、「月読命の蘇り」とは、同じ三貴子の「天照大御神の天岩戸開き」と同じ意味でもあります。

 そしてそれは、三貴子の「須佐之男命のヤマタノオロチ退治」と同じ意味でもあります。

 三貴子の「月読命の蘇り」とは、「天照大御神の天岩戸開き」と同じ意味であり、「須佐之男命のヤマタノオロチ退治」と同じ意味でもあります。

 そして、それは即ち、三貴子を生んだ父・伊邪那岐命の「黄泉国(よみのくに)からの黄泉帰り=蘇り(よみがえり)」と同じ意味でもあります。

 古事記には、単に歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産するまでの内的なプロセスが、象徴的に描かれています。
 登場人物と場面設定は違いますが、魂の出産・魂の蘇りという同じテーマが、繰り返し描かれています。

 先日、「かぐや姫と富士」というタイトルで、「かぐや姫の物語」について書きましたが、十五夜の満月の晩に、かぐや姫が月に帰って行くというのも、本来の姿に帰って行くという型示しの一つです。


かぐや姫と富士

 高畑勲監督・スタジオジブリ制作のアニメ「かぐや姫の物語」が、先日、3月13日にテレビ初放送されました。
 テレビ放送で、あるいは、既に劇場でご覧になられた方も多いかも知れません。

「かぐや姫の物語」は、アカデミー賞にもノミネートされたように、素晴らしい作品だと思います。

「かぐや姫の物語」の原作は、我が国最古の物語とも言われる「竹取物語」です。
「竹取物語」に登場する「かぐや姫の物語」というのは、私たち日本人の心の中に深く根ざした何かがあるように感じられます。

 そして、私たち日本人の心の故郷とも言うべき、日本の象徴・霊峰富士と、「かぐや姫の物語」とは、深い密接な関係があります。

 日本の象徴・霊峰富士の名前の由来は、「かぐや姫の物語」から来ています。
「かぐや姫の物語」である「竹取物語」の一番最後に、富士山の名前の由来が書かれています。

 このように、日本の象徴・霊峰富士と「かぐや姫の物語」とは深い関係があるのですが、霊的に言うならば、さらに深い密接な関係があります。

 私たちの魂は、月に例えられます。
 満月とは、完成された魂、魂の出産、魂の蘇りを象徴しています。
 神道の御神名で言うならば、月読命(ツキヨミノミコト)の蘇りということになります。

 かぐや姫というのは、月読命の女神のことでもあります。

 かぐや姫は型示しであり、月に帰るとは、多くの贈り物、この世での物での贈り物よりも本来の姿に戻り、帰って行くことから来ています。

 私たち日本人の心に深く根ざした「かぐや姫の物語」と、日本の象徴・霊峰富士とは、霊的に深く密接な関わりがあります。

 CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録曲の中に「かぐや姫と富士」という曲がありますが、そのあたりの背景を踏まえて創られた曲であり、私たち日本人の中に眠る遺伝子を目覚めさせ、蘇らせるような言霊(歌詞)と音霊(メロディー)で創られていますので、是非聴いてみていただければ幸いです。

「かぐや姫と富士」という曲だけではなく、CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録曲は全て、日本の新しい調べ・神響きの音楽であり、天岩戸開きの祝いの神楽歌です。

 私たち日本人の中に眠る遺伝子を目覚めさせ、蘇らせるような言霊(歌詞)と音霊(メロディー)で創られていますので、繰り返し聴いていると、自ずと、地球の新しい時代の意識へと導かれていくように出来ていますので、是非聴いてみていただければ幸いです。

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西暦2014年(平成26年)の幕開け

 西暦2014年(平成26年)が幕開けしました。

 新年、明けましておめでとうございます。
 本年も、どうぞよろしくお願い致します。

 昨年2013年(平成25年)は、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮と共に、出雲大社においても、60年ぶりとなる平成の大遷宮が行われました。

 伊勢神宮は、表の神界の表の働きであり、出雲大社は、表の神界の裏の働きになります。
 
 表の神界の表の働きである、伊勢神宮の式年遷宮と、表の神界の裏の働きである、出雲大社の平成の大遷宮が重なる年となった昨年は、日本にとって、節目の年となりました。

 昨年、伊勢神宮の式年遷宮と、出雲大社の平成の大遷宮が無事執り行われた事により、神界における一つの開きが成就し、一つの結びが成就する事になりました。

 神界における開き、一つの結びは、今年2014年(平成26年)から、本格的に表(現象界)に現れて来る事になるでしょう。

 特に、出雲大社の働きである、大国主大神の働き、大黒の働きが、本格的に表(現象界)に現れて来る年となるでしょう。

 全国の八百万神々を統率する大国主大神は、「力」の象徴です。
 そして、大国主大神は、七福神の大黒(=大国)様とも呼ばれますが、大黒様は、米俵の上に乗って、打出の小槌を持っておられます。
 米俵の上に乗って、打出の小槌を振り、金銀財宝をザクザクと生み出す大黒様は、「力」の象徴なのです。

 大国主大神の働き、大黒の働きとは、「力」の象徴なのです。

 神の持つ働きは、「愛(女性原理)と力(男性原理)」という言葉で表現されます。
 神の持つ働きの内、男性原理である「力」を象徴しているのが、大国主大神の働きであり、大黒の働きになります。

 今年2014年(平成26年)は、神界における大国主大神の働き、大黒の働きが、本格的に表(現象界)に現れて来る年となるでしょう。

 神界における大国主大神の働き、大黒の働きが、本格的に表(現象界)に現れて来るというのは、余程の事であり、今、私達は、ようやく、そのような時を迎えるに至ったのです。

 そして、神界における大国主大神の働き、大黒の働きは、現象界を大きく動かし、新しい地球の誕生へと導いていく事でしょう。

 伊勢神宮の次の式年遷宮が行われる、西暦2033年頃、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本から、今ある物質文明の次に来る、新たな精神文明、花咲く都・黄金文明が花開く時を迎えます。

 キリスト教の世界で言われる「至福千年王国」の事でもあり、私達人類の黄金時代の幕開けの時でもあります。
 有史以来数千年続いた人類の古い歴史が幕を閉じ、私達人類の新たな歴史が幕を開ける時でもあります。

 これからの十数年は、有史以来数千年続いた人類の古い歴史の最終局面なのです。

 今年2014年(平成26年)は、神の「力」が、本格的に表(現象界)に現れる年となり、現象界を大きく動かし、新しい地球の誕生へと導いていく事になるでしょう。

 私達の意識も大きく変わり始める年となるでしょう。
 今年2014年は、1414(いよいよ)の年となりそうです。

 それに合わせて、今年2014年(平成26年)春、新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」を出版致します。

 この大宇宙の実相・真相についての、最も本質的な、根源的な内容の書となっていますので、どうぞお楽しみに!

「十」とは、神を表す数字ー火の働き(男性原理)と水の働き(女性原理)

 本日は、十月十日です。
 「十」とは、神を表す数字でもありますので、十月十日は、神が重なる目出度き日とも言えます。

 神とは、「火水(カミ)」とも言い、火の働きと水の働きで表されます。
 火の働きとは、男性原理であり、縦方向の線「|」で表されます。
 水の働きとは、女性原理であり、横方向の線「―」で表されます。

 男性原理である火の働き「|」と、女性原理である水の働き「―」を合わせた「十」は、「火水(カミ)」を表し、神を表す数字でもあります。

 火の働きである男性原理は、「力」という言葉で表す事が出来ます。
 水の働きである女性原理は、「愛」という言葉で表す事が出来ます。

 神の持つ本質的な働きは、「愛(女性原理)」と「力(男性原理)」という言葉で表す事が出来ます。
 「愛と力」こそが、神の持つ本質的な働きであり、それは、私達人間一人一人の中にもあります。

 神道的な表現を使えば、神の本質と同じ「神性」が、私達一人一人の中に内在しています。
 仏教的な表現を使えば、「仏性」であり、キリスト教的な表現を使えば、「キリスト意識」という事になるのかも知れません。

 自分自身の中にある、内なる「神性」、「愛と力」を想い出し、蘇らせ、花開かせて、それを顕現して生きる事が求められています。
 それが、魂の出産であり、魂の蘇りであり、神の蘇りでもあります。

 神の蘇りとは、「愛と力」の蘇りであり、それを顕現して「神人」のようになった人の姿を、古事記においては「神武天皇」という言葉で象徴しています。

 また、「十」とは、イエス・キリストが架けられた「十字架」とも関係があります。

 内なる「神性」、「愛と力」の蘇りとは、キリスト教的な表現を使えば、自分自身の内なる「キリスト意識」の蘇りという事になります。

 私達一人一人の中に内在する、「内なるキリストが復活する事」を意味します。

 内なる「神性」である「愛と力」の蘇りとは、内なる「キリスト意識」の蘇りであり、神の蘇りを意味します。
 神の蘇りとは、「神の復活」という事でもあります。

 そして、「神の復活」は、「キリストの復活」として、型で出されています。

 伊勢神宮の次の式年遷宮が行われる2033年前後の、西暦2030年代の何れかの時期に、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本において、私達は、「イエス・キリストの復活」を目の当たりにする事になるでしょう。

 「神の復活」の型示しとして出された、「キリストの復活」を目撃する事になるでしょう。

 そして、イエス・キリストとは、二千年前に実在した、ある特定の人物だけを指すのではなく、私達一人一人が、イエス・キリストでもあるという事を、想い出す事になるでしょう。

