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私たち一人ひとりがアバター(Avatar)であり、神の化身であることを自覚することが大切

  • 2015年1月18日 14:52
  • Posted by Yamatofuji

 前回、「肉体を持った自分というのは、真我である魂のアバター(分身・化身)として存在しており、真我である魂が、分身であるアバターをコントロールしている」の中にも書きましたが、肉体を持った自分というのは、本当の自分ではなく、真我である魂の分身・化身として存在しているアバターなのです。

 アバター(Avatar)という言葉は、元々は、サンスクリット語で「地上に降りた神の化身」を意味する言葉だったようですが、その後、インターネット上で、自分の分身となるキャラクターを意味する言葉として使われるようになったようです。

 肉体を持った自分というのは、あくまでも、本当の自分ではなく、本源の我であり、真我である魂が、現実世界と呼ばれる、魂の進化の場として与えられた運動場で、魂を進化させる為に「想像=創造(そうぞう)」した、アバター(分身・化身)なのです。

 自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である我が魂です。

 本源の我であり、真我である我が魂は、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したのです。

 真我である魂というのは「意識」なので、現実世界と呼ばれる、魂の進化の場として与えられた運動場で魂を進化させる為には、肉体を持ったアバター(分身・化身)が必要なのです。

 アバター(分身・化身)である自分というのは、顔・形・姿や、健康状態、性格なども含めて、真我である魂から見れば、最高のアバター(分身・化身)なのです。
 真我である魂が、魂を進化させる為に最高のアバター(分身・化身)なのです。

 真我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)の関心事とは、違います。

 真我である魂の関心事とは、魂の進化ということであり、光り輝く魂になることが望みなのです。
 心を純化させ、意識を福化させることが望みなのです。

 心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことが望みなのです。

 自分の容姿・性格・健康状態などの全ては、真我である魂から見れば、一番ピッタリなものであり、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した、最高のアバター(分身・化身)なのです。

 容姿端麗、元気ハツラツ、学業優秀、スポーツ万能、異性にモテモテ、仕事バリバリ、社会的に大成功、みんなに好かれる素晴らしい性格、たくさんの友人・知人に囲まれている自分・・・・・というような、多くの人たちが憧れている自分というのは、あくまでも、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)から見た、最高の自分なのです。

 真我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)の関心事とは違いますので、差(ギャップ)があることを知っておく必要があります。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)から見た最高の自分というのは、必ずしも、真我である魂から見た最高のアバター(分身・化身)ではありません。

 真我である魂が、魂を進化させるために一番ピッタリな、最高のアバター(分身・化身)が、肉体の衣を纏(まと)った自分なのです。

 私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、肉体の衣を纏(まと)った自分というのは、真我である魂が、魂を進化させる為に最高のアバター(分身・化身)なのです。

 このことが理解出来て初めて、私たち一人ひとりが、サンスクリット語のアバター(Avatar)という言葉が元々意味する「地上に降りた神の化身」であることを、理解出来るようになります。

 自分の容姿や性格、健康状態、社会的地位・立場、自分が周囲からどのように評価されている人間かなど、他の人々との比較・優劣、他人からの評価などによって、自分自身の価値を決めようとすると、ともすれば、自分という存在が、とても小さな、取るに足りない、価値の無い人間のようにも思えてくるかも知れません。

 自分という存在が、サンスクリット語のアバター(Avatar)という言葉が元々意味する「地上に降りた神の化身」であるなどとは、とても思えないかも知れません。

 しかし、アバター(Avatar)とは、インドの聖者で「地上に降りた神の化身」と呼ばれるような、ごく一部の聖者・賢者だけのことではありません。

 霊性の大国・インドには、古来、「地上に降りた神の化身」を意味するアバター(Avatar)と呼ばれる聖者が輩出しました。

 しかし、そのような、ごく一部の聖者だけがアバター(Avatar)なのではなく、私たち一人ひとりがアバター(Avatar)であり、「地上に降りた神の化身」であることを自覚することが大切になります。

 肉体を持った自分が本当の自分自身だと勘違いして、自分の容姿や性格、健康状態、自分の社会的地位・立場、自分が周囲の人々からどういう評価を受けている人間かなど、自分の肉体ばかりを見て自分を判断しているから、自分自身の本当の価値が分からなくなっているだけなのです。

 肉体を持った自分というのは、あくまでも、真我である魂が、魂を進化させる為に、一番ピッタリな、好む形で姿を現しているだけなのです。

 自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である我が魂です。
 本源の我であり、真我である我が魂は、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。

 もし、仮に、神という表現を使うならば、真我である魂は、神の分霊(わけみたま)なのです。

 神の分霊(わけみたま)である魂の分身・化身として、地上に降り立っているのが、肉体の衣を纏(まと)ったアバターである自分なのです。

 神の本質と同じ、聖なる光の存在が、自分自身の本当の光を一旦忘れ、それを想い出し、蘇らせ、さらに光り輝く為に、肉体の衣を纏(まと)って、今地上に降り立っているのであり、それが、真我である魂のアバター(分身・化身)として存在している、自分なのです。

 肉体の衣を纏(まと)った自分というのは、あくまでも、真我である魂の分身・化身として存在しているアバターにしか過ぎないことが理解出来て初めて、自分が映す現実世界というものを、真実の光の中で見ることが出来るようになります。

 真我である魂のアバター(分身・化身)として、肉体の衣を纏(まと)った自分が今存在しているということについては、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の中に詳しく書いてありますので、まだお読みでない方は、是非、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」をご購読いただくことを、お勧め致します。

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