日本の新しい調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

大和富士ブログ|BLOG

ここは「追想の中」での「追体験」

 「デジャヴュ(既視感)」という言葉があります。

 初めて来た場所なのに、何となく懐かしい感じがして、初めて来た感じがしない、とか、初めて会った人なのに、以前どこかで会った事があるような感じがして、初めて会った感じがしない、というような体験をする事があります。

 よく使われるのは、この場所は過去世で来た事がある場所だとか、この人とは、前世で一緒だった人だとかいうような感じで、使われたりしています。

 しかし、「デジャヴュ(既視感)」というのは、本当は、もっともっと奥が深く、意味深いものなのです。
 何故なら、今、私達は、「追想の中」を生きており、かつて体験した事を、今、「追体験」しているからなのです。

 究極的には時間は存在しておらず、過去も未来も、今、同時に存在していますので、二一世紀の地球という、この座標軸は、必ずしも、今初めて大宇宙に存在しているという訳でもないのです。

 二一世紀の地球という、この時空が、今初めて大宇宙に存在していると考えるのは、時間というものが、過去→現在→未来へと流れているという思い込みによるものだと言えます。

 二一世紀の地球という、今ここにある時空は、実は、かつて存在した時空でもあるのです。

 私達は、かつて存在した時空で体験した事を、今再び「追体験」しているのであり、今、「追想の中」を生きているのです。
 かつての記憶を、今再び蘇らせているとも言えます。
 空間という、三六〇度立体のバーチャルなスクリーン上で、再生されたビデオを見ているようなものかも知れません。

 ですから、実は、過去世うんぬんという事に留まらず、過去には無かった現代のものや、あらゆる事に対して、「デジャヴュ(既視感)」を覚えたとしても、決して不思議な事ではありません。

 魂の記憶が蘇ってくると、様々な事に「デジャヴュ(既視感)」を覚えるかも知れません。
 それは単に、人や場所に対してだけではなく、自分が体験した一つ一つの出来事や、自分が味わった感情の一つ一つに対しても、かつて味わった事があるという懐かしさを覚えるかも知れません。

 魂の記憶が蘇ってくると、未来の記憶とでも呼ぶべきものも、少しずつ蘇ってきます。
 我が魂は、未来で体験する全て、未来で味わう感情の全てを、既に知っているのです。

 何故なら、大宇宙意識の分霊として、自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう」したというだけではなく、さらに言うならば、この時空はかつて存在した時空であり、その時既に体験をしているからなのです。

 本源の我、真我である我が魂は、自分がこれから人生で体験する全てを、既に知り尽くしているのです。
 魂の記憶を蘇らせる事が出来れば、未来の記憶が少しずつ蘇ってくるかも知れません。

 私達は、かつて体験した事を、今、「追体験」しているのであり、「追想の中」を生きているのです。
 二一世紀の地球という、今ここにある座標軸は、実は、かつて存在した懐かしき時空であり、ここは「追想の中」にある、「緑美しき懐かしき地球」なのです。

Comments : [0]

コメントを書く

最近の記事|recent Entry

カテゴリー|Category

月別アーカイブ|Archives

リンク|Links

フィード|FEEDS