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天(神仏・宇宙)に祈りが通じるとは、何を意味するのか

  • 2014年12月13日 10:45
  • Posted by Yamatofuji

 何かの宗教を信じ、何かの信仰を持っている人は元より、信仰を持たない人であっても、天(神仏・宇宙)に祈れば、願いは叶えられると信じている人たちは多いと思います。

 天(神仏・宇宙)に祈りが通じるというのは、あるレベルにおいては、本当のことです。
 しかしそれは、あくまでも、二義的な意味においての真実でしかありません。

 先日、「大宇宙は元々完成しているので、叶う願いは元々叶っているし、叶わない願いは元々叶っていない」の中で書きましたが、大宇宙は元々完成していますので、祈りが通じるも通じないも無いのです。
 
 しかし、あるレベルにおいては、天(神仏・宇宙)に祈りは通じるのです。
 しかしそれは、あくまでも、二義的な意味においてなのです。

 このことを理解する為には、まず、世界の主な宗教における神や仏という概念と、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは違うということを、理解しておく必要があります。

 以前、「世界の主な宗教の源は一つ」の中で書きましたが、世界の主な宗教の源は一つであり、「地球神界」とでも呼ぶべき、地球の全生命を直接創造した存在たちの世界が、そのルーツとなっています。
 聖書においては、「神」と訳されています。

 しかし、旧約聖書の「創世記」に、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれている通り、地球の全生命を直接創造したのは、私たち人間と同じように、姿・形を持った存在たちなのです。
 無形の超自然の神が、地球の全生命を直接創造した訳ではなく、地球の全生命を直接創造したのは、あくまでも、私たち人間と同じように、姿・形や名前を持った存在たちなのです。

「地球神界」の存在たちは、大宇宙そのものを創造した訳ではないので、大宇宙そのものへの究極的な信仰を持っているのです。
『人類の意識がどんなに進化しても無くならない宗教とは――「無限」の宗教』の中で書きましたが、「地球神界」における存在たちも、「無限」の宗教という、究極の宗教、永遠の宗教、絶対の宗教を持っています。

 大宇宙そのものを、「無限」という言葉で表現するならば、大宇宙そのものへの畏敬の念、言わば、「無限」への信仰心というものを持っているのです。

 聖書における「神」というのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは違います。
 聖書における「神」が信仰しているのが、大宇宙意識、即ち「無限」なのです。

 大宇宙意識とは、姿・形や名前を持った存在などではなく、一つの「純粋意識」なのです。
 大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
 物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。

 大宇宙意識が実在している絶対世界(大宇宙の本質の世界)とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界であり、そこにはただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。

「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の全てが元々存在しており、大宇宙は元々完成しているのです。

 大宇宙は元々完成していますので、第一義的な意味、最も本質的な意味においては、大宇宙に祈りが通じるも通じないも無いのです。

 しかし、二義的な意味、あるレベルにおいては、天(神仏・宇宙)に祈りは通じ、願いは叶えられるのです。
「地球神界」は、私たちの星・地球に対しては「全能」なので、私たちの願いを叶えることが出来るからなのです。

「地球神界」の存在たちというのは、あくまでも、私たち人間と同じように、姿・形を持った存在たちなので、古代においては、「神」と人間との間に、直接的なやり取りが行われていた時代がありました。
「神」が直接、人間に命令を下したり、「神」が人間の願いを直接聞き入れたりしていた時代があります。

 それらの痕跡は、聖書や世界各地の神話などに、様々な形で残っていると思います。
 有名な話では、「神」がノアに命じて「ノアの箱舟」を造らせ、大洪水から救った話などもその一つです。
 あるいは、モーゼがシナイ山の山頂で、「神」から「十戒」が書かれた石板を授かった話などもそうです。

 モーゼは、「神」に示された形に従って、「神」が人間の代表者と会う為の「会見の幕屋」を作ったとされています。
 人々は、「神」への服従のしるしとして、「会見の幕屋」へ食物や貢物を持参したのです。
 日本の神社の基本的な構造は、モーゼが作った「会見の幕屋」とそっくりだと言われています。
 そして、モーゼが作った「会見の幕屋」は、古代イスラエルのエルサレム神殿の原型にもなっています。

