日本の新しい調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

大和富士ブログ|BLOG

2011年4月のアーカイブ

21 Entries

魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定どおりだった事を想い出す

魂の記憶が蘇ってくると、今までの人生の全てが、生まれる前に魂が決めた計画どおりに、寸分の狂いもなく、進んできた事を想い出す事が出来ます。

自分の人生を振り返ってみると、過去には様々な選択肢があったようにも感じられ、もしあの時、別の選択をしていれば、今の自分は違う状況にいる筈なのに、と感じる事も、色々あるかも知れません。

しかし、様々な選択肢があったように、後になってから感じられたとしても、その瞬間の自分自身にとっては、やっぱり、その選択肢しか無かったのであり、生まれる前に自分自身が決めて来た道程(みちのり)を、ちゃんと予定どおりに歩いて来たのだという事を想い出す事が出来ます。

瞬間瞬間の様々な選択をしている主体者は、本源の我であり、真我である、我が魂なので、表面意識であれこれ考えて選択しているように思えたとしても、最終的な選択は、意識のより深い部分にある、本源の我、真我である、我が魂が全ての選択をしています。

ですから、今までの自分の人生の、瞬間瞬間の様々な選択の全ては、我が魂がしたのであり、神の分霊(わけみたま)であり、我が人生の創造主である、我が魂は、生まれる前に計画して来たとおりに、寸分の狂いもなく、瞬間瞬間の選択をしたのであり、全ては予定どおりであった事が、魂の記憶として、蘇ってきます。

そして、今までの自分の人生は、全て予定どおりであり、最善の道程であった事が実感出来ます。

例え思い通りでないように感じられたとしても、そう感じているのは、あくまでも肉体の自我意識であって、本源の我であり、真我であり、自分の人生の創造主である、我が魂から見れば、全て思い通りであり、願いは叶っていると言え、魂の夢はちゃんと叶っているのだと言えます。

私達の人生は、「魂の進化」というプログラム上にしか存在していないので、魂の願いはただ一点、心を純化、意識を福化させ、光輝く魂になる事だけなので、「魂の進化」という永遠の旅を続ける魂の願いは、ちゃんと叶っているのだという事を想い出す事が大切になります。

自分の今までの人生において、瞬間瞬間の選択の全ては、本源の我、真我であり、神の分霊である、我が魂が、生まれる前に計画したとおりに、寸分の狂いもなく、選択したのであり、やっぱり、今まで自分が歩いて来た道程しか無かったのです。

そして、その道程は、「魂の進化」という視点から見れば、決して悪くはなかったのだと言えます。
例え、肉体の自我意識から見れば、失敗続きに思えたとしても、それによって、ある意識を創る事には成功している筈です。

肉体が死を迎えた時、魂が永遠の旅に持って帰れる「おみやげ」は、体験によって創られた意識だけなので、我が魂は、最短距離で「魂の進化」を、ちゃんと進めてくれています。

魂の記憶が蘇って来て初めて、自分の今までの人生を、本当の意味で、受け入れ、認め、感謝出来るようになるとともに、本源の我であり、真我であり、我が人生の創造主である、我が魂にも感謝出来るようになると言えるかも知れません。

自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す

自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す事が大切だと思います。

自分の顔や姿・形、自分の社会的な地位や立場、自分が周囲の人々からどういう評価を受けている人間か、など、自分の肉体ばかり見ていると、自分というものが、ともすれば、とても小さな、価値の無い人間のようにも思えてくるかも知れません。

そして、自分が今までの人生で行って来た、全ての想いや行動を振り返ると、自己嫌悪に陥りたくなるかも知れません。

しかし、そういう時こそ、自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す事が大切になります。

私達の中にある本質の光は、聖なる光であり、神道的に言えば、神性、仏教的に言えば、仏性、あるいは、観音菩薩の心、キリスト教的に言えば、キリスト意識とでも呼ぶべき、神聖な光だと言えます。

神の本質と同じ、聖なる光の存在が、自らの本当の光を一旦忘れ、それを想い出し蘇らせる事によって、さらに光輝く為に、肉体の衣を纏って、今、この時空に存在しているのであり、それが、私達人間なのです。

自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す事が大切だと思います。
私達人間一人一人の中にあるのは、神聖な光であり、それを想い出し、蘇らせ、体験する為に、私達は、21世紀の地球、そして、日出る神国・日本という、この時空にやって来たのです。

人生の全ては、輝きの中のものー内なる光は消える事なく私を照らす

私達の人生の全ては、輝きの中にあり、例えどんなに人生がつらく苦しく感じられたとしても、やっぱり輝きの中のものです。

如何なる時であっても、自分自身の内なる光、本源の我であり、真我である、我が魂の光は、消える事はありません。

内なる光は常に輝き、自分自身を照らし続けてくれています。
自分自身の本当の光を、本源の我の本当の輝きを、常に想い出す事が大切だと思います。

今までの自分の人生が、どのような人生であったとしても、そして、今、自分の人生が、どのような状況にあろうとも、本源の我であり、真我であり、我が人生の創造者である我が魂は、今までの人生の全てを、体験して味わいたかったのです。

「魂の進化」の為に、魂のさらなる輝きを求めて、我が魂は、我が人生の全てを創造したのであり、今までの人生の全ては、魂の輝きの中にあったと言えるかも知れません。

私達は、肉体の衣を脱いでこの世を去る時、家族や愛する人、友人、お金、家・土地・財産、仕事、地位、名誉、自分の宝物など、ありとあらゆる全てのものを置いて行く事になりますが、ただ一つ、自分の体験だけは、人生の「おみやげ」として、魂が永遠の旅に持って帰れるものなのです。