天照大御神の天岩戸開き=月読命の蘇り=須佐之男命の八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治

 先日、「月読命の蘇り=魂の蘇り=黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)」の中で、月読命(ツキヨミノミコト)の蘇りとは、魂の蘇りであり、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)であり、それは即ち、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の「天岩戸開き」、須佐之男命(スサノオノミコト)の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ事を象徴していると書きました。

 月というのは、太陽の光を受けて輝きますので、月が蘇るとは、太陽が蘇る事を意味します。
 
 月食というものがあります。
 地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月に掛かる事によって、月が欠けて見える現象で、満月の時に起きます。
 太陽の光が遮られる事によって、月も光を失います。

 皆既月食の時には、月は一旦完全に光を失いますが、太陽の光が蘇るにつれて、月も光を取り戻し、輝きを取り戻します。

 皆既月食は、「月読命の蘇り=魂の蘇り=黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)」の型示しとなっています。

 夜空に輝く満月は、完成された御魂、魂の出産、魂の蘇り、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)を象徴しています。

 月は、太陽の光を受けて輝きますので、月が蘇るとは、太陽が蘇る事を意味し、それは即ち、月読命の蘇りであり、天照大御神の「天岩戸開き」と同じ事を象徴しています。

 自分の中にある本当の光、内なる神性が蘇り、自分自身の本当の輝きが蘇る事を意味しています。

 それは即ち、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ事でもあります。
 八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)に象徴されているのは、自らの中に潜む否定的想念であり、自己否定などの否定的想念、神である自己を否定する否定的想念が、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)という表現を使って象徴されています。

 須佐之男命が、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時、尾から出て来たのが、三種の神器の一つである、「草薙の剣(クサナギノツルギ)」です。

 剣とは自らの中から出て来るものであり、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)に象徴されている、自らの中に潜む否定的想念を退治した時に現れて来た「草薙の剣(クサナギノツルギ)」とは、神の証であり、瑞(ミズノ)御魂の事でもあります。

 「草薙の剣(クサナギノツルギ)」は、須佐之男命から天照大御神に献上された、と古事記に書かれている事には、とても深い意味が込められていると思います。

 自らの乱暴狼藉により、姉・天照大御神が天岩戸に隠れてしまい、世界が光を失って闇に包まれてしまった責任を取らされて、高天原から追放されてしまった須佐之男命ですが、最後には、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)に象徴されている、自らの中に潜む否定的想念を退治して、自らの本当の輝きを取り戻し、神の証である「草薙の剣(クサナギノツルギ)」を、高天原の天照大御神に献上しました。

 そして、須佐之男命は、晴れて目出度く、櫛稲田姫(クシイナダヒメ)と「正式な結婚」をして、出雲に居を構える事になりました。

 須佐之男命の娘・須世理毘売(スセリヒメ)と結婚されたのが、出雲大社の御祭神である大国主(オオクニヌシ)大神です。

 出雲大社は、伊勢神宮と並んで、日本を代表する神社であり、表の神界の裏の働きになります。
 そして、表の神界の表の働きが、伊勢神宮になります。

 表の神界の表の働きである伊勢神宮と、表の神界の裏の働きである出雲大社、我が国・日本を代表する神社である伊勢神宮と出雲大社には、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)が深く関わっています。

 伊邪那岐命が黄泉国(ヨミノクニ)から黄泉帰り(蘇り)、禊払いの後に生まれたのが、三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)です。

 黄泉(ヨミ)とは、黄色い泉と書きます。
 黄色い泉とは、小便の事であり、言わば、肥溜めのような醜いものの象徴です。
 黄泉国が象徴しているのは、自らの心の中にある闇の世界、言わば、肥溜めのような世界を象徴しています。

 伊邪那岐命は、自らの心の中にある闇の世界、言わば、肥溜めのような世界である黄泉国から黄泉帰り(蘇り)、禊払いの後に、三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)を生んだのです。

 古事記の中で、伊邪那岐命の「黄泉国からの黄泉帰り(蘇り)」として象徴的に書かれているのは、魂の蘇りという事であり、それは即ち、天照大御神の「天岩戸開き」の事であり、月読命の蘇りという事であり、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」の事でもあります。

 古事記の中でよく知られている、伊邪那岐命も、天照大御神も、須佐之男命も、一度は自らの本当の光を失った後、再び自分自身の本当の光を取り戻し、蘇り、さらに光り輝くという仕組みになっています。

 そして、月読命の蘇りは、古事記の中では隠されていますが、天照大御神と月読命の働きを統合した須佐之男命の蘇りの中で、月読命も蘇る事になります。

月読命の蘇り=魂の蘇り=黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)

 先日のブログ、「伊邪那岐命の三貴子(天照大御神、月読命、須佐之男命)」の中で、伊邪那岐命(イサナギノミコト)の三貴子(三貴神)について書きました。

その中で、天照大御神(アマテラスオオミカミ)は「天岩戸開き」、須佐之男命(スサノオノミコト)は「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」の話などで、古事記の中で大活躍をされてよく知られていますが、月読命(ツキヨミノミコト)だけは、古事記の中で、その後ほとんど登場しないと書きました。

 伊邪那岐命の左目から生まれたのが天照大御神であり、右目から生まれたのが月読命であり、鼻から生まれたのが須佐之男命です。

 左目から生まれた天照大御神と、右目から生まれた月読命は対の関係であり、二つで一つです。
 一日に昼と夜があるように、太陽が治める昼と、月が治める夜があるように、光と闇があるように、天照大御神と月読命は対の関係であり、二つで一つなのです。

 そして、天照大御神と月読命の働きを統合した働きが須佐之男命です。
 須佐之男命が、陰陽併せ持つ、二元性を統合した中心の働きである事は、伊邪那岐命の鼻から生まれたという表現で、型として示されています。
 顔の中心にあるのが、鼻になります。
 顔の中心にある鼻から生まれたという表現で、須佐之男命が中心の働きである事が、古事記には記されています。

 そして、天照大御神と月読命の働きを統合した、中心の働きをする時の正式な御神名は、古事記に書かれているとおり、建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)となります。
 またの名を、カムスサナルノオオカミとも言います。

 伊邪那岐命の禊払いの後に生まれた三貴子の中で、月読命だけはその後ほとんど登場しなくなりますが、天照大御神と月読命の働きを統合した須佐之男命の蘇りの中で、蘇る事になります。

 月読命の蘇りとは、魂の蘇りという事であり、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)という事でもあります。

 私達の魂は、「月」に例えられます。
 満月とは、完成された御魂、魂の出産、魂の蘇りという事を象徴しています。

 月読命の蘇りとは、魂の出産という事であり、魂の蘇りを象徴しています。
 そして、それは即ち、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)という事でもあります。

 月読命(ツキヨミノミコト)の「ヨミ」とは、魂の蘇り(ヨミガエリ)の「ヨミ」でもあり、黄泉国(ヨミノクニ)の「ヨミ」をも表しています。

 月読命の蘇りとは、魂の蘇りという事であり、それは即ち、黄泉国(ヨミノクニ)からの黄泉帰り(よみがえり)をも表しています。
 古事記の中で、伊邪那岐命が「黄泉国(ヨミノクニ)」から蘇り(黄泉帰り=よみがえり)、禊払いの後、三貴子を生んだという話の中に表されています。

 古事記には、歴史書としての一面だけではなく、人が神として出産するまでの内的なプロセスが象徴的に書かれています。
 古事記には、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産する、即ち、魂の蘇りという事が主要なテーマとして隠されています。

 神武天皇誕生までの神代の話は、人が神として出産する、魂の出産、魂の蘇りという同じテーマが、様々な登場人物や場面設定を使って、象徴的に描かれています。

 例えば、伊邪那岐命の「黄泉国(ヨミノクニ)からの蘇り(黄泉帰り)」、天照大御神の「天岩戸開き」、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」、大国主誕生、日子穂穂手見命(ヒコホホデミノミコト=山幸彦)の「竜宮城からの帰還」、神武天皇誕生などは、登場人物と場面設定は違いますが、魂の蘇りという同じ事が表されています。

 夜空に輝く満月は、完成された御魂、魂の出産、魂の蘇り、「黄泉国(ヨミノクニ)からの蘇り(黄泉帰り)」を象徴しています。

 それは即ち、月読命の蘇りという事であり、月読命の蘇りとは、天照大御神の「天岩戸開き」、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ事を象徴しています。

「目暗(めくら)信心」(盲信する事)の戒め

今、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する時を迎えています。
意識が飛躍的に進化し、本当の意味で、精神的に自立した生き方をする時を迎えていますので、「目暗(めくら)信心」(盲信する事)に陥らないように注意する必要があります。

様々な予言・神示・チャネリング情報は元より、教祖・聖者・先生・霊能者と呼ばれるような人達が言う事も、100%盲目的に信じるのではなく、きちんと自分自身で判断していく必要があります。

自分の外からの何らかの情報を盲目的に信じるというのは、決して、本来あるべき望ましい姿ではありません。
自分の外からの情報を盲目的に信じなくても、自分自身の中には、全ての答えがちゃんとあるのです。

自分自身の事を100%本当に知り尽くしているのは、本源の我、真我である、我が魂ですので、自分自身の事に関しては、誰か他の人に聞いてみたところで、本当は意味が無いとも言えます。
聖者・教祖・先生・霊能者と呼ばれるような人達が、自分自身よりも、自分の事を、本当に分かる訳ではありません。