「神」が人間たちと直接やり取りしていた時代には、「神」が私たち人間の願いを直接聞き入れて、願いを叶えたりしていました。

「地球神界」は、地球に対しては「全能」なので、直接的にではなくとも、間接的に、人々の祈りに応じて、人々の願いを叶えることが出来ます。

 例えば、アメリカインディアンなどの、所謂(いわゆる)、先住民族と呼ばれる人々には、雨乞いの儀式のようなものがあり、日照りが続いて雨が必要になると、天に祈り、雨を降らせてもらったりしていたようです。
 天候などの気象は勿論、「地球神界」がコントロールしていますので、先住民族の祈りに応じて、雨を降らせることが出来ます。
 そういう意味においては、天(神仏・宇宙)に祈りが通じ、願いが叶うというのは、本当のことなのです。

 しかし、「地球神界」が先住民族の雨乞いの儀式に応じて雨を降らせることが出来るのは、元々、絶対世界(大宇宙の本質の世界)で決まっていたからなのです。

 先住民族が雨乞いの儀式を行ったから、「地球神界」がその祈りを聞き入れて雨を降らせたと言うより、ある時、先住民族の住む場所に雨が降ることは元々決まっており、雨乞いの儀式を行ってから雨が降るということが、元々決まっていたということなのです。

 雨乞いの儀式を行ったから、天(神仏・宇宙)に祈りが通じたというのは、あくまでも、二義的な見方であり、本質的な見方ではありません。
 何故なら、祈ったから祈りが通じて願いが叶う、というのは、時間の流れが、過去→現在→未来へと流れており、原因があって結果があるという前提の上に成り立った見方であり、一面的な見方でしかないからなのです。

 雨乞いの儀式を行ったから、天に祈りが通じて雨がもたらされたと言うより、雨が降ることは元々決まっており、雨乞いの儀式を行ってから雨が降るということが、元々決まっていたというのが、最も本質的な、第一義的な見方なのです。

 縁結びで有名な、何処かの神社に参拝して、恋愛成就を祈願したから、異性との出会いがあったり、恋愛が成就したり、結婚出来たというのは、あくまでも、二義的な見方です。
 異性との出会いや、恋愛成就、結婚というのは元々決まっており、縁結びで有名な何処かの神社に参拝してから恋愛成就するということが、元々決まっていたというのが、最も本質的な第一義的な見方なのです。

 人と人との出会い・ご縁などは、生まれる前から決まっていることであり、結婚する相手との出会い・ご縁などは、その最たるものです。
 縁結びで有名な、何処かの神社に参拝したから、異性との出会い・ご縁が生まれるというようなものではなく、何時、何処で、誰と出会うかは、生まれる前から決まっており、どのようなプロセスを経て出会うかということまで、全て決まっているということなのです。

 学問の神様とされる天神様(菅原道真公)が祀られている有名な神社に参拝して、合格祈願したから、志望校に合格出来た訳ではありません。
 志望校に合格することは、元々決まっており、学問の神様が祀られている有名な神社で合格祈願してから、合格するということが、元々決まっていたということなのです。

 天(神仏・宇宙)に祈れば、祈りが通じ、願いが叶えられるというのは、あるレベルにおいては、本当のことなのです。
 しかしそれは、あくまでも、時間というものが、過去→現在→未来へと流れており、原因があって結果があるという前提の上に成り立った見方であり、一面の真理でしかありません。

 大宇宙は元々完成しており、元々全てが決まっていますので、元々決まっていた通りに展開しただけなのです。
 それが最も本質的な、第一義的な見方になります。

「地球神界」は、地球に対しては「全能」なので、人々の祈りに応じて、願いを叶えることが出来ます。
 しかし、「地球神界」が大宇宙そのものを創造した訳ではないので、「地球神界」が私たち人間の祈りに応じて願いを叶えることまで含めて、元々、絶対世界(大宇宙の本質の世界)で決まっていたことなのです。

 是非、この秋に相次いで出された2冊の新著、「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」「何故、未来は100パーセント確定しているのか」を併せてお読みいただき、大宇宙についての、最も本質的な、根源的な考察をご参照いただくことを、強くお勧め致します。

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