魂のさらなる輝きを求めて、「魂の進化」という永遠の旅をしている魂にとっては、体験こそが喜びであり、財産であると言えます。

人生がつらく苦しく感じられたとしても、やっぱり人生の全ては輝きの中のものであり、内なる本源の光は消える事なく、常に自分自身を照らし、導いてくれています。

内なる光を、魂の輝きを想い出す時、我が魂の想いというものが感じられ、いつ如何なる時も、常に自分は、守られ導かれて来た事が感じられます。

光輝く我が魂が、魂のさらなる輝きを求めて、我が人生の全てを創造したのであり、うれしかった事、悲しかった事、喜びや悲しみの体験の全てが、永遠の魂にとっての、かけがえの無い財産であると言えます。

今までの人生の全ては、真我である我が魂が、体験して味わいたかった事であり、どんなにつらく苦しく感じられたとしても、やっぱり輝きの中にあり、内なる光は、常に消える事なく、自分自身を照らしてくれていたのだと感じられます。

そして、これからもずっと、自分の人生の全ては、輝きの中にあり、内なる光は消える事なく、常に自分自身を照らし、見守り、導いてくれます。

神の想いは、人を神ならせる事ー現象の基にある、神の優しさ

神の想いはただ一つ、人を神ならせる事だと言えるかも知れません。

神は、あらゆる現象を使って、人を神ならせるよう導いており、自分自身の周りにある現象は全て、自分自身を神ならせる為にあると言えます。

現象がつらく苦しく感じられるのは、それが、御魂の成長にとって欠かせないからです。

例え現象が、つらく苦しく感じられたとしても、現象の基になっているのは、神の優しさであり、全ては、優しさの元である神意が現象として起こしているに過ぎません。

そして、優しいというのと、甘いというのは、訳が違うので、優しさの中にも厳しさがあり、厳しさの中にも優しさがあり、この相反する中に、本当の神意があると言えるかも知れません。

神の優しさには、計り知れない程の深さがあるので、現象にばかり囚われていると、神の神意は、なかなか見えて来ないかも知れません。

御魂が成長するに従い、神の神意というものが、次第に汲み取れるようになってくると思います。
御魂というのは、神の分霊(わけみたま)なので、神の想いと、自分の御魂の想いは、本当は同じものであり、自分の周りの現象は全て、自分自身を神ならせる為に、御魂が望んでいたのだという事が、次第に実感されてくると思います。

21世紀に、人類は、さなぎから蝶へと、飛躍的に進化する

この21世紀において、私達人類の意識は、飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わります。

それに伴い、花咲く都・黄金文明とでも呼ぶべき、新たな精神文明が、日本から始まります。
今の物質文明が崩壊した後、その次に来るのは、精神文明の時代であり、日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本から、地球の新たな時代の幕が開きます。

今、地球上で起きている全ての事は、ただ一点、人類の意識の飛躍的進化と、母なる星・地球の新たな誕生に向けて起きて来ています。

人類が数千年の間に作った罪・穢れは、全て祓い清められ、その後には、至福千年王国とも呼ばれるような、平和で喜びに満ちた世界が、花開く事になります。

人類始まって以来初めてとも言うべき、想像だにない大変化のプロセスを経て、人類は、さなぎから蝶へと飛翔するでしょう。

21世紀の今というこの時、世界の雛形である、日出る神国・日本に、日本人として生まれて来て、想像だにない大変化のプロセスを身をもって体験するというのは、本当に、稀有な事だという事が、次第に実感出来るようになってくると思います。

人は常に、自分が最も学び、成長し、進化できる最善の場所にいる

私達人間一人一人、全ての人間は、常に、自分自身が最も学び、成長し、進化できる最善の場所にいます。

これは、宇宙の法則であり、一人の例外もなく、全ての人間が、例え、いつ如何なる時であっても、毎瞬毎瞬、自分自身が最も進化・成長できる、最善の場所にいるのです。

例え、自分が今いる場所が、どんなにつらく苦しく、不幸・不運と感じられるような環境であったとしても、そここそが、自分が今、最も成長できる、最善の場所だという事になります。

宇宙法則として、一人の例外もなく、全ての人間は、毎瞬毎瞬、常に自分にとって最善の場所にしかいる事ができないのです。
この大宇宙は、一切の無駄というものがない、完璧な世界なので、全ての存在が、最短距離で進化を常に続けています。

肉体の自我意識の視点から、自分の今いる場所を、幸・不幸、運・不運という目で捉えてしまうと、自分の今いる場所が、つらく、苦しい事ばかりで、とても最善の場所に今自分がいるとは、思えないかも知れません。

しかし、私達の人生というのは、「魂の進化」というプログラム上にしか存在していないので、「魂の進化」という視点に立てば、自分自身は常に、自分が最も学び、成長し、進化できる最善の場所を歩いて来たのであり、「魂の進化」を最短距離で突き進んで来たのだと言えます。