自分自身の事を、完全に知っている人間は、自分自身のみです。
ただ、肉体の自我意識(表面意識)では、よく分からないだけなのです。
意識のより深い部分にある魂のレベルにおいては、自分自身の事を、100%知り尽くしているのです。

魂の記憶を蘇らせる事が出来れば、自分自身がどうすれば良いかは、本当の自分自身が答えをくれます。

ですから、自分がどうすれば良いかの答えを求めて、自分以外の誰か霊能者や教祖・先生と呼ばれる人達に依存し、それらの人達の言う事を盲信している限りは、精神的に自立した生き方をしているとは言えません。
他の人からのアドバイスは参考程度にとどめ、決して盲信しないようにする必要があります。

同様に、様々な教えや、予言・神示・チャネリング情報なども、いいとこ取りの感覚で参考程度にとどめ、決して「目暗(めくら)信心」(盲信する事)に陥らないように注意する必要があります。

一つの例として、精神世界やスピリチュアル系と呼ばれる人達の間で、割と人気が高い、「〇〇神示」という神示があります。

この「〇〇神示」というものが、新しい地球へと導くバイブルか何かのように、100%盲信して、「目暗信心」に陥っている人達を良く見受けます。
「〇〇神示」には、確かに良い事も書かれているかとも思いますが、だからと言って、一字一句まで100%盲信するようなものでは、決してありません。

分かりやすい例として、「〇〇神示」の中には、「半霊半物質の肉体とならねばならん」という表現や、「原爆や水爆もビクともしない肉体となれる」というような表現が出て来ます。
半霊半物質という表現は、抽象的な表現なので、具体的に何を言っているのかはよく分からないと思いますが、「原爆や水爆もビクともしない肉体となれる」という表現は、具体的なので、誰でも、言葉の意味自体は理解出来ると思います。

私達人間の肉体というものは、生物としての制約を受けていますので、決して、無限の可能性がある訳ではありません。

製鉄所の中の、鉄が溶けている1000℃以上の窯の中に飛び込めば、どんな人間であっても、即死する筈です。
1000℃どころか、100℃に沸騰したお湯が煮えたぎっている中に全身浸かっただけでも、全身大やけどで、そのうち死んでしまう筈です。
ましてや、もし仮に、原爆や水爆の直撃を受けたら、どんな人間であっても、ひとたまりもない筈です。

私達人間の肉体というものは、原爆や水爆にもビクともしないようには、創られていないのです。
それなのに、ミタマ磨きが進めば、その人間の肉体は、原爆や水爆にもビクともしなくなるなどと、本気で考えている人達がいます。

広島と長崎に投下された原爆は、まだ初期段階の核兵器でしたが、それでも、大勢の人々の尊い命を奪い、計り知れない程の後遺症を残しました。
現代の最新の核兵器は、広島や長崎に投下されたものとは比較にならない程の破壊力を持っています。

もし仮に、原爆や水爆が使われた場合、自分がミタマ磨きが出来てさえいれば、原爆や水爆もビクともしない肉体になれるなどという事を、本気で考えているのでしょうか。
どんな人間であっても、例えどんなに霊性を高めたとしても、原爆や水爆の直撃を受ければ、ひとたまりもなく肉体は滅びるのです。

「目暗信心」に陥ると、そんな簡単な事すら分からなくなってしまいます。

「原爆や水爆もビクともしない肉体になれる」などという事が書かれている時点で、「〇〇神示」は、一字一句、100%盲信すべきものではないのです。
自分でもよく分からない概念に囚われて、自分を見失っているだけなのです。
ミタマ磨きが進めば、人間は、「原爆も水爆もビクともしない肉体になれる」のかどうかなど、心静かに考えてみれば、自ずと分かる事なのです。

私達人間一人一人の意識を奥深くまで遡れば、最終的には、大宇宙の根本主体である大宇宙意識まで辿り着きます。
ですから、私達人間一人一人は、意識の一番深い部分においては、大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。

ですから、敢えて、外的な知り方で、外から情報を得ようとしなくても、自分自身の中には、全ての答えがあるのです。
外からの情報を100%盲信する必要はありません。

様々な教えや予言・神示・チャネリング情報、あるいは、聖者・教祖・先生・霊能者と呼ばれる人達の言葉を、100%盲信するという事は、決して、本来あるべき望ましい姿ではなく、厳に戒めるべき事なのです。

「目暗信心」に陥っている人達の中には、丁度1週間後に迫った、マヤ暦の最後の日である、2012年12月21〜22日頃を境にして、私達人類が、5次元にアセンション(次元上昇)するなどという事を、本気で考えている人達も多く見受けられます。

「マヤ暦の最後の日(2012年12月21〜22日頃)について」というタイトルでブログに書いたとおり、マヤ暦の最後の日には、ある意味があるので、人類にとってのある一つの到達点を意味するものではあるのですが、決して、精神世界やスピリチュアル系の世界で言われているような、その日に人類が5次元にアセンション(次元上昇)するというような、ふわふわとした、地に足が着かないような現象は起きません。
もちろん、私達人類が滅亡する訳でもありません。

「アセンション(次元上昇)という概念について一言」というタイトルで書いたとおり、アセンション(次元上昇)などという、自分でもよく分からなければ、本当のところは、誰もよく分からない概念に陶酔して、自分を見失っているだけなのです。
アセンションという言葉が、現実から目をそらさせる為の、ある種のマインドコントロールに使われている事も知らずに、アセンションというマーケットのお客さんになってしまって、現実が見えなくなっているだけの事なのです。

今私達人類が置かれている状況を見れば、あと1週間で、私達人類が5次元にアセンション(次元上昇)などする筈がない事くらいは、分かる筈なのです。

物質文明の次に来る、地球の新たな精神文明、花咲く都・黄金文明は、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本から花開きます。
早ければ、西暦2030年頃、遅くとも2040年までの間の、2030年代の何れかの時期に、私達人類の黄金時代が、日本から花開く時を迎えます。
これからの十数年間が、神国・日本の蘇りの時であり、新しい地球へと生まれ変わる為の正念場なのです。

多くの日本人の人々が、何かの「目暗信心」に陥っている内は、新しい世界が創造される事はありません。
「目暗信心」をやめて、本当の意味で、精神的に自立した人々が、ある一定数、日本人の中に出来たところから、新しい世界は創造されていくのです。


祓戸大神(瀬織津比売、速開都比売、気吹戸主、速佐須良比売)

神道の最高祝詞とされる「大祓詞」の中に、祓戸大神の御神名が書かれています。

祓戸大神とは、四柱の神々を表します。

   瀬織津比売 (せおりつひめ)

   速開都比売 (はやあきつひめ)

   気吹戸主  (いぶきどぬし)

   速佐須良比売(はやさすらひめ)

神道は、「祓いに始まり、祓いに終わる」と言われていますが、「祓いと禊(みそぎ)」を司る大神である祓戸大神が、何故か、あまり神社では祀られていないような印象を受けます。

境内摂社として祀られている神社は一部にありますが、祓戸大神を本格的に祀ってある神社は、私が知る限りでは、あまりない感じがします。

祓戸大神の総本宮とされる佐久奈度神社も、あまり一般的には知られていない感じで、私も一度参拝に行った事がありますが、交通が不便という事もあるのか、あまり訪れる人も多くない感じでした。

これから、日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本が蘇り、その本当の姿を発揮する過程においては、祓戸大神の働きがとても大切になり、祓戸大神の蘇りが必要なのかも知れません。


神の想いは、人を神ならせる事ー現象の基にある、神の優しさ

神の想いはただ一つ、人を神ならせる事だと言えるかも知れません。

神は、あらゆる現象を使って、人を神ならせるよう導いており、自分自身の周りにある現象は全て、自分自身を神ならせる為にあると言えます。

現象がつらく苦しく感じられるのは、それが、御魂の成長にとって欠かせないからです。

例え現象が、つらく苦しく感じられたとしても、現象の基になっているのは、神の優しさであり、全ては、優しさの元である神意が現象として起こしているに過ぎません。

そして、優しいというのと、甘いというのは、訳が違うので、優しさの中にも厳しさがあり、厳しさの中にも優しさがあり、この相反する中に、本当の神意があると言えるかも知れません。

神の優しさには、計り知れない程の深さがあるので、現象にばかり囚われていると、神の神意は、なかなか見えて来ないかも知れません。

御魂が成長するに従い、神の神意というものが、次第に汲み取れるようになってくると思います。
御魂というのは、神の分霊(わけみたま)なので、神の想いと、自分の御魂の想いは、本当は同じものであり、自分の周りの現象は全て、自分自身を神ならせる為に、御魂が望んでいたのだという事が、次第に実感されてくると思います。

山幸彦こと彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)は恵比寿様

天橋立の近くに、元伊勢・籠神社があります。
籠神社では、境内摂社の蛭子(えびす)神社において、山幸彦である、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)を恵比寿様として祀っています。
籠神社では、元々の主祭神は彦火火出見命であり、後に、彦火明命(ヒコホアカリノミコト)が主祭神として祀られるようになったようです。

実は、山幸彦である、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)は、恵比寿様でもあります。

一般的に、恵比寿様として祀られているのは、八重事代主ですが、彦火火出見命も、恵比寿様でもあります。

以前、「神々の名前(御神名)について」というタイトルで書きましたが、御神名の最も本質的な捉え方は、神界の働きについて付けられている名前なので、別々の御神名であっても、同じ働きであり、実は同一神という場合もあります。