これは、宇宙の法則であり、天の仕組みなので、一人の例外もなく、全ての人間が、その瞬間瞬間、自分がいるべき最善の場所にいるのです。

この大宇宙は、一枚の壮大な絵のようなものであり、全てのものが一つにつながって、宇宙全体として常に最短距離で毎瞬毎瞬、進化を続けているので、私達人間一人一人もまた、常に自分が最も進化できる最善の場所に生かされているのだという事を信じる力が大切だと思います。

山幸彦こと彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)は恵比寿様

天橋立の近くに、元伊勢・籠神社があります。
籠神社では、境内摂社の蛭子(えびす)神社において、山幸彦である、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)を恵比寿様として祀っています。
籠神社では、元々の主祭神は彦火火出見命であり、後に、彦火明命(ヒコホアカリノミコト)が主祭神として祀られるようになったようです。

実は、山幸彦である、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)は、恵比寿様でもあります。

一般的に、恵比寿様として祀られているのは、八重事代主ですが、彦火火出見命も、恵比寿様でもあります。

以前、「神々の名前(御神名)について」というタイトルで書きましたが、御神名の最も本質的な捉え方は、神界の働きについて付けられている名前なので、別々の御神名であっても、同じ働きであり、実は同一神という場合もあります。

「恵比寿の働きについて」というタイトルで書きましたが、恵比寿の働きとは、御魂を釣り上げる事であり、恵比寿様が釣竿を片手にして赤い鯛を抱えているのは、大漁漁業の神様という二義的な意味よりも、赤い鯛に象徴されている、御魂を釣り上げるという、恵比寿の本質的な働きを表しているからなのです。

「古事記」の中で、山幸彦は、失くした釣針を探しに、海神(ワダツミノカミ)の宮である、竜宮城の中へ行き、海神(ワダツミノカミ)の娘である豊玉毘売(トヨタマヒメ)と三年の歳月を過ごします。

三年の歳月が経った時、失くした釣針は、赤い鯛の喉(ノド)に引っ掛かっていた事が分かり、失くした釣針を手に入れて、山幸彦は竜宮城から帰って来ます。
竜宮城から帰る時、山幸彦は、「塩満珠(しおみつたま)・塩干珠(しおひるたま)」を、海神から贈られます。

失くした釣針に象徴されているのは、魂が一番引っ掛かるもの、魂の一番奥深くにあるもの、魂のクセのようなものの事であり、赤い鯛とは、もちろん、御魂の事です。

そして、海原とは、心を表し、心の奥深くにある神界(=深海)の事も表していますので、山幸彦は、自分の魂の一番奥深くにあるものを探し求めて、心の奥深くへ、竜宮城である神界(=深海)の奥深くへと入って行き、三年の歳月を経て、ついに、自分の魂の一番奥深くにあるものを、見付ける事ができたのです。

失くした釣針(自分の魂の一番奥深くにあるもの)を見付けた時、海原を治める海神から贈られた「塩満珠(しおみつたま)・塩干珠(しおひるたま)」とは、海原である心を治め、静める事の出来る力のようなものを象徴しています。

確か、鹿児島神宮には、「塩満珠・塩干珠」が神宝として非公開で保存されていると記憶しており、一つの型として、「塩満珠・塩干珠」が何処かの神社に保存されていても不思議ではないのですが、あくまでも、「古事記」の中で象徴しているものは、形ではない、もっと本質的なものです。

「塩満珠・塩干珠」ばかりでなく、「赤い鯛」、「釣針」、「海原」、「竜宮城」などの言葉も、一つの象徴として描かれているので、形あるものとして捉えようとすると、一番本質的な意味が捉えられなくなってしまいます。

竜宮城へ行ってから三年の歳月を経て、失くした釣針を見つけ、「塩満珠・塩干珠」を受け取ったと書かれているのも、心を治め、静められるような力を得る為には、心の奥深くに入れるようになってからでも、少なくとも三年位の歳月は掛かるという事を表しています。

「古事記」の中でも、最も美しい物語の一つである、山幸彦こと彦火火出見命が、失くした釣針を探し求めて、竜宮城の中へと入って行き、赤い鯛の喉(ノド)に引っ掛かっていた釣針を見つけて、「塩満珠・塩干珠」を手に入れて竜宮城から戻って来るストーリーには、御魂を釣上げるという、恵比寿の働きが、とても見事に表現されていると思います。

山幸彦こと彦火火出見命は、恵比寿様でもあります。


大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象(意味が無い、中立)

この大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象であり、意味が無く、中立です。

森羅万象の全ては、幸・不幸とか、運・不運とかいう意味は本来無く、全てが中立であると言えます。

何故なら、この大宇宙には、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、根本創造主しか実在していないので、大宇宙の森羅万象の全てが、根本創造主の意識の中で繰り広げられる、壮大なゲームであり、森羅万象の全てが、「神の戯れ(リーラ)」であり、森羅万象の全てが、根本創造主の光の中にあるからです。

宇宙的な観点に立てば、一切の事柄には、本来意味は無く、幸福でも不幸でもなく、幸運でも不運でも無く、全ては中立だという事になります。
必要な事が、ただ起こっているだけなのです。

一つ一つの事柄に、幸福・不幸とか、幸運・不運とかいう意味付けをしているのは、あくまでも、私達人間なのだという事を認識しておく必要があるかと思います。

宇宙的な視点においては、森羅万象の全てが、幸福でも不幸でもなく、幸運でも不運でもないのであり、人間サイドの視点から、幸・不幸、運・不運という意味付けをしているだけなのだという事を忘れないようにする必要があるかも知れません。

そして、様々な意味付けというのは、自分の認識の中にしかないので、自らが認識を変えれば、物の見え方も変わるという事になります。

私達人間は、肉体という衣を纏って生きているので、肉体の自我意識は、ともすれば、一つ一つの事柄に対して、自分に都合がいいように、幸・不幸、運・不運という意味を付けて、喜んだり、悲しんだりしていますが、大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象であり、意味が無く、中立なのだという事を、常に忘れない事が大切だと思います。

富士山本宮浅間大社、身延山久遠寺、諏訪大社、皆神山、戸隠神社

14日から16日まで、丸三日間かけて、旅をしてきました。

私にとっては、これからの大変化の時代を生きていく為に、今までの半生に一つの区切りをつける旅でもありました。
神社などの聖地への旅も、今までは、折に触れて行きましたが、それも、今回の旅で一つの区切りとなりました。
将来、必要な時が来れば、また何処かに行く事になるでしょう。

今回の旅の目的地は、以下のとおりです。

14日  富士山本宮浅間大社身延山久遠寺     
15日  諏訪大社(上社例大祭の日、「御頭祭」に参加)

16日  皆神山戸隠神社

15・16日にかけて、長野県を周りましたが、長野県の呼び名である、「信州」という言葉には、「神州(しんしゅう)」という意味もあり、神界のプログラムの、ある重要な働きが隠されています。
「神州」としての働きは、諏訪大社と戸隠神社の働きに、表されています。

諏訪大社がある諏訪湖というのは、日本の「へそ」と呼ばれる事がありますが、「へそ」とは、丹田の事でもあり、日本という国の、とても重要な要のような役割を担っています。
これは、諏訪湖が位置する、地質学上の特異な地場エネルギーとも密接不可分の関係にあります。
諏訪湖というのは、「中央構造線」と、「フォッサマグナの西辺」である「糸魚川静岡構造線」という、二つの大断層線が交差する場所に位置しており、とても強力なエネルギーが封印されている場所だと言えそうです。

また、諏訪大社の御神体山である、「守屋山(モリヤ山)」というのは、旧約聖書「創世記」の中に出て来る「モリヤ山」と同じ名前であり、諏訪大社の「御頭祭」は、「創世記」の中のエピソードとそっくりだとも言われており、諏訪大社と古代ユダヤの間には、密接な関係があります。

神武三千年の神図りが開く時、諏訪大社に秘められていたエネルギーが開く事になります。

また、戸隠には、十隠(とがくし)という意味があり、十とは、火(|)と水(━)で神(火水・カミ)を表しますので、神が隠されています。

諏訪大社と戸隠神社が一体となって、「神州」としての、重要な役割が、神図りにより、仕掛けられています。

その辺の事は、折に触れて、また改めて書いていきたいと思います。

私自身としては、色々な意味で、一つの区切りを付ける事が出来た、聖なる旅となりました。


「ス」という言霊ース神、スサノオ、諏訪大社、スメラ命

「ス」という言霊には、とても力強い響きがあり、ある何かの創造の中心的な響きが秘められた言霊のような感じがします。

ちょっと思い浮かぶだけでも、次のような、言葉が連想されます。


   スの神、ス神
 
   スサノオ スサナルノオオカミ

   諏訪大社 スワマアカタの仕組み 諏訪湖

   スメラ命 スメラの霊統


これからは、「ス」という言霊をもつ、神界の働きが、本格化していく時代なのかも知れません。


内なる神真釣り(祀り)がまず先ー外の神真釣り(祀り)は型示し

内なる神真釣り(祀り)がまず先に大切な事であり、外の神真釣り(祀り)は型示しなので、後からになります。

まず、自分自身の中にある、内なる神性、内在神を、自分の心の中で、真釣る(祀る)事が大切であり、そちらが先になります。
そして、外の神真釣り(祀り)は、その後になります。

自分自身の中にある、内なる神性、内在神を、尊び、拝むという事をしないでいて、外にある、神棚などの形だけを拝んでいても、何にもなりません。
神とは、私達人間一人一人の中に内在しているのであり、神棚などの形式や箱物の中に存在しているわけではないからです。

自分自身の中にある、内なる神性、内在神を真釣る(祀る)事こそが大切であり、内なる神真釣り(祀り)には、何も形式は必要ありません。

そして、内なる神真釣り(祀り)さえきちんと出来ていれば、外の神真釣り(祀り)は型示しなので、祀っても良し、祀らなくても良し、という事であり、形式には、あまり囚われなくても良いかと思います。

神の道に奇跡なしーあるのはただ普通の道のみ

多くの人達は、奇跡のような、特殊な事を好み、奇跡を求める傾向があります。
そして、神の道においても、奇跡のような、特殊な事を求め、それが神の道だと勘違いしている人達も多く見受けられます。

しかし、奇跡を信じ、奇跡を求めるのは、邪道だと言えるかも知れません。
邪の道は、特殊な事を好み、奇跡を求めますが、神の道とは、決して、特殊なものではありません。

神の道に奇跡はありません。
あるのはただ、普通の道だけです。
普通の道を、ただ淡々と歩くのが、神の道だと言えるかも知れません。

しかし、そこまで来るのは、並大抵の事ではないかも知れません。
何故なら、人間は、特殊な事を望むからです。
そして、特殊な事を望むのは、自分が特別な人間でありたいという思いが、心の何処かにあるからなのかも知れません。