「恵比寿の働きについて」というタイトルで書きましたが、恵比寿の働きとは、御魂を釣り上げる事であり、恵比寿様が釣竿を片手にして赤い鯛を抱えているのは、大漁漁業の神様という二義的な意味よりも、赤い鯛に象徴されている、御魂を釣り上げるという、恵比寿の本質的な働きを表しているからなのです。

「古事記」の中で、山幸彦は、失くした釣針を探しに、海神(ワダツミノカミ)の宮である、竜宮城の中へ行き、海神(ワダツミノカミ)の娘である豊玉毘売(トヨタマヒメ)と三年の歳月を過ごします。

三年の歳月が経った時、失くした釣針は、赤い鯛の喉(ノド)に引っ掛かっていた事が分かり、失くした釣針を手に入れて、山幸彦は竜宮城から帰って来ます。
竜宮城から帰る時、山幸彦は、「塩満珠(しおみつたま)・塩干珠(しおひるたま)」を、海神から贈られます。

失くした釣針に象徴されているのは、魂が一番引っ掛かるもの、魂の一番奥深くにあるもの、魂のクセのようなものの事であり、赤い鯛とは、もちろん、御魂の事です。

そして、海原とは、心を表し、心の奥深くにある神界(=深海)の事も表していますので、山幸彦は、自分の魂の一番奥深くにあるものを探し求めて、心の奥深くへ、竜宮城である神界(=深海)の奥深くへと入って行き、三年の歳月を経て、ついに、自分の魂の一番奥深くにあるものを、見付ける事ができたのです。

失くした釣針(自分の魂の一番奥深くにあるもの)を見付けた時、海原を治める海神から贈られた「塩満珠(しおみつたま)・塩干珠(しおひるたま)」とは、海原である心を治め、静める事の出来る力のようなものを象徴しています。

確か、鹿児島神宮には、「塩満珠・塩干珠」が神宝として非公開で保存されていると記憶しており、一つの型として、「塩満珠・塩干珠」が何処かの神社に保存されていても不思議ではないのですが、あくまでも、「古事記」の中で象徴しているものは、形ではない、もっと本質的なものです。

「塩満珠・塩干珠」ばかりでなく、「赤い鯛」、「釣針」、「海原」、「竜宮城」などの言葉も、一つの象徴として描かれているので、形あるものとして捉えようとすると、一番本質的な意味が捉えられなくなってしまいます。

竜宮城へ行ってから三年の歳月を経て、失くした釣針を見つけ、「塩満珠・塩干珠」を受け取ったと書かれているのも、心を治め、静められるような力を得る為には、心の奥深くに入れるようになってからでも、少なくとも三年位の歳月は掛かるという事を表しています。

「古事記」の中でも、最も美しい物語の一つである、山幸彦こと彦火火出見命が、失くした釣針を探し求めて、竜宮城の中へと入って行き、赤い鯛の喉(ノド)に引っ掛かっていた釣針を見つけて、「塩満珠・塩干珠」を手に入れて竜宮城から戻って来るストーリーには、御魂を釣上げるという、恵比寿の働きが、とても見事に表現されていると思います。

山幸彦こと彦火火出見命は、恵比寿様でもあります。


内なる神真釣り(祀り)がまず先ー外の神真釣り(祀り)は型示し

内なる神真釣り(祀り)がまず先に大切な事であり、外の神真釣り(祀り)は型示しなので、後からになります。

まず、自分自身の中にある、内なる神性、内在神を、自分の心の中で、真釣る(祀る)事が大切であり、そちらが先になります。
そして、外の神真釣り(祀り)は、その後になります。

自分自身の中にある、内なる神性、内在神を、尊び、拝むという事をしないでいて、外にある、神棚などの形だけを拝んでいても、何にもなりません。
神とは、私達人間一人一人の中に内在しているのであり、神棚などの形式や箱物の中に存在しているわけではないからです。

自分自身の中にある、内なる神性、内在神を真釣る(祀る)事こそが大切であり、内なる神真釣り(祀り)には、何も形式は必要ありません。

そして、内なる神真釣り(祀り)さえきちんと出来ていれば、外の神真釣り(祀り)は型示しなので、祀っても良し、祀らなくても良し、という事であり、形式には、あまり囚われなくても良いかと思います。

神の道に奇跡なしーあるのはただ普通の道のみ

多くの人達は、奇跡のような、特殊な事を好み、奇跡を求める傾向があります。
そして、神の道においても、奇跡のような、特殊な事を求め、それが神の道だと勘違いしている人達も多く見受けられます。

しかし、奇跡を信じ、奇跡を求めるのは、邪道だと言えるかも知れません。
邪の道は、特殊な事を好み、奇跡を求めますが、神の道とは、決して、特殊なものではありません。

神の道に奇跡はありません。
あるのはただ、普通の道だけです。
普通の道を、ただ淡々と歩くのが、神の道だと言えるかも知れません。

しかし、そこまで来るのは、並大抵の事ではないかも知れません。
何故なら、人間は、特殊な事を望むからです。
そして、特殊な事を望むのは、自分が特別な人間でありたいという思いが、心の何処かにあるからなのかも知れません。

神の目から見れば、特別なものなど何も無いのであり、徒に特殊な事を求めようとせず、普通の道を、ただ淡々と歩んで行くのが、神の道だと言えるかも知れません。

「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると、「かみ(神)」になる

神社に行きますと、御神体として、鏡が祀られていますが、私は、日本の神社に御神体として鏡が祀られている事に、とても奥深いものを感じます。

「かがみ」から、中心にある「が」という字を取ると、「かみ」になります。
「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると、「かみ(神)」になります。

既に何度も書いているとおり、自分が見ている現実世界とは、自分の意識を、空間というスクリーンに投影した、自分の内面の世界を見ているのであり、言わば、インナーワールドです。
自分の心の中の心象風景を映し出して見ているに過ぎないので、自分が見ている現実世界とは、自分の心を映し出す「鏡(かがみ)」の世界であるとも言えます。

自分の肉体の場合もそうなのですが、自分の顔や姿・形を知る為には、「鏡」が必要になります。
映し出す「鏡」がないと、自分がどんな顔や姿・形をしているのかが分かりません。

それと同じように、自分の意識というものも、それを映し出す「鏡」がないと、自分の意識がどんな状態なのかが、分からないのです。
意識というものは、それを映し出す「鏡」が必要であり、それが、現実世界と呼ばれるものなのです。

自分が見ている現実世界とは、本源の我であり、真我であり、神の分霊(わけみたま)である、我が魂が創造したものなので、それを映し出して見ているに過ぎないのです。

真我である我が魂が「想像=創造」した「鏡」の世界が自分の現実世界なので、本当は、望んだとおりに映し出されている完璧な世界なのですが、自分の現実世界が、イヤだ、面白くない、苦しい、こんな筈はない、おかしい、在り得ない、などと感じるのは、全て、「我」があるからなのです。

自分が見ている現実世界が、イヤだ、苦しい、面白くない、自分はついていない、などと思うのは、全て、肉体の自我意識によるものです。
肉体の自我意識の関心事と、真我である魂の関心事は違うので、そこにどうしても、ギャップ(差)が生じてしまいます。
差(ギャップ)を取る事が、「悟り=差取り」という事でもあります。

魂の関心事というのは、「魂の進化」という事であり、光輝く魂になる事だけが魂の関心事なので、自分が最も進化・成長出来るような現実を創造します。
自分が見ている現実世界とは、神の分霊(わけみたま)である我が魂が、魂を進化させる為に100%望んだ事なのです。

自分の肉体の自我意識の「我」を外して、その事を、受け入れ、認めていく事が、心の成長であり、意識の福化と呼べるものなのです。
「魂の記憶を蘇らせる」事が出来るようになってくると、自分の現実は全て、真我である我が魂が創造したのだという事を、受け入れ、認める事が次第に出来るようになってきます。

神の分霊(わけみたま)である我が魂が「想像=創造」した、現実世界という「かがみ(鏡)」の世界から、自分の肉体の自我意識という「が(我)」を外すと、「かみ(神)」としての、本当の自分自身、本源の我の姿が見えてきます。

神社で鏡を御神体として祀る神道と言い、世界に類を見ない独特の言語である日本語と言い、私達日本人は、とても奥深い国に生かされているのだと感じます。


 

四月三日、四三(よみ)帰り=黄泉(よみ)帰り=蘇り

本日は、四月三日(日)です。旧暦では、三月一日にあたります。
四月三日とは、「よみがえり」というものの、一つの型示しの日であるとも言えます。
「四三(よみ)返り」=「黄泉(よみ)帰り」=「蘇り」=「よみがえり」という事になります。

この現象界、現実世界を三次元とすると、三次元の全ては、元々、まず四次元で作られたものであり、四(次元)で作られたものが、三(次元)に変わっているという事になります。
四次元で作られしものが明らかになる事が「よみ(四三)返り」という事でもあります。

そして、三次元の現実世界の元になるものを、四次元において作ったのは誰かというと、他ならぬ自分自身であり、神の分霊(わけみたま)であり、本源の我である、我が魂だという事になります。
自分の現実は全て、真我である自分自身が創造したのだという事を想い出す事が、「神の蘇り」であり、「魂の蘇り」という事になります。

「神の蘇り」、「魂の蘇り」、というのは、実は、古事記に隠されたメインテーマであり、古事記には、表向きの歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産するまでの、内的なプロセスが、様々な場面設定を使って描かれています。

伊邪那岐命の「黄泉国からの黄泉(よみ)帰り」、あるいは、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」、天照大神の「天岩戸開き」、大国主誕生、神武誕生、日子穂穂手見命(山幸彦)の「竜宮城からの帰還」など、様々な場面設定を使って、「神の蘇り」、「魂の蘇り」というものを、描いています。
場面設定と登場人物は違いますが、人が神として出産するまでの内的なプロセスを、様々な形で教えてくれています。

「蘇り」とは、「黄泉(よみ)帰り」であり、「四三(よみ)帰り」であり、それは即ち、「神の蘇り」、「魂の蘇り」という事になります。


本日四月三日は、聖徳太子が、「十七条憲法」を制定された日だという事なので、別の機会に、この事についても書いてみたいと思います。

神を知りたければ己の内を見る事ー自分の中にある神性、内在神

私達人類は、数千年もの長い間、自分の外に神を見るという、宗教という松葉杖を必要としてきました。
しかし、自分の外に神を見ようとしても、神を知る事は出来ません。

神を知りたければ己の内を見る事であり、それが本当の神です。
私達人間一人一人に内在する神性、内在神を見る事です。
神道的に言えば神性ですが、仏教的に言えば仏性であり、キリスト教的に言えば、キリスト意識という事になるかも知れません。

神は外にあるのではなく、内にあるのであり、この事が分からない内は、いつまで経っても神というものは分からないと思います。
自分自身の一番身近な所、己の一等近い所に神は隠してあるのであり、この事が分からない内は、明き盲(あきめくら)だと言えるかも知れません。

そして、自分の内にある神を見つけ出す為には、何か特別な事が必要な訳ではありません。
今、自分の目の前にある現実というものを、ただひたすら生きるという事が大切であり、その中に鍵が隠されています。

現象が全てであり、現象の中にしか、答えはありません。
現象で真仮名産(まかなう)事が大切であり、現象の中でしか、真仮名井(まかない)は出来ないと言えます。
自分の周りにある現象を否定する事なく全て受け入れ、自分の目の前にある現実というものを、きちんと体験して味わえるまで成長出来た時、自分が体験した全ての現実は、自分の内なる神が創造した、大いなる図りであった事を想い出す事になります。

自分自身の中にある神が、自分の全ての現実を創造した事を想い出し、実感出来るようになります。
神を知りたければ己の内を見る事であり、自分の中にこそ神はあるという事を想い出す事が大切になります。

産土力(うぶすなりき)ー苦を喜びに変える力

全ては体験する為の道具なので、喜びは喜びとして味わい、苦しみは苦しみとして味わう事が大切だと言えるかも知れません。

苦を排除しようとする力が苦を呼び込む事になります。
苦とは、喜びに転換する為の道具であり、苦を喜びに変える力、苦を楽に変える力が、産土力(うぶすなりき)という事になります。

本来、苦は無いものであり、全ては、神産みの喜びを体験する為の道具なのですが、出産には陣痛(神通)が伴いますので、陣痛(神通)を恐がっていては、神産みの喜びを体験する事は出来ないという事になります。

神産みの喜びを体験する為には、肚(はら)を九九(くく)る事が大切であり、肚(はら)の九九理(くくり)とは、「最後の一厘」に至る、白山菊理媛(はくさんくくりひめ)の働きでもあります。


神は一番下から出て来るー最も落とした所ほど、最も貴い

今、私達日本人は、人となりを完成させて、新たな誕生を迎える時期に来ています。
神道的な表現を使えば、人が神として出産する、という言い方が出来るかも知れません。
私達人間一人一人の中にある、神の本質である神性、愛(女性原理)と力(男性原理)を想い出し、蘇らせて、一人一人が神性を顕現して生きる時代を迎えようとしています。

そして、自分自身の中に眠る神、神性というものは、実は、一番下から出て来ます。
自分自身を最も落とした所、一番下から、自分の本当の光、神が出て来るという事なのです。
そういう意味においては、最も自分を落とした所ほど、最も貴いとも言えます。

どういう事かと言いますと、仕組みとして、私達は、この世に生を受けた時、自分の本当の光というものを、一旦忘れて、生まれて来ます。
そして、肉体を持った自分が、自分の全てだと思い込んでしまいます。
そして、様々な生存競争などに揉まれながら、悩み苦しんで生きていく中で、自分自身というものが、とても小さな存在のように感じてしまいます。

ついつい、自分を、小さな存在、駄目な存在とみなしてしまうのですが、実は、小さな存在にしか見えない自分の姿の向こうから、自分自身の本当の光、神性が出て来ます。

自分が駄目で小さな存在に思えるのは、本当に駄目で小さな存在だからではなく、一旦自分自身の本当の光を忘れ、再びその光を想い出し蘇らせようという、本源の我、真我とも言える我が魂の大いなる計画が、記憶として蘇る事により初めて、自分自身の本当の光、魂の輝きというものを想い出す事が出来ます。

自分が駄目で小さな存在にしか思えないのは、一旦自らの本当の光を忘れて小さな存在のようになってから、様々な体験を重ねる中で、自らの本当の光・輝きを少しずつ想い出し蘇らせようという、我が魂の大いなる計画によるものなのです。

自分自身を最も落としたところ、自分が一番悩み苦しんでいるところの向こうに、自分自身の本当の光・神性を想い出し、蘇らせるというのは、気の遠くなるような、内的なプロセスだと思いますが、そこを通らない事には、自分自身の内なる神、神性は出て来ないと思います。

自分自身の内なる神、神性は、一番下から出て来るのであり、そういう意味においては、最も落とした所ほど、実は、最も貴いのだと言えるかも知れません。

神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ

私が好きな箱根神社に行くと、「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ」という、『御成敗式目』の中の言葉が掲げられています。
『御成敗式目』というのは、鎌倉幕府の基本法典であり、『貞永式目』とも呼ばれています。

箱根神社のホームページには、その言葉の意味が、以下のように説明されています。

いかなる神も人間の崇敬をうけてこそ、その御威光を輝かすのであり、御神意を高めるのは人の敬の力である。
その人が人としての運、人としての生命を与えられるのは、神の徳によってであるという意味です。
神道の立場で神と人との密接な関係が的確に述べられている言葉です。

神社という神聖な場所も、本来は、神に感謝を奉げ、神を崇敬する場所であって、自分個人の願い事をする空間ではないのかも知れません。
神に対して、何でもかんでも自分の願い事ばかりするというのは、あたかも、神というものが、自分の願い事を何でも聞き入れてくれる小間使いのような存在であるかのように、神というものを、とても小さな存在にしてしまう事なのかも知れません。

日本人も、そろそろ、御利益信仰から卒業する時が来ているのかも知れません。
今、生命を与えられて生かされている事に対して素直に感謝するとともに、神というものを、謙虚に崇敬していく時なのかも知れません。
そして、自分の願い事ばかりを神におねだりするのではなく、逆に、神あるいは天に対して自分に何が出来るのかを考えて、自分に出来る最大限の貢献を天に奉げるという意識を持って、日本人一人一人が生きていく時を迎えているのかも知れません。

神(カミ)とは火水(カミ)ー「火の働き」と「水の働き」

昨日の箱根に続いて、本日は、反対側の河口湖の方から、霊峰富士を仰がせて頂きました。
まず、北口本宮浅間神社に参拝し、その後、河口浅間神社と、その境外摂社である産屋ヶ崎神社、そして、御室浅間神社に参拝しました。

天気は晴れているものの真冬並の寒さの中、北口本宮浅間神社においては、鳥居の一歩中に入ると、もうそこは異次元のような感じで、とても精妙な御神気に満ち満ちており、昨日の箱根で感じたのと同様、既に日本が新たな時代に突入したという感じが、ひしひしと伝わってきました。
何かとても厳粛な雰囲気を感じました。

北口本宮浅間神社を出てから、富士吉田の金鳥居の辺りから富士山を仰ぎ見ると、厳粛かつ美しく輝いている感じでした。
昨日のブログに、「霊峰富士の峻厳なまでの美しさー日本人の目覚めの時」というタイトルで書いたように、本日、河口湖側から仰ぎ見た霊峰富士も、日本が新たな時代に突入した事を象徴しているかのように、美しくもあり、かつ、厳しくもあるような雰囲気で、その雄姿を見せていました。

本日は、思いがけず、富士山が、日本最大の活火山である事を思い出す事になりました。
御殿場から東富士五湖道路を通って、富士吉田に着いた時、ちょうどトイレに行きたくなったので、近くにあった、富士ビジターセンターという観光案内所に入りました。
初めて入ったので、少し館内を歩いてみた時、ちょうど大型スクリーンでは、外国人向けに、英語で、宝永大噴火の様子が、コンピューターによるシュミレーションで説明されていました。

そして、夕方、日帰り入浴の温泉に入ったのが、「富士山溶岩の湯 泉水」という温泉で、ここの浴槽は全て、富士山溶岩プレートを張り詰めて作られていました。

少し前、『富士と鳴門ー「富士の仕組み」と「鳴門の仕組み」』というタイトルのブログを書きました。
その中で、富士と鳴門は二つで一つ、と書きましたが、富士が「火の働き」、鳴門が「水の働き」を象徴しているようです。

以前、「十月十日、神が重なる目出度き日」というタイトルで書きましたが、神(カミ)とは、火水(カミ)でもあり、神の働きとは、「火の働き」と「水の働き」で表される事があります。

私達人間を始め、地上の全ての生命を生かしている神の力は、太陽の力と水の力で象徴される事があります。
太陽と水が無ければ、地上の生命は、全て死滅してしまうのであり、生命にとって最も必要不可欠な力を、「火(=日・太陽)の働き」と「水の働き」で表しており、神(カミ)とは、「火水(カミ)」というように表される事になります。