神の目から見れば、特別なものなど何も無いのであり、徒に特殊な事を求めようとせず、普通の道を、ただ淡々と歩んで行くのが、神の道だと言えるかも知れません。

日本人の目覚めの時が近づいて来ている

私達日本人の目覚めの時が、少しづつ近づいて来ています。
一歩一歩ですが、確実に、日本人の目覚めの時が訪れようとしています。

そして、そう遠くない将来、ある時を境にして、多くの日本人が目覚め始める事になるでしょう。
目から鱗が落ちるように、まるで憑き物でも落ちたかのように、日本人一人一人が、新たな目で世界を見始める時が訪れる筈です。
自分自身の目で物を見、自分自身で物事を判断し、本当の意味で、精神的に自立した生き方を始めるようになるでしょう。

そして、その時から、本当の意味での、新しい日本、日出る神国・日本、真の大和の国の国創りが始まる事になります。

背水の陣を敷いて、一致団結して皆の力を合わせれば、日本人程、大きな力を発揮出来る民族は、世界中何処を探しても、他には無いと言っても過言ではありません。

私達日本人の遺伝子の中に眠る、大和心・大和魂を発揮して、大和民族としての真価を発揮する時が近づいています。
日本人一人一人が、自分の遺伝子の中に眠る、大和心・大和魂を想いだし、それを顕現して生きる時代が近づいています。

白濱神社(伊古奈比咩命神社)、石廊崎、石室神社、役行者

本日、ふと思うところがあり、伊豆半島を海沿いに、車で一周してきました。

単に伊豆半島を一周するだけではなく、伊豆半島における、重要な聖地とも言える、白濱神社(伊古奈比咩命神社)、そして、伊豆半島最南端の石廊崎にある、石室神社に参拝するのが主な目的ですが、単に参拝するだけではなく、海沿いに伊豆半島を一周した方が良いようなので、初めて海沿いのルートで伊豆半島を丸一日かけて一周してきました。

その理由については、いつか機会があれば、書いてみたいと思います。

まず最初に、白濱神社(伊古奈比咩命神社)に参拝しました。
白濱神社は、伊豆ノ国最古の宮とされている古式ゆかしい神社であり、三嶋大神の最愛の后神である、伊古奈比咩命(イコナヒメノミコト)が主祭神です。
三嶋大社と御縁の深い神社であり、相殿には、三嶋大明神(事代主命)が祀られています。

白濱神社に参拝している時は、朝からの雨がかなり激しくなっていましたが、水が全てを洗い流して清めてくれるような感じがして、かえって清々しいような気分になりました。
白濱神社には、珍しく、聖徳太子も祀られています。
小さな境内摂社で、聖徳太子命神社という形で祀られているのが、うれしく感じます。

白濱神社の隣は、文字どおり、白い砂浜が広がっており、少し離れた所には、竜宮島という名前の小さな島があり、陸地からも歩いて行く事が出来ます。

白濱神社と、隣に広がる白い砂浜、そして、少し離れた所にある竜宮島は、古事記に出て来る、豊玉比売命(トヨタマヒメノミコト)の出産の場面の一つの型示しの場所のような感じもします。
以前書きましたが、「白」とは、「99」という意味があり、「一厘の仕組み」、「最後の一厘」における、九分九厘を意味する言葉でもあります。

「一厘の仕組み」により御魂が出産するのですが、御魂の出産は二度あり、一度目の出産は、火の働きにより、仮の出産をします。
古事記においては、木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメノミコト)が産殿(うぶや)に火を放ち、その中で出産した事で表されています。

二度目の出産は、豊玉比売命の出産として描かれています。
水の働きにより、海中(水の神界)から、海辺(マコトの神界)へ上がり、出産をする事になります。
豊玉比売命の出産により、男性原理である、鵜萱草萱合不命(ウガヤフキアエズノミコト)が誕生する事になります。

白濱神社の次に向かったのは、伊豆半島最南端の石廊崎であり、ここには、石室神社があります。
石室神社の目と鼻の先には、熊野神社があり、石室神社と一つと考えられています。

石室神社には、秦の始皇帝五世の孫と言われ、日本に帰化した弓月君(ゆづきのきみ)が、物忌奈之命(モノイミナノミコト)と称されて祀られており、それを祀ったのが、子孫である秦氏だと言われているようです。

石廊崎は、役行者とも縁の深い場所であり、石室神社の参道入口には、大きな役行者(神変大菩薩)像が建てられています。
役行者は、大和国葛木の出身であり、賀茂氏の出身だと言われており、賀茂氏と秦氏は親戚関係とも言われていますので、役行者も秦氏の流れを汲む者なのかも知れません。

石廊崎は、断崖絶壁にある為、雨に加えて、風もかなり激しく吹いていましたが、石廊崎を後にして、西伊豆を海岸沿いにドライブしているうちに、突然、雨も強風も治まり、明るい太陽が輝いてきて、春らしい、爽やかな陽気になりました。
ちょうど、伊豆半島は、桜が満開でピークを迎えた頃なので、明るい春の太陽と、満開の桜を楽しみながら、伊豆半島一周の旅を終える事が出来ました。

月読命の蘇り、月が蘇る型ー全てが白日の下に明らかにされる時代

今、私達人類は、良いものも悪いものも、善も悪も、天の光を受けて全てが白日の下にさらされ、真実が明らかにされる時代に入りつつあります。

昨年2010年、日本においては、12月21日に皆既月食があり、翌22日が冬至でした。
世界標準時では、同じ21日に皆既月食と冬至が重なったそうですが、これは、極めて珍しい事のようです。