日本において、「火の働き」を象徴しているのが、日本最大の活火山である霊峰富士であり、「水の働き」を象徴しているのが、日本最大の鳴門海峡であり、富士と鳴門は二つで一つであり、合わせて「火水(カミ)」という事のようです。

神が本格的に動き出す時には、様々な形で、「火の働き」と「水の働き」が現象界に現れるかも知れません。

3月3日、雛祭り、桃の節句(上巳の節句)

本日3月3日は、雛祭りであり、桃の節句(上巳の節句)にあたります。

雛祭りは、左に女・赤玉、右に男・白玉、二つの玉が和合した姿を表しており、和合は家庭円満という事のようです。

雛祭りのヒナとは、少名彦名神(スクナヒコナノカミ)から来ているようです。
少名彦名神を祀る淡島神社は、雛祭りの発祥と関係していると言われています。

男びな・女びなの始まりは、淡島神社の御祭神の少名彦名神と、神功皇后(息長足姫命)の男女一対の御神像であるとされています。
雛祭りの語源は、スクナヒコナ祭りが簡略化されて、ヒナ祭りになったと言われています。
3月3日の雛祭りの日に行われる、「ひな流し」は有名です。
雛祭りの元は、身の穢れを水に流して清める「流し雛」から来ているとも言われています。

身の穢れを祓い清めて禊をするという概念は、私達日本人の心に深く根付いた、とても大切な概念のような感じがします。

熱海梅園「梅まつり」2、菅原道真公と天神様

先週の1月27日に続いて、本日2月1日にも、熱海梅園「梅まつり」に行って来ました。

数日前に湧いてきたメロディーに、歌詞を付けてみたところ、私達人類の未来の子供達に明るい未来が約束されているような、明るく幸福感に満ちた曲になりました。
ちょうど、お昼頃完成したので、昼食を食べてから、小春日和を想わせるような、暖かな日差しに誘われて、また、熱海梅園に行って来ました。

日本海側を中心に、大雪となっている地域が多い中、熱海梅園は、春めいた陽気の中、賑わいを見せていました。

前回は、梅に因んで、『熱海梅園「うめまつり」、梅とは埋めていたものを開く九十(こと)』というタイトルの記事を書きましたが、今回は、梅に因んで、別の事も書いてみたいと思います。

梅という言葉で想い出すのは、菅原道真公の有名な和歌です。
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

菅原道真公は、天神様として祀られるようになりましたが、太宰府天満宮北野天満宮の御神紋は、梅の花です。
道真公生誕の地とも言われ、菅家発祥の地とも言われている、菅原天満宮が、奈良市菅原町にありますが、こちらも梅の花が御神紋となっています。

天神様は、学問の神様とされている事もあり、北野天満宮や太宰府天満宮は、毎日多くの参拝者で賑わいを見せています。
歴代の天皇を始め、歴史上の大人物達の中においても、後世の人々に厚く信仰されるようになったという点においては、道真公は、かなり出色の存在と言えるかも知れません。

実は、菅原道真公は、スサノオ(須佐之男命)の霊統を汲む者と言うか、スサノオの化身のような存在だったようです。

位人臣を極めたとも言える、時の右大臣から、太宰府権師に左遷された道真公ですが、その後、最終的には、天神様として、そして、学問の神様として、後世の人々に、厚く信仰されるようになりました。

スサノオも、イザナギ(伊邪那岐命)が、黄泉の国から蘇り(黄泉帰り)をした後、禊祓えをされて、一番最後に生まれた三貴子の一人であり、元々、とても貴い生まれでありながら、高天原から追放されたりして、自らの本当の光を閉ざした状態でしたが、その後、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、中から出て来た草薙の剣(三種の神器の一つ)をアマテラスオオミカミ(天照大御神)に献上し、晴れて目出度く、クシイナダヒメ(櫛稲田姫命)と正式な結婚をされました。

この時に、スサノオが詠んだ和歌が、我が国最初の和歌と言われています。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

本来の輝きを一度失った後、再び本来の輝きを取り戻すという点において、スサノオと、天神様となった道真公とは、オーバーラップする面があります。

実は、スサノオとは、私達一人一人の事でもあります。
元々、とても貴い存在でありながら、本来の輝きを一旦失って、自らを低き所に落とし込み、その後、自らが持つ本来の価値を再び蘇らせ、輝く、という仕組みになっています。

何度か書いた事がありますが、私達の人生は、魂の進化というプログラム上に存在しています。
そして、魂の蘇り(黄泉帰り)という事がテーマになっていますので、自らの魂が持つ本来の輝きを一旦失って忘れ、それを再び取り戻し、蘇らせ(黄泉帰らせ)、さらに一段と輝きを増す、という仕組みになっています。

前回のブログに書きましたが、梅には、埋めていたものを開く九十(こと)、という意味があり、梅を食べるのは、隠していた神を開く九十(こと)から来ているそうです。
私達一人一人は、本体(御魂)を内面奥深くに埋めて隠し、自らの本当の価値を一旦忘れていますが、それを掘り起こし、蘇らせ、花開かせて、神性を顕現して生きる時代を迎えようとしています。

自らが封印していたものを解くのは、自分自身にしか出来ないので、心の岩戸開きは、一人一人が自らの内面で行う作業になります。
一人一人が心の岩戸を開き、魂の春を迎える時代に入ろうとしています。

熱海梅園「梅まつり」、梅とは埋めていたものを開く九十(こと)

本日、熱海の梅園に行って来ました。
熱海の梅は、日本一早咲きの梅とも言われており、熱海梅園は、関東三大梅林にも数えられています。
ちょうど、「梅まつり」の期間中という事もあり、多くの人達で賑わっていました。
今年の「梅まつり」は、1月8日から、3月6日まで開催されます。

まだ寒さは厳しいものの、日差しは、小春日和を想わせるような、暖かな日が差しており、春の到来を感じさせるような雰囲気の中、様々な梅が花開き、目を楽しませてくれました。

慶事の象徴ともされる「松竹梅」の中に、梅も入っていますが、梅には、埋めていたものを開く九十(こと)、という意味があるようです。
そして、梅を食べるのは、隠してある神を開く九十(こと)から来ているようです。

埋め(梅)ていたものとは、もちろん、自分自身の本体(御魂)の九十(こと)であり、私達人間一人一人に内在する神性の九十(こと)です。
埋め(梅)ていたもの(神)を掘り起こすのが、私達一人一人の仕事になります。

今、私達人類は、長い長い冬眠から目覚めて、魂の春を迎えようとしています。
地球上に生きる全ての人達の中に、神の本質である神性が、内面深く埋め(梅)られています。
一人一人がそれを掘り起こし、花開かせて、神性を顕現して生きる時代を迎えようとしています。

今、母なる星・地球そのものが、新たな誕生を迎えようとしているので、遅かれ早かれ、いずれ全ての人達が、魂の春を迎え、神性を顕現して生きる時代を迎える九十(こと)になります。
まだ一段と寒さは厳しくなるかも知れませんが、夜明け前が一番暗いと言われるとおりであり、春はそんなに遠くにあるわけではありません。
地球の夜明けが、全人類の春が、そう遠くないところに近づいて来ています。

無限の宗教ー絶対の宗教、永遠の宗教

今までの人類は、自分の外に神を見るという、宗教という松葉杖を必要としてきました。
しかし、今後、人類の意識が飛躍的に進化するのに伴い、自分の外にではなく、自分の中に神を見る時代に入っていきます。
神道的に言えば、神性、仏教的に言えば、仏性、キリスト教的に言えば、キリスト意識とでも呼ぶべき、私達人間一人一人の中に内在する、聖なる光を想い出し、蘇らせ、それを顕現していく時代を迎える事になります。

これに伴い、既存の宗教の多くは、その存在意義を失い、次第に消えていく事になるでしょう。
しかし、私達人類の意識がどんなに進化しても、決して無くならない宗教というものがあります。
それは、無限の宗教とでも呼ぶべきものです。

この大宇宙の全てを生かしている根本創造主、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙そのものを、「無限」という言葉で表現することも出来ると思います。
私達人間は、「無限」の一部であり、「無限」によって生かされている存在なので、どんなに私達の意識が進化しても、「無限」への崇敬の念と感謝の念というものは、無くなる事はないからです。

今後、人類の科学が進歩すればする程、この大宇宙は文字どおり「無限」の世界であり、限り無い世界、極まり無い世界である事が、次第に理解出来るようになっていくでしょう。
それとともに、大宇宙の「無限」の属性というものが、私達人間一人一人の中にも宿っている事を理解出来るようにもなっていきます。

大宇宙という「無限」への畏敬と感謝の想い、そして、自分自身の中にもある無限性への想いは、人類がどんなに進化しても、無くなる事はありません。
そして、それを宗教という表現を使うとすれば、それは、無限の宗教という事になります。

無限の宗教、それは、絶対の宗教であり、永遠の宗教です。
将来、全人類が宇宙レベルの意識状態に到達した時、全ての人達が、この無限の宗教を信仰するようになるでしょう。

大宇宙の無限性と、私達人間の中にも無限性が宿るという点については、最近、『最も精密「宇宙の地図」公開』というブログの中で少し触れていますので、ぜひそちらもご参照下さい。

冬至、一陽来復、七福神の到来

本日は、冬至です。
陰の気が極まって陽の気が生ずる時でもあり、一陽来復でもあります。
一陽来復には、難が去って福が来るという意味も含まれており、一陽来復の来復=来福という意味でもあります。

難を去って福をもたらすのは、七福神の働きでもあります。
福の神は、七福神としてやって来ます。
七福神の到来です。
七福神とは、恵比寿、大黒、弁財天、毘沙門天、福禄寿、寿老人、布袋様の事を言います。

一昨日、ブログの中で、「徐福伝説と七福神の宝船」というタイトルで、七福神についても触れていますので、ご覧頂けると幸いです。

まもなくお正月を迎え、全国各地の神社などでは、七福神をあしらった様々な縁起物が目を楽しませてくれます。
私は、日本のお正月が大好きです。
初詣で賑わう神社の中で、七福神をあしらった縁起物などを眺めていると、日本という国に生まれて来たありがたさを、しみじみと感じたりします。

私達日本人の遺伝子の中には、七福神というものに対する、とても深い祈りや願いが入っているような感じがします。
私達日本人にとって、七福神とは、幸福をもたらしてくれる福の神のイメージそのものなのかも知れません。

日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本も、そう遠くない将来、陰極まって陽に転じる時、一陽来復の時を迎える事になります。
その時こそが、七福神の到来の時になります。

CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録曲、「七福神の宝船」は、その事を歌っていますので、ぜひお聴き頂けると幸いです。

皆既月食、月が蘇る型、月読命の蘇り

本日、3年4ヶ月ぶりに、皆既月食が観測されました。
皆既月食とは、満月の時に太陽と地球、そして月が一直線に並ぶと、太陽の光が遮られて満月が赤黒く輝く天体現象の事です。

ほとんどの方が、ニュース等でご存知かと思いますので、一般的な皆既月食の話ではなく、別の角度からの皆既月食の話を書いてみたいと思います。

私達の魂は、月に例えられる事があり、月とは、魂の象徴でもあります。
そして、満月とは、魂が完成した姿を表しており、魂の出産、言わば、人となりが完成して神人となった状態を象徴しています。
月とは真中であり、真中の型示しが月なのです。

かいき(皆既)月食とは月が蘇る型でもあり、かいき(回帰)月食という意味でもあり、隠れていたものが表に表れる型でもあります。
蘇る為には元に返らなければならず、元に返って蘇るのであり、元に返らなければ蘇る事は出来ないという事になります。

魂の蘇り、魂の出産、真中、満月とは、御神名で言うと、月読命(ツクヨミノミコト)の蘇りという九十(こと)になります。

古事記には、神界の仕組みが隠されており、魂が出産して人が神として誕生するまでの内的なプロセスが、色々な場面設定を使って象徴的に描かれています。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)が、黄泉の国から蘇って(黄泉帰って)から、禊祓えをされた後に、次々と神々が生まれ、一番最後に誕生されたのが、三貴子として有名な、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)です。

天照大御神と須佐之男命は、その後の物語の中でも大活躍され、天岩戸開きの場面や、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する場面など、日本人なら誰でも知っている有名な神話の中心的役割を演じられる事になりますが、何故か、月読命だけは、その後の物語には登場しません。

伊邪那岐命の左目から天照大御神が、右目から月読命が誕生したと書かれているとおり、天照大御神と月読命は、一対の関係にあります。
一日に昼と夜があるように、太陽(天照大御神)が治める昼と、月(月読命)が治める夜があるように、光と闇があるように、それらは一対の関係であり、二つで一つ、お互いにとって無くてはならない関係になります。

そして、伊邪那岐命の鼻から誕生したのが、須佐之男命です。
天照大御神と月読命を統合した働きが、須佐之男命であり、須佐之男命が中心の神になります。
須佐之男命が中心の神であるのは、型でも表されています。
鼻とは、顔の中心であり、顔の中心である鼻から誕生したのが須佐之男命であるという表現によって、須佐之男命が中心の神である事を象徴的に言い表しています。
そして、中心の神であるスサノオが、天照大御神と月読命の働きを統合させて、中心の神としての本来の働きをした時、カムスサナルノオオカミとなります。

月は、太陽の光によって輝いています。
本日あった皆既月食とは、満月が地球の影に隠れて太陽の光を遮られてしまう事によって起きた天体現象です。
地球の影に隠れて太陽の光が遮られ、輝きを一旦失った満月は、太陽の光に照らされる事によって、再び輝きを取り戻し、光輝く満月となります。

これと同じように、魂の蘇り、魂の出産、真中、満月、月読命の蘇りとは、天照大御神の天岩戸開きと同じ九十(こと)なのです。
古事記の中で、天照大御神が天岩戸の中にお隠れになった事によって、天も地も暗闇になってしまい、やがて、天照大御神が天岩戸開きによりお姿を現された九十(こと)により、天も地もともに明るくなったと書かれています。

太陽の光に照らされて月も輝くので、天照大御神の天岩戸開きと、月読命の蘇りとは、同じ九十(こと)を表しています。
そして、古事記の中では、別の場面設定を使って、伊邪那岐命の黄泉の国からの蘇り(黄泉帰り)、あるいは、スサノオの八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治のストーリーなどで表しています。

場面設定と登場人物は違いますが、魂の蘇りというテーマを、様々な形で象徴的に言い表しています。
月読命の働きは隠された働きなので、古事記の中には、月読命の蘇りは書かれていませんが、天照大御神と月読命の働きを統合したスサノオの蘇りの中で、月読命も蘇る九十(こと)になります。
月読命(ツクヨミノミコト)のヨミとは、蘇り(黄泉帰り)を表しており、月の蘇り、即ち、魂の蘇りを表している御神名になります。

私達一人一人の中に、内なる神性が内在しており、天照大御神という御神名は、私達の中にある中心の光をも表しています。
私達一人一人は、その内なる中心の光を、心の奥深くにある岩戸の中に閉じ込めてしまいました。
今こそ、心の奥深くにある岩戸の中に閉じ込めてしまった、中心の光である天照大御神を岩戸の外に開放し、本来の輝きを取り戻す時であり、それは即ち、魂の蘇り、魂の出産、真中出し、月読命の蘇り、満月の輝き、という九十(こと)になります。

次回の皆既月食は、来年2011年、平成23年6月16日になります。

日向・太陽の道ーどこまでも行こう

本日は、11月11日です。
1が四つ重なる日であり、気持ちを一新させてくれる日であるとも言えます。

本日の朝、快晴の空の下、太陽は明るく輝き、頂上に薄っすらと雪化粧をした富士山が、美しい雄姿を見せてくれていました。
とても清々しい朝を迎える事が出来、気持ちが一新されたような感じがしました。

九州の宮崎県に、神武東征の地と言われている、日向という場所があります。
この日向という言葉は、単にある特定の場所を表しているだけではなく、もっと内的な、心の位置のようなものを表現した言葉でもあります。

古事記には、歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産するまでの内的なプロセスが表されています。

日向という言葉も、日に向う、太陽に向う、ひたむきな心の位置のようなものを表現しています。
カムヤマトイワレビコが、日向の地から東征をして、大和の国を治め、初代天皇である神武天皇が誕生したと、古事記に書かれています。
神武天皇という言葉も、初代天皇となった、ある特定の人物だけを表す言葉ではなく、私達人間一人一人のことをも表しています。
私達人間一人一人が、自分の中にある、内なる神性(愛と力)を顕現して、神のような人として出産した状態を、神武天皇、神武誕生という言葉で表現しています。

本日、11月11日の朝、明るく輝く太陽の下、薄っすらと雪化粧をして美しく輝く霊峰・富士の雄姿を見た時、新たな気持ちで、太陽に向ってひたむきに生きて行こうと決意を新たにし、CD「富士は晴れたり日本晴れ」収録曲の「どこまでも行こう」を想い出しました。

古来、日本人は、太陽をお天道様と崇めて、日の光に向って懸命に生きて来ました。
植物が、太陽に向ってひたすら伸びて行くように、天の聖なる明るい光に向ってどこまでも進んでゆくひたむきな心の位置を歌った曲です。
ぜひ聴いてみて頂けると幸いです。

あらゆる否定を無くする

私達は、あらゆる否定を無くする事を、天から求められています。
あらゆる否定を無くしていく事が、心の成長であり、魂の進化とも呼べるものなのです。

もし、神という表現を使うなら、この世に存在しているものは全て、神により創造されたものであり、そして、神により生かされています。
ですから、この世に存在している何かを否定したとしたら、それを創造し生命を与えている、神そのものを否定したのと同じ事になります。

また、森羅万象の全ても、神により営まれていますので、一切の出来事には必ず、神の意図・許可が入っています。
こんなことはありえない、あってはならないと、どんなに思えるような出来事であったとしても、神の許し無しには、何事であろうとも、絶対に起こる事は出来ません。
ですから、森羅万象の何かを否定したとしたら、それを営んでいる神そのものを否定したのと同じ事になります。

何故それがこの世に存在し生かされているのか、あるいは、何故そのような出来事が起きるのか、という本当の意味は、万物を創造し生かしている神にしか分からない事であり、私達人間の小さな頭では計り知れない事なので、分からない事は分からない事として認め、否定しない事が大切になります。

この世に存在するもの全てが、神の顕れなので、神の顕れを否定する事は、神そのものを否定する事と同じ事になります。

ある神示の中には、「全てを許せ。神が許しておるのに、そなた達が許せんというのはおかしい。」という、神の御言葉があります。
本当にその通りであり、神が許しているものを、私達が許せないというのは、自らの思い上がり、傲慢というものかも知れません。