NASAによると、西暦01年からの約2000年間で、冬至または夏至の日に月食が起こったのは、わずか1回であり、1638年12月21日しか無いそうです。
次に起こるのは、2094年12月21日だとの事です。

昨年2010年の皆既月食・冬至を境にして、月が蘇る本格的な型示しの時代に入っているように思います。
月というのは、太陽の光を受けて輝きますので、月が蘇るとは、太陽が蘇るという事と同じ意味になります。

皆既月食によって、一旦光を失った太陽と月は、太陽が光を取り戻すにつれて、月も輝きを取り戻す事になります。
太陽を「陽」とすれば、月は「陰」であり、「陰」が蘇るとは、「陽」が蘇るのと、同じ事を表します。
御神名で表すと、月読命の蘇りという事になりますが、それは即ち、天照大御神の天岩戸開きと同じ事でもあります。

月が蘇る型というのは、今まで裏に隠れていたものが、表に出て来るという事を意味します。
今まで、影に隠されていたものが、光を受けて、白日の下にさらされ、明らかにされるという事になります。

例えば、今までは、表面的には隠蔽されていた、企業や自治体などの、様々な不祥事・社会悪のようなものが、これからは、どんどん表に出て来て白日の下にさらされるようになるでしょう。
そして、インターネットの普及などがそれを後押しする事になるでしょう。

あるいは、様々な発明や発見、科学技術、個人の才能など、今まではあまり脚光を浴びなかったようなものも、スポットライトがあたるようにして、表に出て来るようになるでしょう。
これも、インターネットの普及などが、それを後押しする事になるでしょう。
これからの時代に必要とされる、エコでクリーンなエネルギーなども、色々発明されている筈ですが、今までは、なかなか注目されなかったり、日の目を見なかったものなども、これからは、押し出されるようにして、表舞台に出て来る事になるでしょう。

社会悪のように、故意に隠蔽されているものだけではなく、次の時代を担う新しい芽のような、今まではあまり注目されなかったようなものまで、これからは、良いものも、悪いものも、善も悪も、あらゆるものが、天の光を受けて白日の下にさらされ、明らかにされていく流れに入っています。

そして、もう一つ大切なのは、旧約聖書などに書かれているような、古代の人類の歴史の、本当の真実も、いずれ明らかにされる時代が来ているという事です。

昨年12月21日の皆既月食の日のブログは、「皆既月食、月が蘇る型、月読命の蘇り」というタイトルで、主に魂の蘇りについて書いていますので、ぜひそちらも御参照下さい。


「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると、「かみ(神)」になる

神社に行きますと、御神体として、鏡が祀られていますが、私は、日本の神社に御神体として鏡が祀られている事に、とても奥深いものを感じます。

「かがみ」から、中心にある「が」という字を取ると、「かみ」になります。
「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると、「かみ(神)」になります。

既に何度も書いているとおり、自分が見ている現実世界とは、自分の意識を、空間というスクリーンに投影した、自分の内面の世界を見ているのであり、言わば、インナーワールドです。
自分の心の中の心象風景を映し出して見ているに過ぎないので、自分が見ている現実世界とは、自分の心を映し出す「鏡(かがみ)」の世界であるとも言えます。

自分の肉体の場合もそうなのですが、自分の顔や姿・形を知る為には、「鏡」が必要になります。
映し出す「鏡」がないと、自分がどんな顔や姿・形をしているのかが分かりません。

それと同じように、自分の意識というものも、それを映し出す「鏡」がないと、自分の意識がどんな状態なのかが、分からないのです。
意識というものは、それを映し出す「鏡」が必要であり、それが、現実世界と呼ばれるものなのです。

自分が見ている現実世界とは、本源の我であり、真我であり、神の分霊(わけみたま)である、我が魂が創造したものなので、それを映し出して見ているに過ぎないのです。

真我である我が魂が「想像=創造」した「鏡」の世界が自分の現実世界なので、本当は、望んだとおりに映し出されている完璧な世界なのですが、自分の現実世界が、イヤだ、面白くない、苦しい、こんな筈はない、おかしい、在り得ない、などと感じるのは、全て、「我」があるからなのです。

自分が見ている現実世界が、イヤだ、苦しい、面白くない、自分はついていない、などと思うのは、全て、肉体の自我意識によるものです。
肉体の自我意識の関心事と、真我である魂の関心事は違うので、そこにどうしても、ギャップ(差)が生じてしまいます。
差(ギャップ)を取る事が、「悟り=差取り」という事でもあります。

魂の関心事というのは、「魂の進化」という事であり、光輝く魂になる事だけが魂の関心事なので、自分が最も進化・成長出来るような現実を創造します。
自分が見ている現実世界とは、神の分霊(わけみたま)である我が魂が、魂を進化させる為に100%望んだ事なのです。

自分の肉体の自我意識の「我」を外して、その事を、受け入れ、認めていく事が、心の成長であり、意識の福化と呼べるものなのです。
「魂の記憶を蘇らせる」事が出来るようになってくると、自分の現実は全て、真我である我が魂が創造したのだという事を、受け入れ、認める事が次第に出来るようになってきます。

神の分霊(わけみたま)である我が魂が「想像=創造」した、現実世界という「かがみ(鏡)」の世界から、自分の肉体の自我意識という「が(我)」を外すと、「かみ(神)」としての、本当の自分自身、本源の我の姿が見えてきます。

神社で鏡を御神体として祀る神道と言い、世界に類を見ない独特の言語である日本語と言い、私達日本人は、とても奥深い国に生かされているのだと感じます。


 

西洋の時代から東洋の時代へー中東が果たす役割

アメリカに象徴される、物質文明は、間もなくその役割を終えて幕を閉じようとしています。
そして、西洋の時代から、東洋の時代へ移行する事になり、物質文明の次に来るのは、新たな精神文明の時代であり、それは、日出る神国・日本から始まります。
次に来る新たな精神文明の中心は日本なのです。

西洋の物質文明が幕を閉じて、日本を中心とした、東洋の精神文明の時代に移行する過程においては、中東というものが、重要な橋渡し役を演じる事になるでしょう。

中東というのは、数千年続いている、宗教紛争・民族紛争の一つの核になっている地域であると同時に、石油エネルギーという、現代の物質文明がどっぷりと依存しているエネルギーの、主な供給源になっています。

地球が新たに生まれ変わるという大変化のプロセスにおいては、人類が抱える様々な矛盾・不調和・膿・毒のようなものが、表に出て来て解消されていく事になります。
中東が抱える矛盾・不調和も、いずれは解消されていく事になりますが、その過程においては、大きな影響を世界に与えるかも知れません。

それは結果的に、石油エネルギーにどっぷりと依存する体質からの脱却を促してくれたり、物資文明が崩壊するのを早めてくれる事になるのかも知れません。

西洋の物質文明がその役割を終えて幕を閉じ、日本を中心とした東洋の精神文明が誕生する過程においては、中東というものが、ある種の橋渡し役のような重要な役割を演じる事になりそうです。

「一厘の仕組み」「最後の一厘」について

本日は、旧暦三月三日にあたり、旧暦の上巳節、即ち、雛祭り、桃の節句のルーツにあたります。
桃(もも)=百(もも)であり、百というのは、神を表す数字でもあります。

人が神として出産する最後の最後の部分を、「最後の一厘」、あるいは「一厘の仕組み」と言います。
「一厘の仕組み」に関心のある人達は、「一厘の仕組み」というものを、色々研究されたり、あるいは、様々な御神業をされたりしておられるようですが、本当は、「一厘の仕組み」というのは、私達一人一人の心の中に仕掛けられています。

人が、「人となりを完成」させ、神として出産する一番最後のプロセスなので、実は、「一厘の仕組み」は、人皆それぞれ違います。
70億人の人が地球上にいれば、70億とおりの顔があり、70億とおりの魂の進化のプロセスがあるように、「一厘の仕組み」、「最後の一厘」は、一人一人皆違います。

「一厘の仕組み」、「最後の一厘」は、一人一人の心の中に仕掛けられているので、自分の心の内面を見ようとせずに、自分の外の世界に「一厘の仕組み」を探し求めて、色々な知識・情報を集めてみたり、様々な御神業を行ってみたところで、「一厘の仕組み」を知る事は出来ません。

越すに越されぬ大峠、越してみて初めて分かるのが、「一厘の仕組み」であり、「最後の一厘」は、神(天)が入れるので、「最後の一厘」に関しては、自分で知ろうとしても分かるものではありません。
「最後の一厘」を自分で入れようとしても、九分九厘で神(天)にひっくり返されますから、私達は神(天)に生かされている存在であり、自分の力だけでは、一呼吸すら出来ない存在なのだという事を、常に忘れない謙虚さが求められます。

越すに越されぬ大峠なので、大峠の頂が何処にあるのかも見えず、自分が今、どのくらい登って来ているのかさえ分からないような、気の遠くなるような、内的な旅の連続になります。
そして、大峠を越えた時に初めて、そこが大峠の頂であった事が分かります。
大峠の頂に至る「最後の一厘」は、本当に、神(天)が入れるので、神(天)に入れてもらうまでは、「最後の一厘」は分からないという事になります。

「最後の一厘」に至る、締め九九理(くくり)の九分九厘の所では、肚(はら)を九九(くく)る事が求められる事になり、肚の九九(くく)りとは、白山菊理媛(はくさんくくりひめ)の働きでもあります。
以前「99=白 白山菊理媛(白山比咩神)」というタイトルで書きましたが、「白」には、「九十九」という意味があり、白山菊理媛の働きと深く関係しています。

「一厘の仕組み」、「最後の一厘」というのは、本当は、自分の心の中に仕掛けられているので、徒に、知識・情報や御神業など、外の世界に答えを求めようとせず、「人となりを完成」させ、神として出産するまでの産道を、地道に一歩一歩歩んで行く事が大切だと思います。

聖徳太子、「十七条憲法」、「和を以って貴しと為す」

昨日の4月3日は、「十七条憲法」制定の日だと言われています。
「日本書記」・「先代旧事本紀」によると、604年4月3日、聖徳太子により、「十七条憲法」が制定されたとの事です。

「十七条憲法」と言えば、有名な、第一条の「和を以って貴しと為す」という言葉をすぐ思い出します。
日出る神国、大和の国・日本の最初の憲法である、「十七条憲法」の第一条が、「和を以って貴しと為す」という言葉で始まっている事が、私にはとてもうれしく感じられます。