そして、あらゆる否定の中でも最大の否定と言えるものが、私達の心の奥深くに眠る、自己否定という大蛇(おろち)です。
神・創造主としての本当の自分を否定し、自分というものを、小さき者・価値の無い者として貶めるという、自己否定というこの大蛇は、仕組みとして、私達一人一人の心の奥深くに仕掛けられています。

心理学的な表現を使えば、私達の潜在意識の中には、自己否定、自己嫌悪、自己懐疑、自己攻撃、自己憐憫、罪悪感、無価値感というような、幻想とも言える概念がたくさん蓄積されています。
私達は皆、多かれ少なかれ、自己否定という中毒にかかっています。

自分の存在そのものを、小さき者、価値の無い者として否定し、神の分霊(わけみたま)である我が魂が創造した自分の現実を、苦しい・いやだと否定して、あたかも自分が人生の被害者であるかのように感じています。

自己の内面を癒し、心の奥深くに閉じ込めた自らの本当の光・輝きを解き放つ事こそが求められており、それは言わば、心の岩戸開きと言ってもいいかも知れません。
自分の中にある心の岩戸を開いて、自分の中にある中心の光・天照大御神を岩戸の外に解き放つということです。

心の岩戸開きは、言わば、魂の出産とでも呼べるものなので、長い年月と、大変な陣痛(神通)を伴います。
一朝一夕に出来る事ではなく、苦労に苦労を重ねた末にようやく辿り着けるものなので、あらゆる否定を無くする、という事を常に心がけて、産道を歩んで行く事が大切になります。

正式な結婚=結魂

出雲の八重垣神社の由緒書に、「正式な結婚」という言葉が書いてあります。
正式な結婚とは、八重垣神社の御祭神である、須佐ノ男命(スサノオノミコト)と櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)の結婚のことを表しています。

正式な結婚とは、魂の結び、すなわち「結魂」を意味しています。
正式な結婚により、魂の永遠の結びつきが約束されます。
結婚の成就とは、魂の結びつきを表しています。

動物の結婚とは訳が違う、正式な結婚であり、誰もがこの結魂、すなわち、魂の永遠の結びつきを望むのですが、現実にそれを得ている人は少ないようです。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉(よみ)の国から黄泉帰って(蘇って)から、筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)にて禊祓えをされた時、次々に神様がお生まれになり、一番最後にお生まれになったのが、三貴子と言われる、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐ノ男命(スサノオノミコト)です。

須佐ノ男命は、元々ものすごく高貴な生まれでありながら、母が恋しいと泣き叫んでばかりいて、父・伊邪那岐命に追放されたり、乱暴狼藉を働き、姉・天照大御神の岩戸閉めの責任を取らされて高天原から追放されたりと、自らの本当の力を閉じ込めたまま自分自身を低き所に貶めるような体験を重ねた後に、八俣の大蛇(おろち)を退治して、中から出て来た三種の神器の一つである草薙の剣を天照大御神に献上し、晴れてめでたく、櫛稲田姫命と正式な結婚をされました。

須佐ノ男命は、「我が心すがすがし」と仰って、須賀という所に宮をお造りになり、櫛稲田姫命とお住まいになられました。
この時、須佐ノ男命が詠まれた歌が、我が国最初の和歌と言われています。
 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

古事記には単に歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産する内的なプロセスが書かれています。
須佐ノ男命とは、神話に登場する神とか、古代においてそのモデルとなった特定の人物とかだけを指すのではなく、実は、私達一人一人のことでもあります。

須佐ノ男命とは、私達一人一人のことでもあり、元々ものすごく高貴な生まれ(本質は神)でありながら、自らの光を閉じ込めたまま自分自身を低き所に貶めるという体験を重ねた末に、八俣の大蛇(おろち)に象徴されている、否定的想念を退治して自らの本当の力・輝きを取り戻す、という仕組みになっています。

須佐ノ男命の物語には、とても深い意味が秘められていますので、折を見て、少しずつ書いていきたいと思います。

内なる神性である愛(女性原理)と力(男性原理)を蘇らせる時

私達一人一人の人間の中には、神の本質である神性が内在しています。
そして、神性とは、愛と力という言葉によって表す事が出来ます。
女性原理である愛と、男性原理である力が私達一人一人の中にあります。

私達の内なる神性である愛と力を想いだし、蘇らせる時を迎えています。
徒に自分の外に神を見るのではなく、自分の中にある神性を想い出し、蘇らせる時を迎えているという事です。

愛と力、すなわち、力に裏打ちされた愛こそが神の本質であり、それは私達人間一人一人の中にも内在しているので、それを蘇らせていく事が大切になります。

愛と力は、日の丸にも象徴されています。
中心の赤玉が、女性原理である愛を表し、白玉が、男性原理である力を表しています。
神道の一霊四魂で言うと、赤玉が和魂(幸魂と奇魂)、白玉が荒魂を表しており、赤玉・白玉で愛と力、すなわち、力に裏打ちされた愛を表し、神の本質である神性を象徴しています。

そして、私達一人一人が、内なる神性である愛と力を蘇らせ、神のような人となった姿を、古事記の中では、神武天皇という御神名で表しています。

以前書きましたが、古事記は、歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが古事記の中には隠されていますので、神武天皇という御神名には、人となりが完成し、神のような人になった姿が象徴されています。

もちろん、古事記には、歴史書としての一面もありますので、大和の国を統一し初代天皇である神武天皇となったカムヤマトイワレビコという人物もいたと思いますが、古事記の中で神武天皇という御神名が表しているのは、単に歴史上の特定の人物だけではなく、神の分霊(わけみたま)である私達一人一人の事でもあるのです。

ですから、私達一人一人が、内なる神性である愛と力を蘇らせ、神のような人となった時、古事記の表現を借りれば、神武天皇となったということが出来ると思います。

また、古事記の中に、神武東征の地として、日向(ひむか)という言葉が出て来ます。
宮崎県に日向(ひゅうが)という場所があり、神武東征の地とされています。
後の神武天皇であるカムヤマトイワレビコは、実際、宮崎県の日向から東征の旅に出たのかも知れませんが、日向という言葉も、単にある特定の場所を表す言葉ではなく、古事記の中では、太陽に向う心の位置のようなものを表しています。

古来、私達日本人は、太陽をお天道様と崇めて、日の光に向って懸命に生きてきました。
太陽に向う、日の光に向う、天に向う、ひたむきな心の位置を、古事記の中では、日向(ひむか)という言葉で表しています。

21世紀に生きる私達一人一人も、太陽・日の光・天に向うひたむきな心の位置である日向(ひむか)の地から、内なる神性を蘇らせ、愛と力を蘇らせて、神のような人になった時、古事記の表現を借りれば、神武天皇として誕生したと言えるのかも知れません。

十月十日、神が重なる目出度き日

本日は、十月十日です。
十という字は、神を表しますので、本日・十月十日は、神が重なる目出度き日とも言えます。

タテの「|」は「火の働き」を表し、ヨコの「ー」は「水の働き」を表し、二つが合わさった「十」が、「火水(カミ)」を表すとされています。
神とは、火水(カミ)ということのようです。

火(太陽)と水は、生命にとって無くてはならない、一番根源的なものと言えます。
私達人間のみならず、動物も植物も、あらゆる生命は、太陽と水の力により、生命を与えられ生かされていると言えます。
そして、太陽と水に象徴される、神の働きの二つの側面が、火の働きであり、水の働きであるということのようです。

火の働きは男性原理が出る為の働き、水の働きは女性原理が出る為の働きであり、二つで一つの働きとなるとのことです。
神道の一霊四魂で言えば、火の働きが荒魂、水の働きが和魂(幸魂・奇魂)ということのようです。

火水(カミ)と書いてヒミツと読むこともあります。
火と水には、カミの働きの深いヒミツが隠されているようです。

そういう訳で、本日十月十日は、神が重なる目出度き日ということになります。

神々の名前(御神名)について

我が国・日本は、八百万神々(やおよろずのかみがみ)を信仰する国とされており、たくさんの神々の名前があります。

「古事記」・「日本書記」には、たくさんの神々の名前が出て来ます。
そして、「古事記」・「日本書記」は、一般的には歴史書と考えられていますので、そこに登場する、様々な神々が、実在したと考えられているのではないかと思います。

確かにそういう一面はある筈なので、そう考える事は一面の真理ではあるのですが、それは二義的な捉え方であり、御神名というものの、本質的な捉え方ではないと思います。

御神名が持つ本質的な意味とは、神界のある働きに付けられた呼び方の事を意味します。
神界が持つ働きの内、こういう働きについてはこういう呼び方(御神名)を使う、というふうにイメージするとよいかも知れません。

ですから、特定の姿・形をした神が天に存在すると考えるよりは、天の働きのある部分をこういう名前(御神名)で呼ぶと捉えた方が、より本質的な捉え方と言えると思います。
御神名は別々の二つの名前であっても、働きが同じであり、実は同一神という事もあります。

「古事記」については、歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されていますので、そういう読み方をする時には、御神名も全て神界の働きに付けられた呼び名と捉えて読まないと理解出来なくなります。

例えば、天照大御神(アマテラスオオミカミ)という御神名も、太陽の持つ働きを表すとともに、天の中心の光をも表わしており、また、私達一人一人の中にある中心の光をも表しています。

「古事記」の中の有名な、天照大御神の「天岩戸開き」も、神代の時代の出来事という一面だけではなく、現代に生きる私達一人一人が、内なる中心の光を表に現す、すなわち、神として出産する、という事をも表しています。

「古事記」に隠された神界の仕組みについては、私に分かる範囲で、折に触れて書いて行きたいと思います。

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