私達日本人の事を、大いなる和「大和」という言葉を使って、「大和心」・「大和魂」・「大和の国」というように表現しますが、大和民族の最初の憲法の書き出しとしては、これ以上ないくらいに、見事な表現だと感じます。

聖徳太子こと、厩戸皇子については、謎が多くてベールに包まれており、なかなか実態が掴みにくいかも知れませんが、それはともかく、私達日本人の遺伝子の中に、聖徳太子という、ある意味においては、我が国を代表するような聖人がイメージとして存在している事が、とても重要だと感じます。

一万円札の表紙が福沢諭吉に変わる前は、一万円札の表紙には聖徳太子が描かれていました。
私なども、一万円札に描かれた聖徳太子を見て、子供心にも、日本を代表する偉い聖人なのだというイメージを抱いていました。

厩戸皇子の人物像については、学者や研究者の間でも意見が分かれるところであり、真相は誰にも分からないかも知れませんが、それよりも、普通の日本人の心の中に、聖徳太子という、我が国を代表するような聖人のイメージが形成されている事のほうが、とても大切だと思います。

聖徳太子が、遣隋使をとおして隋の煬帝に送った有名な手紙、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」という言葉も、日出る国・日本の面目躍如たる言葉のように感じます。

聖徳太子という、これ以上考えられないような貴い称号も、後世の人々が付けた称号だと言われていますが、それだけ、日本人の心の中に、偉大な聖人のイメージが形成され、千数百年経った今も、私達日本人の遺伝子の中に、深く根付いているのだと思います。

これから日本が迎える大変化の時代の中で、私達日本人一人一人が、「大和心」・「大和魂」を花開かせて、真の「大和の国」の国創りを実現させた時、日出る神国・日本が花開き、聖徳太子の願いが成就する事になります。

四月三日、四三(よみ)帰り=黄泉(よみ)帰り=蘇り

本日は、四月三日(日)です。旧暦では、三月一日にあたります。
四月三日とは、「よみがえり」というものの、一つの型示しの日であるとも言えます。
「四三(よみ)返り」=「黄泉(よみ)帰り」=「蘇り」=「よみがえり」という事になります。

この現象界、現実世界を三次元とすると、三次元の全ては、元々、まず四次元で作られたものであり、四(次元)で作られたものが、三(次元)に変わっているという事になります。
四次元で作られしものが明らかになる事が「よみ(四三)返り」という事でもあります。

そして、三次元の現実世界の元になるものを、四次元において作ったのは誰かというと、他ならぬ自分自身であり、神の分霊(わけみたま)であり、本源の我である、我が魂だという事になります。
自分の現実は全て、真我である自分自身が創造したのだという事を想い出す事が、「神の蘇り」であり、「魂の蘇り」という事になります。

「神の蘇り」、「魂の蘇り」、というのは、実は、古事記に隠されたメインテーマであり、古事記には、表向きの歴史書としての一面だけではなく、神界の仕組みが隠されており、人が神として出産するまでの、内的なプロセスが、様々な場面設定を使って描かれています。

伊邪那岐命の「黄泉国からの黄泉(よみ)帰り」、あるいは、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」、天照大神の「天岩戸開き」、大国主誕生、神武誕生、日子穂穂手見命(山幸彦)の「竜宮城からの帰還」など、様々な場面設定を使って、「神の蘇り」、「魂の蘇り」というものを、描いています。
場面設定と登場人物は違いますが、人が神として出産するまでの内的なプロセスを、様々な形で教えてくれています。

「蘇り」とは、「黄泉(よみ)帰り」であり、「四三(よみ)帰り」であり、それは即ち、「神の蘇り」、「魂の蘇り」という事になります。


本日四月三日は、聖徳太子が、「十七条憲法」を制定された日だという事なので、別の機会に、この事についても書いてみたいと思います。

神を知りたければ己の内を見る事ー自分の中にある神性、内在神

私達人類は、数千年もの長い間、自分の外に神を見るという、宗教という松葉杖を必要としてきました。
しかし、自分の外に神を見ようとしても、神を知る事は出来ません。

神を知りたければ己の内を見る事であり、それが本当の神です。
私達人間一人一人に内在する神性、内在神を見る事です。
神道的に言えば神性ですが、仏教的に言えば仏性であり、キリスト教的に言えば、キリスト意識という事になるかも知れません。

神は外にあるのではなく、内にあるのであり、この事が分からない内は、いつまで経っても神というものは分からないと思います。
自分自身の一番身近な所、己の一等近い所に神は隠してあるのであり、この事が分からない内は、明き盲(あきめくら)だと言えるかも知れません。

そして、自分の内にある神を見つけ出す為には、何か特別な事が必要な訳ではありません。
今、自分の目の前にある現実というものを、ただひたすら生きるという事が大切であり、その中に鍵が隠されています。

現象が全てであり、現象の中にしか、答えはありません。
現象で真仮名産(まかなう)事が大切であり、現象の中でしか、真仮名井(まかない)は出来ないと言えます。
自分の周りにある現象を否定する事なく全て受け入れ、自分の目の前にある現実というものを、きちんと体験して味わえるまで成長出来た時、自分が体験した全ての現実は、自分の内なる神が創造した、大いなる図りであった事を想い出す事になります。

自分自身の中にある神が、自分の全ての現実を創造した事を想い出し、実感出来るようになります。
神を知りたければ己の内を見る事であり、自分の中にこそ神はあるという事を想い出す事が大切になります。

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